【番外編】忍び寄る恐怖
「まだかな、まだかな……!」
ヘリファルテ王国の一室で、セレネは落ち着かない様子で部屋の中をぐるぐる歩き回っていた。
聖セレネ霊廟で奇跡の復活を遂げたセレネの噂は、瞬く間に大陸全土に広がった。
再びヘリファルテへ帰国したセレネは、二年前と変わらない自室で、しばらくの間療養をする事となった。
邪悪を跳ねのけ、より美しく成長した月光姫の姿を見たいという要望は殺到している。だが、国王として君臨しているシュバーンを始めとする首脳陣は、セレネの公開を頑なに拒んだ。
「あの子がどういった経緯で復活できたか分からない以上、軽はずみな行動は取れんからな」
……というのがシュバーンの弁だ。またセレネが急死してしまう可能性もゼロではない。だが、一番の理由は、二年もの間、冷たい骸と化していたセレネを、まるで見世物のように晒すという事を良しとしなかったからだ。
その結果、セレネをしばらく落ち着いた環境で馴染ませ、問題無いと判断してから人前に出す運びとなった。こう書くと、何となく恰好よく聞こえるが、つまり、セレネは動物園で病気療養中のパンダみたいなものだった。
そもそも、セレネは竜峰で健康的な生活を送っており、療養の必要性など全く無い。
だが、この提案を聞いたセレネは、もともと引きこもり体質であり、ここぞとばかりにそれに便乗した。
そして、セレネは二年間で矯正された昼型生活を、わずか三日で夜行性へと切り替える事に成功した。いや、失敗したといった方がいいかもしれない。
しかし、そんな自堕落なセレネが、なんと今日は自分で日中に起きたのだ。なんと、という程でも無い気がするが、それはそれとして、今日は待ちわびたイベントがあるのだ。
――そして、その時がやってきた。
セレネの部屋のドアが軽くノックされると、まるで獲物に飛びかかる猛獣のように、返事もせずにドアノブを超高速で捻る。
「ねえさまっ!」
「セレネ! 久しぶりだけど元気そうでよかった!」
ドアの前に立っていたのは、案内役のメイドと、セレネ最愛の姉アルエであった。
「ねえさま! あいたかった!」
「ふふ、私もよ。でも、今日はお忍びだから静かにね」
そう言って、アルエはウィンクしながら人差し指を口元に立てる。
セレネの生還は当然アルエの耳にも入っていたが、こうして直接会うのは久しぶりだった。ヘリファルテでは、アルエはあくまで留学生という立場である。ヘリファルテ王城のセレネの住まう最奥部に入るには、いささか権限が足りない。
だが、気を利かせたミラノが、こっそりとアルエを招待したのだ。セレネとアルエは、こうして二年ぶりに再会した。セレネもアルエも、うっすらと目に涙を浮かべている。それを横で見ていたメイドも、思わずもらい泣きしてしまう。何とも美しい光景である。
メイドは気を利かせ、何かあれば遠慮なく申し付けてくれとアルエに伝え、そっとドアを閉めた。セレネとアルエ、二人だけが部屋に残される。
「本当に……本当に帰ってきてくれたのね。お姉ちゃん、とっても嬉しい……」
「わたし、あいたかった……」
そうして、セレネとアルエは抱き合った。背の高さが違うため、セレネはアルエの胸元に顔を埋めるような形になる。いや、仮に背丈が同じであっても、セレネはアルエの胸に顔を突っ込んだだろうが。
「ねえさま、おっきい」
「あら、でも、セレネも本当に綺麗になったわね。前の短い髪も似合ってたけど、やっぱり長い方が素敵よ」
そう言って、アルエはセレネの髪を梳くように優しく撫でる。セレネの髪質は細く柔らかいが、二年で腰元まで伸びたその髪の一本一本が、まるで天使が持つハープの弦のようだった。
だが、容姿を褒められているセレネは全く聞いていなかった。セレネはアルエの柔肉を堪能し、おっきいおっぱいに全精力を傾けていた。
セレネは、二年前に比べ、アルエの胸が大分成長している事を察知した。具体的なサイズは分からないが、頭では無く心で理解出来た。
「皆、セレネが帰ってきてくれて本当に喜んでいるわ。ミラノ王子も心配していたのよ」
「おうじ? ……ああっ!?」
ミラノ王子、という言葉を聞き、セレネは急に大声を上げる。そんなセレネを、アルエはきょとんとした表情で見る。
「ど、どうしたの? いきなり大声出して」
「ね、ねえさま! ちょ、ちょっと、ようじが!」
「用事?」
アルエの返答を聞かないまま、セレネは部屋を飛び出した。普段は昼寝中のナマケモノみたいに緩慢な動作をするセレネだが、この時ばかりは電光石火――でもないが、まあ、セレネにしては早い速度で走っていた。
「あら? セレネじゃない。今そっちに行こうとしてたんだけど、どうしたの? そんなに急いで」
「ま、マリー!?」
息を切らし廊下を走るセレネの前に悠然と現れたのは、深紅のドレスに身を包んだマリーだった。昔のセレネの髪形を模して短くしているが、今ではすっかり馴染んでいる。
マリーは、トレーに紅茶のポット、それに焼きたてのクッキーを持っていた。
「今日はアルエ姉さまがお忍びで来ているでしょ? 三人でお茶会をしようと思っていたの」
マリーは輝くようにセレネに笑いかけた。セレネが戻ってきてくれて最も元気が出たのは、もしかしたらマリーかもしれない。従者にやらせるようなお茶会の準備を、自ら買って出ているのがその証拠だ。
アルエとマリー、自分のお茶会に後ろ髪引かれまくるが、セレネは理性を総動員し、それを抑え込む。そう、セレネはどうしてもやらなければならない事を思い出したのだ。
「マリー! おうじ!? おうじ、どこ!?」
「え、兄さま? 兄さまなら、自室にいると思うけど……」
「サンキュー!」
「う、うん……?」
セレネはそれだけ言い残し、マリーを尻目に走り出した。マリーはトレーを抱えたまま、不思議そうにその後姿を見送った。
「はぁ……はぁ、し、しぬ……」
ヘリファルテ王城は質実剛健を貫いており、造りこそシンプルだが規模は要塞並だ。そこを全力で駆けるのは、貧弱なセレネにとって並大抵の労力ではない。だが、その苦労を乗り越えてでも、王子に問いたださねばならない事がある。
「おうじ!」
セレネは呼吸を整え、敵陣へと殴り込む。というか、王子の部屋に入るんだからノックくらいしろ。マリーの言った通り、ミラノは自室の机で何やら書き物をしているようだった。
「ん? セレネじゃないか。今日はアルエ姫と会う予定があったんじゃないか?」
ノックも無しにドアが開かれ、ミラノは身構えたが、目の前に立っていたのがセレネだったので警戒を緩める。そして、なぜ彼女がここにいるのか首を傾げた。
「おうじ、しりたいこと、ある!」
「知りたい事?」
そう言うと、セレネは無遠慮に王子の部屋に入り込み、ずい、とミラノに顔を近付ける。メンチを切って威嚇しているつもりなのだが、セレネがやっても全然迫力が無い。
「せ、セレネ、顔が近いぞ……」
「いいから! こたえる!」
迫力は無いが勢いだけは凄まじく、ミラノは面食らいつつ、セレネが一体何を聞きたがっているのか、言葉を待つ。
「おうじ、ねえさま、て、だした?」
「て、だした? ……ああ、手を出した? という事か?」
「そう!」
セレネはミラノを睨みつける。前世の姿なら、近寄りたくない人くらいに思われたかもしれないが、今の状態だと、スゴみもヤバさも全く無いのが悲しい所である。
「アルエ姫とは特別な関係になっていない。僕もここ最近、遊学を終えて国へ戻ってきたばかりだからな」
「ほんとにぃ?」
「本当だ。嘘だと思うなら、マリーや父上、母上に聞いてみるといい」
「てんに、ちかう?」
「ああ、天の神に誓うさ」
ミラノは苦笑しながらそう答える。セレネは何か言いたげにしていたが、特に何も言わず、踵を返して部屋を出ていった。
それからセレネは、ミラノの言った通り、わざわざシュバーン王とアイビス王妃の元を訪ね、ミラノがアルエと特別な関係になっていないかという事を、舌足らずな口調で尋ねた。
両者ともミラノと同じ答えが返ってきたので、ようやくセレネは納得したらしく、アルエ達の待つ自室へと戻っていった。
それからは、予定通り三人でのお茶会が開催された。ドアの向こうから楽しげな三人の笑い声が漏れ聞こえてくる。こうして、ヘリファルテのやんごとなき乙女達(一人中身おっさん)のお茶会は、和やかに再開されたのだった。
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「というわけで、いきなりセレネに詰め寄られたのですが、僕には何がなにやら……」
一方その頃、困惑したミラノはシュバーン、そしてアイビスの部屋を訪れていた。部屋で事務処理をしていたら突然セレネが乱入し、自分とアルエが特別な関係でないか確認しに来たのだから無理もない。
「ミラノ、あなたは遊学で随分とたくさん学んできたみたいだけど、まだまだ勉強が足りないわね」
呆けた顔をしたミラノに対し、アイビスはくすくすと笑いながらそう言った。
「どういう意味ですか?」
「お前は私と違って色男な癖に、色恋沙汰には本当に疎いな」
「い、色恋沙汰!?」
シュバーンが溜め息を吐きながら、アイビスの言葉を補うように言葉を紡ぐ。
「解説するのも馬鹿馬鹿しいが、いいか、セレネは自分の命を賭してお前を救おうとした。そのくらいお前を慕っているのだ」
「それは……存じています。セレネは、命を捨てる覚悟で僕を助けてくれました」
「じゃあ、それほどまで想っている人が、自分がいない間に他の人と恋人になっていたら、セレネちゃんはどう思うかしら?」
「あっ……」
そこまで聞いて、ミラノはようやく合点が行ったという表情をした。
「つまり、その、セレネは僕に対し、嫉妬をしていたという事ですか?」
「そうに決まっているだろう。でなければ、そこまで執拗にアルエ姫とお前の関係を問いただしたりしまい」
当然、そんな事は無い。セレネは、あくまでミラノの毒牙がアルエに向けられていないか確認しただけである。セレネはアルエに会える事が嬉しすぎて、世の中の全ての事を忘れ去っていた。
だが、実際にアルエに会い、より美しくなった彼女を見た途端、かの宿敵ミラノの動向を確認していない事をようやく思い出したのだ。セレネは物理的な動きも遅いが、頭の回転も遅いのだ。
その割に、思い立ったら即実行するという面倒な奴でもある。そんなわけで、セレネは遅すぎる聞きこみ調査をしたわけだ。幸い、周囲からミラノの身の潔白が証明されたため、セレネは一安心した。
「ミラノ、国を治める者として、人の心の動きは敏感に察知できるようにならねばならない。最も身近で支えてくれる者を蔑ろにしてはならんぞ」
「……仰る通りです。僕は、セレネに助けられていたのに、その辺りが抜け落ちていました」
厳密には助けられたのではなく襲われていたのだが、結果オーライというだけである。
「そうねぇ、ミラノも、もうちょっとセレネちゃんに積極的にアプローチしたらどうかしら? 女の子は、押されると案外弱いものよ?」
「い、いや! あの子はまだ十歳ですよ!?」
「あと数年もしたらあの子も立派なレディよ。月光姫に負けないよう、あの子を照らす立派な太陽になるんでしょ?」
「……わ、分かりました。その点もおいおい学んでいきます」
こうしてミラノは両親に軽いお説教をされ、部屋を出た後、天井を見上げた。
「確かに、セレネもあと数年すれば、誰かと結ばれる時が来るのか……」
ミラノはその姿を少しだけ想像する。大輪の花を咲かせたように美しく成長したセレネ。そして、その横に立っているのが自分ではない光景が浮かぶと、何故か不快な気持ちになった。
「少し、乙女心とやらの勉強が必要かもしれないな」
ミラノはそう一人ごちると、何故か戦場に向かうように表情を引き締め、自室へと戻っていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「はうっ!?」
「どうしたの? 紅茶、熱かった?」
「ちがう、さ、さむけが……」
「風邪かしら? お姉ちゃんが薬貰ってきてあげる?」
「ちがう、たぶん……」
ミラノの呟きと同時に、セレネは急に身震いした。よく分からない得体の知れない恐怖を本能で感じった。だが、それはすぐに消えてしまった。
(きのせい、たぶん……)
結局、セレネは目の前の焼き立てクッキーと、アルエとマリーという美少女の欲望を満たす事を優先した。こうして、穏やかな時間を過ごしていったセレネだが、恐るべき死のカウントダウンが近付いている事には、まだ気付いていなかった。




