【番外編】セレネ、東へ行く 6
カゲトラがセレネの厚かましい要求を使用人たちに伝えると、今日の仕事は全て終わりとなり、使用人たちは各々、帰途に着いていった。カゲトラやヒノエの身の回りの世話をしたり、屋敷の警備をする兵士たちは敷地内に用意された下宿に住み込み生活をしているが、大抵の者は街から通っている。全員を常時抱えておけるほど、カゲトラの懐事情は豊かではないのだ。
その中の一人――カゲトラ達の食事の際、給仕として立ち会っていた女中は、自宅とは違う方向へ向かっていた。人目に付かぬよう路地裏の暗がりを選び、闇に紛れるように歩く。少しして女が辿り着いた場所は、辺鄙な農耕地のど真ん中にあるカゲトラとは違い、街中に敷地を持つ、巨大な武家屋敷であった。
女は塀の裏側へ回り、日中、この屋敷の使用人たちが使っている小さな勝手口の扉から、滑り込むように入り込む。そのまま小走りに庭を駆け抜け、敷地の隅にある蔵の前にやって来た。蔵の扉は鍵が掛けられていたが、女が、
「月に叢雲、花に風」
と言うと、中から扉が開かれた。蔵の中は闇に塗りつぶされ、全く様子が分からない。だが、その中で、何かが蠢くのが感じ取れた。開け放たれた扉から差し込む、微かな月明かりに照らされ、ぼんやりと浮かぶ不気味な物の正体は、黒装束に身を包んだ人間の、見開かれた眼の部分だ。
「遅かったな。待ち侘びたぞ」
その黒装束は低くそう呟いた。男の声だ。
「お待たせしてしまい申し訳ありません。あの屋敷の主人は警戒心が強いもので」
「まあいい。お前がこうしてやってきたという事は、ようやく我らの出番が来たと言う事か」
「ええ、ちょうどいい頃合いかと」
そう言って、女は邪悪な笑みを浮かべるが、黒覆面は特に反応しない。その沈黙を無視し、女は小声で呟く。
「ここの旦那様も人が悪い。せっかく幸せを掴んだヒノエを、わざわざ亡き者にしようなんて」
「お前も俺もあの古狸に雇われの身だが、知った事ではないな」
どこか皮肉っぽく笑う女に対し、男の方はこれっぽっちも興味無さそうに相槌を打つ。
「お偉いさんにとっては、呪力を持つ存在が生き残っている事が汚点なのだろう。まあ、金さえ貰えれば、俺たちにとってはどうでもいいことだ」
「でも雇い主は、カゲトラからお金は貰っているでしょう。なら、あの子はもう彼の物ですよ?」
「だから俺たちの出番という訳だ。非力な子供相手に馬鹿馬鹿しいが、仕事はきちんとやらねばな」
淡々と男はそう答える。ここまでの会話で分かるかもしれないが、彼らは間者――つまりスパイである。一人が女中として内部の情報を探る役で、それとは別に、この男を筆頭とする暗殺部隊が既に用意されていた。
「ヒノエが心を読めると聞いていましたけど、やはり小娘ですね。素晴らしい主君であるカゲトラの選んだ人間は、みな善良だと思っているのでしょう。今日も笑顔で話しかけられましたよ」
そう言って、女はヒノエの純粋さをあざ笑う。自分の目論見を読まれやしないかと内心ひやひやしていたのだが、実際にカゲトラの屋敷で働き出してから、ヒノエはそういった素振りを全く見せなかった。
ヒノエの暗殺を彼女らに依頼したのは、他でもないヒノエの父だ。彼は、一族の汚点がのうのうと生き残っている事が気に入らなかった。合法的にカゲトラに譲渡されたとはいえ、ヒノエが生きていれば、同級の武家に突け込まれる弱点となりかねない。この島国において、呪力とはそれほど差別の対象となっているのだ。汚点は、出来る限り素早く、内密に処分せねばならない。
「しかし、なぜ頃合いなのだ? カゲトラとか言うあの男、力は無いが頭は切れる奴だ。攻め込む隙がなかなか無い」
「ふふ、今日、異国の人間が来たでしょう? それでさっき、私たちにカゲトラから伝言があったのですよ。『今日は時間が無かったが、明日の朝市で最高の食材を用意し、夜、宴を開くから準備をしろ』とね」
「ほう、それで?」
黒覆面が促すと、女はそのまま自らの計画を述べていく。
「大陸の使者を迎えた盛大な宴。皆、とてもよい気分になるでしょう。下々の者たちも無礼講となり、酒を振る舞ってもよいとのこと。だから、食事にこれを盛り込むのです」
そう言うと、女は懐から小さな巾着を取り出した。口紐を解くと、中には白い粉末が入っている。
「なるほど、反転の薬だな」
「よくご存じで。これは、かつて大陸に流された呪力持ちが使っていた、呪いの力を応用した物。この薬を服用すれば、猛き者は臆病者に、逆に、どんな臆病者も勇敢な者にといったように、精神を変容させる効果があるのです」
入手するのに苦労しましたよ、と女中は付け加えた。忌み嫌われている呪力だが、実は裏ではこっそり出回っていたりする。精神面に働きかける呪力の籠もった道具は、口に出すのもはばかられる目的には有効な場合が多いのだ。もちろん、幻覚を見せたりする物もあるので、危険物質として厳しく取り締まられているが。
「これを酒に混ぜ込めば、カゲトラに仕える、狼のように敏感かつ勇猛な警備兵も、のろまな牛のように鈍感になるでしょう。ふふ、なまじ優秀な人材ばかり集めているから、効果はてきめんかと」
「なるほど、緩んだ警備の合間を縫って、忍び込むなど造作も無い」
「異国の民との宴で皆が浮足立ってしまう。その時、『たまたま』兵士達が深酒をして気が緩んでしまったのです。それで『不幸にも』物盗りが潜入し、ヒノエが巻き添えになってしまうという訳です」
冗談めかして、女はヒノエを害する計画を述べた。男も表には出さないが、黒装束の目の部分だけを細める。確かに絶好の機会である。
「しかし、子供達はどうするのだ? 確か、異国の使者には二人の子供がいたはずだ。奴らに酒を振る舞う訳にはいかない」
「これは妙な事を。あんな幼子二人に何ができるというのですか? 夜になれば、幸せな夢を見て、すやすや寝入ってしまうでしょう」
「……まあ、慎重には慎重を期したいが、問題になると言う程でもないか」
そう言って、覆面男は女の計画を実行することにした。ターゲットはヒノエ一人。大人たちさえどうにかしてしまえば、女子供に一体何を恐れる必要があるのだろう。まして、特別に戦闘鍛錬を積んでいない幼子だ。
「ふふ、ヒノエも可哀想な子。せっかくお友達が出来たばかりなのに、もうお別れの時間だなんて。やはり、呪われた力を持つ人間は幸せになってはいけないのでしょうね」
「無駄口を叩くな。どこにネズミが潜んでいるか分からんからな」
もちろん、女もここに来るまでに細心の注意を払っていたが、男の警告で口を噤む。軽口はほどほどにしておかねばならない。何せ、これから行うのは裏の仕事なのだ。迅速かつ慎重に進めねばならない。
それから女と覆面男は、明日の実行計画を闇の中で擦り合わせた。こうして、闇よりもさらに深い闇の中、ヒノエの生まれた家で、ヒノエを地獄へ突き落とす計画が着々と進んでいくが、それに気付く人間は、まだ誰も居なかった。
◆◇◆◇◆
「はぁー、ビバ、のんのん~」
「何よそれ」
翌朝、朝食を済ませたセレネ、マリー、そしてヒノエの三人は、カゲトラの屋敷の裏にある小さな山の温泉に入っていた。開けた林道を少し登っていくだけで簡単に辿り着ける場所で、他にも何個かあるのだが、ここはカゲトラの所有する土地の一部で、実質、彼が所持する天然の露天風呂であった。
「カゲトラ様がこの屋敷から街中に移動しないのは、金銭面だけではなく、この立地が気に入っているからではないでしょうか」とはヒノエの弁である。
朝食の後片付けなどでヒノエは残る予定だったのだが、今日は女中がしきりに「お友達との時間を楽しんできて下さい」と言ってくれたので、ヒノエもその好意に甘える形で、女友達とはじめての温泉に来たというわけだ。ちなみに、この温泉はにごり湯なので、大事な部分を読者に見せられないのは残念な限りである。
「あの、お湯加減はいかがでしょうか? といっても、私が調整できる訳じゃなのですけど……」
「外のお風呂なんて初めてだけど、とっても気持ちいいわよ。私、癖になっちゃうかも」
「そうですか……それは何よりです」
「セレネは……聞くまでも無いわね」
ヒノエはほっと胸を撫で下ろす。マリーは普段の石造りの王宮の風呂と違う天然風呂を気に入ったが、セレネはもっとご機嫌だった。肉体的には少女だが、やはり中年になるとあちこち動き回るより、こうして温泉でだらだらと過ごしたい。セレネは、波間に漂うクラゲみたいに温泉でふにゃふにゃになっていた。
「あの……よろしければ、この後、街を案内しましょうか? 警備を付ければ出てもいいと、カゲトラ様に許可はいただいておりますので」
「あ、いいわねそれ。私、この国の文化をもっと知りたいわ」
「わたし、いいや」
ヒノエの控えめな提案を、セレネはあっさり断った。こうして一緒に温泉に入るくらいなら歓迎だが、セレネは引きこもり体質なので、異国の文化を知りたいという向学心などは全く持ち合わせていないのだ。
黒髪美少女のお誘いは嬉しいのだが、昨日は日中それなりの距離を歩き回されて疲れているし、夜には宴が開かれるのだ。昼間に歩き回って、お刺身を食べる力を目減りさせる訳にはいかない。
「お刺身を食べる力」という概念自体が意味不明なのだが、セレネは真剣にそう考えていた、以前、エンテ王女が鳥の軟骨揚げを出してくれたが、あの時は「特別な料理」としか聞いていなかったので対策をしていなかった。
だが、今回は「お刺身」「生ウニ」というレアモンスターが現れると分かっているのだから、イベントが始まり、開幕ダッシュをするためにスタミナは温存しておかねばならない。ソーシャルゲーム攻略みたいな考え方である。
「んー……まあ、セレネは日の光に弱いから、確かに大人しくしてた方がいいかも」
「白子の方は、強い日差しに弱いと聞いております。セレネ様も、苦労されているのですね」
「べつにー」
セレネは憐憫の表情を向けるヒノエに対し、そっけなく答えた。セレネは本当に温泉に浸かっていたいだけだし、王子のせいで苦労していると言えばしているが、この体のお陰で白昼堂々引きこもれるので別に不自由していない。
「じゃあ、私たちは先に行ってるから、セレネも適当な所で上がりなさいよ」
「あい」
セレネが生返事をすると、マリーとヒノエはおかしくて、ぷっと吹き出した。二人は温泉から上がると、用意してきた布で体を拭いた。普段は赤いドレス姿のマリーだが、今日はヒノエの用意してくれた浴衣を羽織る。ヒノエが用意したのは赤地に花柄の模様のある物で、マリーの好みに合わせてくれたようだった。
「なかなか可愛いわね。まあ、私は何を着ても可愛いけど」
「いえ、本当に、とてもよくお似合いですよ」
「でも本当に驚いたわ。だって、クマハチが着てる服、ぼろ切れみたいなんだもん。あれからこんな可愛いのを想像しろっていうのも無理があるわよ」
「武人の方はそういうものですから……あ、あの、お気に召したのなら、街の方に呉服屋がありますので、そちらに顔を出してみます?」
「いいわね! よーし! 気に入った奴を片っ端から買いに行くわよ! さあ、ヒノエも急いで!」
「あ、ちょっと、待ってくださいー!」
自分のドレスとはまた違う浴衣の魅力に、マリーはすっかり虜になってしまったらしい。浴衣に靴というミスマッチな格好で、飛び跳ねるように明るい林間を下っていく。ヒノエも慌ててそれを追いかける。後には、温泉に残されたセレネただ一人。
バトラーはというと、思ったより偵察が長引いたのか明け方になって帰ってきた。さすがに彼も疲れたようで、今はセレネに用意された部屋の中で仮眠を取らせている。
定期的に警備の者が巡回しているから、セレネ一人残されても特に問題は無かった。強いて言えば、セレネが問題そのものだが。
「ふへへ」
二人が出て行った後も、セレネはボイル調理中のソーセージみたいに湯船に浮かんでいた。美少女の肌を見るのは悪くないが、いかんせん二人とも子供すぎる。あと数年経てばまた違うだろうが、今はまだセレネが食指を伸ばす程ではなかった。
でも、折角なのでちょっとお湯を飲んだりしてみた。美少女の残り湯には若返りと延命効果がある。少しだけ飲むと、そこはかとなく生命力が湧いてきたような気がしたので、効果があるような気がした(たぶん)。
それからしばらくの間、セレネは長風呂をしていたが、さすがに長時間浸かりすぎた。元々肌が白いので、血行が良くなると、セレネは全身が桃色になる。ピンクの悪魔の降臨である。
ピンクの悪魔は用意されていた布で体を拭くと、普段身につけている白いドレスに身を包んだ。この国では魔力を忌み嫌う風習がある事は、セレネも昨日聞いたので知っている。
となると、当然ながら魔力の編み込まれた衣服など無い。本当なら、だらけたおっさんが着るような、よれよれの浴衣が欲しかったのだが、仕方なくこのドレスを身に纏わないと活動できないのが、何とももどかしい。
「かぁー! ビールぅ!」
こうして、お肌ピカピカになったセレネは一人で緩やかな斜面を降りつつ、欲望の雄叫びを上げた。ああ、ビールが欲しいなあ。ひとっ風呂浴びた後に呑むビールは格別なのに。
「はぁ……」
しかし、それは叶わぬ願いなのだろう。今の自分はどうあがいても子供なのだ。ヴァルベールでビールを要求した際も、酒は出してもらえなかった。きっと今回も出してもらえないだろう。残念だが、宴の席では酒の代わりに涙を飲むしかないのだ。
◆◇◆◇◆
朝食の片付けと昼の軽食、そして、夜の宴の下準備を終えた使用人たちは、忙しさに備え、早々に休憩に入っていた。カゲトラの言いつけどおり、市場で鮮度のいい魚介類を仕入れ、今は生簀で泳がせている。この魚たちは、腕利きの調理人によって、後ほど捌かれる予定だ。
皆が休憩に入り、誰も居ない事を確認すると、件の女中がそっと調理上に忍び込む。彼女の前には水がめと、その横に置かれた酒樽がある。目的はもちろんただ一つ、今夜振る舞われるこの酒に、反転の薬を混ぜ込む事だ。酒樽の蓋をどかし、白い粉末の入った袋の中身を全て入れると、水がめの上にあったひしゃくでかき混ぜる。この薬はほとんど無味無臭で、並の人間ではまず気付けない。
「フフ、宴の始まりね」
これで準備は整った。後はこの酒を飲ませ、カカシ同然になった警備の連中を抜け、何の抵抗力も無いヒノエを捻り殺せば任務完了だ。それだけで莫大な金が入るのだ。その任務を終えた金で豪遊する、それこそが彼女たちの真の『宴』である。
久しぶりの大仕事と、その先にある報酬に目を輝かせながら、女は酒樽の蓋を元に戻し、屋敷の方に繋がる入口から素早く外に出た。
「おみず、おみず」
女が屋敷の方の出入り口から出ていった直後、庭の方に繋がっている勝手口からセレネが入ってきた。長風呂をした後で喉が渇いたので、冷たい飲み物を探してやってきたのだ。酒は無理でも、フルーツ牛乳ならどうだろうかと考えたがそれも無理っぽいので、仕方なく水で妥協する事にしたのだ。
「だれか、いない?」
だが、水を分けて貰おうと思ったのに、調理場は静まり返っていたので、セレネは舌打ちした。ここで黙って引き返し、外の井戸から水を引き上げて飲むなどという面倒な真似をセレネがするはずがない。セレネは、勝手に勝手口から侵入し、水を失敬する事にした。
「あった!」
調理場なのだから水くらいあるだろうと踏んだのだが、案の定、水がめと、ご丁寧に飲むためのひしゃくが置いてある。さっそくそれに手を伸ばし、水を飲もうとするが――。
「……ん?」
そこで、セレネは異変に気が付いた。このひしゃく、何だか酒の匂いがするぞ。普段は鈍感極まりないセレネだが、こういう時だけはまるで警察犬のように鋭いのだ。
「まさか……おさけ!?」
もしかしたら、この辺りに酒があるのではないか。そう思った次の瞬間、すぐ横にある酒樽から、わずかに染み出す酒の匂いをセレネは鋭敏に察知した。その辺の椅子を引っ張ってきて足場にし、多少重い蓋を頑張ってどかす。
「う、うおおーっ!?」
セレネは思わず叫んだ。酒だ! アルコールだ! Alcohol! 横にある水がめなんかもうどうでもいい。セレネはひしゃくを再び取ると、震える手でそのとろりとした液体をすくい、口に含む。
「う、うますぎるゥ!」
まるで雷に打たれたように、セレネは身を震わせ、一筋の涙を流した。いや、そんな事で泣かれても困るのだが、とにかくセレネは泣いた。そのくらい飢えていた。こんなものを我慢できるわけがない。ひしゃくですくい取った分を、たちどころに喉に流し込んでいく。
「ぷはぁー! うめぇ、ちくしょう!」
何がちくしょうなんだかよく分からないが、セレネは汚い言葉で賛辞を述べた。そうして二杯目をひしゃくですくい――。
「おっと!」
意外にもセレネ、これをスルー。慌てて蓋と椅子を元の位置に戻し、何事も無かったようにカモフラージュした。
「あぶなかった……」
ついカッとなって泥酔するまで飲みそうになってしまったが、冷静に考えたら、人の家の酒に勝手に口を付けてしまった。これはまずい。セレネは酒に関してはこだわりが尋常ではないので、自分が酒を飲まれたらブチ切れる。そう考えると、なんだか大罪を犯し、懺悔したい気持ちになったのだ。
何より、ここで調子こいて酔いつぶれてしまうと、肝心の刺身やウニを食べる機会が失われてしまう危険性がある。酒は大陸でも代替品を見つける事は可能かもしれないが、刺身はここでしか食べられないのだ。
「うう、くそったれ」
結局、セレネはひしゃくで軽く一杯分だけの酒を飲み、頭髪がハゲあがるくらいに後ろ髪を引かれながら、自室へ戦術的撤退をせざるを得なかった。




