第29話:白き森のエルフ
「子供? 何でこんな所に一人で?」
森の茂みを掻き分けて現れた二人の青年は、不思議そうにセレネを見た。長い銀髪と赤い瞳もだが、それ以上に特徴的なのは彼らの耳だ。長く尖った耳は人間のそれではなく、彼らがエルフと呼ばれる存在であることは一目で見て取れた。
この世界に生まれてから、竜以外にまともな異種族を見たことが無かったセレネは、ああ、これが噂のエルフか、などと暢気に眺めていた。
青年たちは幼いエルフの少女が、知らない大人を見て怯えていると思ったらしい。セレネを傷つけるつもりはないと言いたいのだろう、手に持っていた木製の弓を背中に回し、ゆっくりとセレネに近づいた。
「お嬢ちゃん、どうしたんだい? こんな所で一人でいると危ないぞ。道に迷ったのか? どこの集落だ? 送ってやろう」
「えーと」
二人組はどうやらセレネを完全にエルフと思い込んでいるらしく、穏やかな声でそう語りかける。だが、後ろにいた片方の青年が眉をひそめた。
「おい、何かこの子、変じゃないか?」
「変って……んん?」
そう言われ、エルフの青年たちはセレネを注視する。確かに、髪の色がエルフにしては白すぎる。彼らはみな銀の髪を持っているが、この少女の髪の色は殆ど純白だ。何より――
「耳が丸い!? お、お前……もしかして人間か!?」
「うん、まあ」
セレネは特に何も考えずそう答えた。瞬間、今まで優しげな表情を浮かべていた青年の態度が急変する。眉間に皺を寄せ、息が掛かるほど顔を近づけセレネに迫る。
「貴様、ボッケンシャーか!? どうやってだ! 白森のこんな奥地まで、一体どうやって入ってきた!? 言え!」
「えと、その、あの……」
食いつかんばかりの勢いで矢継ぎ早に質問されたものだから、セレネはたじろいで後ろに引こうとした。しかし、その動作がいけなかった。逃げようとしていると思われたらしく、興奮したエルフの青年はセレネの腕を強引に引っ張った。
「痛っ!」
セレネが痛みを訴えた直後、腕を掴んでいたエルフが体をくの字型に曲げて後方に吹き飛んだ。後ろに控えていたもう一人のエルフは、突然吹っ飛んだ相棒に気を配る余裕も無く、一体何が起こったのかとセレネに目を向ける。
『貴様ら! 我が主に許可無く触れ、あまつさえ苦痛を与えるとは! 許さんぞっ!』
それは、主を傷つけられたバトラー怒りの体当たりだった。強烈なボディーブローを喰らったエルフの一人は腹を押さえながら何とか立ち上がる。そうして彼らは、純白の少女を守るように立ちふさがる、小さな鼠の存在に気がついたのだ。
バトラーの言葉は彼らには通じないが、全身の体毛を膨らませ、威嚇するように鋭い前歯をむき出す様子から、あの鼠が激怒しているのを理解した。そして、その鼠が、ただの鼠ではないことも。
「ね、鼠? お前、あれにぶっ飛ばされたのか?」
「げほっ! お、俺が聞きたいよ! なんだよアイツ! おかしいだろ!」
「知るか! とにかくあのチビを捕まえるぞ!」
突如現れた謎の人間と獣、エルフにとっては十分に警戒すべき相手だ。バトラーの体当たりを受けていないほうのエルフが後ろに跳んで距離を取り、そのまま弓を構える。
狙いはセレネ。どうやらあの強力な鼠を操る本体と思い込まれたらしい。元日本生まれで平和ボケしていたセレネは、いきなり武器を突きつけられた現状に頭がおいつかず、ただ戸惑うばかりだった。隙だらけのその姿は、エルフにとっては格好の的だ。
そのまま弦を絞り、エルフは矢を撃ち放つ。狙うはセレネの足。いきなり殺してはこの人間の正体が分からず終いだ。情報を集めるため、エルフはまずセレネの機動力を奪おうとした。
エルフの弓の腕は素晴らしかった。解き放たれた矢は、セレネの足を寸分違わず貫く――ことは無かった。セレネの柔らかな足を矢が貫こうとする前、まるで魔法のように矢がへし折れた。
「なっ!?」
エルフは喫驚した。それもそのはず、あの小さな鼠が飛び出し、空中で矢を噛み砕いたのだ。エルフの使っているのは蔦を束ねた木の矢ではあるが、魔力で強化された素材である。それ以前に、空飛ぶ矢を空中でやすやすと受け止め砕く。それはもう、もはや神業と言っていいレベルである。
『貴様ら……今、姫を本気で狙ったな! ならばこのバトラーも本気でいかせてもらおうか!』
バトラーは「カッ!」っと小動物特有の威嚇音を出すと、即座に地面を蹴る。その速度は凄まじく、動体視力に優れたエルフとて容易に捉えられるものではない。バトラーは、熊や狼をも従える武力と、鼠の敏捷性、それに人間以上の知恵を併せ持つ魔獣なのだ。
バトラーは黒い影のように落ち葉の上を駆け抜け、第二の矢を放とうとしていたエルフの足首に、渾身の体当たりをぶちかます。
「ぐわっ!」
足首に強烈な一撃を喰らったエルフは、たまらず地面に転ぶ。即座にバトラーは急ブレーキで方向転換。倒れたエルフの顔面に、再び強烈なタックルを食らわせる。エルフは強烈な脳震盪を起こし、そのまま昏倒した。
「こ、このやろ……ぎゃっ!」
先ほどバトラーに腹を殴られた方のエルフが、腰に差していた短剣を抜き、小鼠に突き立てる。しかし、手負いの者の刃をバトラーが避けられないわけが無い。バトラーは跳躍した。そして手近な木の枝に着地すると、樹上から、獲物に襲い掛かる猛禽の如くエルフの後頭部を狙う。これも直撃し、二人目のエルフは地面にうつ伏せに倒れた。
『姫! この場に残るのは危険です! 逃げますぞ!』
「にげる? ど、どこ!?』
『とにかく、少しでも木の少ない開けた場所を走るしかありません! 殿は私が務めます!』
「わかった!」
セレネはバトラーの鬼気迫る声に押し出されるように、ぱたぱたと白く輝く森を走っていく。開けた場所といっても、正直どこもかしこも木々に埋め尽くされており、セレネはどこに行っていいのかさっぱりわからない。
バトラーの指示通り、比較的走りやすそうな木々の隙間を縫うように走ろうとするが、あたりは真っ白な木々ばかりで、自分がどこにいるのかさえ分からなくなる。
それでもセレネは駆ける。エルフが人間に対し、あまり良い感情を抱いていないことは分かったし、捕まったら何をされるか分かった物ではない。親愛なるアルエ姉様のためにも、自分はここでくたばるわけにはいかないのだ。
「ひぃ、ひぃ!」
『姫、お辛いでしょうが頑張ってください!』
必死さとは裏腹に、セレネの足はもたついていた。セレネは運動嫌いな上に出不精なので、普通の8歳児に輪をかけて体力が無いのだ。さらに言うと、地面は真っ白な落ち葉や、樹木の根っこが所々に出っ張っており、走りづらいことこの上なかった。
「大丈夫か?」
「クソっ! 一体何なんだあいつら!」
セレネが逃げてから大して時間も経たず、エルフの青年達は意識を取り戻した。そして、あの白い少女と鼠が、背を向け走り去っていく姿を視界に捉えた。
「あのチビ、只者じゃない……! 援軍を呼べ!」
「で、でもよ、今、近場に居るのはザナ様じゃ……俺達が勝手に呼んでいい方じゃないだろ」
「仕方ないだろ! 逃がすわけにはいかない!」
エルフの青年達は舌打ちした。姿形があどけない少女だったので、完璧に騙されてしまった。人の身でありながら、自分達の住む区域まで平然と入り込み、さらにあんな規格外の獣を使いこなす存在だ。生け捕りは難しいかもしれない。
一瞬だけためらって、エルフの青年たちは胸元から木製の笛を取り出して吹く。ピィー、と甲高い音が周囲に響き、その直後、弓を構えて再びセレネ達の追撃に移行する。
『奴ら、恐らく仲間を呼んだようですな! くっ、どこかに身を隠す場所があれば……』
「はひー!」
セレネは心臓が爆発しそうになりながら、よたよたと走っていた。碌に方角も分からないまま、ひたすらに白き森の中を走り回る。あたりに茂みは沢山あったが、あのエルフ達は、そもそも茂みを掻き分けて出てきたのだ、下手に飛び込んでしまうと、それこそ他の連中と鉢合わせになってしまう危険性がある。
エルフたちも必死だった。セレネとの距離を詰めるだけなら赤子の手を捻るようなものだ。しかし、少女の使役する謎の鼠がそうはさせない。エルフが矢を放てば、その都度体当たりをして矢の軌道を変え、へし折り、噛み千切る。下手をすると咥えた矢を投げ返してくる。
ならば近づいて短剣で、という訳にもいかない。バトラーはそこら中に生える木々を足場に、三角飛びのように縦横無尽に飛び回り威嚇する。それはまるで、意思を持って飛びまわる跳弾のようであり、少女を守る黒い結界であった。
セレネは極めて鈍足であったが、バトラーの驚異はエルフたちも先ほど体験したばかり。先頭を逃げるセレネ、それを追うエルフ、そしてその中間に立ちはだかる戦士。三者の距離は一定のまま、こう着状態だった。
「あんた達! どきなさい!」
その拮抗を破る時がきた。不意に、凛とした声が白森に響く。声質からして少女の物のようだ。二人組のエルフたちの遥か後方に現れたその影は、あまりにも離れすぎているせいで、豆粒くらいにしか見えない。白い外套に身を包んだ娘らしき人影は、遥か彼方から弓を構える。
『援軍か! 何度やっても無駄な事だ!』
バトラーは逃げも隠れもせず、威嚇するようにエルフたちの前の地面に四肢を踏ん張る。エルフの青年達はバトラーの姿を見て怯んだが。後方の少女は特に気にする様子も無く、ゆるりとした動作で矢を射る。
『(ほう、随分と自信があるのだな)』
先ほどの笛で呼ばれたばかりで状況が分からないのだろうか。彼方から解き放たれた矢は、失速することなく真っ直ぐに飛ぶ。狙っているのはやはりセレネらしい。だが、それは無駄な事。セレネの執事たる自分がいる限り、この程度の矢など何百本でもへし折ってやる。長い距離を飛ぶ矢に対し、バトラーは先ほどと同じ要領で矢を捕え、噛み千切ろうとする。
「緩め」
少女が短くそう呟いた瞬間、突然矢がぐにゃりと緩み、まるで紐のようになる。そう、彼女の狙いは最初からバトラーだ。少女を狙えばバトラーは必ず妨害する。そこを突いた。
『何だとっ!?』
急にたわんだ矢に対し、バトラーの目測がずれ、鋭い牙は空を切る。
「縛れ」
直後、少女が手を握るような動作をすると、今度は緩んだ矢が、まるで生きている蛇のようにバトラーに巻きつき、彼を拘束する。バトラーは全身をがんじがらめに拘束され、ぽとりと地面に落下した。
『ぐっ! 面妖な! これは蔦か!?』
バトラーは身をよじって何とか逃れようとするが、がっちりと戒められた頑丈な蔓は、彼の力を持ってしてもびくともしない。どうやら先ほど放たれたのは矢ではなく、何らかの手段で棒状に固定された蔦だったらしい。そして、それが彼女の手で制御可能だということも瞬時に理解したが、時既に遅し。
「バトラー!?」
『姫! 私に構わずお逃げくだされ! ここは私が引き受けます!』
バトラーは絶叫した。いくらバトラーが強力な魔獣とはいえ、こうして動きを封じられてしまえばただの鼠に過ぎない。それでも彼は、主人を守るため最後まで戦うつもりだった。彼がここにいる限り、一秒でもセレネのために気を引ける可能性があるのだから。
「いやだ!」
しかしセレネは引かなかった。セレネにとってバトラーは、この世界でまともに喋れる大事な友人だった。セレネは生前、誰も友達が居なかったので、動物や植物相手に一人でぶつぶつ喋るちょっとアレな人だった。だから、一方通行だった動物と会話できたときは本当に嬉しかった。
セレネは気難しい変態であることは間違いないが、自分が気に入った存在に対しては惜しみない愛を注ぐ人間だった。それは鼠であるバトラーに対しても変わらない。そしてバトラーよりもアルエを愛し、人間の男はどうでもよかった。
「なめやがってェ!」
セレネはそこらへんに落ちていた棒切れを二本拾うと、片方ずつ持って二刀流になった。セレネはただの脆弱な八歳の少女ではない。その美しく可憐な体には、荒ぶる中年男性の魂を秘めている。正直微妙だが、とりあえず八歳の幼女よりはなんぼか闘争心があった。
「うおーーーーっ!」
セレネは両腕で滅茶苦茶に棒を振り回しながら、エルフの青年たちに殴りかかっていった。今まで後ろを向いて逃げ回っていた少女が、いきなり襲い掛かってきたものだから、エルフ達はさすがに面食らった。
『姫! おやめくだされ! 私の事はかまいません!』
「うおーーーーっ!」
しかしセレネは止まらない。セレネは頭に血が昇ると、後先考えず行動し、事が終わった後に後悔するタイプの人間だった。エルフ達はすぐに我に帰り弓を構える。そして再び、無慈悲に矢が解き放たれる。今度はバトラーはいない。居るのは無策で突っ込むセレネのみだ。
「ぎゃっ!?」
セレネの悲鳴が木霊する。セレネは両手に棒を持ち、前しか見ないで走っていたものだから、地面に生えていた根っこに足を取られすっ転んだ。そのお陰でエルフの矢は空を切り、後ろの木々に突き刺さった。
「回避された!?」
エルフ達は驚愕する。あのタイミングなら絶対に捕えたはず。それを、あの少女は伏せることで瞬時に回避したのだ。やはり鼠だけではなく、あの少女も警戒すべきだ。エルフたちの警戒心はまた跳ね上がる。
しかし、セレネは突っ伏したまま動かなかった。両手に棒を持っていたため受身が取れず、思い切り顔面を強打し気絶していたので。エルフの青年達はセレネの奇行にどうしていいか分からず固まった。
「な、なあ……あいつ、気絶してないか?」
「いや、気をつけろ。俺たちを油断させる罠かもしれん」
エルフの青年達は警戒を解かず、少しずつ距離を詰める。バトラーは地面で転がっているだけで完全に無力化されているので、今はセレネのみに注意を払っていた。
『姫! 大丈夫ですか! 姫っ!』
バトラーは必死にセレネに呼びかけるが、セレネの意識は戻らない。
エルフの青年たちはセレネを弓の先で突ついたりして様子を窺っていたが、どうやら本当に気を失っていると結論を下した。
「どうする? 捕えるか?」
「いや、こんなボッケンシャーは初めてだ。ここで始末してしまおう」
『待て! 待たぬかっっ!! 頼む! 待ってくれっ!』
バトラーがいくら叫んでも、鼠がきぃきぃ鳴いているようにしか聞こえない。エルフの青年達は無慈悲にも短刀を取り出した。目を閉じたセレネは人間とはいえ幼い少女で、エルフたちも罪悪感に駆られたが、危険は排除せねばならない。
「ちょっと待ったぁ!」
エルフの青年がセレネの首元に刃を当てたとき、後ろから声が響いた。青年たちが後ろを振り向くと、そこには先ほど弓を放ったエルフの少女が立っていた。
銀髪を後ろで束ね、赤い瞳、長い耳を持っている点は変わりないが、青年たちよりも頭一つ分も背の低い、どこか幼さを残した少女だった。
「ザナ様、しかし、ボッケンシャーは始末せねば」
「その子、ボッケンシャーじゃないわよ」
「え?」
エルフの青年が呆けたように返答すると。ザナと呼ばれた少女はやれやれ、と肩をすくめた。
「だってその子、なんにも荷物持ってないじゃない。ボッケンシャーならもっと大荷物なはずよ」
「そう言われてみれば……」
エルフの青年達は改めてセレネを見る。彼女は真っ白なドレスに身を包み、それ以外は何も持っていない。人間達の服装についてあまり詳しくないエルフたちだったが、どうみても森の中に入る格好ではないことくらいは判断できる。
「しかし、この娘がここに居たのは事実です。ボッケンシャーでないなら、何故こんな場所にいたのです? しかも奇妙な鼠を連れていたのですよ」
「ああ、あのネズミ君か。さすがにあれは驚いたわねぇ。笛が聞こえて来てみて、あんまり小さいから、最初あんたたちが空気と戦ってるのかと思ったわ」
『ネズミ君ではない! セレネ姫の執事、バトラーであるぞ!』
「あ、怒った? ごめんねぇ」
ザナと呼ばれた少女は、悪びれない様子でバトラーに笑いかけた。屈託の無い笑顔だが、バトラーにとってはセレネの命を握っている敵なのだ、縛られたまま威嚇するように牙を剥く。
「確かにそのネズミ君も、この人間の子も普通じゃないわね」
「どうします? やはり処分しますか?」
「んー……」
ザナは腕を組んで考えるような素振りを見せると、セレネの顔を覗き込んだ。ただ黙って寝ていればセレネは傾国の美姫である。ザナも、セレネの幼いながらも完成された美貌に驚いた。
「よし! じゃあ、族長のところに連れてって、判断を仰ぎましょ」
「族長……ギィ様のところですか?」
「そ、あたしはこの子運ぶから。あんた達はそのネズミ君お願いね」
「し、しかし危険では? 我々がその子供を運んだ方が……」
エルフ達はザナに提案する。エルフたちからしてみれば、バトラーを自在に操るセレネこそが異能者であり、注意すべき存在だと考えていたからだ。それに、バトラーはザナの力によって拘束されているのだから、そちらを運んだ方が安全なはずだ。
「へーきへーき! それにこの子、悪い子じゃないわ」
「何故、そんな事が言えるのですか」
「だって……」
そう言って、ザナは周りが止めるのも聞かず、セレネの小さな体を抱きかかえた。ザナも華奢ではあるが、常日頃体を動かしているエルフたちにとって、セレネの体は羽のように軽かった。
「この子、花の香りがするもの」
ザナはセレネの絹糸のような白い髪に顔を埋め、顔をほころばせた。自然に近いエルフたちにとって、セレネから発する草花の香りは、警戒心を解くのに一役買っていた。
その草花の香りは、セレネの怒りの七転八倒のせいでこびりついていたということは、エルフにとってもセレネにとっても、知らぬが花だった。