【番外編】セレネ、東へ行く 1
「はぁ……」
今日もエルフと人間達との間に座るだけの仕事を終えたセレネは、精根尽き果てていた。別に何もしていないのだが、セレネは「仕事」と名が付く空間に充満する空気に長時間触れていると、皮膚がかぶれてしまう奇病を患っていた。いや、嘘だが。
さすがに皮膚はかぶれないが、苦痛である事に変わりは無い。日本で生きていた頃、会議中に爆睡した議員を「会議中に寝るとは何事だ」と叩きまくったセレネとしては、自分は衆人環視の前で椅子にふんぞりかえって寝る無様な真似はしないという無駄なプライドがあった。だが、座っているだけなので、ちっとも偉くも誇り高くも無かった。
「やすみたい……」
ろくに仕事もしていない癖に、セレネはもう過労状態に陥っていた。もう何日も仕事したのだし、半年くらい有給休暇が出てもいいんじゃないか。そんな事を考えながら、セレネは邪魔くさい儀礼用ドレスを脱ぎ、一刻も早くベッドに潜るべく、終了と同時に会議室を出た。
セレネが部屋を出ると、この時間、この場所では滅多に見かけない人物がいる事に気が付いた。擦り切れた藍染めの着物を着た、セレネに冴えないおっさん扱いされているクマハチである。
「はぁ……」
クマハチは壁にもたれかかるように寄り掛かり、溜め息を吐いていた。いつも肩で風を切って歩いている彼にしては珍しく憂鬱そうで、セレネが出てきた事にも気付いていないらしい。
「クマ、どしたの?」
「ん? ああ、セレネ殿か。セレネ殿が出てきたという事は、会議は終わったのでござるな?」
「うん、クマ、げんきない。ようつう?」
いつもの元気なおっさんから、しなびたおっさんになっているクマハチをセレネが心配そうに見上げる。クマハチももう中年だし、そろそろ関節の痛みがあってもおかしくないとセレネは勝手に推察していたが、クマハチはまだ二十歳であり、おっさんではない。
「いや、腰痛と言うよりは、頭痛でござるな」
「ずつう?」
「ちょっと王子に相談せねばならぬ事があってな。お、噂をすれば。ではセレネ殿、拙者これにて」
クマハチはセレネに一礼すると、セレネより少し遅れてエルフと共に現れた、ミラノに向かって歩いていった。その様子を、セレネは柱の陰に隠れて窺っていたが、しばらく廊下で話し込んだ後、エルフ達と別れ、ミラノとクマハチは二人で会議室に戻って行った。
「クマ、かわいそう……」
一部始終見ていたセレネは、クマハチに同情し、『頭痛』という意味を理解した。クマハチは、こんな遅くに上司のミラノに呼びつけられ、何か説教でもされるのだろう。しかし、今の自分にしてやれる事は無い。ねちねちと嫌味を言われるであろうクマハチを気がかりに思いつつ、セレネは自室へと引き返していった。
◆◇◆◇◆
「すまんな王子。会議の後で疲れているというのに」
「いや、それは構わないが、細かい事情を話してくれないか」
日中は鍛錬や雑務をこなし、セレネに合わせる形で夕方から始まる会議に参加し、目が回るほど忙しいミラノに時間を割かせる事に対し、クマハチは詫びたが、ミラノは嫌な顔一つせず、側近であり、同時に親友でもあるクマハチの相談を快く引き受けていた。
「実は今朝、拙者宛てに故郷の兄から『いい加減顔くらい見せろ』との手紙が来たでござるよ」
「そうか、お前は次男坊だったな。兄の名は確か……」
「カゲトラと申す。拙者とは随分と雰囲気が違うが、今は拙者の家の主でござるよ」
クマハチの国は十五歳で元服――つまり成人として扱われる。クマハチは自国で元服の儀式を終えると、その翌日に置き手紙を残し、ほとんど着の身着のまま、密航するように数少ない外国行きの船に乗り、この大陸に武者修行と称し降り立った。
その後、数年間各地をぶらぶらと漫遊し、現在はヘリファルテ第一王子の側近として仕えるという、なかなかに破天荒な人生を送っている。
「そうか……お前も国へ帰る時が来てしまったか。僕としては、お前には出来る限り側に仕えていて欲しいのだが、引きとめるのは無理だな」
「いやいやいや! 何を言うでござる! 拙者はもうこの大陸の人間でござる。そして、この国に骨を埋める覚悟は出来ているでござるよ。そもそも、あの国は閉鎖的であまり拙者向きではないでござる」
「あまり祖国の悪口を言う物ではないが、まあ、確かにあの国はあまり外交をしたがらないな」
クマハチの祖国は、大陸から少し離れた島国だ。距離としては決して行けない場所では無いのだが、どうも外部との接触にあまり積極的では無いらしく、大国ヘリファルテですらあまり交易は無い。同じ人間同士なのに、異種族であるエルフとの貿易の方が活性化しているほどだ。
「前から何度か帰省しろと連絡は来ていたのでござるが、無視を決め込んでいたら。『兄弟揃って顔見せしないと面目が立たず、うちの家が取りつぶしになる可能性がある』と強迫が来たらしいでござる。いやあ、これはちょっと参るでござるな。はっはっは!」
「はっはっは、じゃない。かなり大事になっているじゃないか」
クマハチはおどけてそう言ったが、彼とて馬鹿では無い。実家は長男が継いでいて何の問題も無いはずだが、次男坊であるクマハチが得体の知れない国に仕えている事を、家の者たちは気にしているらしい。
「これだから島国根性と言う奴はみみっちくていかん。狭い世界に閉じこもってばかりでは、広がる絶景を見られん事に気づかないのでござる」
「とにかく一度顔見せをしたほうがいいだろう。そのまま無視すれば、本当にお前の家に迷惑が掛かるぞ」
「はぁ……帰りたくないでござるなぁ。またあの狭苦しい所に戻らねばならんのか。まあ、ちょろっと顔を出して、とんぼ返りしてくるつもりでござるが」
クマハチは本当に祖国に帰りたくないらしく、彼にしては珍しく、厳つい肩をがっくり落とした。祖国に姉と帰りたくてがっくり肩を落としている、どこかの誰かとはえらい違いである。
「そんな事情なので、少しだけ休暇をいただきたいのでござる。王子には負担を掛けるが、嫌な事は早めに終わらせておきたいのでござるよ」
「いや、こちらは構わない。お前にはお前の事情があるのだろう」
「感謝の極みにござる」
クマハチはミラノに対し、深々と頭を下げた。今はエルフとの外交も順調に進んでいる。逆に言うと、ミラノはやる事が満載なのだ。そんな中、己の事情で国を離れる事はクマハチも望んでいないのだが、無理を承知でミラノに頼んだ。もし断られたとしても、クマハチは文句を言うつもりは無かったが、ミラノが快諾してくれた事に、クマハチは心から感謝した。
「しかし面倒でござるなあ、ま、祖国に戻る理由が全くない訳では無いのでござるが」
「刀の件か?」
「然様。拙者の刀は、赤竜との戦いで一本折れてしまったでござろう? 一応予備は何本か持っているでござるが、いかんせんこの国では新しい刀が手に入らなくてなあ」
そう言いながらクマハチは頭を掻いた。クマハチは元々の身体能力も戦闘センスも抜群なため、大陸産の剣やその他の武器を使っても、並以上に戦う事が出来る。だが、彼が最も得意とするのは刀を主体とする剣術だ。
彼の祖国とこの大陸は殆ど交易が無い上に、刀などという奇妙な武器を使う人間は皆無と言っていい。需要の無い物を商人が仕入れる筈も無く、大国ヘリファルテですらほとんど出回っていないのだ。
そういう意味では、祖国への一時的な顔見せを、自分の刀を補充できる機会と考えれば、まあ悪くはない。
「クマハチ、ついでだから、僕から一つ野暮用を頼まれてくれないか?」
「野暮用?」
しばらく口元に手を当て、ミラノは黙考していたが、不意にそんな事を言い出したので、クマハチは問い正す。
「ああ、お前が国へ戻る際、マリーを筆頭とする国使を連れて行ってくれないか?」
「マリーベル王女を? いや、それは構わぬが……一体なぜ?」
「お前の島国とこの大陸は、近い距離にありながらあまり交易が無かったし、お互い関わり合いになりたくないのなら、それでいいと思っていた。だが、それは誤りなのかもしれないと、セレネを見ていて思い始めていてな」
「ふぅむ……」
「セレネのお陰でエルフ達との交易が活性化し、この国は一層豊かになるだろう。僕は今まで、何をするにもずっと受身で生きていたが、あの子のように能動的に動けば、これほどまでに短期間で状況は変わるのだと、ようやく気が付いたんだ」
セレネは何もしていない。勝手に自爆し、勝手に状況が変わり、勝手に周りが解釈していっただけであるが、その辺りの事情は、幸か不幸か誰も知らなかった。
「だから、出来ればお前と僕のように、我が国とお前の祖国と友情を結びたいと思っている。本当は僕が行きたいのだが、僕は今、エルフ達と進めている計画もある。本陣を離れるわけにはいかない」
「なるほど、そこでマリーベル王女と言う訳でござるか。しかし、それだけが目的ではござらんな?」
クマハチが不敵に笑うと、ミラノもふっと口元を緩める。クマハチは見た目こそ粗雑に見えるが、相手の意図をくみ取る事は人並み以上に長けている。
「ああ、察しの通りだ。マリーももう十歳。そろそろ国を背負う自覚を持たせたいと思っている。以前のマリーだったらとても使いには出せないが、今はセレネのお姉さんになると張り切っているからな、マリーは聡明な子だ。お前の足を引っ張る事はないだろう」
「拙者もおおむね同意見でござる。マリーベル王女は、ここ最近で随分と大人びたでござるからな。これもセレネ殿お陰でござるな」
繰り返すが、セレネは特に何もしていない。
「さて、そうと決まれば、早速準備をせねばいかんでござるな。全体への告知は後回しにするとして、国王と王妃、それにマリーベル王女とセレネ殿には伝えねばなるまい」
「父上と母上には僕が伝えておこう。あとはマリーとセレネだが……」
「では、拙者がセレネ殿に伝えておくでござる。王子は、マリーベル王女に渡航を伝えてもらいたい」
「……お前、説得が楽な方を選んだな」
「いやいや、マリーベル王女は、やはり兄上である王子が伝えたほうが納得するであろう。セレネ殿は、誰が話してもすんなり受け入れるのだから、適材適所でござるよ」
もちろん、クマハチは楽な方を選んでいた。嫌われている訳ではないが、生粋のお姫様であるマリーは、武骨な男性であるクマハチはあまり得意ではないらしい。一方、セレネはそう言った点を分け隔てなく振る舞うので、クマハチとしてもやりやすい。
――とミラノとクマハチは判断しているのだが、むしろセレネの方がはるかに人を選り好みする。具体的に言うと、美少女や美女に、「川に向かってダイブしろ」と理不尽な命令をされても、忠実な猟犬のように飛び込むが、ミラノを始めとするイケメンから至極まっとうな頼みをされても、しぶしぶ言う事を聞くか、無視を決め込む面倒な奴だ。
ミラノとクマハチは会議室から出ると、ミラノはマリーに国使としてクマハチに同行する旨を、クマハチは、自分とマリーが数週間ほど留守にするという事を伝えるため、それぞれの部屋へと向かっていった。
監禁生活から解放されてそれほど間が無いセレネを海の向こうに連れて行くのは酷である。なので、セレネはお留守番となる――はずだった。