第2話:鼠の執事
セレネ=アークイラには前世の記憶がある。
といっても特筆すべき事はそれほど無い。生まれた国は日本、今時珍しくも無い恵まれない凡人で、生前の性別は男性であったというくらいだろうか。いずれにせよそれらはもう過ぎ去ったものであり、今ここに居る存在は、セレネ=アークイラ以外の何者でもない。
アークイラ王国に生まれて間もない頃、セレネは日本人としての記憶が、新しい人生においてきっと役立つであろうと踏んでいた。だが実際には、過去の記憶と言うものは、なかなかに厄介な代物であった。八年の歳月を女性の体で過ごした事により、肉体的な違和感は消え去っていたが、問題は精神面である。
生まれた瞬間から過去の記憶を持っていたセレネにとって、実の母親は「血の繋がった知らないおばさん」であり、母親という女性に対し、どう接していいか分からず距離を置いた。さらに日本人としての美徳とされる行動が、異世界の、まして子供としてはあまりにも異常であるという事に気がついたのは、大分先のことであった。
言語に関しても、セレネにとっては難題だった。
六年間英語を学んだにも拘らず、万年ギリギリの単位しか取れなかった彼女にとって、異世界の言語は、宇宙人との会話に等しいものだった。
まして普段から触れ合う人間が極端に少ないのだ、練習する機会も当然少ない。八年間の労苦により、かろうじてヒアリングは出来るようになったが、それを脳内で文法的に組み立て、口から発する技術は実践しなければなかなか上達せず、結果として幼児のような喋り方しか出来ていない。
そうした諸々の事情により、セレネは王女でありながら虜囚の身となったのだ。しかし、前世の記憶がセレネにとって完全な呪いであったかといえば、答えは否。セレネにとって過去世の残滓は、祝福でもあった。
もしもセレネが記憶を持たず、本当の幼子であったなら、このような抑圧された境遇に耐えられず、発狂してしまったかもしれない。だが過去世において天性の引きこもり体質であったセレネにとって、今の環境は極めて気楽な空間であった。
貴族にとっては不潔で狭すぎると言われても、過去の自分が住んでいた集合住宅のゴミだらけの一室より遥かに広く清潔であったし、寝ているだけで三度の食事はきちんと運ばれてくる。時間に追われ、あくせくと働く必要も無い。
おまけに時折、可憐で優しい姉が自分に同情し、絵本のような書物やお菓子を差し入れしてくれたり、何より、いい香りのする柔らかな胸で自分を抱きしめてくれるのだ。クリスマスイブやバレンタインという言葉に殺意を持って生きていたセレネにとっては、監禁されておつりが来るほどであった。
つまり、この世界で一般的に地獄と呼ばれるこの牢獄は、セレネにとって天国だったのだ。だが、幾らセレネが生粋の引きこもり体質だとしても、数年もの間、一日中暗い部屋に一人で閉じ込められていてはさすがに参ってしまう。
アルエが来るのはあくまでお忍びという形なので、数日に一度来られれば良いという程度だ。だが、セレネは決して孤独ではなかった――近寄ってきた小さな黒い影に対し、セレネはそっと手を伸ばす。
「おいで、バトラー」
『はい。お呼びでございますかな。姫』
黒い影の正体は、セレネの手の平に納まるほどの一匹の鼠であった。
全身をつややかな黒い毛皮で覆われ、喉元から腹部にかけては真っ白な毛が生えている。天然のタキシードを着込んだようなバトラーの胸元には、赤いリボンが結んであった。これは、セレネがバトラーに与えたものだ。
『何とも惜しい事でございますな。姉君もお美しい方でございますが、姫ほどの麗しき者が舞踏会に出られぬとは……』
「別に、でたくない」
バトラーが忌々しげに呟くが、セレネは表情を変えずゆっくりと首を振る。強がりではなく、対人恐怖症の彼女にとって、社交界など絶対に出たくないのだ。
『しかし姫! このバトラー、やはり納得が行きませんぞ! 姫ほどのお優しき方が、何故このような扱いを受けるのです。人間共が害獣と呼ぶ私に手を差し伸べてくれたのは、貴方様だけなのですぞ!』
「べつに、優しくない」
興奮するバトラーに対し、セレネはあくまで冷静だった。実際、バトラーとの最初の出会いはロマンチックでも何でもない。部屋の隅にある鼠捕りの罠に引っかかっていたバトラーを、セレネが外してやっただけだ。狭苦しい罠の中に押し込められ、怯える黒い鼠を見て何となく共感を覚えたのと、あまりにも暇だったので、隠れてこっそり飼おうと思いついただけだった。
『私の命を救い、力を分け与え、知恵を授けてくれた慈悲深き姫。ああ、私に竜の力があれば、このような牢獄など簡単に破壊してみせるのに!』
手の平の上で前足を組み、詩人のように嘆くバトラーがおかしくて、セレネは微笑んだ。命を助けたのはともかく、セレネはバトラーに知恵や力など与える気は無かった。知らぬ間にそうなったのだ。
この世界の王族の大多数は「魔力」と呼ばれる特殊な力を持っている。
火球や突風で攻撃したりする、いわゆる「魔法」のようなものではないが、身体能力を強化したり、傷の治癒を早めたり、国によって若干得意とする能力は変わるが、セレネを閉じ込めている扉の封印もその応用だ。
王家の血を引くセレネには、当然その能力があったが、その事は当人すら知らなかった。
セレネと寝食を共にし、セレネの食べ残しを餌として与えられていたバトラーは、いつの間にか知恵と魔力を持つ鼠になっていたのだ。だからバトラーが突然喋り出した時は、セレネは飛び上がるほど驚いた。
そうして人間並みの知能を持ったバトラーは、セレネにとってかけがえの無い友人となった。
そんなある日、彼は名前が欲しいとセレネに懇願した。セレネは白黒の外見から、彼に執事と言う名を与えた。それ以来、バトラーは常にセレネの横に侍り、本物の執事のように付き従っているのだった。
「その話、もういい、楽園、いきたい」
『おお、そうでしたな! では早速準備せねばなりませぬな。姫、では扉を』
「うん」
バトラーに促され、セレネは鉄の扉ではなく、明り取り用の小さな窓の前に立った。
精一杯につま先を伸ばし、立て付けの悪い窓を押し上げると、青白く輝く満月が見えた。
『今宵は良い月ですなぁ。姫の行く道を柔らかに包み、照らしてくれる事でしょう』
バトラーはセレネの肩から軽業士のように飛び降りると、きぃ、と小さな声で鳴いた。その直後、セレネの開け放った窓から大量の鼠達が部屋へとなだれ込む。彼らは普段は森に住んでいる鼠たちで、バトラーをリーダーと崇めている。
セレネ姫親衛隊。バトラー曰く、そういう事になっているらしい。
『お前達、ちゃんと身は清めてきたな? 姫のベッドに抜け毛一つ残してはならぬぞ!』
バトラーが凛とした声でそう言うと、鼠達は敬礼するように鳴き、一列に整列したままセレネの寝ていたベッドへと潜り込む。
数秒もしないうちに、セレネの掛けていた毛布が盛り上がり、少女が毛布に包まって寝ているような形になった。気休め程度だが、セレネが居ない間の偽装工作である。
「じゃあ、みがわり、お願い」
『畏まりました。では、良きお時間を』
この部屋において、外界へと通じる出口は二つあった。一つは硬く封印された鉄のドア、そしてもう一つがこの窓である。安普請の倉庫ではあったが、二階にあるこの部屋から地上までは、大人でもよじ登る事が出来ないくらいの高さはある。まして、幼いセレネが何の手がかりも無しに降りる事などまず不可能だ。
――そう、手がかりが無ければだが。
「んしょ」
セレネは窓から身を乗り出し、手近な蔦をぐいぐいと引っ張る。その蔦はとても頑丈で、華奢な少女の体など、優に数人は支えられるであろう。
セレネの居る場所はいわば隠し部屋であり、ごく一部の人間しか近づく事を許されていないため、その周辺は何年もの間、ろくに手入れをされていない。
その結果、セレネの住む部屋の壁の側面には、植物から伸びる蔦にびっしりと覆われていた。幾重にも巻きついた蔦は、セレネにとって天然の梯子となった。それはまるで、哀れな幼子に同情した森の神が、セレネに救いの手を差し伸べているようにも見えた。
そうしてセレネは窓からするりと抜け出し、蔦を頼りに壁を降りていく。最初の頃はおっかなびっくりだったが、今となっては手馴れたものだ。大して時間も掛からず、セレネは柔らかな草の上へと降り立ち、森の木々から放たれる、清らかな空気を肺一杯に吸い込んだ。
体に色素を持たないセレネにとって、眩しすぎる太陽の光は逆に害毒となる。けれど淡い月光は、セレネを優しく包み込んでくれる。自分以外に誰も無い、おとぎの国のような夜の世界において、セレネは支配者となれるのだ。
そうして一歩を踏み出した時、木々の向こうに、雅やかな音楽と、夜でもなお眩い輝きを放つ王宮を見た。いつも煌びやかな空間であるが、今日はいつにも増して煌々(こうこう)と照らされている。今頃、件の王子様とやらを迎え、盛大な歓迎パーティーが開かれている事だろう。
「せいおうじ……」
そう呟くと、セレネは苦虫を噛み潰したような表情になった。
王子について、アルエから過去に何度か聞かされた事があった。眉目秀麗、文武両道、かつ大国の王子という冗談みたいな肩書きで、巷では聖王子などと噂されているらしい。その男は、どうやら己に見合う相手を探すために、大陸中を駆け回っているのだとか。
その話を思い出すたびに、セレネは腸が煮え立つような怒りを覚える。それだけのスペックがあれば、自分で探さなくても、嫁など掃いて捨てるほど集まるだろうに。世の中のもてない男性の気持ちを誰よりも深く知っているセレネは、憎憎しげに舌打ちする。
「おのれ、せいおうじめ」
なんたる放蕩王子。きっと聖王子などと言われつつ、実際には性王子に違いない。一度も会ったことがない癖に、セレネは勝手にそう決め付け、勝手に憤慨した。
「ねえさま、大丈夫かな」
聖王子が性王子であっても自分には関係が無いが、セレネは姉の事が気がかりだった。あの優しく清らかな姉姫が、自分のために早まった行動に踏み切り、毒牙に掛かってしまうのではないか。
とはいえ、今の自分に出来る事は何も無い。セレネにとっては、王子様も、華やかなパーティーも、それこそおとぎ話の宮殿のような絵空事に過ぎないのだから。
セレネはため息を吐き、頭をふって気持ちを切り替える。自分が外を動き回れるのは、誰も見ていない夜明け前までの時間帯だけなのだ。手の届かない空想の世界より、現実の楽しみを優先させた方が良い。
目指す場所は、セレネとバトラーが「楽園」と呼ぶ場所。
セレネは後ろ髪引かれる思いを振り切ると、勝手知ったる森の奥へと足を進めた。