【番外編】セレネ、東へ行く 7
「なんか、ヘン……」
自室に戻り、夜の宴に備えるため布団に潜り込んだセレネは、何だかふわふわした気持ちになっていた。まるで自分が自分で無くなるような……何とも形容しがたい不思議な感覚だ。
かなり自制心を働かせたつもりだったのだが、この小さな体では、ほんの数口の酒でも酔ってしまうのだろうか。
「うう、あたま、おかしくなるぅ……」
これ以上おかしくなりようがないのだが、ともかく、その奇妙な感触は、収まるどころかどころかどんどん増していく。寝ていれば治るだろうと、セレネは気絶するように深い眠りへと落ちていった。
『姫、お休み中、申し訳ありません』
どのくらいの時間が経ったのだろう。耳元で何者かが囁く声が聞こえ、セレネの意識は引き戻された。セレネが目を擦り布団から身を起こすと、枕元には、先ほどまで休んでいたバトラーが二本足で立っていた。
『少し具合が悪そうでしたので、起こすのは申し訳無いと思ったのですが、そろそろ伝えておかねば間に合わなくなる危険性がありますので』
「まにあわない? なにが?」
バトラーに相槌を打ちつつ、セレネは部屋の外に目を向ける。庭の白い砂利が茜色に染まって見える所から、どうやら既に夕方らしい。あと少しすれば、完全に夜になるだろう。
『実は、少々耳に入れておきたい事がありまして……ヒノエ様の件についてです』
「うん」
自分の声は人間に聞こえないが、それでもバトラーは声を潜め、昨夜のヒノエ殺害計画の情報をセレネに伝えた。文字通りネズミが紛れ込んでいたという訳だ。バトラーの報告を聞くと、セレネの表情に怒りの色が現れるが、信じがたい事に頭脳は極めて冷静だった。
「じょうきょう、わかりました」
『姫の許可が頂ければ、私のほうで対処しようと思いますが』
バトラーがそう提案するが、セレネは口元に手を当て、何かを熟考するように黙り込んだ。だが、すぐに顔を上げ、凛とした佇まいでバトラーに指示を出す。
「バトラー、いいかんがえ、あります」
『……と仰いますと』
「わるもの、かんぷなきまで、たおします」
そう言って、セレネは己の作戦をバトラーに耳打ちする。今度はバトラーが驚嘆する番だった。
『なるほど! 確かにその方法なら、悪党どもを一網打尽に出来ますな! しかし、姫やヒノエ様に負担が……』
「かまいません。ヒノエ、せっとくします、おねがい」
『……かしこまりました。では、私は私の役目を果たさせていただきましょう。何、これ以上無いほど完ぺきにこなさせていただきますので、ご安心くだされ』
バトラーは主の聡明な判断に敬意を示し、恭しく礼をすると、部屋から飛び出していった。
「わたし、いかなきゃ」
バトラーが飛び出していったのを見て、セレネも己の役割を果たすため、部屋の外に出ようと布団からすぐに抜け出す。
「あっ……いけない」
けれど、部屋を出る前に、セレネは部屋に備え付けてある姿見の前に立った。自分がドレス姿のまま寝ていた事を思い出したのだ。案の定、ドレスに少し皺が出来ており、寝癖も付いている。
「だらしない……」
セレネは己のだらしなさを恥じると、慌てて服の皺を伸ばし、髪を整えた。姿見の前でくるりと一回転し、きちんと身なりが整っている事を確認すると、ある場所へ向かうため、寝室を出ていった。
「マリー、まだかな……」
とある場所で下準備の一つを終えたセレネは、すぐに屋敷の門の入口の所にやってきた。しばらく待機していると、遠くからこちらに向かって歩いてくる集団が見えた。マリーとヒノエ、そして彼女たちの護衛の兵士たちだ。
マリーとヒノエはすっかり打ち解けたらしく、夕焼けを背負い、二人で手を繋いで歩いている。脇に控える兵士たちも、ヘリファルテから来た者と、カゲトラの屋敷の者が半々で、彼らも意気投合したらしく、今晩開かれる宴で酒を呑み交わそうなどと、楽しそうに会話をしているようだった。
「まってた」
「あ、セレネ! ごめんね、色々とお店を回ってたら遅くなっちゃった。でも、セレネの分のおみやげも沢山買ってきたから……」
「みなさん、おはなし、あります」
はしゃぐマリーの会話を遮って、セレネは短くそう言い切る。セレネは、普段は何を考えているのか分からない超然とした態度を取っているが、今日のセレネは何かが違う。よく分からないが、何かが起ころうとしている事をマリーはセレネの口調から察した。
「お話、ですか?」
ヒノエが先を促すと、セレネは軽く頷いて、バトラーから聞いた報告を伝えた。ヒノエの暗殺計画が実行されつつあるという事に、そこに居た面々は皆、驚愕した。
「そんな情報、どこで仕入れてきたのよ?」
「ほんとうです、しんじて」
ネズミから聞いた、と言っても信じないだろうと思い、セレネはそれだけ言った。マリーもヒノエも最初は困惑していたが、答えは既に決まっている。
「いいわよ。信じてあげる。だって、セレネが言う事なら間違いないからね」
本来ならセレネの言う事は間違いしかないのだが、幸いな事に、反転の薬を服用したセレネの頭脳は冴え渡っており、そういう意味で間違いは無いのだ。
今のセレネは薬の作用により覚醒している――つまり、気が狂っていた。しかし、元々狂っているので、逆に限りなく正常になっているという、よく分からない状態だった。
「ヒノエ、きょうりょく、おねがい、します」
「わ、私ですか?」
「はい。とてもこわい、でも、うまくいく、だいじょうぶ」
そう言って、セレネは怯えるヒノエの手を優しく掴む。普段のセレネなら「女の子と手が握れたぞキャッホー!」などと下劣な感情を爆発させていただろうが、今のセレネは、純粋に少女を労わる気持ちだけがある。心など読まずとも、手の温もりと言葉遣いから、はっきりと感じ取る事が出来る程だ。
「……分かりました。それで、私は何をすればよいのでしょう」
「それは……」
一呼吸置いて、セレネは作戦をマリーやヒノエ、そしてその場に居る兵士たちに伝える。これで準備は全て整った。後は実行のみである。
信じられない事だが、今、セレネの魂は、邪悪に対する怒りと、弱者を守るための熱き使命感に燃えたぎっていた。
◆◇◆◇◆
それから数時間が経ち、宴は予定通り開始された。部屋の人員配置は昨日と同じで、カゲトラを始めとする当主と使者のグループ。それ以外の兵士達や使用人は、別の部屋で纏めて食事を取る事になった。
ただ、昼間働きづめで体調を崩したと訴える女中が一人居たが、既に準備は整っているし、一人くらい抜けても問題ないと判断され、一足先に帰されていた。
「さて、今宵は遥か異国から来られた姫君たちの歓迎の宴。今日は無礼講。皆、存分に楽しんでいただきたい」
「は、はい……ありがとうございます。うれしいです」
カゲトラの宴会開始の宣言に対し、マリーは持てる全ての気力で笑顔を作った。これから起こる出来事に緊張していると言うのもあるが、その前に、目の前に現れた強敵「オサシミ」「ナマウニ」を倒すというミッションがあるのだ。
(兄さまの嘘つき! 全然栗と違うじゃない!)
刺身が出る事はある程度覚悟していたが、ウニに関しては完全にマリーの想像を超えていた。兄いわく、「栗のような物ではないか」と称されていたのに、実際に出てきたのは、何だかよく分からないどろりとした物体である。詐欺だ、とマリーは思った。
「とても、おいしそう、です」
一方、横に座っていたセレネは堂々としたもので、ぴんと背筋を伸ばし、正座をしながら謝辞を述べた。足を崩して座っているマリーと比べると、随分と堂に入っている。
「では、いただきます」
セレネは食べる前にきちんと一礼し、実に優雅な動作で箸を取り、刺身を一切れ、そして、ほんの一すくいのウニだけを口に含み、静かに咀嚼する。
「ど、どう……セレネ?」
カゲトラに失礼にならないよう、小声でマリーは尋ねるが、セレネはマリーを安心させるように、本当に愛くるしい笑みを浮かべた。
「とてもおいしい、です。カゲトラさま、かんしゃの、きわみ」
「そ、そんなに美味しいの?」
「はい、とても」
屈託なく笑うセレネを見ていると、マリーの抵抗感が和らいでいく。汚れ無きセレネの表情は、まさに天使の微笑みと呼ぶにふさわしい。嘘を吐いているようには見えず、こんな風に笑いかけられれば、どんな疑り深い人間でも信じ切ってしまうだろう。
「じゃ、じゃあ私も……」
マリーも覚悟を決め、持参したフォークで刺身を一切れだけ取ると、そのまま口に放り込む。
するとどうだろう。予想していたのとは全く違う感覚が、マリーの口の中に広がる。普段食べている動物の肉とはまるで違う。けれど決して嫌な物ではない。まるで溶けるように柔らかい食感だ。
「美味しい……」
マリーの口から自然とそんな言葉がこぼれ、そのまま残りの刺身やウニをどんどん食べていく。それを見ていたカゲトラとクマハチは、内心で胸を撫で下ろす。マリーが吐き出さないか一番気に掛けていたのは、他でもないカゲトラとクマハチなのだ。
「あ、もう無くなっちゃった……」
数分もしないうちに、マリーの刺身とウニは無くなってしまい、名残惜しそうに嘆いた。昨夜頼まれてはいたものの、カゲトラは、セレネとマリーに出す刺身やウニは念のためかなり少なくしておいたのだ。郷土料理を要求してきたのは間違いないが、額面通りに受け取るほどカゲトラは単純では無かった。
「ふむ、マリーベル王女がお気に召していただいたなら、もう少し用意しておけばよかったですね。まだ余っていないか調理場で調べてきましょう」
「まって、ください」
カゲトラが立ちあがろうとするのを、セレネが制する。そして、セレネは殆ど手つかず自分の刺身とウニの乗った皿を、マリーに差し出した。
「マリー、あげます」
「……え? それはセレネの分でしょ?」
「わたし、おなか、いっぱいです」
セレネはにっこり笑い、押しつけるようにマリーに刺身を全て差し出そうとする。信じられない献身っぷりだ。
「マリー、ぞんぶんに、おあがり」
「でも……」
「もてなし、たいらげない、しつれいです。じゃあ、こうかん、しましょう」
「交換? 何と?」
「わたし、やさい、だいすき」
そう言って、セレネは自分の刺身と、マリーが端に避けていた野菜の炒め物と交換してしまった。
確かに、出された物を残すと言うのは、ある意味で失礼な行為ではある。けれど、メインディッシュである物と比べたら、交換条件が釣り合っていない。
しかし、セレネは嫌な素振り一つ見せず、マリーと交換した野菜を黙々と食べていく。これ以上食い下がると、かえって目の前のカゲトラやヒノエに失礼である。この刺身という一風変わった料理が気に入ったのもあるが、マリーは、セレネの気遣いが何より嬉しかった。
「ありがとね。セレネ」
そう言って、マリーは幸せそうに、セレネから分け与えられた刺身とウニを平らげる。子供たちの微笑ましい交換会が終わると、後は和やかに食事が再開される。
(確かに、随分と大人びた子供だ……)
カゲトラは、表には出さなかったが、セレネに対し内心で敬意を払う。マリーやヒノエより年下であるにも関わらず、あれほど丁寧な気遣いが出来る人間は、大人でも少ない。
「はは、兄上の考えている事が分かるでござるよ。あれが、大陸一の王子が見出した、エルフとの和平の使者、セレネ殿でござる」
「……まあ、少々驚いている」
短く感想を述べたカゲトラに対し、クマハチは徳利の中の液体を猪口に注ぐ。カゲトラも、クマハチに対し同じ動作をして呑み交わす。
「やれやれ、昨日から色々な事が起こるものだ。これでは今日は酔えそうも無いな」
カゲトラは一人黙々と食事をしているヒノエの方をちらりと見ながら、そう呟いた。