【番外編】お餅クエスト
あけましておめでとうございます。
「もちが、くいてぇ!」
ヘリファルテ王宮の自室のベッドで、セレネは叫んだ。
それは、唐突にやってきた天啓であり、ヴィジョンであった。
別にセレネは餅ジャンキーという訳ではない。ただ、普段は特に食べてないのに、何故か突然大して美味くもない物が食べたくなる、あの状態に陥っていた。
「バトラー、もち、しらない?」
『モチ、でございますか?』
ベッドの横で毛づくろいし、朝の準備を整えていたバトラーは、主の問いに首を傾げる。
『ふむ……モチという物を私は知りませぬな。浅学な従者で申し訳ございません』
「そっかー」
バトラーは主の要望に応えらない事を恥じ、小さな頭を深々と下げたが、セレネは特に気にしていないと手振りで返す。ここは日本ではないのだから、バトラーが知らないのも無理はない。
それに、セレネ自身もこの姿になって早十年、この大陸で餅を見た事がない。
割と日本に近い文化の東の島国ならパチモンがあるのかもしれないが、それに詳しいクマハチとエンテは絶賛島流し中だ。
「しかたない、さがす」
『姫? お出かけでございますか?』
「しさつ」
セレネはベッドから降りると、いつも着ている白のドレスに袖を通し始める。セレネが向かおうとしているのは、「視察」と称し、主にアルエに会うのが目的で足を運んでいる大学だ。
刺殺ではなく、視察なのでご安心ください。
こうして、セレネの長い旅が始まった。そう、この世界で幻と言われる食材、「餅」を求めて……という程の事もなく。セレネ専用の護衛にガチガチに囲まれ、三十分ほど馬車に乗り、大学に到着した。セレネの冒険はこれで九割終了である。
「おもち、おもち……」
セレネは御者と護衛を入口に待たせ、一人で大学の敷地内に足を踏み入れた。
ちなみにセレネが視察を行う時はいつも一人だ。基本的にはバトラーも連れて来ない。
学内で物々しい兵士がうろつき、学生たちが委縮するのを防ぐため配慮だともっぱら噂されていたが、単にアルエに会いに行く時、二人きりになりたいというだけだった。
それに、ヘリファルテ国立大学は大陸で最も治安のいい場所の一つであるし、今のセレネに危害を加えるのは、獅子王シュバーンと聖王子ミラノ、いや、大陸全てを相手に喧嘩を売るのとイコールである。どんな悪党もそんな大それた真似は出来ない。
そんなわけで、セレネは学園内の隅々を野良犬のように歩き回る。
セレネが大学を餅探しの場所に選んだ理由は二つ。単純に城下町の地理に詳しくない事と、大学内には多少割高だが購買や食堂もあり、街で手に入るような物は大体手に入るからだ。
長く伸びた髪をそよ風になびかせて歩く姿は、まるで雪の妖精のように見えた。
高慢ちきな貴族なら決して近寄らない場所――寮や厨房、購買という庶民的な場所にもセレネは足を運んだ。奇跡の象徴とも言える月光姫は、率先して影の部分を見ている。そんな風に思われていた。
学生達は身分の違いは分かっているので声は掛けないが、気取らない姿に対し、親しみと敬意の籠った視線を向けていた。
「もち……も、もち……」
だが、周りの視線など眼中になく、セレネは餅がありそうな場所を歩き回っていただけだった。購買や学食は、確かに王城の食材とはまた違う、庶民が食べるよう多少グレードの落ちる食材はあったが、やはり餅は無かった。
「はぁー……」
結局、セレネにしては相当な距離を歩き回ったが、餅は影も形も見当たらなかった。セレネはため息を吐き、近くにあったベンチに腰掛け、がっくりとうなだれた。
「あら? あんた何でこんな所に居るのよ、視察?」
「あ、シンニ」
声を掛けられたセレネが顔を上げると、赤毛の少女が覗き込んでいるのが見えた。かつてセレネを呪い殺そうとし、結果的にセレネを連れ戻すきっかけを作った少女、シンニである。
「きんじろうだ」
「何よ、キンジローって」
シンニは背中に大きなリュックを背負っていて、そこから書物がはみ出しているのが見えた。それがセレネには、何となく二宮金次郎みたいに見えたのだ。
「あんたもよく視察に来るわね。天下の月光姫様なんだから、もっとふんぞり返ってればいいのに」
シンニは軽口を叩いたが、実はセレネにはそれなりに好感を持っている。
今までサボっていた分を取り戻すため、必死で勉強中だった。背負っている書物は全て図書館から借りてきた資料である。
立場は違うし数奇な出会いではあったが、今のシンニは、セレネを同い年の勤勉な少女と見なしていた。
実際にそんな事はないのはご存知の通りであり、シンニは将来の希望を模索中なのだが、セレネが模索中なのは餅である。この落差は一体なんだろうか。
「シンニ、いい?」
「な、何よ?」
セレネが不意に立ちあがり、吐息が感じ取れるほどの距離に顔を詰めて来たので、シンニは何故か頬を赤らめる。それからセレネは細い指をシンニの頬に伸ばした。
「もちはだ、もちはだ」
餅が食えないのは非常に残念だが、そこに救いの神――シンニが降臨した。セレネは、シンニのぷにぷにした肌をさする事で、気力をチャージしたのだ。
セレネは微笑むと、そのままシンニに背を向けた。そう、自分はまだ戦える。セレネは希望を捨てず、餅を手に入れるため、再び敷地内を歩きだした。
「……何なの?」
取り残されたシンニは意味不明だった。何だかよく分からないが、セレネが満足げだったので、シンニはそれ以上考えるのをやめ、自室へと戻っていった。
◆◇◆◇◆
「もち、くいてぇよぉ……」
それから数時間後、セレネは精も根も尽き果て、学生寮の一室の片隅でうずくまっていた。
ここはアルエの部屋。そう、セレネは無意識のうちにここへ来ていた。
シャケが生まれた川に自然と帰るように、生まれたばかりの小鹿が、誰に教えられなくとも立ちあがるように、セレネという生命体の根源に刻まれた本能であった。
そしてセレネの根源とは、アルエのおっぱいであった。
だがアルエはまだ授業中らしく、紅色に照らされた部屋には誰もいなかった。セレネは真っ白に燃え尽きたボクサーのごとく椅子に座っていた。
冷静に考えたら、何で自分はここまでして餅を求めていたのだろう。食いたいか食いたくないかで言うと、まあ食いたいが、ここまでして頑張る理由は無かったのではなかろうか。
今日一日無駄にしたという気持ちが、セレネの中にふつふつと湧いてくる。
こんな思いをするなら餅など存在しなければよかったのに。セレネは理不尽な怒りを餅にぶつけていた。餅は悪くないよ。
「つかれた……」
「あら? どうしたの、セレネ」
「ねえさま!?」
ふと声をかけられ、セレネは顔を上げた。餅を呪うのに夢中で、アルエが帰ってきた事に気付かなかったらしい。
「ねえさま……わたし」
「いいのよ、噂は聞いてるわ」
アルエが笑いかけると、セレネは目を丸くする。自分が餅を探す事が何の噂になるのだろう。
「今日一日、ずっと一人で学園を見回っていたんでしょう? みんなセレネが来た、セレネが来たって大喜びだったわよ」
「えっ」
セレネは驚いた。何せ餅以外何も気にしてなかったのだ。視察という名目だった事すら今思い出した。
「じゃあ、お姉ちゃんが頑張ったセレネにご褒美をあげようかな」
「ごほうび!?」
「さ、いらっしゃい」
アルエがベッドに腰掛け、セレネは手招きする。セレネは誘蛾灯に引き寄せられる羽虫のごとく、超高速でそっちへ突っ込む。セレネはためらいもなくアルエの膝の上に座った。すると、アルエは背中からそっとセレネを抱きしめ――。
「よしよし」
と頭を撫でた。
「セレネはこんなに小さいのに、みんなに希望を与えていて本当にいい子ね。ずっと歩き回って疲れたでしょ? お姉ちゃんにはこれくらいしかできないけど……」
そう言って、アルエは介抱するようにセレネを優しく撫でた。先ほど自分が部屋に戻った時、妹が「つかれた……」と呟き、悲しそうに座りこんでいるのが見えたのだ。
表面上は平然としていても、妹はまだ十歳。しかも、色々と過酷な経験をしている。だというのに、頻繁に学園に視察にやってくるのだ。
アルエはそれを誇らしく思いながらも、同時に少しでも何とかしてやりたかった。だからせめて、自分といる時だけは本来の姿に戻って欲しい。アルエはそう考えていた。
実際に本来の姿に戻ったら大変な事になる訳だが、誰も知らないのがまだ救いである。
「かがみもちぃ……」
「ん? どうしたの?」
「ねえさま、わたし、しあわせ」
「そう、それなら良かった」
セレネはアルエの柔らかい体温、特に、背中に当たる二つのおっきなお餅の感触に酔いしれていた。
そうだ、何が餅だ。自分には世界で一番素晴らしい二つのお餅があったのだ。
それを忘れるなんてとんでもない事であり、冒涜である。セレネは反省した。大反省した。
この背中に当たる極上の脂肪の塊で出来た餅に比べたら、日本の餅など所詮ただの工業製品であり、炭水化物の塊だ。そんなものいくらでもこの世界に代替品がある。
だが、アルエのお胸というオンリーワン、いや、オンリーツーのお餅は自分だけのものなのだ。
こうして、セレネの餅探しの旅はハッピーエンドで終わったとさ。めでたしめでたし。