第21話:月の姫の難題
ヴァルベールから帰国してから早数日が経ち、セレネが知らぬ間に命を狙われ、そして知らぬ間にその危機を回避した事以外、ヘリファルテでは以前と変わらぬ日常に戻ったかのように見えた。だが、ミラノの身には、ある深刻な問題が起こっていた。
まだ朝日が昇ったばかりの時間帯であるが、ミラノはセレネの部屋の前で、緊張した面持ちで佇んでいた。これから彼は、日課の修練へと向かわなければならない。このタイミングを逃してしまうとセレネに会うまで大分時間が開いてしまうのだ。ミラノは深呼吸をして、ドアをノックした。
「セレネ、朝早く済まないが、起きているか?」
「ねてる!」
「起きているな。申し訳ないが、少し入らせてもらうぞ」
ミラノがドアを開くと、掃き清められた部屋の中、ベッドの上にこんもりと丸まった毛布があった。中にいるのは当然セレネであるが、彼女は今、毛布に包まれた巨大な饅頭のようになっていて、部屋に入ってきたミラノの顔を見ようともしなかった。
「今日はいい天気だ。少し早いが、目が覚めているなら散歩でもしないか?」
「いや」
毛布の中からくぐもった返事が聞こえてくると、ミラノはため息を一つ吐いた。そのままセレネのベッドに近づき傍らに腰を下ろすが、饅頭と化したセレネが顔を出す気配は無い。
「一体何がそんなに不満なんだ? ヴァルベールから帰国してから、碌に口を利いてくれないじゃないか」
「…………うるさい」
ミラノの言うとおり、ヴァルベールから帰国してからというもの、セレネはずっとこんな調子で不機嫌だった。ミラノと会話どころか顔も合わせようとせず、食事の時も明らかにミラノを無視している。
「僕に悪いところがあれば今後は注意しよう。セレネ、どこに不満があるのだ? はっきり言ってくれ」
「王子が、王子、だから」
「僕が、僕だから?」
まるで謎掛けのような言葉にミラノは首を傾げる。謎掛けも何も、セレネはミラノの存在自体が気に入らないのだから言葉の通りである。だが結局、ミラノにはセレネの言葉の意味がまるで理解できず、気まずい沈黙の後、ミラノは日課の修練のため部屋を出ていった。
「うう、クスリ、クスリ……」
ミラノが出て行ったことを確認すると、セレネは麻薬中毒者のような台詞を口にした。意外なことに、前世のセレネはその手の薬に手を出したことは無い。セレネが言っているのは、ヴァルベールで手に入れ、王子に光の速さで没収された白い粉末のことである。
ヘリファルテの薬学者に分析を依頼した結果、あの薬は、非常に効果の強い強壮剤である事が判明した。しかし、入手先がヴァルベールの怪しげな路地裏という事もあり、王族に振舞うのは少しためらわれたため、王宮の宝物庫にお蔵入りとなった。
これはセレネにとって非常に不満だった。強壮剤を大量に盛り、王子の体調を一気に崩せると思っていたのに、王子が身の危険を鋭く察知し、先手を打たれてしまったと思ったわけだ。
無論、ミラノにも薬学者にも悪意は全く無いのだが、セレネは希望を断たれたことで、日々の毒入り弁当を作る気力すらなくなってしまい、ここ数日、こうしてずっと不貞寝していたのだ。
「はもの、ナイフ……ぶき、ほしい」
薬が駄目なら、最悪の場合ダイレクトアタックしかないのだが、今のセレネはそれすら出来ない立場だった。ミラノはセレネを身請けする際、アルエから「セレネが監禁されていた頃、自傷行為――あの美しい髪を丸刈りにしてしまった」という情報を聞かされていたので、刃物に関しては特に厳重に管理されていたのだ。
お陰で、セレネの部屋にはちょっとした糸きりバサミ程度の物しか置かれておらず、優秀なメイドにより毎日チェックされていたので、台所からナイフを持ち込むという事も出来なかった。
「うう、コロス、コロス……」
物騒な言葉をぶつぶつと吐きながら、セレネは毛布に包まり、再び眠りに落ちていった。
◆◇◆◇◆
「勝負あり!」
王宮の修練場にクマハチの野太い声が響く。彼は今、兵士達の稽古の審判を務めていた。模擬刀を使った一対一の打ち合いだ。これ自体は別段いつも通りの訓練だが、目の前に繰り広げられた光景に、周りの兵士達は唖然としていた。
打ち合いを制したのは、剣術の達人である聖王子ミラノではなく、まだ兵士となって一年にも満たない少年兵だったからだ。勝利した少年は、自分の剣がミラノの剣を弾き飛ばしたことが信じられないようで、己の手と、地面に落ちたミラノの剣を何度も交互に見返していた。
「お、王子! 申し訳ありません!」
「いや、僕の負けだ。腕を上げたな」
理解が現実に追いついた少年兵は、顔を青くして慌ててミラノに頭を下げた。それに対し、ミラノは落ち着き払って少年を労った。ここで修練をしている時は、王子も新兵も一切関係無い。
「王子、今日はこの辺にしておいたほうが良かろう」
「何を言う、まだ午前中だ。稽古を終えるには早すぎる」
「そんな状態でうろつかれては、他の兵士に影響が出るでござる」
クマハチはぴしゃりと言い放った。ミラノも自分が集中できていない事を理解していたが、日課である修練を早引きするのにはいささか抵抗がある。渋るミラノの腕を掴み、クマハチは兵士達が休憩に利用している木陰へ、強引にミラノを引っ張り、二人で並んで腰を下ろした。
「ヴァルベールから帰国してからという物、王子はセミの抜け殻でござるなぁ」
「いや、すこぶる健康だ」
「隠そうとしても無駄でござる。肉体的には問題なかろうが、精神面のほうでござるよ」
「別に悩み事など無い」
「あ、セレネ殿が来たでござる!」
「な、何っ!? ど、どこだ!?」
ミラノは急に立ち上がり、クマハチが指差した方向に目を凝らす。しかし、そこには晴れやかな青空と綺麗に刈り揃えられた芝生、その上で訓練する野郎共ばかりで、愛くるしい白い姫の姿はなかった。
「……クマハチっ!」
「はは! やはりセレネ殿が原因でござるか。聞くところによると、どうも姫はご機嫌斜めでござるな?」
「……その通りだ」
ばつが悪そうにミラノは再び腰を下ろした。ヴァルベールから帰国して以来、セレネはほとんど弁当を作りに来ていない。ミラノは表には出さないが、内心でかなり落ち込んでいた。
「やはりお前には見抜かれてしまうか……セレネは、僕を避けている」
「何故でござる?」
「これは推測なのだが、ヴァルベールで買った薬を僕が取り上げたからだろう。あの時、僕はセレネから危険な物を遠ざけることばかり考えて、あの子の気持ちを汲んでやれなかった」
セレネは自分を気遣い、自由に出来る金を打ち捨ててまでしてあの薬を買ってくれたのだ。その優しい気持ちを無視し、一方的に叱り、結果的に踏みにじってしまった。ミラノはあの時に戻り、自分を殴り飛ばしてやりたい気分になっていた。
実際には、セレネにそんな思いやりなど微塵も無かったのだが。まあ、セレネの思惑をぶち壊したという点では間違ってはいない。
「なるほどなぁ、それでセレネ殿は今、どうしているのでござるか?」
「取り付く島も無い。布団に潜ったままで顔を合わせてくれないし、碌に返事もしない。まるでカタツムリと会話している気分になる」
「セレネ殿に謝罪は?」
「したさ。悪いところがあれば注意するとも言った。だが、『王子が王子だからキライ』としか言ってくれない。まるで意味が分からない」
ミラノは両手で頭を抱え、呻くように呟いた。大陸最難関と呼ばれる、ヘリファルテ国立大学の問題を楽々と解けるミラノですら、これほどまでの難題に直面した事は無かった。難題も何も「お前の存在が気に入らない」というそのまんまな主張なのだが、ミラノにはそんな発想は思い浮かびすらしなかった。
「ふぅむ……まるで『月の姫の難題』のようでござるな」
「月の姫?」
「うむ。拙者の国の昔話なのだが、ある老夫婦の元に、月からやってきた美しい姫が現れるのだ。その姫に対し、様々な貴族が求婚をするのだが、姫は、とても常人では用意できない物を持って来いと難題を出し、男を追い払おうとしてしまうのでござる」
まさに今の自分と同じ状況だ。興味の湧いたミラノは、クマハチに先を促す。
「それで、その物語はどうなるのだ?」
「まあ、最終的に姫は月に帰ってしまうのでござるが……」
「それは困る!」
「王子、これはあくまで昔話でござるよ」
「す、すまない。そ、そうだったな……」
思っていた以上に冷静さを欠いていた事に気付き、ミラノは赤面する。そんなミラノを横目に、クマハチは苦笑しながら話を補足する。
「それで、姫の難題の件でござるが、結局、求婚した男達は、あの手この手で偽物を用意するのだが、全て失敗に終わるのでござる。まあ、姫が本当に求めていたのは『誠意』ではないかと拙者は思うがな」
「誠意……か」
しかし、ミラノとしては誠意を尽くしているつもりである。これ以上、一体どうすればいいというのか。
「昔話ではないが、セレネ殿に何か贈り物をしてみてはどうでござるか?」
「物で釣る、というわけか? それでは誠意にならないだろう」
「だから、あくまで誠意でござるよ。いくら言葉を尽くしても、現実に何も利益が無ければ、なかなか人の心はなびかないでござる。だから、セレネ殿が心から好きな物を用意するのでござる」
「セレネが心から好きな物、か……確かにそれはいい案かもしれない。クマハチ、感謝する」
「お安い御用にござる」
ミラノはクマハチに礼を言うと、その日の修練を素直に切り上げた。そして、すぐに移動用の小型馬車に飛び乗り王宮へと戻る。王宮に着くや否や、ミラノは駆けるようにある一室を目指した。白く塗られたドアの前に立ち、数回軽くノックする。
「マリー、居るか?」
「あれ、兄さま? 今日は早いのね」
マリーは自室から出てくると、不思議そうな表情で兄を見上げたが、そのまま兄を自室へと促した。マリーの部屋は絨毯からカーテンに至るまで、彼女の好きな薔薇色が多かった。色とりどりの花が挿された花瓶の置かれた白いテーブルから、ベッドの上のウサギのぬいぐるみなど、年頃の少女に相応しい内装となっていた。実用品しか置かない殺風景なセレネの部屋とはえらい違いである。
「少しお前に聞きたいことがあってな」
「聞きたいこと、当ててあげよっか? セレネのことでしょ?」
ミラノの目が見開かれるのを見て、マリーは得意げに笑った。セレネが来てからというもの、マリーはこうして兄から一本取れることが多くなり、それによってコンプレックスが徐々に解消され、以前のように普通の兄妹の関係に戻りつつあった。
「なぜ分かる?」
「だって兄さま、ここ最近、ずーっとセレネの部屋に行って追い返されてるじゃない。そんなの誰でも分かるわよ。どうしたの? ケンカ?」
「ケンカというか……」
そうしてミラノは、マリーに事の成り行きを話した。同じくらいの年頃の女の子のマリーなら、セレネの気持ちが分かるかもしれない。ミラノがこうしてマリーに助けを求めることなど今まで無かったので、マリーはとても良い気分になり、真摯に兄の相談に耳を傾けた。
「確かに、お詫びって、何か形で欲しいかも。だって、いくら『ありがとう』とか『すまない』とか言われても、口だけだったら、誰でもなんとでも言えるもん」
「やはりそうか……それで、セレネに何を渡すかなのだが、今まであまり意識した事が無くてな。何かいい意見は無いか?」
ミラノは、彼にしては随分と弱気な口調でマリーに尋ねた。今までセレネのためを思って色々とやってきたつもりだったが。それに対し、セレネが反応を示した事が驚くほど少ない事に、ミラノは今になって気がついた。
セレネは生まれ育った環境のせいか、天性のものか、はたまた両方なのか分からないが、あの年頃の子供としては明らかに異質だった。食べ物の好き嫌いもなく、出された物は全て平らげるし、以前、母が欲しい物はないかと尋ねた時に求めた物は抱擁だった。それ以外は基本的には大人しく、大体寝ているので、彼女が何を求めているのか全く理解出来なかった。
理解できないのも当然である。なぜならセレネが求めているのは、まさに食事と睡眠、そして乳房である。女の子らしい何かなどセレネが求める筈もなく、飯が食えてダラダラして、たまに姉のおっぱいに抱きつければ人生それでバラ色なのだ。ある意味、これ以上無いほど単純で幸せな奴だった。
だがミラノは、セレネとてマリーと同じ年頃の少女なのだから、きっと共通項はあるだろうという認識に縛られていた。勿論、マリーも同じである。マリーは眉間に皺を寄せ、両手を組んで必死に考える。
「んー……難しいわね。私だったらお洋服とか欲しい物は沢山あるけど、セレネはそういうのにあんまり興味ないっぽいし……あ! 嫌いな物だったらわかるわ」
「嫌いなもの?」
「あの子、薔薇が嫌いなのよ」
「薔薇? 女性であの花を嫌いというのは珍しいな」
「でしょ? 私は薔薇大好きだから、変なのって思ったのを覚えてるわ。セレネ、ちょっと変わってるから」
「嫌いなものは分かった。それで、好きな物は何だ?」
「ええと、なんだったっけなぁ……何か言ってた気がするけど。ごめん、ちょっと思い出せないわ」
「そうか……いや、十分だ」
礼を言いながら、ミラノはマリーの頭を撫でてやった。昔、マリーはこうされるのが好きだったのだ。最近までは触れようとするだけで手を払いのけられたのだが、今日のマリーは少し緊張しながらも、素直に撫でられていた。そうして、ミラノが部屋を出て行こうとした時、マリーが後ろから声をかけた。
「兄さま、セレネと仲直りできるといいね!」
「ああ、ありがとう。マリー」
ミラノは少し驚いたが、すぐに柔和な笑みを浮かべた。マリーがこんな風に応援してくれるようになったのも、セレネのお陰なのだ。そのセレネが塞ぎがちになっている姿を、ミラノはこれ以上見ていたくなかった。
「仕方が無い。奥の手を使うか……」
ミラノは目を閉じ、少しの間逡巡していたが、何かを決心したように頷き、近くに居たメイドの一人に声を掛けた。
「すまないが、至急頼みたいことがあるのだが、時間を貰っても大丈夫か?」
「は、はい。私で宜しければ」
王子が至急というからには、余程重大な事なのだろう。そう考えたメイドは、ぴんと背筋を伸ばした。ミラノはメイドに紙とペンを持ってこさせると。その紙に何かを書き、サインをして折りたたみ、メイドに手渡した。
「急ですまないが、ヘリファルテ国立大学の学長に、ある学生と面会をさせて欲しいと伝えてくれ。その紙を門番に見せれば、学長に取り次いでもらえるだろう」
「え!? 王子が学生さんと会うんですか!?」
メイドの驚きは至極もっともな事だった。大国ヘリファルテの第一王子が、たかだか一介の学生と直接会いたいなどという事は前代未聞だった。ミラノもそれは重々承知だ。あまり軽はずみな行動をすると、その学生にも、自分にもあらぬ噂が立ち、余計な面倒が降りかかる恐れがある。とはいえ、王子の命令とあれば、メイドは逆らうわけにもいかない。
「では、その学生さんのお名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」
ミラノは少しの間沈黙する。この判断が本当に正しいのだろうかと。しかし、現状を打開するには、どうしてもその学生の力が必要なのだ。そして、ミラノはその名を口にした。
「アルエ=アークイラ殿だ。どうしても貴殿の力が必要だと、伝えておいて欲しい」




