第73話:無理を押し通す
セレネのドレスが悲劇の運命に抗い、時間を稼いでくれたお陰で、ミラノとクマハチは、アイロネとセレネの元に辿り着く事が出来た。だが、事態はひっ迫している。
「周りに兵士や見張りはいないのか!?」
「ヘリファルテとは勝手が違うのでござろうな」
ミラノとクマハチは辺りを見回すが、辺りには人の気配が全く無い。アイロネ女王が城の高層部に住んでいる事もあり、裏手の方に人は割かれていないようだ。
「にょわーーーーーーーーー!」
アイロネはただぶら下がっているだけだが、セレネは必死でおばさんのグラビティ道連れから逃れようとしていた。死なれたら困るとか言ってる余裕が無いらしい。下から見上げているアイロネやミラノからすれば、セレネが力を振り絞って耐えているようにしか見えない。
「くっ……! 今から階段で部屋に行ってもとても間に合わない!」
悲鳴を上げながらも、セレネはアイロネを決して見捨てようとしない。このままではアイロネもろともセレネが落下してしまう。手を放せと言えば、それはセレネに母親を捨てろというようなものだ。
セレネはアイロネを掴んでないし助けてる余裕もない。さらに放せと言われても放せない詰みの状態なのでどうにもならないのだが。
ミラノは必死に解決策を練るが、時間はもう僅かだ。徐々にセレネが窓枠からずり落ちてきている。もう間もなく、アークイラの女王と王女は無慈悲に地面に叩きつけられる。
「クマハチ! アイロネ女王を頼む!」
「心得た!」
ミラノは全てを解決するために無理を押し通す決意をした。クマハチのほうは、既にミラノのする事を把握しているようだった。王城では基本的に武器を持つ事を許されていないが、ミラノの護衛であるクマハチは帯刀を許可されている。初めてアークイラに来た時もそうだった。
ミラノが一旦城から離れて距離を取ると、クマハチは近くにあった巨木の傍に駆け寄る。そして、腰を低く構え、抜刀の体勢を取る。
「キエエエエエエエエエエエッ!!」
クマハチが裂帛の気合を籠め、彼の得意技、抜刀術を巨木めがけて放つ。アークイラの鉄製の封印の扉すら切り裂くクマハチの剣術は、樹齢数百年はあろう大木を、柔らかいチーズのように切り裂く。
もちろんただ幹を切った訳ではない、倒れる方向を計算し、ゆっくりと傾いて倒れるようにだ。クマハチの想定通り、大木は自重でめりめりと音を立てながら、アイロネとセレネがいる方角へゆっくりと倒れる。
「おおおおおおおおおおおっ!!」
同時にミラノも、端正な顔立ちに似合わぬ咆哮を上げた。ミラノはもともと身体能力はずば抜けているが、それに加えて身体強化の魔力を持っている。数年前に比べさらに磨き上げられた肉体と魔力を全開放する。
強化されたミラノは、放たれた矢のように地面を蹴る。そして、クマハチが切り倒し、傾いた幹に足を掛け、そのまま駆け上がる。木が完全に倒れるまでの時間はごくわずか。そのわずか一瞬の時間、ミラノは大木を足場にし、一気にセレネとの距離を詰める。まるで曲芸だ。
「うっぎゃあああーー!」
ミラノが木の幹を足場に全速力で駆け上がると、ついにアイロネとセレネは窓から落ちた。その直後、ミラノは大木を蹴って跳躍する。それはもう跳躍というより飛翔のレベルに達している。カタパルト射出されるように、ミラノは女王と王女に向けて飛ぶ。
けれど、ミラノがいくら超人的な離れ業をやったとしても、彼の腕は二本しか無い。アイロネとセレネ、抱き締める事が出来るのはどちらか一人。
――ミラノの答えは、考える前に既に決まっていた。
「セレネエエエエエエエエエエエーーーーッ!!」
ミラノは最初から、自分が最も愛する、まだ幼くも聡明で心優しい婚約者であるセレネしか見ていなかった。ミラノは世界の法則が最愛の人を奪い去ってしまう前に、小さな体を空中で強く抱き寄せる。
その衝撃で糸が切れ、アイロネとセレネは切り離されるが、それに気付くものは誰も居ない。そして、ミラノはセレネを守るように、ぎゅっと華奢な体を抱え込む。
「僕が君を守る! もう……あの時のような思いはしない!」
奇跡が起きなければ、二年前にセレネを完全に失っていた。もうそんな苦しい過ちは二度と犯さない。たとえどのような困難があろうとも、ミラノはセレネを守るためなら命すら投げ出すだろう。
事実、空中でセレネを掴んだ後、セレネの代わりに地面に叩きつけられるのはミラノなのだ。身体強化をもってしてもただでは済まないだろう。だが、ミラノがクッションになれば、セレネは助かる確率が高い。
着地の衝撃に備え、ミラノはセレネを包み込む。たとえわが身が滅びようとも、月光姫セレネを守る。言葉ではなく体でそれを証明しようとしていた。
……が、そうはならなかった。着地の衝撃に耐えるため身を固めていたミラノだったが、何か柔らかいクッションのような物が、彼とセレネ、そしてアイロネ女王を受け止めた。
「これは……一体!?」
ミラノは、痛みすら感じないうちに死んで天国にでも来たのかと一瞬思ったが、胸の中で縮こまっているセレネの体温は、紛れも無く現実だと教えてくれる。
ミラノが、自分とセレネの身体の下にある、温かいもふもふした何かに手を伸ばすと、それが動いた。そして、それと目があった。
「……鹿?」
アークイラは心無い人間から『馬と鹿の国』と馬鹿にされるくらい、鹿の多い土地だ。その鹿……いや、鹿だけではない。イノシシ、ウサギ、果ては熊や狼に至るまで、ありとあらゆる動物が固まって巨大な山積みのクッションになってくれていた。
その獣たちの背を、何か小さい影がものすごい速度で走ってきて、ミラノを飛び越し、セレネの胸の上に飛びついた。
『姫! 申し訳ありません! お怪我はありませんか!?』
「……セレネの飼いネズミか?」
ミラノはセレネを抱きしめたまま、赤いリボンを胸元に結んだネズミを見る。ネズミはきぃきぃ鳴き、主のセレネを心配しているように見えた。
『ああ、申し訳ありません! 私が遅くなったばかりに! ですが、大きな怪我は無いようで何よりでございます。姫の叫び声が聞こえたので、急きょ、森中の動物達をかき集めました。危ない所でした』
そう、この動物達は森の王バトラーの命令により、アイロネとセレネを救うために召集されたのだ。事態を把握したバトラーは、即座にこの陣形を動物達に指示し、それは見事成功した。
「なんとまあ……セレネ殿は森の獣たちにまで愛されているとは。まさに聖女でござるな」
クマハチは獣たちで出来た巨大な山を見て、感心したようにそう呟いた。ミラノの意図を阿吽の呼吸で把握したクマハチは、セレネをミラノに任せ、より腕力のある自分が落下するアイロネを受け止めるつもりだった。
無論、そんな簡単に行くとは思っていなかったが、あの状態ではそれ以外、全員助かる方法が無かった。紙のように薄い希望だったが、思わぬ救援にクマハチは胸を撫で下ろす。
「アイロネ女王、お怪我はござらんか?」
「え、ええ、私は大丈夫」
「こっちも大丈夫だ。ドレスはぼろぼろになってしまったが、セレネに大きな怪我は無い」
「それは僥倖にござる」
獣たちが山積みになって出来たクッションから、ミラノがセレネをお姫様抱っこしながら降りてきた。バトラーは、セレネの全身をくまなく駆けまわって怪我の状態をチェックしている。
幸いドレスが頑張ってくれたお陰で、セレネは擦り傷と、少し筋を痛めた程度で済んだようだった。アイロネもまた宙づり状態で腕と肩を痛めていたが、命に別条は無いようだ。
普段のセレネならミラノに抱っこされるなど最大の屈辱であり、予防接種を嫌がって逃げ出そうとする犬のごとく暴れるところだが、引っ張られる痛みと紐なしバンジーの恐怖で気絶していた。
こうして黙っていれば傾国の美少女に見えるのだが、残念ながらすぐに元気を取り戻すと思われる。
「アイロネ女王、この状況で聞く事では無いのかもしれませんが、こうなった経緯を教えていただきたいのですが」
ミラノはセレネを抱いたまま、地面にへたり込んでいるアイロネに問い正す。すると、アイロネはセレネに話した事と同じ説明をした。
「……女王の考えは理解出来ました。けれど、それは短絡的すぎるのでは」
「そうですね。私は結局の所、その程度の策しか思い浮かばない者なのです」
「しかしまあ、セレネ殿のお陰でその策とやらも台無しになったわけでござるな。言いたい事は色々あるが、とりあえずよしとすべきでござろう」
クマハチは苦笑する。相変わらずセレネは無茶をするが、彼女の行動でこれまで間違った結果を生み出した事がない。実際には、間違いまくって周りが勝手に調整してくれているだけなのだが、とりあえず今回のアイロネも窮地を脱したのは事実である。
「それにしても、何故この子は私を見捨てなかったのかしら。私は死んだっていい人間だったはずなのに」
アイロネは、ミラノの腕の中で気絶しているセレネを眺めながらそう呟いた。途中で手を放す事だって出来たはずなのに、結局セレネは落ちるまで手を放さなかった。
「はっはっは! そんな事決まっているでござろう。アイロネ女王は、セレネ殿にとっては母であるという事。たとえアイロネ女王がどう思っていようとも、そういうことでござる」
そうではないでござるよ。単に糸が絡まって抜けだせなかっただけでござるよ。とはいえ、周りの人間からしてみたら、セレネが最後までアイロネを見捨てなかったようにしか見えないのだから仕方ない。
「私が……この子の母親」
そんな事は分かりきっている。それでもアイロネは、クマハチの言葉に雷に打たれたような衝撃を受けたようだ。こんな不出来で、自分を嫌悪する人間でも、セレネにとって、たった一人の母親なのだと。
肩の痛みすら忘れたように呆然とするアイロネ。それを、クマハチとミラノが見守っている。
「兄さま! 無事だったのね! ……って何よこの動物たち!?」
息を切らして向こうから駆けてくるのは、マリーを先頭とする女性三人組だ。ミラノ程ではないが同じ身体強化を使えるマリーは、十二歳ながらもアルエやヒノエよりもずっと足が速い。
三人は息を切らしてアイロネとセレネの無事を確認し、周りに集まった大量の動物達を見て目を白黒させていた。
何故か大量に集まってきた動物達は、事の成り行きを見守るようにアイロネ達を中心にじっと佇んでいる。それはまるで、アイロネの次の言葉を待っているように見えた。
アイロネが自分の心を整理している間、ミラノは、腕の中で目をつむっているセレネに視線を向けた。そして、もう片方の腕でセレネの髪を優しく撫でる。
「本当に、いつも無茶をする。……でも、よく頑張ったな」
ミラノは自分自身もかなり負担が掛かっているにも関わらず、小さい身体でこの結末を手繰り寄せたセレネを労った。
だが、その言葉はセレネのぼろぼろになったドレスにかけられるべきであった。