第28話:竜殺しの姫
『下等な人間ごときが我を騙すとは……許さんぞ! 我が血肉となり、胃袋の中で悔いるがよい!』
怒り猛る赤竜は、セレネを食い殺そうと牙を剥いた。口の中には岩石のような牙がずらりと並び、柔らかなセレネの肉など、マシュマロよりも簡単に噛み千切ってしまうだろう。
「ひえー!」
竜に鷲づかみにされたセレネは情けない悲鳴を上げた。こうして対峙した竜の迫力は凄まじく、とても「あんたが勝手に間違えたんでしょ」とは言えない雰囲気だった。ましてセレネは口が回らない上に頭も回らないので、激昂した相手を宥める術など持っていないのだ。
『お待ちくだされ!』
竜の顎がセレネに歯を立てる直前、大きな声が空に響いた。思わず竜が動きを止めて目を凝らすと、いつの間にか白い少女の頭の上に小さな獣――先ほどバトラーと名乗った鼠が乗っているのが見えた。
『鼠め。貴様のような矮小な生物が、我に歯向かうとでも言うのか?』
『とんでもございません。むしろ我らのような卑賤な者が赤竜様の血肉になれるのなら、光栄と考えているほどでございます』
「えっ!?」
『しっ! ここは私にお任せを』
さすがに食われるのはちょっと、と抗議しかけたセレネに対し、バトラーは小声で囁いた。バトラーは首元の赤いリボンを整えると、二本足で立ち上がり、竜に対し優雅に敬礼をした。
『なかなか聞き分けの良い態度だ。ならば大人しく我が糧になるがよい。特に、小娘のほうはなかなかに美味そうではないか』
『そう、そこが重要なのです。赤竜様、我々を食べる前に一つ、とっておきの情報があるのですが、お伝えさせていただいてよろしいでしょうか』
バトラーは両前足をすり合わせ、媚びるように赤竜に問う。赤竜もバトラーの紳士的な態度と、話す内容に少し興味を惹かれたらしく、一呼吸置いて問い返す。
『とっておきの情報とは何だ? しょせん、貴様のような小物の持つ情報だ。大したものではないだろう』
『赤竜様、それは大きな認識違いでございます。小物であるが故に知恵を持つということも大いにあるのです。弱いものが生き残るためには、足りない力を補う何かが必要なのですからな』
『ふむ……だが、それは我にとって有益な情報なのか?』
『勿論でございます! 偉大なる赤竜様の力に、我らの持つ知恵が合わされば、まさに最強の力と最高の知性を持つ、世界最強の生物となることは間違いありません』
『世界最強……か』
そう呟き、竜は沈黙した。竜はこの世界における最強の存在だが、それは彼らの持つ魔力と武力が尋常ではないからだ。ゆえに彼らは頭を使って交渉する必要が無い。竜に対する情報は少ないが、バトラーはそう値踏みし賭けに出た。
この難局を乗り越えなければ、彼の敬愛するセレネ姫はまず助からないだろう。バトラーは極度の緊張感からくる震えをこらえ、外見上は余裕たっぷりの表情で赤竜の答えを待った。
『いいだろう。お前の発言を許可する』
『ははーっ! ありがとうございます!』
喰らいついた。バトラーはセレネの髪の上で平伏の姿勢を取りながら、内心でガッツポーズを取る。本当はセレネの頭上にいること自体、許されざる無礼な行為だが、今は主人を守るため苦汁の決断をせざるを得ない。
同時に、黙って自分を信じて無礼を許してくれているセレネのため、絶対に交渉を成功させてみせる。そう固く決意し、バトラーは勇気を奮わせた。単にセレネは緊張で固まっていただけなのだが。
『さて、私の持つ情報でございますが、それはこの娘――セレネ姫の能力についてでございます』
『この小娘の能力だと? 単なるエルフもどきではないのか?』
『とんでもない! ただの小娘などではございませぬ。この姫こそ、人類史上最高の姫であり、竜殺しの能力を持つ、現世でただ一人の人間なのです!』
「…………ぇ?」
自分の知らない自分の設定が出てきたので、セレネは困惑して首を傾げた。だが、バトラーが熱弁しているので、ここは彼に任せたほうがよいと黙っていた。いくらセレネが空気を読めない人間でも、さすがに自分の命が掛かっている時くらいは真剣になる。
『竜殺しだと? そんな脆弱な娘に、竜を屠る力があるものか。馬鹿なことを言うな』
『確かに、セレネ姫自身は可憐かつ貞淑な少女に過ぎません。彼女の能力は、その血と肉そのものでございます。この少女の外見が他の人間と違うのも、その現れでございます』
『……どういうことだ?』
竜が疑問を呈すると、バトラーはあえてもったいぶった態度を取り、コホン、と一言咳払いをして続ける。
『セレネ姫は、他の人間とは違った姿をしております。竜に対抗するために編み出した禁術により、姿を変えられてしまった者の末裔だからでございます。彼女の一族は全て喰らい尽くされ、セレネ姫だけが、現存する最後の一人なのです』
『竜を殺す毒だと? そんな話、竜である我ですら聞いたことがないぞ』
『それは当然でございます。見ての通り、セレネ姫は大変に美味しそうに見える肉体を持っています。それこそ人間の思う壺。美しく作り上げることで、意図的に竜に食べさせようというわけですな。そうしてセレネ姫の血族はみな食い尽くされ、竜たちはその場で全て死んでしまったのです。だから他の竜に伝わるはずはありません。つまり、証拠が無いのが証拠、というわけでございますな』
『むぅ……』
もちろんバトラーの言っている言葉は全て大嘘、今この場ででっち上げた空想の話である。セレネは無害な乙女――でもないが、精神面と魔力を保持している点を除けば、肉体的にはごく普通の女の子である。しかし、バトラーの熱演は止まらない。
『それでも赤竜様はセレネ姫を――この竜殺しの娘を喰らおうというのですか? 試してみても構いませぬが、このバトラー、忠告は致しましたぞ』
『う、うぬぬ……!』
竜はセレネを凝視する。鼠の言っていることが嘘である可能性は高いが、万が一、本当だったらどうしよう。その躊躇いを見逃すバトラーではない。ここぞとばかりにバトラーは竜にたたみ掛ける。
『そこで赤竜様、私から提案がございます。いっそのこと、この娘を武器として使ってはどうでしょう?』
『武器? どういうことだ?』
赤竜は既に反射的に返事をしている。流れをこちらにたぐり寄せた喜びを押し隠しつつ、バトラーは名案を思いついた、とばかりに言葉を紡いでいく。
『赤竜様は確かに地上最高の存在でございます。ですが、竜同士の争いというものもあるのではございませぬか?』
『我と同格の存在なら確かにいる。我らは群れを作り生活をしているからな』
『そうでしょうそうでしょう。ならば、その群れの中で諍いが起こったときの切り札として、この娘を使ってはどうでしょう、というわけです。いわば暗殺用の毒というわけですな』
『なるほど……』
バトラーの嘘八百をすっかり信じ込んだ竜は、あまり良くない頭を回転させる。蟻から見れば人間は巨人というべき存在だろうが、人間の中にも、歴戦の猛者からよちよち歩きの赤ん坊がいるように、竜にもかなりの個体差がある。
そして実はこの竜は、群れの中ではかなり下位に属する存在だった。セレネ達は知る由もないが、今まで大陸中の空を飛びまわっていたのも、身体を鍛えるためのランニング――もといフライングをしていただけである。そこで偶然セレネを見つけたわけだ。
そして鼠いわく、この人間の幼子は、竜に対する猛毒を持っているらしい。ならば、この娘は自分の権力争いにおいて強力な武器となりえるのではないか。
竜の妄想はさらに膨らんでいく。群れの順位争いにおいて、正攻法で勝負を挑めば自分はまず力負けしてしまう。だが、上質な獲物を狩ってきたと称し、上位の連中にこの娘を差し出したらどうだろう。きっと奴等は我先にと喰らいつくだろう。そして、自分を馬鹿にしていた連中は悶絶して死んでいくのだ。
『ぬふふ……』
竜はそこまで考えて、邪な妄想を終わらせた。この鼠の言っていることが嘘なら、普通に群れの上位者に獲物を献上した事にすればいいし、成功すれば殺害可能なのだ。少なくとも試してみる価値はある。
『いいだろう。貴様たちを竜峰へ連れていく。それまでは生かしておいてやろう』
『申し上げにくいのですが……この提案には、実は一つだけ大きな問題があるのです』
『問題とはなんだ?』
もう完全にバトラーの虚言を信じ始めた赤竜は、物語の先を知りたがる子供のようにバトラーを促した。バトラーは過剰なまでに項垂れ、実に残念そうに答える。
『見ての通り、セレネ姫まだほんの子供でございます。果物の種がそのままでは食べられないように、完全に育ちきらなければ竜殺しの能力を発揮する事は出来ないのです。せいぜい腹を下す程度でしょうな』
『では、どうすればよいのだ?』
『簡単にございます。セレネ姫が立派に育つまで見守ればよいのです。出来れば熟した果実のように、しわしわになるまで待つのが理想ですな』
『それまでにどのくらいかかる? 我はあまり人間の寿命に詳しくないのでな』
『そうですなぁ、五十、八十……いや、万全を期すれば、百年ほど掛かるでしょうな』
『百年か……そこそこ掛かるのだな』
竜は少し残念そうに答えた。蟻が卵から生まれ、成虫になり、寿命を終えるまでの期間をはっきり知る人間があまりいないように、竜にとって人間の一生という物は何となくでしか把握していなかったので、そういうものなのかと納得した。当たり前だが、百年経てばセレネもバトラーもとっくに墓の下である。
『失礼でございますが、赤竜様の御歳はおいくつでございましょう?』
『四千までは数えていたが、それ以降は覚えておらん』
『ならば、百年程度待つのに問題はないでしょう』
『しかし、百年というのは少々長い気が……』
『いや、むしろそのくらい待つべきなのです。偉大な存在という物は、目の前の利益に飛びつかず、大局を見据え、悠然と構えているものではございませんか。まして、この世界で最高の存在である赤竜様がそれをしないとは、この私には信じられませんな』
バトラーが自信たっぷりにそう言うと、赤竜の中に「そう言われてみると、ゆっくりやった方が格好いいかもしれない」という思考が芽生え始める。特に後半の「本当の大物は悠然と構えるべき」という部分が引っかかったらしい。
もちろんバトラーは赤竜のプライドの高さを見越し、あえてそういう言い回しにしたわけだが、普段群れの中であまり褒められることのない竜にとって、バトラーの恭しい態度は実に耳に心地良いものだった。
『……いいだろう。そのセレネとかいう小娘に、百年後、我の踏み台となる権利をやろう』
『ありがたき幸せにございます。百年後、偉大なる赤竜様は、驚くべき結果を見ることになるでしょう』
『ふふふ、なかなか殊勝な心構えだ。気に入ったぞ』
『ありがたきお言葉にございます』
バトラーは驚くべき結果と言っただけで、別にお前にとって良い結果になるとは一言も言っていないのだが、竜はすっかり上機嫌で鼻から蒸気を噴出させた。
『そうと決まれば早速、セレネ姫を人間の元へ戻すべきです』
『我の手元に置くわけにはいかんのか?』
『とんでもない! セレネ姫は、赤竜様にとって切り札となる存在でございます。なるべく他の竜に見せぬよう隠して育てるべきです。木を隠すなら森の中、人を隠すには人の中が最適でございます』
『なるほど……お前はなかなか賢いな』
バトラーの口からでまかせを完全に信じきった赤竜は、鷹揚に頷いた。
『だが、そうもいかん。いくら我が史上最高の竜であっても、今日は既に、大陸の南端まで飛んでいるのでな。それに我ほどの偉大な者が、そう何度も人間達の前に姿を晒すのも好ましくはない』
要約すると、「今日はいっぱい動いて疲れてるし、すぐに『間違っちゃったぜ☆』とセレネを返しにいくのはカッコ悪いから嫌だ」という事である。勿論バトラーは気付いていたが、そこに突っ込むほど野暮ではない。
『然様でございますか。私としては、赤竜様の栄光のために一刻を惜しんで尽力したいのですが、仕方がありませんな』
あくまで自分達が帰りたいのは赤竜のためという大義名分を崩さず、バトラーは言葉を選びそう答えた。本当なら今すぐにでも安全圏へと戻りたいのだが、この辺りが切り上げ時だろう。バトラーがそう考えている間に、赤竜は白森の中で、比較的木々の少ない空間を見つけ、舞い降りた。そしてセレネとバトラーを大事な物を扱うようにそっと地面に下ろした。
『明日の朝までここで待つがよい。我は今から巣に戻り、体力を回復させてくる。明日の日の出と共に、再びここに戻ってくる。その時に、お前たちが住む場所に送り届けてやろう』
『ありがとうございます』
「ありがと」
勝手に連れてこられてなんで礼を言わなきゃならんのだ。セレネは釈然としなかったが、赤竜相手に文句を言うわけにもいかず、しぶしぶお礼を言った。それを見届けると、赤竜はその大きな翼を羽ばたかせ、北の山脈を目掛け飛び去った。
『やれやれ、何とか切り抜けられましたな……姫、卑賤な者などと称してしまい、まことに申し訳ございません』
「バトラー」
『は、はい!』
セレネは、頭の上に乗っていたバトラーを両手で包み込んだ。セレネの柔らかな掌の上で、バトラーは主の言葉を緊張した面持ちで待つ。誇り高い鼠の執事――バトラーが従うのはセレネ姫ただ一人。その姫から叱責の言葉を受けることは、彼にとって竜の何万倍も恐ろしい。
「ぐっじょぶ!」
『は?』
ぐっじょぶ、の意味がいまいち分からないが。セレネはバトラーを片手に移し、柔らかな笑みと共に親指を立てた。そしてすぐにバトラーの滑らかな毛皮をわしわしと撫でる。これはバトラーにとって、最大級の賛辞であった。
『お叱りにならないのですか? 私は姫を貶め、姫の命を賭けに使ったのですぞ?』
「気にしない。バトラー、いいしごと」
セレネは喜色満面だ。もともとセレネに姫のプライドなど皆無だし、あのまま食われると思っていたのに、それを見事に回避。それどころか、何とかして使えないかと思い悩んでいた竜に対し、コネを作ることに成功したのだ。上手く利用できれば対王子用の最終決戦兵器となりうる竜をだ。
『ありがたきお言葉。このバトラー、光栄の極みにございます』
「こんど、バッタ、あげる」
『なんと!? 本当でございますか!? ああ、身に余る勲章でございます!』
セレネの手の平の上でバトラーは狂喜乱舞した。バトラーにとって、セレネから直接与えられる食物一つ一つが命の糧であり宝物なのだ。その中でも、セレネが直接捕まえてくれる生きたバッタは至福のごちそうである。セレネにとっては暇つぶしの昆虫採集のついでなのだが、バトラーは能力の割に維持コストが安いのだ。
『姫、お怪我はありませぬか? それに体調のほうはいかがでしょう? ここは魔力に満ちた森とのことですが、お変わりはありませぬか?』
「へいき、バトラーは?」
『私も問題ないようです。姫から与えられたお力のお陰でございますな』
普通の人間なら魔力中毒とでも言うべき体調不良を起こしてしまうのだが、セレネもバトラーも魔力を保持していたため、白森の中でも特に行動に支障はないようだった。
『姫、明日の朝までここで待機せねばなりませぬ。ここは我らにとって未開の土地でございます。くれぐれもご注意くだされ』
「あいよ」
バトラーの警告を聞き流し、セレネは降り立った白森の光景に目を奪われていた。雪に埋もれた森のような純白に染まる風景でありながら、よく見ると、木々の木の葉一枚一枚に生命の息吹が満ちているという、地球では見られない幻想的な景色にセレネはすっかり魅了され、無言で突っ立っていた。セレネは一難が去ると、前のことをすぐに頭の片隅に追いやる人間なのだ。
そうとは知らないバトラーは、見たことのない景色に圧倒され、押し黙ってしまった姫の不安を取り除こうとセレネの肩に飛び乗り、穏やかな声で囁いた。
『姫、ご安心くだされ。いかなる敵が来ようとも、このバトラー、命に換えてでもお守り致しますぞ』
「よろしく」
セレネは適当に相槌を打つと、いい感じの倒木を椅子代わりに腰を下ろした。明日の朝には赤竜がやってきて自分達を回収してくれるのだ、さっきは全然余裕が無かったが、帰りは空中散歩を楽しめるかもしれないなどと、セレネは持ち前の生ぬるい楽観思考を思う存分発揮していた。
そうして明日の朝までの間、ぼんやりと時間を過ごす事にした。セレネはただ無為に時間を浪費することにかけては天賦の才を持っているのだ。
バトラーもセレネの脇にちょこんと腰を下ろし、辺りを警戒しながらも、今まで見たことの無い不可思議な景色に見惚れていた。しばらくの間、二人は黙って倒木の上に座り込んでいたが、不意にバトラーが耳と尻尾をぴんと立てた。
『姫、何者かが近づいてくる気配を感じます。警戒を!』
「なにもの?」
セレネが相変わらずぼけっとしていると、不意に木々がざわめく音が風に乗って聞こえてきたので、さすがのセレネも音の方向に目を向け身構える。
「おっかしーな? さっき、この辺に竜が降りてた気がするんだけど」
「こんな所に竜が来るわけないだろ……って、誰かいるぞ?」
「あ、本当だ。どっかの集落の迷子か?」
セレネとバトラーの前に現れたのは、長い銀髪を後ろで縛った、赤い瞳、それに長い耳を持った、二人組のエルフの青年たちだった。