第25話:百合の花園
セレネの道場破り――もとい大学破りから二週間が経過し、マリーとの乱闘でボロボロになったドレスが修復されるのと同時進行で、セレネとミラノの関係も、表向きは平穏を取り戻した。
ミラノと仲良く昼を過ごすセレネが、ここ最近姿を見せなかった理由を兵士たちは知らず、セレネが体調を崩しているのだと思い込んでいた。なのでセレネが久々に姿を表すと、皆が心から祝福し、その和やかな雰囲気に便乗し、どさくさに紛れてクマハチは兵士達に多少きつめの訓練を強いたりしていた。
「王子、あげる」
「ああ、いつも済まないな」
いつの間にかミラノとセレネの休憩場所と決まった木陰の下に二人で座り、ミラノの傍ら、セレネはパンにナイフで切れ目を入れ、肉と野菜を大量に挟んだサンドイッチを取り出した。
「これ、食べやすい、よ?」
「では頂こう」
まだ完全に機嫌を直していないだろうが、それでもこうして食事を用意し、さらに修練の邪魔にならないよう、短時間で食べられる物を用意してくれるセレネに対し、ミラノは何とも満ち足りた気持ちになった。セレネとしては、いちいち料理を小分けに作るのが面倒になったので、全部纏めて食わせるという効率化を狙っただけなのだが。
ミラノはセレネの用意した、やたらボリュームのあるサンドイッチを平らげると、満足げに目を細めた。久々に味わうセレネの料理が美味かったのもあるが、そろそろ用意していた準備が終わるのだ。今度は自分がセレネを喜ばせてやることが出来る。そう思いながら、ミラノは口を開く。
「実は、セレネに少し頼みたいことがあってな」
「なに? ごはん?」
「違う。今度の週末から数日間出かけようと思うのだが、それにセレネも同伴して欲しいのだ」
「ぇー……」
セレネは露骨に嫌そうな顔をしたが、ミラノはまるで意に介していない。セレネとしては断りたかったのだが、下手に王子の機嫌を損ねるのはあまり賢い選択肢では無いし、なるべくなら自分が監視できる位置にいた方が良いだろう。そう判断し、ミラノの意図を探ろうとする。
「どこ? ばるべーる?」
「いや、今回はただの物見遊山さ。だが、お前もきっと気に入ると思うぞ」
ミラノは白い歯を輝かせ、腹立たしいほど爽やかな笑みをセレネに投げ掛けた。通常の女性なら頬を赤らめていただろうが、セレネは若干イラっとしただけだった。
セレネがあまり外に出たがらず、単なる外出で喜ぶことは無いのはミラノも理解していたが、今はセレネを驚かすために黙っていなければならない。ミラノにとってその感覚がもどかしくもあり、同時に楽しみでもあった。自分のプレゼントに対し、セレネは一体どんな反応をするだろうか、彼にしては珍しく、子供っぽい悪戯心が湧いていた。
そうして週末になると、やたらと上機嫌なミラノと対照的に、テンションだだ下がりのセレネは再びドナドナされることになった。アークイラのドナドナと違うのは、セレネ用の馬車が用意されていたことだ。完全にセレネ個人のために作られた、全体的に丸みを帯びた白い馬車で、とても柔らかい雰囲気を醸し出している。外を覗くことができる小窓が横脇に付けられているが、日差しにあまり強くないセレネのために、全面に遮光カーテンも引かれていた。
内装もとても馬車とは思えないほど凝っており、ヘリファルテの高級宿に負けない豪奢な作りだ。肌触りの良い絨毯に、小型のベッドまで敷き詰められている。とはいえ、汚いドナドナが綺麗なドナドナになっても荷馬車に乗せて売られていくことは変わらないので、セレネはベッドがある以外、特に何とも思わなかったのだが。
今回の旅行とやらには、ヴァルベールに向かった顔見知りの従者に加え、護衛役としてクマハチも付いてくるらしい。当然、いつもの如くバトラーもこっそり乗り込んでいるので、馬車の中でセレネはバトラーに話しかけた。
「バトラー、たび、知ってる?」
『行き先でござますか? いや、生憎私も存じ上げませんな』
「そっか」
本当はバトラーは行き先を知っていたが、ミラノ達の目論見を既に知っていたので、主を喜ばせるために敢えて知らないふりをしていた。そのまま三日間ほど馬車に揺られていたセレネだったが、ついに我慢できず、クマハチに尋ねることにした。
「クマ、クマ」
「ん? どうしたでござる?」
セレネは馬車の窓枠から顔を出し、馬車の横にぴったりと寄り添う、馬に跨ったクマハチに声を掛けた。
「これ、どこ、行く?」
「北に向かっているのでござる」
「北? なんで?」
「さあ、それは王子のみ知る、でござるよ」
クマハチはおどけたようにそう答えたが、逆にセレネの表情は曇った。以前、クマハチの説明で、大陸の北側は人間があまり立ち寄れない場所だと言っていた。先日、マリーをなぎ倒して大学へ殴りこんだことに激怒した王子が、旅行と称し、自分を危険な森に捨てに行くのではないか。自分の立場から言っても、そうされても全くおかしくない。
セレネが不安にしていることを察したクマハチは、馬の横腹を蹴り、前に進んでいるミラノの馬車へと近づいていった。
「王子、そろそろ告げてもよいのでは? セレネ殿、大分不安がっているようでござる」
「確かに、あまり引き伸ばすのも可哀想だな。一度馬車を止めてくれ」
ミラノが御者に馬車を止めるよう指示すると、後ろに追従していたセレネの馬車も同時に止まる。ミラノはそのまま自分の馬車から降り、セレネの馬車へと足をかけ、乗り込んだ。突然の王子の侵入にセレネは思わず身構えたが、ミラノは警戒を解くように笑みを浮かべた。
「セレネ、今向かっている場所は怖い場所ではない。そんなに身構えるな」
「うそだ!」
ミラノに対する信頼感ゼロなセレネは、速攻で王子の言葉を否定した。そもそも、こいつのせいでアークイラの楽園を追放されたのだ。ヴァルベールに連行された時も、良かったことは軟骨のからあげが食えたことと、エンテ姫に出会えたくらいだ。ミラノは肩をすくめながら、毛を逆立てる子猫をあやすように説明する。
「今向かっている場所は、『百合の花園』だ」
「……ゆりのはなぞの!?」
セレネの緊張した面持ちが、急にきょとんとした表情に変化するのを見て、ミラノは思わず噴き出しそうになった。疑っていたわけではなかったが、セレネにとって百合という言葉が、ここまで効果てきめんだとは思わなかったのだ。
「ああ、大陸の北側、白森のすぐ手前に、それは見事な百合の花園があるのだ。その美しさは、まるで楽園と見間違える程らしいぞ。セレネにはヴァルベールで貢献してもらったし、日ごろの礼と、気晴らしの小旅行をと思ってな」
「ゆり、らくえん……」
セレネはミラノの言葉を反芻するように呟くと。ぱっと表情を輝かせた。セレネがほくそ笑む――他者から見ると柔らかく微笑んでいるのを見たことは多々あったが、こんなに晴れやかに笑うセレネの顔を見たのは、ミラノもクマハチも初めてだった。
「ばんざーい!」
「ば、ばんざーい?」
馬車のベッドの上で、セレネが幌の天井に手が付くほどに飛び上がって万歳をすると、思わずミラノと、外から覗いていたクマハチも釣られて万歳をしてしまった。そのくらいセレネは喜色満面であった。セレネにとって『百合の花園』という言葉は劇薬なのだ。
セレネの脳内辞書はだいたいの場合において、卑猥な単語を優先する傾向がある。たとえば『ちち』という単語をセレネ辞書に打ち込むと、『父』ではなく『乳』のほうが変換候補の上位に現れるのだ。なので、百合といえば女性同士の百合が優先されるのは、セレネにとっては至極当たり前であった。
その日を境に、セレネは急速に機嫌を直していった。今までも、物憂げに頬杖を突く姿は深窓の令嬢というべき静かな美しさがあったが、今のセレネは全身から生命力があふれ出んばかりで、まるで春の訪れに舞い喜ぶ蝶のようであった。
ミラノの言う『百合の花園』は、ヘリファルテの王都からかなり北上、白森に極めて近い区域にあり、到着まで馬車で一週間ほど掛かるらしい。白森は人間たちにとってほぼ未開の土地であり、その付近を訪れる者は極めて限られているため宿泊施設などはなく、平地で野宿という状態なのだが、セレネは全く文句は言わなかった。
今回はあくまでセレネを喜ばせるための観光目的のため物々しい武装はせず、ミラノ達は最低限の従者を引き連れ、暖かな陽光の中、新緑が芽吹く大地をのんびりと踏みしめていった。
「ゆりのはなぞの♪ ゆりのはなぞの♪」
急ぐ旅ではないので、皆は散歩気分でゆったりと進んでいるのだが、小休止のために馬車を止めるたび、セレネはベッドの上で奇妙なダンスを踊ったり、ぐるぐると回転し、そのまま目を回して吐いたりしていた。
「しかし、ここまで効果があるとは思わなかったな。クマハチ、付き合わせて済まないな」
「なに、拙者もちょうど羽を休めたいと思っていたところでござる。いつも王子のお守りばかりさせられているのだから、たまには美しい姫の護衛も悪くないでござるよ」
ミラノとクマハチは食事係の用意した軽食を食べながら、白いドレスの裾をたなびかせてはしゃぐセレネを眺めていた。そのセレネはというと、にこにこと笑みを浮かべ、息を弾ませながら鼻歌を歌っていた。
「ら、ら~ら、らっき~、らっき~、らっき~す~け~べ~♪」
こんな感じで、セレネは調子っぱずれな口調で、わけの分からない歌を口ずさんでいた。
大陸一の権力者が後宮を持っていないはずがない。少なくともセレネの中では権力者は全員ハーレムを持ち、酒池肉林の宴を開いているという間違った常識があった。
今のセレネは幼女の肉体であり、昔に比べて食べられる量も、力も遥かに劣るがメリットもある。百合の花園に着いたら、女性の肩やマッサージをするふりをして、色々なところを揉んだりできるかもしれない。幼女の体だからこそ出来る離れ業である。
そう、今のセレネは前世と違い、生まれてから死に至るまで、一度も起こらなかった神スキル『ラッキースケベ』を狙って発動させることが可能なのだ!
大陸中を駆け回って嫁を探すような性王子が抱える百合の花園。それは一体どれほど美しい乙女の園なのだろう。勿論、セレネにとっての永遠の天使がアルエであることに変わりは無いが、楽園と呼ばれるほどの美しい光景を見られると思うと、やはり心が弾むものだ。
そんな邪な考えに脳を支配されている今のセレネには、この世の全てが黄金の輝きを放っているように見えた。人はクスリの力に頼らずとも、脳内物質だけでトリップする事が出来るのだ。
そうして再び休憩の時間となると、暴れ疲れたセレネは馬車から出て、新鮮な空気を吸おうと草むらにごろりと横たわった。そのまま、真紅の瞳でどこまでも澄み渡る青空を眺めていると、毎度おなじみの赤竜が、ゆったりと空を飛んでいくのが見えた。
正直な話、セレネとしては竜はもうどうでもいい存在だった。最初に見たときは衝撃だったが、何回も見ていれば飽きる。コアラやパンダを見て楽しいのは、動物園という限られた場所でしか見られないレアな動物だからであって、もう何度も目にした世界の支配者は、今のセレネにとって、カラスやトンビと同程度の扱いだった。
「おーい! おーい!」
しかし、今日のセレネは一味違う。いつもはスルーしていた赤竜に対し、大声で手を振った。この多幸感を誰かと共感したかったのだ。赤竜は、別段セレネに特別な反応を示すことは無かったが、一瞬だけこちらに目を向け、そのまま空中を旋回し、白森のさらに北――竜峰と呼ばれる場所へ飛び去っていった。
「セレネ、そろそろ出発だ。戻ってこい」
「はーい!」
セレネは不気味なほど素直に従い、大人しく馬車へと乗り込み、ベッドの枕元のウサギのぬいぐるみにボディプレスをする勢いで飛び込んだ。本番のために、今は体力を温存しておかねばならない。ちなみにこのウサギのぬいぐるみは、ミラノが内装ついでに用意させた物だが、もっぱらバトラーのベッド代わりに使用されている。
天候にも恵まれ、大きなトラブルもなく、うららかな日差しの下、ミラノとクマハチ率いるセレネ観光ツアーの面々は、目的地へと順調に足を進めていた。到着まで残り半日を切る頃になると、セレネは唐突に馬車の外が見える場所を全てシーツで覆い隠した。
「どうした? 眩しいでござるか?」
「たのしみ、取っておく」
セレネは弾む声でそう言うと、ベッドの上でわくわくとその時を待ち続けた。基本的にセレネは引きこもりなので、ただ馬車に乗って移動しているだけでも結構疲れたし、セレネはとにかく寝るのが好きな人間だったので、ベッドに潜り込むとすぐに眠りに落ちていった。目が覚めた頃には、きっと素晴らしい景色が広がっているに違いない。そう信じて。
◆◇◆◇◆
そうして到着した場所には、一面を覆いつくす白百合と、それを彩るように多種多様な色合いの花が咲き誇る、それはそれは風光明媚な場所だった。その中心には、磨きぬかれた鏡のように静かな水面を湛える泉があり、ミラノ達は皆、その情景の美しさに言葉を失った。
「おお……これは想像以上でござるな。拙者、草花にあまり興味は無いが、いやはや、これは見事でござる」
「僕も実際に来たのは初めてだが……聞いたとおり。いや、それ以上の場所だ。マリーやアルエ姫も連れてくればよかったな」
人間が管理する庭園ではとても作ることのできない偉大なる自然の美――確かな百合の花園がここにあった。さて、ミラノ達がセレネの方を振り向くと、セレネはまるで石像のように固まっていた。
「…………なに、これ?」
「何と言われても……見ての通り、百合の花園だが」
セレネは放心したようにふらふらと歩いていくと、おもむろに花畑にダイブした。
「うわああああああああああああああああああっっ!!」
そのままセレネは全身草まみれになりながら、七転八倒した。