【番外編】月光姫の慈悲
「うわああああ! おっぱい! おっぱい!」
ヘリファルテ王宮の自室、大人三人は寝られるであろうふかふかのベッドの上で、セレネはごろごろ転がりながら悶絶していた。ご乱心である。だが、常にご乱心なので通常モードである。
「ウウッ……にょ、にょたい……」
何故セレネは苦しんでいるのか。それは、彼女の患っている不治の病、乳房欠乏症の初期症状、女体欠乏症が発症していたからである。ここ最近、大学に通うアルエは試験が近いので忙しく、なかなか出会えていなかった。
これはセレネにとって死活問題であり、今のセレネは酸欠状態で水面で口をパクパクさせる金魚みたいな状態だった。このままでは病気になってしまう。それが既に病気である事に、本人は気付いていなかった。
「しかたない、あれ、やる」
髪からドレスまでくしゃくしゃになったセレネは、早速、治療を開始する事にした。セレネはベッドから身を起こし部屋から出て、近くにいた使用人を見つけると、ある要望を伝えた。
◆◇◆◇◆
翌日、セレネの部屋の前で、一人の年若いメイドが緊張した面持ちで立っていた。年の頃は十五、六歳程度で、鳶色の瞳と茶色の髪という、地味でおとなしそうな小柄な少女である。
「こ、ここが今日の仕事場ね……」
魔物の住む領域に踏み込む冒険者のように、メイドはドアをノックする。まあ、魔物が潜んでいるという意味ではあながち間違いではないのだが。
「どうぞ」
可愛らしい少女の声が聞こえ、メイドは覚悟を決めて部屋に入り込む。そして、言葉を失った。
(綺麗な子……)
先ほどまでの緊張が吹き飛ぶほど、ベッドの上で半身を起こした白い少女は美しかった。朝日に照らされた柔らかな光の中、産毛までも輝いているように見えた。
月光姫の美しさは噂には聞いていたが、噂は拡大解釈される。しかし、その噂以上にセレネ姫は美しい。
同性でありながら、年下のセレネの美しさに魅惚れてしまったが、そこでメイドは、セレネが自分をじっと見ている事にようやく気が付いた。
「も、申し訳ありません! ぼーっとしてしまいました!」
「うむ、ごうかく」
メイドが九十度を超える角度で頭を下げると、セレネは気にするなというような返事をした。貴族の中には、ちょっと不興を買うだけでその場で首にする傲慢な輩もいるが、月光姫はそんな事など気にも止めていないらしかった。
「で、では早速、今日一日セレネ様のお世話をさせていただきます。まだ見習いですが、精一杯頑張ります!」
「がんばらなくて、いい」
「えっ?」
いきなり予想外の返事が飛んで来たので、メイドは目を丸くした。てっきり新人メイドを暇つぶしにいびるのかと不安に思っていたのだが、どうもそういう訳でも無さそうだ。
「そうじ、てきとう、よろしく」
「え、え? わ、わかりました!」
セレネがそう呟いた事で、メイドはようやくセレネの意図を理解した。自分が新米である事を配慮し、気を楽にしろと言ってくれているのだろう。その瞬間、メイドはすぐにセレネに好感を持った。
実はこのメイドは、本当につい最近メイドという職業に就いたばかりであり、経験はほとんど無かった。それでも、出来る事は精一杯やらねばならない。
まずはお召し物を変えましょうとメイドは提案したのだが、セレネはそれは自分で出来ると頑なに固辞した。なので、メイドはセレネの要望通り、部屋の清掃を開始する。
(ま、窓が大きい……こんなの初めて見た……)
メイドは、セレネの住んでいる部屋の隅々まで観察し、ヘリファルテ王宮でいかにセレネが大切に扱われているか、ある程度把握できた。
日光に弱いセレネに直接当たらないよう配慮されているが、決して暗い部屋にならないよう、ベッドの反対側に大きな窓が設置され、そこから柔らかな日差しが差し込むようになっている。もしかしたら、この窓には魔力でフィルターのような物が張られているのかもしれない。
(こ、これ、壊したらえらい事になるわ……)
メイドは雑巾を絞り、窓ふきを開始する。こんな美しいものに触れていいのかと緊張し、手が震える。
「おしり」
「ひゃあ!?」
急に何者かに抱きつかれ、メイドは飛びあがるほど驚いた。自分の腰……というか尻の部分に顔を埋めていたのは、月光姫セレネ=アークイラその人だった。
「あ、あの……? セレネ様?」
「いい、おしりですな」
「は、はぁ……ありがとうございます」
セレネは満足げな表情で、メイドの尻を撫でていた。セレネの体格はかなり小柄なので、丁度メイドの腰に抱きつくような形になる。そして、セレネは満足げにメイドの尻を褒めていた。
(もしかして、緊張を解そうとしてくれているのかしら)
何故、月光姫が自分の尻を撫でているのか理解不能である。これがおっさんの貴族ならセクハラであると分かるのだが、少女が尻に固執する理由が分からない。実際には幼女のカバーでワンクッションおいたセクハラなので、事実上前者と変わらないのだが。
「セレネ様、ありがとうございます」
「なにが?」
セレネはきょとんとした表情で首を傾げる。きっと、月光姫にとってはこれが素なのだろう。学問に投資をしていると噂になっているし、本当に慈悲深い方なのだと、メイドは内心で心を打たれた。
それからの仕事は実にスムーズだった。最初は緊張したものの、愛らしくも聡明で、そして慈悲深い主のために働けるというのはモチベーションが上がる。メイドは、セレネの世話を焼いた一日で、半年分くらいの集中力を動員していた。
セレネの部屋は普段は複数名が担当しているのだが、今日は新人メイド一人。清掃が終わった時点で夕刻になっていた。その間、セレネはしきりにメイドに抱きついたりして仕事の邪魔をしていたが、子猫がじゃれついてくるような気がして悪い気はしなかった。
「い、いかがでしょう? 未熟者ながら精一杯やらせていただいたのですが……」
仕事が終わるとメイドはセレネの評価を仰ぐ。全力を尽くしたが、それでも月光姫の眼鏡に適うかは分からない。もし駄目出しされたら、夜を徹してでもやり抜くくらいの意気込みはあった。
「いいよ」
だが、セレネはあっさりとメイドの仕事ぶりを評価した。ろくに周りも見ていない。つまり、それだけ自分を買ってくれたという事だ。新米でいつも怒られてばかりのメイドにとって、これは新鮮な驚きだった。
だが、驚きはそれだけではなかった。セレネは、ベッドの脇にある物入れに手を突っ込み、何かを抱えるようにして持ってきた。
「これ、あげる」
「これは……もしかしてお金!?」
「うん」
重いから早く持て、という感じで、じゃらじゃらと音を立てる布袋をセレネはメイドに押し付けた。手に持つとずしりと重く、仮に全てが最も価値の低い貨幣であったとしても、給料一年分くらいはあるのではないだろうか。
「い、いけません! 既にお給金はいただいておりますし、一日お掃除しただけでこんな……!」
「いしゃりょう」
「え? 今、なんと」
「いしゃりょう、うけとって、こまる」
その言葉を聞いた瞬間、メイドの目から涙がこみ上げる。
「あ、ありがとうございます……! ありがとうございます月光姫様!」
「え? あ、うん……」
急に泣き出してしまい、さぞや困惑しただろう。だが、メイドはあふれ出る涙を抑えきれなかった。セレネは少し困惑したが、泣き崩れ、床にへたり込んでいるメイドの肩に軽く手を触れる。
「ないしょ、だよ?」
セレネは笑顔で口元に人差し指を立て、他言無用というポーズを取る。ひとしきり泣き終えたメイドは、深々とお辞儀をし、セレネの部屋を後にした。
『姫は本当にお優しい方ですなぁ。私まで目頭が熱くなりましたぞ』
メイドが完全に部屋を去った後、ベッドの下からバトラーがそっと姿を現し、優しい口調でそう答えた。
「なにも、してない」
『左様でございますか』
セレネが本当に「何もしていない」という態度を取ったので、バトラーもそれ以上は口を出さなかった。これ以上を口に出すのは野暮というものだ。バトラーは、心優しき主に一層の敬意を払った。
◆◇◆◇◆
「なるほど……そういう事があったのか」
その頃、ミラノは謁見の間で、袋を抱えたメイドと会話をしていた。ミラノとて多忙な身であるが、セレネに注意を払えなかった事で過去に苦い思いをしてからは、彼女の身の回りに関する事は、最優先で聞くように心がけていた。
そして、メイドから報告を受けたのは、セレネから多額の『医者料』を貰った事だった。実は、この少女がメイドとして王宮で働くようになったのは、病気の母がいたからである。
王宮の仕事は作業量も多いしハードだが、その分給金がいい。そのため、少女は慣れないこの仕事に就いたのだ。その直後、セレネから呼び出しが掛かり、給金とは別に彼女のポケットマネーから大量の金を渡された。
「セレネ様は他言無用と仰られていたのですが、やはり金額が金額ですし……」
メイドはおずおずとそう答えた。あまりにも金額が多すぎるので良心が咎めたのだ。ミラノは少しの間、黙考していたが、やがて答えを出す。
「それは君が受け取るといい。セレネの好意だ」
「で、でも……私などのために!」
「いや、むしろ君だからセレネは呼んだのだろう。君の家庭事情を知り、あえて新人である君を抜擢したんだ。そうでなければ、技術的に未熟な君を選ぶ理由が無い。セレネには熟練のメイドをあてがっているからな」
「そ、そうなのですか?」
「ああ、人払いをしたのもそのためだろう。複数人を同時に呼んでしまえば、その金を君に渡すのが難しくなるからな」
「そ、そんな……あの方は、そこまで一般人である私のために……」
「そういう子なんだ、あの子は」
ミラノは目を細め、どこか誇らしげにそう答えた。メイドは再び泣きそうになるが、それよりも歓喜が全身を包んでいた。病気の母を持ち生活は困窮していく。何不自由なく暮らす貴族は憎しみの対象ですらあった。
そんな中、最高の名誉を持つ月光姫は、道端の石ころのような自分をしっかりと見てくれていた。それは、暗闇を月光が照らし、自分が進む道を照らしてくれているようだった。
「私、全然上手に出来ないし、この仕事が嫌で嫌で仕方が無かったんです……でも、もうちょっとだけ頑張ってみようと思います」
「そうか。君が我が国にとって優秀な人材になってくれるなら僕としてもありがたい。僕が直接……というのは少し難しいかもしれないが、可能な限り協力はしよう」
「は、はい!」
そう言って、メイドは満面の笑みで退室した。彼女にとって、今日は人生で最もよい一日だったかもしれない。メイドが退室すると、ミラノもすがすがしい気持ちで晴れやかな茜色の空を見上げた。
◆◇◆◇◆
「わかいこ、ええのう」
セレネはベッドに大の字になりながら、手をわきわきと動かし。先ほどまで捕らえていた感触を思い出していた。おっぱいに触る隙が無かったのは残念だが、女体欠乏症の応急措置くらいは出来た。
セレネはメイドの家庭事情なんかこれっぽっちも知らなかった。単純に「明日は若いメイドを自分の所に連れて来い」と頼み込んだだけだった。理由は単純。熟練メイドは文字通り熟練なので、おばちゃんがほとんどなのだ。
確かに掃除とか、その他もろもろの技術は凄いのだが、セレネとしてはぶっちゃけ自室はゴミ溜めでも生活出来る。過去世のセレネは、エロ本が散乱し、中心部に設置された布団を聖域として暮らしていた。今の部屋は清浄すぎるくらいである。
というわけで、無事若いメイドを自室に引きずり込んだのだが、さすがにちょっとセクハラをし過ぎたと理性が警鐘を鳴らしたのは、日が暮れたあたりだった。
「セレネの奴がセクハラをしまくったので訴訟します!」などとなったら一大事である。なので、セレネは苦肉の策で「慰謝料」を払うことにし、さらに黙っておくように念を押したのだ。
要するに「ねーちゃん、金をやるから今日の事は黙っといてやガハハ」という最低の解決法だった。さらに言えば、セレネは自分の金がどのくらいあったのかも把握していなかったので、引き出しに入っていた金をありったけぶち込んだだけだった。
「まあ、ええわ」
女体欠乏症の危機を乗り越えた事で、とりあえずはセレネは安息を取り戻した。だが、早くアルエと会えるようになり、乳房欠乏症を治さない限り真の平和は訪れない。セレネは決意に満たされた。
それはそれとして、メイドの母はセレネの施しにより、よい医者に掛かり病気は無事完治した。それと同時に、少女がヘリファルテ王宮で働く理由も無くなったのだが、彼女はそのまま仕事を続ける事を選ぶ。
その噂は後に広まり、月光姫の慈悲深さを語るエピソードの一つとなるのだが、当人は死ぬまで気付かなかったという。