第24話:桃源郷
「あーっ! そっか、そうだった!」
セレネの好みは百合である、その言葉を聞いたマリーが大声で叫ぶ。
「もしかして知っていたのか」
「うん。あの子、前にそんなことを話してた気がする」
それを聞いた瞬間、ミラノは眉間に皺を寄せた。
「……それを早く言ってくれ」
「しょうがないじゃない。だって、ほんとにちょっと話しただけなんだもん」
「あ、あの、あまり大きな声を出すとセレネが起きてしまいます」
再び険悪なムードに入りそうになるヘリファルテの王子と王女を、アルエが控えめに宥めたので、二人はお互い矛を収めた。
「しかし、百合、か。確かに、セレネは薔薇というより白百合という感じだな」
輝く太陽の下で咲き誇る真紅の薔薇より、月下に清らかに咲き誇る白百合がセレネの雰囲気にはよく似合う。そう思いながら、ミラノ達三人は、清潔に整えられたベッドの上、額に白い包帯を巻いて眠るセレネに視線を向けた。午後の日差しから西日へと変わる前の、穏やかな日差しが窓から差し込み、セレネの薄い胸が吐息によって上下するたび、白い髪がきらきらと輝く。
マリーとの戦いにより限界以上の出力で動き、とどめに顔面を強打したセレネは、ミラノ達の会話にまるで反応することなく、一人、すやすやと眠っていた。こうして大人しく目を閉じ、中身を覗かれない限り、セレネは間違いなく傾国の美姫である。
「では早速。街の花屋に手配し、百合の花束を用意するか」
「ふっふっふ、甘いわね兄さま。パンケーキより甘いわっ」
「……どういうことだ?」
ミラノが首を傾げると、マリーはチッチッと人差し指を得意げに振る。
「いい? 兄さまはヘリファルテの第一王子、聖王子ミラノなのよ? 兄さま、その辺あんまり自覚してないんじゃない?」
「い、いや、お前の言いたい事がよく分からんのだが……」
「だからぁ、そんじょそこらの男じゃ出来ない事をセレネにしてあげてって言ってるの。『百合が好きだから、百合の花束を買いました!』なんて、そこいらの男でも出来るじゃない。100点満点じゃなく、200点を目指すの。ね、アルエ姫もそう思うでしょ?」
「え? わ、私ですか?」
いきなり話題を振られてアルエは目を白黒させたが、少し間を置いて言葉を紡ぐ。
「そうですね。大好きな人から、大好きな物を貰えれば、それだけですごく嬉しいと思います。でも『実はこんなすごい物を用意していたんだ!』って言われたら、もっともっと感動すると思います」
「なるほど……要は好きな物に上乗せで、相乗効果を狙うという訳か」
ミラノは口元に手を当て、真顔でそう答えた。
大陸最高学府である、ヘリファルテ国立大学の入学試験問題をすらすらと解くミラノが、こんな真剣に思索する表情を見たのはマリーですら初めてで、マリーはくすりと笑った。
「話が終わったなら日が暮れる前に帰りましょ。私、今日はいっぱい動いたからおなか空いたわ」
「そうしたいのだが、セレネがな……」
ミラノが再び、ベッドの上に視線を向ける。セレネは図太い神経をフルに発揮し、すぐ横で三人が普通に会話しているのに、まるで気付かず隙だらけで眠りこけていた。
最初は昏倒しているのかと不安だったので、ミラノはセレネを抱きかかえ、大学付属の医師に駆け込んで診察させたのだ。結果、特に大きな怪我はないが、後頭部を打っているので今日はなるべく安静にしておいたほうが良いだろうと診断されたので、揺り起こすという訳にもいかなかった。
「ミラノ王子。その件でお願いがあるのですが。よろしいでしょうか?」
「今日はプライベートで来ているので、あまり畏まらないで下さい。それで、願いとはなんでしょう?」
「その……出来ればでよいのですが、今日はセレネをここで預からせていただけないでしょうか?」
「セレネを?」
意外そうに答えたミラノに対し、アルエは懇願するように彼の目をまっすぐに見た。その瞳の奥に何か思いつめた光があることを、ミラノの洞察力は見逃さなかった。ミラノは遠慮がちなアルエに先を促させる。
「今日一日休ませるということであれば、このままセレネを移動しないほうが良いと思うのです。それに……」
「それに?」
「私、セレネと一緒に寝たことって無いんです。この子は何年も監禁されていましたし、それ以前は私もまだ子供でした。なので、セレネに回す精神的な余裕が無かったんです。だから……」
アルエは少し涙声になっていた。セレネはほんの幼い頃から異常者扱いされていたので、正常な第一王女のアルエとは、小さいころから距離を取らされていた。さらにセレネが監禁部屋に幽閉されてしまうと本格的に会う機会が減り、数日おきに僅かな時間を過ごすことしか出来なくなってしまった。つまり、二人の姉妹は、お互いを大事に思いながらも共有する時間は極端に少なかったのだ。
「しかし、アルエ姫もお疲れではないのですか。見たところ部屋の整理もあまり進んでいないようですし、うちのマリーのせいで、余計なトラブルまで持ち込んでしまいましたし」
「元はと言えば兄さまのせいでしょ! 私はむしろサポートしたのよ!」
きゃんきゃん騒ぐマリーを軽く流し、ミラノはアルエに向き合う。
お膳立てが整ってからセレネに会わせる予定だったのに、こちらの不手際のせいで、手順が滅茶苦茶になってしまった。その上、急な留学だったため、寮の中でもあまり広い部屋を用意出来なかったので、アルエが自室でセレネと共に寝ると、ベッドはきつきつになってしまう。
「構いません。私の方からお願いしたいのです。明日、セレネの容態に問題が無ければ私の方から王宮へセレネを送りますので」
そう言って、アルエは深々とミラノに頭を下げた。今のセレネはヘリファルテの王子に権利を委ねられている。つまり、王子の所有物と言ってよい。それを貸してくれと言っているのだから、アルエの立場では厳しいことは自覚している。けれど、この機会を逃せば、次にセレネと会えるのはいつになるか分からない。アルエはドレスの裾をぎゅっと握り、床を見たままミラノの返答を待つ。
「いいんじゃない。その方がセレネも喜ぶでしょ」
「……え?」
ミラノが何か言う前に、ミラノの後ろにいたマリーが、実にあっけらかんとした口調でそう言った。予想外の返答にアルエが思わず頭を上げると、ミラノも柔和な笑みを浮かべて頷いた。
「アルエ姫、むしろこちらからお願いしたいくらいです。セレネは異国にたった一人で来て緊張しています。結果論とはいえ、こうして姉妹が出会えたのです。身内と添い寝できれば、彼女も大分心安らぐでしょう」
「本当に……よろしいのですか?」
「もちろん。明日の朝、迎えの者を送らせます。僕とマリーは今日はこれでお暇させていただきますので」
「あ、ありがとうございます!」
アルエは90度を越える勢いでミラノに頭を垂れた。ミラノは鷹揚に頷くと、マリーを引き連れてアルエの部屋を出て行こうとした。あまり長居して、これ以上アルエに迷惑を掛けてしまう事は避けたかったのだ。
「それじゃ、セレネの事よろしく頼んだわよ。アルエ姉様」
「あ、アルエ姉様?」
アルエがきょとんとした表情でマリーを見つめると、マリーは悪戯っぽくくすりと笑う。
「だって、私はセレネのお姉さんで、セレネの尊敬するお姉さんがアルエ姫なんでしょ? だったら、お姉さんのお姉さんじゃない。あ、そうだ兄さま。アルエ姫と結婚したら? そうすれば私達、本当の家族になれるじゃない」
「馬鹿な事を言うな。申し訳ありませんアルエ姫。妹は見ての通り、あまり落ち着きがないもので。子供の戯言だと思って聞き流してください」
「子供じゃないし! 戯言じゃないし!」
「では、我々はそろそろ帰らせていただきます。本日は急な申し出を受けていただき、真に感謝しております。それと、百合に関しては少し心当たりがありますので、少々準備に時間をいただきたい。セレネが百合好きなら、きっと喜んでくれるでしょう」
そう言い残し、ミラノはマリーを引き連れてアルエの部屋を出て行った。
後に残されたのは、爆睡しているセレネと、感動して目を赤くするアルエの二人きりだ。
「ミラノ王子……本当に、本当にありがとうございます!」
自分のような小国の姫に対し、尊大に振舞わず、あれだけ気を遣ってくれる者はそうはいない。彼が去り、ドアを閉めた後も、アルエはその方向に長い間お辞儀をしていた。彼は確かに聖王子と呼ばれる逸材だ。そして、彼に任せておけばセレネは、誰よりも幸せになれるだろう。そう考えると、アルエの目尻には熱い物がこみあげてくるのだった。
◆◇◆◇◆
「……ぅう?」
「あら、目が覚めた? セレネ」
セレネが目覚めた頃には既に陽は落ち、窓の外には満月が浮かんでいた。ベッド脇の木製の机の上に置かれた燭台に火が燈され、小さいながらも温かな光が狭い部屋と、そこに詰められた荷物たちを包み込む。その穏やかな雰囲気の中、セレネは、いつもと違うほのかな甘い香りのするベッドから、もぞもぞと這い出した。
「ねえさま、だいじょうぶ?」
「え? 別に大丈夫よ」
大破してしまった純白のドレスに代わり、アルエ用の白い寝巻きに着替えさせられたセレネは、だぶだぶの服を引き摺りながらアルエに抱きつく。そして、開口一番にアルエの身を案ずる言葉を口にした。
大丈夫と言ったものの、セレネが眠っている間もアルエは机の上で、編入の手続きの書類を整理したり、それ以外の荷物を整理したりとかなり忙しく、疲労も蓄積していた。その辺りを一瞬で見抜く辺り、やはり妹は観察眼に優れているなとアルエは考えた。
「大丈夫よ。セレネは心配性ね」
「よかった……」
セレネは本当に安堵しているようで、心優しい妹の気遣いにアルエは癒された。セレネと離れてまだそれほど時間は経っていないのだが、いつも自分の身を心配してくれる妹が、大国に移り住んでも傲慢にならず、変わらぬ純粋さを持ってくれていることに、アルエはとても誇らしい気持ちになる。
セレネが大丈夫かと尋ねたのは主に性的な意味でなのだが、自分の電光石火の行動により、王子の魔手が伸びる前に何とかアルエの貞操を守れたことに対し、セレネの心も満たされ、姉妹の姫は満足そうに笑いあった。
「セレネこそ体調はどう? 頭打ったけど大丈夫? 気持ち悪くない?」
「へいき」
セレネは久々のアルエとの対面で、脳内麻薬がドバドバ出ていたので、この程度のダメージなど屁でもない。ちなみに頭は打つ前から大丈夫ではなく、さらに気持ちも悪いのだが、それは生まれつきなのでどうしようもない。
「セレネは今日怪我をしちゃったから、私が明日まで預かる事になったの。だから、今日は一緒に寝ましょうね」
「ほんと!?」
「ええ、でも、二人だとベッドがかなり狭くなっちゃうけど……」
「いい! すごく、いい!」
セレネは興奮した。大興奮した。ベッドが狭ければ狭いほど、姉との密着度が上がるのだから無理もない。
「寝る! いますぐ、寝る!」
「え、でもまだ私、やることが……」
「ねえさま、おうじ、相手、たいへん。すぐ、休む」
セレネは両手でアルエの手をぐいぐい引っ張り、ベッドに寝ろとせがむ。アルエは、セレネの心遣いを微笑ましく思いながら、今日は作業を切り上げて眠ることにした。セレネとしては、アルエがあの王子の相手で疲れているだろうという気遣いもあったが、それ以上に、姉と過ごせる明日までの貴重な時間を、一秒でも長く過ごしたいというのが本音だった。
そうして、アルエは寝巻き用の薄いローブに着替えると、セレネの待つベッドへと潜り込んだ。アルエとセレネは二人とも小柄であったが、並んで寝るとさすがに少し窮屈だ。
「セレネ、本当に大丈夫? お姉ちゃん、別の場所で寝ても……」
「ダメ! ぜったい!」
セレネは強い語調でそういうと、両手でアルエに抱きついた。ついでにどさくさに紛れて、姉の胸元に顔を埋めた。ヘリファルテ女王のアイビスもなかなかの逸材であったが、やはりセレネにとっての桃源郷はここにあった。
「もも」
「桃?」
アルエの問いに答えることはなく、セレネは満たされた表情で、マシュマロのようにふにふにと柔らかく、それでいて張りのある地上最高の感触を顔中で堪能していた。アルエはまるで子猫のように擦り寄ってくるセレネの頭を包むように、そっと抱きしめる。今まで殆ど構ってやれなかったのに、こうまで自分を慕ってくれる妹を、アルエは愛おしく感じていた。
「セレネ、ヘリファルテではうまく過ごせてる? お昼にミラノ王子から伺ったけど、随分頑張ってるみたいね」
アルエはあやすような口調で妹を褒めた。しかし、その言葉を聞いた途端、胸の中でもぞもぞ動いていたセレネが、悲しげな表情で自分を見上げてきたので、アルエは困惑した。二人の顔が密着し、お互いの吐息が感じられるほどの距離で、セレネが目を逸らしながら口を開く。
「ごめん、うまく、できない」
「え?」
セレネはそう呟いたが、昼にミラノ王子から聞いた話では、セレネは8歳とは思えないほどにヘリファルテに貢献していると言っていた。にも拘らず、セレネは自分を不甲斐無いと思っているらしい。
「(きっと、目指す場所が違うのね……)」
アルエはセレネの発言を謙遜と取った。ミラノから聞いただけでも、セレネは現時点でかなりの功績を収めている。王子の健康管理、それに伴った兵士の練度強化、さらにヴァルベールでの外交の潤滑油としての役割まで果たしたのだとか。特に、王子はセレネとの憩いの食事にかなり感謝しているようで、そのために今日来たとも言っていた。
多分、セレネの『うまくできない』と、普通の人間の『うまくできない』とでは、要求するレベルが違うのだ。刀鍛冶が『今日の物は出来が悪い』というセリフを言ったとして、熟練の職人と新人では、言葉の重みも精度の基準もまるで違うようなものだ。
「……セレネ、アークイラでの最後の夜を覚えているかしら」
「なに?」
「ほら、『わたし、がんばる、守るから』って言ってたの、忘れちゃったかな」
「おぼえてる」
そう、あの別れの日、確かに自分は『アルエを頑張って守る』と誓ったのだ。だからこそ、諸悪の根源である王子を亡き者にしようとセレネなりに頑張ってきたが、現状ではあまりうまく行っていない。セレネはそれを嘆いていた。
「セレネは頑張っているわ。あなたはまだ小さいから、思ったようにいかないことも多いかもしれない。けど、ずっと挑戦し続ければ、セレネはきっと誰かを守れる立派な淑女になれるわ。お姉ちゃん、そう信じてる」
「ねえさま……」
結局、アルエは妹を月並みな言葉で鼓舞することにした。いや、それしか出来なかった。凡才の自分に出来ることは、『敬愛するミラノ王子を守りたい』と奮闘する妹を信じ、応援してやるくらいしか出来ないのだから。
セレネが守りたいと思っているのはアルエなのだが、当のアルエからしてみれば、救世主であり、淡い思いを抱いているミラノ王子を守れる存在になりたいと願っている、そう考えるのが自然だった。同時に、妹の思い人を口に出すほどアルエは野暮ではなかった。
「うん、わたし、がんばる!」
「いい子ね。さ、今日はもう寝ましょう。それで、明日からまた元気なセレネに戻ってね」
「元気で、王子、会いにいく」
「それがいいわ。じゃあ、おやすみなさい」
しょげていたセレネが再び元気を取り戻すのを見て、アルエはそっとセレネの柔らかな白い髪を撫でた。その直後、連日の疲労が蓄積していたアルエは、そのまますぐに寝入ってしまった。
しかし、それとは逆に、先ほどまで寝ていたセレネの目は爛々と輝き。再び王子に対する闘志が燃えてくるのを感じていた。
「わたし、ばかだった」
セレネは口惜しさに歯噛みした。アルエは自分を信じ、性王子から自分を守れる存在になってくれと言ってくれている。だというのに、ここ数日、自分は何をしていたのか。ふて腐れ、日課をサボり、王子暗殺計画をまるで進めていないではないか。確かに貴重な薬物を没収されたのはショックだったが、それが一体何だというのだ。千里の道も一歩からと言うではないか。
自分は何としてでも王子を再起不能にし、アルエと結ばれなければならないのだ。そのために明日からまた元気なセレネに戻り、一所懸命王子を殺さないとならない。立ち止まっている暇など自分にはないのだ。セレネは己の馬鹿さ加減を恥じた。
「明日、本気、だす」
そうだ。明日からまた殺人弁当を再開しよう。アルエを守るため。王子を倒すため。己の愚かさを反省し、もう一度初心に帰るのだ。そう決意し、セレネはアルエの胸に再び顔を埋める。明日からまた過酷な戦いが始まる。だから、今だけはこの安らぎを、桃源郷を守るために戦士の休息を。
――などと大義名分を適当にでっち上げ、セレネは心ゆくまでおっぱいを揉み続けた(よかったね)。
『うむむ……姫が帰らん! 一体何があったというのだ。鼠の密偵を出すべきか? いや、しかしミラノ王子達は特に騒いでいないのだから問題は無いと考えるべきか……それに、待機をしろと命令されたのだから従うべきか……だが姫の身に何かあったら……! うおおーっ! 一体どうすればっ!』
セレネとアルエが穏やかな寝息を立て始めた頃、セレネの自室で、バトラーは落ち着き無く歩き回っていた。主の命令を無視してでも探しにいくべきか、それとも、命令は命令として遵守すべきか、翌朝、セレネが帰還するまでの間、バトラーは一晩中、こうして答えのない自問自答を繰り返すのだった。