【番外編】鏡の国のセレネ(前編)
ヘリファルテ王宮の自室で、セレネはいつも通り昼過ぎまで爆睡していた。だが、今日は少しばかり勝手が違う。普段は昼に弱いセレネを気遣い、辺りはしんと静まり返っている。しかし、今日は何やら騒がしい。
「ん~?」
セレネは寝巻同然に扱われている白のドレスのまま、寝ぼけ眼を擦ってベッドから身を起こした。ノックとほぼ同時にドアが開けられ、そこからひょっこり顔を出したのは、マリーだった。
「ごめんね。寝てる所申し訳無いんだけど、ちょっといいかしら?」
「いいよ」
セレネは速攻で許可した。これがミラノだったら「寝てるから後にしろ」というところだが、妹の美少女マリーなら話は別だ。セレネの許可を得ると、マリーは後ろを向き、部屋の外にいる誰かに手で合図をした。
すると、男性兵士が二人がかりで抱えるように大きな荷物をセレネの部屋に運んできた。布で包まれているので分からないが、恐らくは家具か何かだろう。
「じゃーん! 今日はセレネのために、私がプレゼントを用意しました!」
「ぷれぜんと?」
セレネが目をぱちぱちさせると、マリーは上機嫌で荷物の布を一気に剥がす。
「……かがみ?」
「そうよ。どう? なかなかオシャレでしょ?」
セレネの言うとおり、それは大きな全身鏡だった。曇り一つ無く、銀縁に彩られた、なかなかに見事な代物だ。
「今日、大学に行く途中で古物商が売ってるのを見つけたの。これだけ上質なのにすごく安かったのよ」
その様子を、マリーは手振りを交えながら嬉々として語った。昔は湯水のように金を使っていたマリーだが、今は質素倹約を心がける立派な淑女である。どこかの誰かと違い、二年で随分と成長していた。
「それでね、この鏡はセレネにあげようと思って買ってきたの。だって、セレネの部屋ってすごく簡素っていうか……華が無いのよ。派手派手しくない所はセレネの魅力ではあるけど、やっぱり綺麗な道具が少しはあったほうがいいでしょ? セレネだって女の子だもんね」
「べつに、いい」
セレネはかぶりを振った。セレネとしては身支度は全部メイドがやってくれるし、鏡なんか特に必要はないのだ。もっと言うと、ベッド以外に特に必要な物が無い。強いて言うならビールサーバーとかゴミ箱が必要だった。
だが、セレネのそんな思考回路を知らないマリーは、それを遠慮と取ったらしく、くすりと微笑んだ。
「遠慮しなくていいのよ。本当にすごく安かったんだから。私は専用の姿見があるけど、セレネには無いもんね。じゃ、これ置いていくから。また後で会いましょ」
そう言い残し、マリーはひらひらと手を振って、再び自分の仕事に戻っていった。バトラーも今は周囲のパトロール中で、部屋に静寂が訪れる。セレネは寝起きで会話したせいか、中途半端に目が覚めてしまい、仕方なくベッドから起きて鏡を覗き込んだ。
「かがみよ……かがみ」
マリーの言うとおり、確かにそれは上質な鏡だった。ひび割れも曇りも無く、現代日本でもそのまま商品として売れそうな質である。だからといって、セレネに鏡は必要ないのだが。
「て、テクマク、マコヤン」
セレネは全身が映った鏡を見つめながら、若い人には分からない魔女っ子の呪文を唱えた。しかも間違っていた。
その時、鏡の中のセレネが、うっすらと微笑んだ。まさか自分は魔法少女になったのではとセレネは焦ったが、無論そんな事は無い。どれだけ頑張ってもセレネはおっさん姫以外のジョブになれない。
「驚かなくてもいいわよ……って、いう方が無理よね。うふふ」
鏡に映り込んだセレネは、もう完全にセレネとは別の動き――具体的に言うと、実に少女っぽい笑い方をした。本物なら絶対出来ない。セレネがぼけっと突っ立っていると、鏡の中のセレネはくすくす笑いながらセレネに話しかけた。
「私はリュリュ、鏡の精霊よ。あなた、付喪神ってご存知かしら? 長く使いこまれた道具には魂が宿るの。私はそういったものの一種と思ってもらっていいわ」
「はぁ」
何と答えたものか分からず、セレネは曖昧に返事した。現代日本から異世界転生してきた時点でセレネは不条理な現象に慣れているので、そういう意味では耐性があった。
「飲みこみが早くて助かるわ。ここで会えたのも何かの縁ね。ねえ、あなた。鏡の国に行ってみたいと思わない?」
「かがみ、くに?」
「そう。あなたの住んでいる世界に似ているけど、少しだけ違う場所。どう、面白いと思わない?」
「まあ」
セレネはどっちでもよかったが、どうせ寝てるだけなので多少退屈ではあった。その暇つぶしくらいには興味を引かれる話ではあった。
「ならお願いがあるの。私は鏡の精霊。あなたの写し鏡。だから、あなたが鏡の国に行っている間、私があなたの代役をしてあげる。というか、そうしないとあなたも鏡の国に行けないし、私もそっちに出られないの」
「どうやる?」
「鏡に手を合わせてちょうだい。そうすれば、私とあなたは入れ替わる」
そう言って、リュリュはセレネの姿のまま、鏡に手の平を出した。セレネも自分と同じ形をしたその手に、手の平を合わせる。
「おわあっ!?」
すると、セレネの手がまるで水に浸けるようにするりと鏡を抜けた。それと入れ違いになるように、リュリュの体は鏡からするすると出てくる。そして、水の中に落ちるように、セレネは完全に鏡の中に吸い込まれた。
「ふふ、上手くいったわ」
完全にセレネの姿を模写したリュリュは、ぺろりと舌を出して唇を舐めた。リュリュが後ろを振り向くと、そこにはリュリュの姿のみが映っていた。
「うふふ。かわいそうな子。でも、私としてはラッキーだったわ。どうもこの子、すごく身分の高い王女様みたい。こんな体験なかなか出来ないわ」
そう言って、リュリュはバレリーナのようにくるりと一回転した。リュリュは改めて自分の入っていた鏡で、セレネの姿を見た。
「本当に綺麗な子……悪いけど、今日から私が王女様になるわ」
リュリュはそう言って、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
鏡の精霊リュリュ――彼女は気に入った相手を誘惑し、鏡に映った者を乗っ取る能力を持っていた。それは彼女の気が済むまで続けられる。飽きれば数時間で終わるし、気に入れば何十年もそのままだ。
そして、リュリュはセレネの体をたいそう気に入ったようだった。
「かわいそうだけど、本物には眠っていて貰うわね。でも、その間、老いも死にもしないんだから、まあ悪くないと思ってちょうだいね」
リュリュは再び薄く笑った。リュリュに姿を盗まれた者は、魂を鏡の中に閉じ込められる。完全に魂を奪われていなければ地力で出てくる事も可能だが、もう何十回とこの行為を繰り返したリュリュは、そんな初歩的なミスを犯す事は無い。
「悪いけど、当面はこの姿を借りるわね。ふふ、久しぶりに大当たりを引いたわ」
リュリュはセレネの姿を模したまま、鼻歌でも歌うようにそう呟いた。
だが、セレネが大当たりどころか、実は過去最悪の大ハズレである事は、かわいそうな事にリュリュはまだ気づいていなかった。




