第71話:たった一つの冴えないやり方
アイロネからアルエに渡された婚約指輪をアルエxミラノ用だと勘違いしたセレネは、速攻でアイロネに指輪を返す事を決意した。
さすがのセレネでも寝巻のままうろうろするのには抵抗があるらしく、今回用意してもらった、面会用の正装ドレスに着替えての出陣だ。
陽はほぼ沈み、宵の時間を迎えるが、バトラーは森の動物達の宴会に呼ばれてまだ戻ってきていない。仕方なくセレネは単騎出撃を決意した。
懐刀兼参謀であるバトラーがいない状態で、無能大将が先陣となる無謀なる突撃である。色々な意味で非常に危険だ。
「ペイオフだ!」
イキリプリンセスと化したセレネは、鼻息荒くアルエを取り戻すために部屋を飛び出す。
「あれ? どしたのセレネ?」
「はうあっ!?」
だが、部屋を出てほとんど進まないうちに出鼻をくじかれた。廊下では、マリーとヒノエが談笑していたらしく、部屋を飛び出してきたセレネを見て近づいてくる。
「セレネはいっつも起きるのが遅いわね。まあ、日に弱い事は知ってるけどさ。お夕食を用意してくれてるみたいだし行きましょ?」
「よ、ようじ、ある」
「用事? 何の?」
マリーが問いただすが、セレネは慌てふためく。下手にアルエとの婚約指輪の事を話してしまうと、ミラノの妹であるマリーは賛同してしまう危険がある。ヒノエだってカゲトラともまんざらでもなさそうだし、『王子様と婚約なんて素敵ですね!』なんて言いかねない。
そうなると非常に困る。そりゃあ婚約は素敵だが、それはセレネとアルエの婚約であって、ミラノとアルエが婚約なんてした日には、セレネはセルフ異世界転生を試みるだろう。
というわけで、セレネは無い知恵を絞って誤魔化すことにした。
「ぺ、ペイオフ……」
「ペイ……何よそれ?」
「おばさん、あう」
「おば……アイロネ女王様のことか。そっか、お母様に会いに行くのね」
「うん。いそぐ」
何とか誤魔化せた。セレネは安堵しながら、小走りに廊下を走っていった。さすがに異世界用語ならマリーも分からないと思い、あえてペイオフと言ったのだが、それが功を奏したと思い込んでいた。
「あの……マリー様」
廊下を走っていくセレネの背を見ながら、ヒノエがマリーにそっと耳打ちをする。
「セレネ様は、なにかとても大事な事を隠しています」
「え? お母さんに会いに行くだけでしょ? ペイなんちゃらは意味分かんないけど」
「それは私にも分かりませんが……今すぐに会わねばならない。そんな感じが強く伝わってきました」
ヒノエは他者の感情を読む異能を持っている。昔に比べ、自分でかなりコントロール出来るので常時発動はしていないが、それでも表面的な部分は感じ取ることが出来る。
ヒノエいわく、セレネからは焦りの感情が溢れて見えたそうだ。もしもヒノエが能力をフルに発動させていたら、セレネの深い闇を見ていただろう。
セレネがペイオフとクーリングオフを間違えるナチュラルなアホだったので、言葉の意味に気を取られて発動が遅れた。遠い背中越しでは、ヒノエの感知できる射程外だ。
結果として、ヒノエにはセレネの焦りや、それに少しだけ混じった怒りの感情だけを読みとることが出来た。自分の間違えに気付かなかった結果、セレネは危機を脱する事が出来たわけだ。
「謁見は明日もあるでしょ。その時に話せばいいじゃない」
「理由はよく分かりませんが。何かよくない事が起こりそうな気がします。ミラノ様やクマハチ様にもお伝えした方がよいかと思うのですが」
「んー……ヒノエがそう言うんならそうしましょ。兄様達、たぶん森の泉の方にいるわ。あの辺りはセレネが昔よく居た場所らしいから」
そう言いながら、マリーとヒノエは庭の方へ出ていった。
「ヨシ!」
セレネは上手く撒けた記念で変な指差し確認ポーズを取った。おばさんに指輪をつっ返すだけなので、マリー達に付いてこられて話がこじれると困るのだ。
そうしてセレネはアークイラ王城の階段を登る。大陸でも最小国であるアークイラは、気候は過ごしやすいが土地が広い訳ではない。森を天然の城壁代わりにし、防衛のために王城は横幅よりも縦に伸びるように造られている。
「ひー!」
普段寝てばかりいるセレネは、階段をドレスを着ながら登るだけで足がつりそうになる。
「でも、まけない!」
セレネは珍しく、セレネ(当社比)で根性を振り絞っていた。セレネの根性を振り絞るは、メイドが日課の掃き掃除をするくらいの出力である。
大して苦労しない階段で苦労しつつ、セレネは最上階にあるアイロネの自室に辿りついた。ちくしょう。こんな高い場所に住みやがってと思いつつ、セレネは目的を達するためにアイロネの自室をノックする。
「誰ですか」
「わたし!」
お願いだから名乗って。
「……セレネですか」
アイロネの方は声で分かったらしく、少しの沈黙の後、ドアをゆっくりと開いた。アイロネは疲れた表情をしていたが、セレネはまったく気にも留めていなかった。
「何の用ですか? あなたとは謁見以外で話すつもりはありませんよ」
「おねがい、あるます」
アイロネは突き放すような言い方をしたが、セレネは平然と佇んでいる。普通、母親に邪険にされたら、セレネの年代なら怒るか泣くかするだろうに、そういった気配は微塵も感じない。
セレネは実に自然体で、殺したいほど憎んでいるであろう自分にも普通に接してくる。その様子を見て困惑したのは、むしろアイロネの方だった。
今のセレネは謁見時間ではなく、個人的に訪ねてきている。ここで揉め事を起こすと、後々ミラノ王子にも迷惑が掛かる可能性がある。それを理解しているからこそ、感情を表に出さないようにしているのだろう。
大したものだとアイロネは内心嘆息した。自分がこのくらいの年齢の時には、そんな政治的判断は決して出来なかった。
もちろんセレネはそんな事これっぽっちも考えていなかった。いらない指輪をペイオ……クーリングオフしに来ただけなのだから、窓口業務の女の人に返品しに来たくらいの感覚である。気張る必要もない。
「……それで、私に話があってここまで来たのでしょう?」
「これ、かえす」
「これは……私の婚約指輪!?」
セレネは背伸びし、半ば強引にアイロネの手の中に指輪をねじ込んだ。セレネに手渡された指輪を見て、アイロネは目を見開く。
「なぜ私にこれを?」
「それ、あなたの」
「……なるほど。そういう事ですか」
「はい」
はいじゃないが。アイロネがその指輪を大事そうに握りしめたので、セレネは満足げに微笑んだ。何がそういう事だかまるで分からんが、とにかくよし!
「あなたは噂通り。いえ、それ以上に聡明な頭脳を持っているのね……月光姫というのは伊達ではありませんね」
「は?」
いきなり何を言い出すんだこのおばさんは。セレネは首を傾げるが、アイロネは指輪を左手の薬指に嵌め、愛おしそうに撫でた。
「これは私があの人から貰った物。あなたやアルエが持つには相応しくない。そして、これを返しに来たという事は、私にこれを持っていけという事。そうでしょう?」
「えっ」
何を言っているのかさっぱり分からないのでセレネは黙っていたが、アイロネはそのままゆっくりと窓際に近付き、窓を開けた。
「私は不出来な女王。そして不出来な母でした。あなたが異質だからと他者に見せないように閉じ込め、アルエにも随分気を遣わせました。けれど……あなたを娘として受け入れることは、私にはどうしても出来ないの」
「かまわない」
別に今さらそんな事言われましても。セレネの正直な感想はそれだった。というより、指輪を返しに来ただけなので、セレネはもう帰って夕食をアルエ達と共に食べたかった。
だが、アイロネは開いた窓際に腰掛けたまま、ゆっくりと語り出す。それはまるで独白のようだったが、空気の読めないセレネですら立ち去れない雰囲気があった。
「構わない……ふふ、あなたは優しいのね。優しい怪物。私は感情に囚われたまま、あなたを受け入れる事が出来ないとても愚かな女王。そんな私が女王として振る舞って来たのは、ここが国王……あの人の治めていた忘れ形見だったから」
急にポエムじみた事を言い出したが、セレネにはそういう機微を感じる心が無いので黙っていた。アイロネはその様子を見て、セレネが大人しく聞いてくれていると思っているようだった。
確かに聞いてはいるが、馬の耳に念仏状態で頭に入ってない。
「私はあなたを受け入れる事が出来ない。けれどアークイラという国には愛着がある。では、どうすればいいと思いますか?」
そんな事をセレネなんかに聞いても答えられる訳がない。セレネは待てを命令されたポメラニアンみたいに固まっていたが、アイロネはセレネが既に答えを知っていると勘違いしたらしかった。沈黙は金とはよく言ったものだ。
「……私が死ねばいいのです。指輪を返しに来た事で確信しました。あなたは、私にこれを抱いて逝けと温情を掛けてくれたのでしょう」
「はぁ!?」
唐突な自死宣言に、さすがのセレネも困惑する。だが、アイロネには既に先のビジョンが見えているようで、セレネの素っ頓狂な叫び声は耳に入っていないようだった。
「私のような非人道的な女王が消えればいいのです。アルエとあなた、それにヘリファルテの後ろ盾があれば、アークイラの未来は盤石でしょう。私はもともと女王の器では無かったのです。でも、あなたとアルエは違う。心優しく聡明な王女二人なら、あの人の愛した国を繁栄させる事も出来るでしょう」
「こうねんき!?」
違う。そうじゃない。おばさんが急にメンヘラみたいな事を言い出したので、セレネは焦って駆け寄る。アイロネはゆっくりと後ろに倒れ込もうとする。落下する気だ。
「婚約の障壁が消え去るのです。それに、あなたを苦しめた諸悪の根源も消え去る。ざまあみろと思って構わないわ」
「おもわない!」
「えっ……」
アイロネは予想外のセレネの返事に一瞬固まった。自分を薄暗くカビ臭い倉庫に押し込め、人生を滅茶苦茶にした悪鬼。もしも自分が同じ立場に置かれたなら、母親だろうが殺したいほど憎むだろうし、そいつが事故で勝手に死んでくれるなら、自分が手を汚すこともない。
だというのにセレネは違う。必死で自分を止めようと駆け寄ってくる。一体何なんだこの娘は。アイロネが思考を奪われている間に、のろまのセレネもぎりぎりで抱きつく事が出来た。
「いなくなる、こまる!」
「……困る? 私がいないと?」
アイロネの言葉にセレネは返事をしない。というか、している余裕が無かった。
アイロネにアルエとミラノの婚約をぶっ壊してもらう予定なのに、アイロネがいなくなったら、性王子が強権を振りかざして侵略行為をするかもしれない。婚約の障壁が消えるのは非常に困るのだ。
だが、一足遅かった。アイロネは既に決意を固め、後ろに体重をかけていた。そこに非力なセレネが食い止めようとしがみついても、落下の力には勝てない。
アイロネは、セレネの態度に一瞬だけ心を動かされたが、それもすぐに消えると思った。何故なら、自分の身体は地面に叩きつけられ、物言わぬ骸となるからだ。
そう思った直後、アイロネの身体に衝撃が走る。叩きつけられる痛みではない。腕を強く締めつけられ、引っ張られる感覚だ。
「……っ! 何が? ……セレネ!?」
アイロネはまたも驚愕した。気が付くと、アイロネの腕には一本の糸が絡まっていた。それが命綱となり、アイロネは右腕一本で窓から宙づりの状態で留まっていた。
そして、その糸の先にいるのは……セレネだ! アイロネの位置からセレネの姿は見えないが、セレネの服から伸びるほつれた一本の糸がアイロネの命を繋いでいた。
「うっぎゃああああーーーーー!! いだいよーーーー!!」
窓の上からセレネの泣き叫ぶような悲鳴が聞こえた。大人一人分の体重を、わずか十歳の華奢なセレネが支えているのだから無理もない。
「手を放しなさい! あなたまで落ちるわ!」
アイロネはそう叫ぶが、セレネは決してそれに応じない。相変わらず痛々しい悲鳴を上げてはいるが、憎いはずの相手を決して捨てようとしないのだ。
「……どうして」
アイロネは死ぬ恐ろしさよりも、窓から伸びる一本の糸に気を取られていた。手を放すだけで全てが上手く行くのに、何故この子は茨の道を歩むのだろう。
「だずげでぇぇー!」
セレネは落下おばさんの重石に悲鳴を上げながら、ひっくり返ったカニみたいになって暴れていた。さっき抱きついた際、ほつれた糸がアイロネの腕に絡んだらしく、いい感じにセレネが突っ張り棒になって窓枠に引っかかっていた。
つまり、手を放しなさいと言われても、元から掴んでなかった。