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夜伽の国の月光姫  作者: 青野海鳥
【第1部】夜伽の国の月光姫

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第44話:夜襲

 ミラノがセレネを連れて旅立つことを決意し、早くも数日が経過したが、当のセレネは浮かれた様子を全く見せず、もともと少ない口数をさらに減らし、頬杖をついて部屋の外を眺めることが多くなった。


『姫、心中お察しします。新しい世界に旅立つときは、誰だって不安なものです。ですが、姫が想像しているほど世界は残酷なものではありません。一歩勇気を出して踏み出せば、そこに驚くべき光景が広がっていることも多いのです』

「ん……」


 バトラーは、セレネに優しく声を掛ける。けれどセレネは上の空で聞き流すだけ。心ここにあらずという状態だ。


『(姫はすっかり放心状態だ……無理もないか)』


 ここ数日、セレネは何かを考え込むようにぼんやりとしていて、心の余裕が無くなっているように見える。バトラーとしては、セレネがミラノ王子と旅が出来ることは喜ばしい。けれど、セレネの歩んできた過酷な人生もよく知っている。だからこそ、主の心境を察することも出来た。


 これまでのセレネの人生を振り返ると、その生涯の半分近くを牢獄に閉じ込められ、解放されたその直後、大国ヘリファルテの王宮に移り住む事になった。その次は、竜に連れられエルフの里での暮らしである。


 ――つまり、セレネの生きてきた環境は、世間一般の人間とはまるで違うのだ。


 それこそが主が天に選ばれし者である象徴でもあるのだが、バトラーは、そんな主を哀れにも思うのだ。天才故の孤独であり、人並みの幸せを想像できないのだから。


『姫にはささやかな幸せという物が理解できぬかもしれませぬが、ヘリファルテの国民達を見た事はあるでしょう。あの者たちのような善良な人々は、そこかしこにいるものです。何も恐れることはありません』

「…………」


 バトラーは、主の不安を少しでも取り除くよう、穏やかに諭すが、やはりセレネは無反応だ。


 ここはひとまずそっとしておき、自分は影のようにセレネに寄り添おう。バトラーはそう考え、セレネの肩に乗り、柔らかな頬を前足でそっと撫でた。それから、自分の籠の中に戻っていった。


 主が悩み苦しむときは、彼女が求めるまで黙って傍に寄り添う。それがバトラーが今までも、そしてこれからも続けていく、もっとも冴えたやり方だった。


「はぁ……」


 バトラーの言葉にろくに反応しなかったセレネが、ようやく硬直を解き、ため息を吐く。


 王子がようやく視界から消え失せると思っていたら、自分を引き連れて旅に出るという奇行に走った。自らも頻繁に奇行に走るくせに、セレネは自分を棚に上げ、ミラノの理解不能な行動を分析中だった。ここ数日、その理由を考えていたが、ようやく納得のいく答えを見出した。


「わたし、代用品」


 セレネは座っていた椅子から降りると、自室に備え付けられている大鏡の前に立つ。前世の姿がちらついてなかなか自覚できないが、自分はそこそこ可愛い部類に入るらしい。そこそこどころではないのだが、セレネは巨乳派だったので、幼児体型の自分の容姿がいまいち気に入らない。


 そんな性癖はさておき、性王子の目的はあくまでアルエだ。自分は人質として扱われているに過ぎないが、アルエと血の繋がりがある妹なのは間違いない。こうして改めて見直すと、似ている部分もちらほらある。


 アルエは賓客として招待されているので旅には連れ出せないが、見切り品として売り出された自分なら問題ない。自分は性王子の慰み物として、アルエの代わりに連れて行かれるのだろう。下種の勘繰りしかできないセレネには、それしか思いつかなかった。


「い、イヤすぎる!」


 アークイラからヘリファルテに拉致されるときに妄想した、首輪を付けられたメイド姿の自分を思い出し、セレネは色々な意味で悶絶した。少女にメイド服を着せ、あわよくば脱がすのは大好きだが、自分が着脱する趣味はない。


 なにより、男の相手など絶対にしたくない。一億歩譲って、前世の自分を彷彿(ほうふつ)とさせるクマハチなら、まあ、同情票を投じてやってもいい。だが、あの腹黒王子の慰み物として扱われるのは絶対にお断りだ。


 脳裏をよぎるおぞましい妄想に、セレネは自分の身を抱いた。あの王子は数ヶ月に一度しか帰れないと言っていたし、数年がかりの長旅になるのだろう。今の自分は幼女オブ幼女なので、さすがに夜の相手は出来ないが、あと何年か経てば、体もそれなりに女性らしく変化していくだろう。


 その時に旅が終わっていなければ、アルエの代用品として真価を発揮する羽目になる。仮に自分がお役御免になった場合、アルエに対し毒牙が剥かれることになる。どちらにせよ地獄行きコースだ。


 なんとかしてこの最大の危機を乗り切らねばならない。セレネはここ数日、そのことばかりを考えて暮らしてきた。他にもっと考えるべき事があるのだが、セレネの脳の許容量は少ないのだ。


「……ぼうりょくだ」


 セレネは、彼女の持てる知性を総動員した結果、暴力で解決を試みる事にした。セレネは、コンピューターウイルスに感染しないために電源を入れないという解決策を思いつく人間だったので、仕方がなかった。


 毒殺だの、他者をけしかけるといった悠長な事態ではない。王子に神風特攻を敢行し、障害を排除する。これがセレネにとって、たった一つの冴えたやり方だった。


「ううぅ……」


 しかし、さすがのセレネもこの作戦には二の足を踏む。セレネは粗暴な割に血を見るのが苦手なので、今まで直接的な攻撃は加えようとしなかった。だが、事態は逼迫(ひっぱく)している。一度国外に連れ出されてしまえば、幼い自分一人では帰ってくることは出来ない。


 現時点でだいぶ越境しているが、セレネにも一応、倫理的に越えてはいけない境界線というものがある。現代日本で暮らしてきたセレネにとって、他人の命を直接奪うことは、その越えてはいけない線であった。


 しかし、同時にセレネは、ここ数ヶ月の出来事を思い出す。自分は優しい姉と共に、片田舎の極楽(牢獄)で仲睦まじく暮らしていただけだった。そして、そんな生活がずっと続くものだと信じていた。


 そこに大陸中で女を食い散らかしている餓狼(がろう)のような王子が土足で入り込み、嫌がる自分を引きずり出し、最愛の姉であるアルエまでも自国へ呼び寄せたのだ。


 それはまるで、仔ウサギを巣穴から無理やり連れ去り、心配して駆けつけた親ウサギを罠にかけるような卑劣極まりない手段だ。奴はその腹黒さを決して周りに見せない。あの甘いマスクの下には、どす黒いものが渦巻いているというのに。


「わたし、やらなきゃ……」


 あの王子の本性に気付いているのは自分だけなのだ。ここで自分が勇気を出して戦わなければ、大陸中の美しき姫たちが純潔を散らし、第二、第三の自分達のような被害者が出るだろう。


「……やってやる!」


 セレネは拳を握り、自分を鼓舞するように鏡に向かって気合を入れた。ついにあの王子に、断罪の刃を振り下ろす時が来たのだ。その結果、自分も罪人として処刑されるかもしれない。


 だが、前世でにんにくストーカーであった自分が、アルエや美しき姫君たちのために戦って死ねるのなら、(おとこ)冥利に尽きるというものだ。このセレネ、ただでは死なん。邪悪なる王子も地獄へ道連れだ。


 幸い今夜は新月。夜襲には絶好の機会である。


「うう、こわい……」


 セレネは鮮血に染まる王子の姿を想像し、恐怖で身震いした。セレネは体力の温存と、少しでも妄想から逃れるためにベッドに潜り込んだが、彼女にしては珍しく一睡もすることが出来なかった。


 こうして、セレネは悲壮な思いを胸に、王子に戦いを挑む覚悟を決めたが、その方向性は全力で間違っていた。



  ◆◇◆◇◆



「かくご、完了」


 月の出ない、全てが闇に塗り尽くされたような夜。セレネはベッドから這い出した。バトラーが籠の中で眠っていることを確認し、王子暗殺のための準備を開始する。


「ええと、武器、武器」


 セレネは強い光の中での行動は苦手だが、その反面、闇の中での行動は慣れている。さほど苦労せず、セレネは目当ての物を、洋服クローゼットの引き出しから取り出した。以前、ギィから貰った神木の笛である。


「ふぁいあっ!」


 セレネが力を篭めると、神木の先から5センチほどの長さの、蒼く輝く刃が現れた。相変わらず小さくて頼りないが、セレネはアークイラに監禁されていた頃、自分の頭を丸坊主にしたことがある。その事件がヘリファルテにも伝わっているので、部屋にハサミやナイフといった刃物を置かせてもらえない。この魔力の刃だけが、セレネにとっての暗器となる。


「し、しまった!」


 だがここで、セレネは重大なミスに気が付いた。この笛を、どうやって隠し持てばいいのだろう。セレネの立てる綿密な計画は、世間一般では杜撰(ずさん)極まりないと表現されるレベルなので、色々と穴だらけだ。王子に夜襲を仕掛けるにしても、片手に笛を持っていたら目立って仕方がない。


「ひ、ひも! ひもは!?」


 何か紐のような物で首からぶら下げ、服の中に隠し持ちたい。だが、裁縫などしないセレネが紐や糸といった物を持っているわけが無い。いつものことだが、セレネの計画は始まる前に破綻しつつあった。


「……そうだ!」


 切羽詰っているせいか、今日のセレネは一味違う。セレネは再びベッドに戻り、枕をそっと裏返すと、マリーから以前貰った、彼女の髪で作った金色の指輪があった。金髪ロリと戯れる夢を見るために、セレネは毎日、枕の下に敷いて寝ているのだ。ちなみにその夢を見られたことはない。


 多少もったいないと思いつつも、セレネはその指輪をほぐすと、長く綺麗な金の髪の束へと戻る。セレネは、その髪を何本か不器用な手つきで結び、一本の長い金の糸を作った。


 そうして出来た糸を笛の穴に通して輪っかにし、首にぶら下げ、胸元に押し込んだ。短時間ならこれで持つだろう。これで準備は完了だ。


「やみうち!」


 セレネは自分の口の中だけで気合を入れ、バトラーを起こさないよう、そっと部屋を後にした。廊下に出ると、いつもは深夜でも煌々と輝いている灯火が、今日は力無く辺りを照らすだけで、城全体がいつもより影が濃く、闇に侵食されてしまいそうに思えた。気のせいだろう、セレネはそう思い直し、ミラノの部屋へ向かう。


「王子、おきてる……」


 幸い誰にも見つからず、セレネはミラノの部屋の前まで来られた。残念なことに、扉の隙間から漏れる光を見る限り、ミラノはまだ起きているようだった。寝ているうちにこっそりと忍び込み、魔力の短刀で一突きするつもりだったのに。


 セレネは自室に帰りそうになったが、恐らく、数日中に旅の準備は完成してしまうだろう。今日を逃せば闇夜に紛れて攻撃する機会は無い。覚悟は既にしたではないか。セレネはやけくそ気味に、ミラノの部屋の扉をノックした。


「誰だ?」

「わたし」

「その声は……セレネか? すぐ開ける」


 部屋から出てきたミラノは、普段の礼服ではなく、白地のシャツという私服姿だった。机の上に大量の書類が置いてあるところから、恐らく、旅に出るために必要な物資や人員などを纏めていたのだろう。


「セレネが僕の部屋に来るなんて珍しいな。こんな夜更けにどうしたんだ?」


 無駄口を叩くつもりは無い。セレネは無言で、ミラノの部屋の奥のベッドを指差す。


「王子、寝て」

「寝て、というのは、もう休めということか? そろそろ休もうかと思っていたが、まだ資料が纏まっていなくてな……もう少し時間が掛かりそうなのだが」

「寝て!」


 セレネが凄い剣幕でミラノに迫ったので、訳が分からぬまま、ミラノはベッドに仰向けになる。確かにここ数日、体の中に何か不快な感覚が渦巻いており、疲労が抜けきらないのも事実なのだが、出発までにやるべきことはこなしておきたい。


「気を遣ってくれるのはありがたいが、本当に僕は大丈夫だから……」

「ちがう」

「え?」


 ベッドに横たわったミラノが身を起こそうとするが、それをセレネが手で制する。そのままセレネは、ミラノのベッドの上によじ登り、さらに仰向けになったミラノの腹部の上に馬乗りで跨った。


「よいしょっ、と」

「セレネ、一体何をする気だ?」

「…………」


 ミラノの問いに答えず、セレネは紅い瞳で、ミラノをただじっと覗き込んでいた。その瞳の奥に、いつもの彼女とは違う、何か思いつめた光があることをミラノは敏感に読み取る。それと同時に、セレネの羽のように軽い体から、小刻みに震えているのが肌を伝って感じられる。


「(まさか夜伽の真似事か?)」


 ミラノの脳裏にそんな考えが浮かぶ。ここ最近、セレネは大学に視察に行くことが多かった。セレネは背伸びをしたい年頃らしく、淑女として扱われたいと思っているらしい。もしかしたら、学生達から変な知識を吹き込まれたのかもしれない。


 ただ、いくら早熟とはいえ子供は子供。男女が肌を重ねあう、という程度の性知識があるだけで、具体的なやり方が分からず、怯えているのだろう。これでは単に乗っかっているだけだ。


 ミラノは苦笑して、セレネを宥めようと笑いかける。残念ながらセレネが出向いたのは夜伽のためではなく、夜襲だったのだが。


「セレネ、そういう事はもっと大人になってから……」

「おわかれ」

「……何?」

「おわかれ、言いにきた」


 そう、今夜が貴様の過ごす最後の夜だ。セレネはおもむろに胸元に手を突っ込み、神木の笛を取り出す。そして即座に魔力の刃を出現させる。その燐光を見て、ミラノは目を(みは)る。


「それはエルフの刃か!? セレネっ! 一体何を!?」

「たああぁーー!」


 問答無用! セレネは目を閉じながら、王子の胸元にありったけの力で魔力の刃を振り下ろす! ミラノとセレネでは身長差がありすぎるが、こうして馬乗りになれば、小さなセレネでもミラノの心臓部を狙うことが出来るのだ。


「グギャアアアアアアアッッ!!」


 セレネが恐怖を押し殺し、ミラノの胸に魔力の刃を突き立てると、世にもおぞましい悲鳴が部屋中に響く。


「やったか!?」


 殺った。ついに殺ってしまった。ああ、これで自分もついに罪人だ。だが、たとえこの手を汚しても、アルエや全世界の姫を守れるのなら――。


「あ、あれ?」


 そこでセレネは異変に気がついた。ミラノは気を失っているようだが、その胸にはかすり傷一つ付いていない。その代わり、何か得体の知れない、重油のような黒い物体がミラノの背中から湧き出し、ベッドの上からべちゃりとこぼれ落ちた。


「グァァアァァァアァアァァアアァッッ!!」

「ひえっ!?」


 猛獣の断末魔のような奇声にセレネは肝を潰し、バランスを崩してミラノの上から転げ落ち、絨毯の上に尻餅をついた。


「ウガッ! ガアアアッ!? ガギャアアァッ!」

「えっ? えっ?」


 尻の痛みを堪えながら、セレネは手足を動かし後ずさる。人の影のような謎の怪物は、ぐにゃぐにゃと形を変え、耳を覆いたくなるような叫び声でのた打ち回る。


「な、なに!? なになに? なんなのなんなの!?」


 セレネは目の前の超常現象に、ただ目を丸くするだけだ。王子を刺したと思ったら無傷で、代わりに世にもおぞましい化物が現れ、苦しみもがいている。ありのまま今起こったことを整理したが、訳がわからなかった。ただ、何かとんでもない地雷を踏んでしまったことだけは、直感的に理解できた。


「ウ、ウギギ……ギギィ!!」

「ひぇーッ!?」


 腰を抜かしたセレネは逃げる事も出来ず、ただ狼狽するだけだ。だが、セレネの刃を受けた日除蟲は狼狽どころではない。致命傷だ。日除蟲は、己の身体に付けられた刃の傷を掻きむしり、悶え苦しんでいた。


 闇に潜み、人を喰らい、それを糧に成長していく日除蟲は、育ちきってしまえば、竜でもなければ対処できない。逆に言えば、まだ弱い段階であれば、魔力を扱える人間ならなんとか対処出来るということだ。口で言うのは簡単だが、それは困難を極める。


 少しでも自分に向かう敵意を感じ取ると、負の感情に敏感な日除蟲は、即座に別の影に逃げ込み、姿を掻き消してしまう。今回も日除蟲自身を直接狙ったのなら、即座にミラノの体内から逃げ出していただろう。


 だというのに、自分を刺した幼い人間からは、敵意がまるで感じ取れなかった。そのため日除蟲は己の危機を察知できず、宿主であるミラノの体内でのうのうと惰眠を貪っていた。セレネはそこに強烈な不意打ちを喰らわせたのだ。


 魔力以外の物理的な攻撃を受け付けず、発見も極めて困難。一見無敵に見える日除蟲だが、一つだけ弱点がある。


 ――それは、日除蟲自体が『日除蟲』という一つの魔術式であることだ。


 呪詛吐きの呪いの魔力を練りこみ、特別な方法で作り上げたのがこの蟲だ。製法が極めて特殊なだけで、魔力の篭った道具の亜種であることに変わりは無い。


 魔術を無効化する手段として、刻まれている刻印や紋様、魔法陣などを削ってしまうというものがある。一箇所でも崩してしまえば、穴の開いた水筒の如く、そこから魔力が漏れだし使い物にならなくなる!


 日除蟲の顔にあたる部分には、清らかな輝きを放つ、一筋の切り傷が出来ていた。そこから黒い蒸気が漏れ出し、邪悪な蟲はみるみる小さくなっていく。


 もう少し育っていれば、セレネの魔力程度なら簡単に弾いただろうが、不完全な状態で覚醒させられ、脱皮したばかりの幼体では、エルフの至宝――邪悪を祓う神木の魔力を防ぐ事はできない。


「ギギッ!」


 日除蟲は苦痛と怒りに悶えながらも、自らの生存を最優先する。今すぐに何か食わねば消滅してしまう。日除蟲は知覚を研ぎ澄まし、捕食に最適な獲物を探る。付近にいる生命体の中で、もっとも脆弱で(けが)れた魂を持つ者は……セレネだ!


 腰を抜かし、ただ混乱するセレネの影に、日除蟲が最後の力を振り絞って滑り込み、そのままセレネの体内へ侵入する。


「ひぅっ!?」


 セレネは、全身に電流を流されたような衝撃に襲われ、短い悲鳴を一つ上げ、床の上に倒れた。



  ◆◇◆◇◆



「痛っ!」


 頬にちくりとした痛みを感じ、ミラノは意識を取り戻す。ミラノが目を開けると、彼の顔を覗き込むように、赤いリボンを結んだ白黒の鼠が見えた。セレネの飼い鼠だ。どうやらこの鼠が、自分を噛んで起こしてくれたらしい。


「一体何が……」


 ミラノは上半身を起こし、意識を失う直前の記憶を辿る。確か、自分に対し、セレネが鬼気迫る表情で刃を振り下ろした。その直後、体の中に凄まじい衝撃が走り、何か黒い怪物が――。


「そうだ! セレネはっ!?」


 爆発的に意識が覚醒し、ミラノはベッドから跳ね起きた。

 そして彼は、ベッドのすぐ横に、うつ伏せで倒れ伏すセレネの姿を見た。


「セレネっ!? しっかりしろ!」


 ミラノはベッドから弾丸のように飛び出し、倒れたセレネを両手で抱きかかえる。その体はまるで氷のように冷たく、白磁のような薄桃色の肌は、死人のように蒼白になっている。


「……ぁぅ」

「セレネ! 大丈夫か!? セレネッ!」


 ミラノが必死に呼びかけるが、セレネは苦しそうに呻くだけだ。恐らく、あの黒い怪物にやられたのだろう。だが、怪物の姿はどこにも見当たらない。それに、自分の身体から飛び出してきたというのに、ミラノ自身が無傷なのも不可解だ。


 状況把握をしようとするミラノの目に、セレネの首元に掛けられ、ひび割れた神木の笛があることに気がついた。


「まさか……セレネが倒したのか?」


 意識を失う一瞬前、怪物が凄まじい絶叫を上げたことをミラノは覚えている。そこでようやく彼は理解した。セレネは自分を刺そうとしたのではなく、あの怪物を狙って攻撃したのだ。恐怖に震えながらも、自分を助けるために。


「待っていろ! すぐに医者を……!」


 ミラノがセレネを抱きかかえ、ヘリファルテ城に常駐している医師の元へ駆けようとした直後、乱暴にドアが開かれた。


「王子! 一体何事でござるか!?」

「クマハチ!? 何故ここに!?」

「この鼠が異変を知らせに来たのでござる! 他の衛兵たちもすぐに駆けつけるでござる!」


 クマハチの肩には、セレネの飼っていた鼠が乗っていた。その口には、セレネのドレスの切れ端を咥えている。驚いたことに、この賢い鼠は、ミラノがセレネを抱きかかえ狼狽している間、主の危機を他者に伝えて回っていたらしい。


「王子、それで賊は一体何処へ?」

「賊ではない。正体は分からないが、何か恐ろしい怪物だ。だが、それはもう片付いたらしい。セレネが僕を守ってくれた」

「どういうことでござるか? ……って、セ、セレネ殿!?」


 クマハチは、ミラノの腕の中、抱きかかえられているセレネの異変に気が付いた。てっきり不埒な盗賊か何かが現れたと思っていたのだが、どうやら事態は思っている以上に深刻らしい。


 クマハチには状況が完全に把握出来ていないが、セレネが極めて危険な状態である事だけは、火を見るよりも明らかだ。


「セレネ殿! 気を確かに持つでござる!」

「く……ま……」


 セレネが弱弱しくクマハチに首を向けるが、その声は掠れ、今にも消え入りそうだ。それから少しもしないうちに、衛兵と共に医師が駆けつけた。クマハチの肩からいつの間にか消えていた鼠は、医師に対しても異変を知らせていたらしい。


 老齢だが、極めて有能なその医師は、ミラノのベッドにセレネを寝かせ、セレネの服を脱がし触診を開始する。医師の表情は険しい。原因がさっぱり分からない。ただ、セレネの生命力が刻一刻と失われ、時間だけが過ぎていく。


「セレネ、気をしっかり持つんだ。大丈夫、この医師は名医だ。すぐに元気になるぞ! そ、そうだ! 来年の春に、もう一度、百合の花園へ行こう! 次はエルフの皆や、アルエ姫も誘おう。きっと楽しい思い出になる」


 ミラノには、もうセレネが助からないことが何となく理解できた。それでも、セレネを安心させるべく、彼は泣きたくなる気持ちを堪え、笑いかける。それが功を奏したのか、セレネが僅かに反応する。


「ね、さま……?」


 闇に沈んでいく意識の中で、セレネが反応したのは『アルエ』という単語だった。もう殆ど何も見えず、周りの音も、ずっと遠くに聞こえる。混濁する意識の中、王子が薄笑いを浮かべ自分を見下ろし、アルエと呟いたのだけが、うっすらと理解出来た。


「ちくしょう……」


 セレネは悪態をついたが、それはもう言葉になっていない。薄れゆく意識の中、セレネは思う。


 ――畜生、なんでこんな事になってしまったんだ。


 自分が死ぬ時は、沢山の美少女を侍らせ、アルエの胸の中で眠るように息を引き取る。そんな美しい臨終を向かえる人生設計だった。


 だが現実はどうだ。薄笑いを浮かべる王子に抱き寄せられ、熊のような大男と、厳つい兵士が自分を覗き込み、爺さんの医師に体をべたべたと触られている。おっさんカーニバルが開催されていた。何だこれは。こんなことはあってはならない。


「ね……さま、と……いっしょに……」


 姉様と一緒に暮らしたいだけの人生だった。セレネは、欲望に塗れた辞世の句を最後まで言い切ることなく、目を閉じた。その直後、医師がかぶりを振る。


「頼む! 行かないでくれ! セレネ……セレネーっ!」


 今まで堪えていた感情を爆発させ、ミラノは号泣しながら小さな亡骸を抱きしめる。しかし、愛らしいセレネの唇からは、もはや何の言葉も紡がれない。


 こうしてセレネ=アークイラは、8歳(+38歳)という、短いのか長いのかよくわからない中途半端な一生を終えた。

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― 新着の感想 ―
なんだろう…悲しいどころか嬉しいまであるぞ?
[良い点] こんなに笑えるヒロインの臨終シーンはなかなかないなw
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