第70話:婚約指輪
セレネとの噛み合わない食事の翌日、再びミラノ達はアイロネ女王との面会を申し入れたが、アイロネは体調が優れないとの事で、ヘリファルテ一行は一日待機となった。
当然、セレネもそのうちの一人……というか中心人物なのだが、アルエとの婚姻をぶっ潰すだけの機械と化しているので、面会中止はむしろありがたい。
というわけで、セレネは用意された自室で例によって惰眠を貪っていたのだが、昼過ぎになって彼女の枕元にバトラーが現れた。
『姫、お休みのところ大変申し訳ありません。実は、ひとつお願いがあるのですが』
「いいよ」
『まだ何もいっておりませんぞ!?』
セレネはまぶたを擦りながら、用件も聞かないうちにオーケーした。セレネはいい加減な上にバトラーに対しては信頼しているので、彼がやりたいと言った事は基本的に何でもいいのだ。
とはいえ、それではバトラーの方が納得しない。セレネが自分に対し絶対の信頼を置いていてくれている事に感動しつつも、バトラーは主に対し内容を告げる。
『森の動物達が私のためにパーティーを開くと言っているのです。私としては姫から離れる時間が増えますし遠慮をしたのですが、どうしてもと言われてしまいまして……』
バトラーは申し訳無さそうに耳を垂らした。森の小さな王者であるバトラーはアークイラ城の全ての獣の長として君臨する存在だ。どこかの誰かと違い、名目上では無く本当の意味での王者である。
長らく留守にしていたので、森の動物達もバトラーの帰還を大いに喜んでいるらしい。下手に断って森から大量に動物が押し掛けてきては、人間側も大混乱に陥る。だから、少しの間だけ顔を出したいとのことだった。
「いいよ」
『ありがとうございます。本来なら姫のお傍に付き従う身でありますし、心苦しくは思うのですが……』
バトラーはなるべく早く戻ると言い残し、一礼してセレネの元から走り去った。
「ねむい」
セレネはバトラーに手を振ると、そのまま再びベッドに潜り込んで丸くなった。ここの所、ミラノに振り回されて日中に活動することが多かったので、こうして惰眠をむさぼる通常スタイルを貫けるのはセレネにとってはありがたい。
なお通常スタイルは昼起きて夜寝るというのがこの世界のならわしのはずだが、セレネにそんな常識は通用しない。
◆ ◆ ◆
一方、セレネがゆるゆると眠っている間、アイロネの部屋に一人の女性が訪れていた。セレネの姉、アルエである。
「お母様、体調が優れないとの事ですが、お加減はいかがでしょうか?」
「問題無いわ。色々考え事をしていたら疲れてしまって。別に病気ではないわ」
「よかった……」
アイロネの顔には若干疲れが見えるが、血色も良く強がりを言っているわけでは無さそうだ。アルエは水を汲み、アイロネに差し出す。するとアイロネは素直に受け取って喉を潤した。
実に普通の母娘のやりとりがここにあった。もう一人の娘とはえらい違いである。
「……私の事をひどい母親だと思っているでしょう」
「お母様?」
しばし沈黙した後、アイロネはぽつりとそう呟いた。アルエは少し不思議に思いつつ、ベッドで身を起こしたアイロネに目線を合わせるように椅子に座った。
「今の私が諸国からどう評価されているか、私はよく理解しています。『あれほどの逸材を腐らせようとしていた愚鈍な女王』でしょう」
「それは……」
アルエはなんと答えたものかと黙り込むが、その沈黙こそが答えだった。アイロネは溜め息を吐き、再び口を開く。
「でも、仕方が無かったのです。あの子は小さい頃から奇行が目立ちましたし、外見も特徴的です。その全てが受け入れられるとは思わなかったし、あの子が何かしでかせば、姉であるあなたの評判にも影響が出るのですから」
「私はそんな事は気にしません」
「いいですか。あなたは良くても、私たちは小国とはいえ王族なのです。それにあなたは第一王女。いずれこの国の頂点になる立場なのです。私たちには国民を背負う義務がある」
「それはそうですが。でもあんなに小さな子を蔵に押し込めるなんて」
「殺す訳にもいかないし、あの子を国外追放するにしても、あれほど目立つ子はそうはいないでしょう。ああするしかなかったの」
アイロネはそう言うが、アルエとしてはやはり納得できない。確かに奇行と言われれば奇行だが、だからといって妹だけ暗闇に押し込め、自分だけが光の道を歩めるほどアルエは非情ではない。
とはいえ、アイロネ女王の判断は実に賢明だった。もしもセレネに王族として教育を施していたら、ストレスで発狂して凶暴化したかもしれない。
まあ生まれた時から発狂しているが、本人的にノンストレスなお陰で比較的大人しい発狂の仕方をしてくれて本当によかった。
アークイラは最小国に属するが、もしもセレネが社交界デビューしていたら、アークイラの評判は地に堕ちるどころか、地中深く掘り進みマントルまで達してマグマを噴出し、アークイラは大炎上していただろう。
結果として、アイロネ女王のセレネ隔離政策によって、地面にめり込んだセレネが温泉を掘り当てるくらいで食い止めたわけだ。ありがとうアイロネ女王。
「でも、セレネは立派に育ちましたよ。私よりもずっと優秀で、ミラノ王子にも見初められるくらいです」
「……そうね。そういう意味では私は間違っていたのでしょう」
そんな事は無い。むしろアイロネは非常に有能な働きをしたと称賛されるべきだろう。だが、アルエもアイロネ自身も、セレネに対しどこか後ろめたさがあるようだった。
「丁度いいわ。アルエ、あなたに渡したい物があります」
「私に、ですか?」
アイロネはベッドから降りると、自室に用意されていた化粧台の引き出しを開けた。その一番奥から、小さな宝石箱を取り出し、アルエに差し出す。
「これは……指輪? これってまさか……」
「そう、私があの人から貰った婚約指輪よ。金銭的にはそれほど大したものでは無いけれどね」
アイロネは少し冗談っぽく笑いながらそう言った。小国であるアークイラでは高額な部類に属するが、大陸全土から見るとそこまででもない。特別な魔力を付与したりもされていない銀の指輪だ。特徴があるとすれば、アークイラの特産品である鹿の刻印がされているくらいだろう。
「アルエは小さい頃、それを欲しがっていたわね」
「ええ、お母様に内緒でこっそり持ち出そうとして、ものすごく怒られた事を覚えてるわ」
アルエはくすくすと上品に笑う。母にとって婚約指輪であり、大事な形見の指輪でもあるのだ。小さい頃は分からなかったが、今ならその重みがよく分かる。
すると、アイロネは両手でアルエの手を包み込むようにして、その指輪の入った宝石箱をそっと手渡した。
「アルエ、これをあなたにあげるわ」
「えっ!?」
突然の発言に、アルエは目を丸くして驚いた。これはアイロネにとって命よりも大事な物のはずだ。だが、アイロネは優しく笑いながら、宝石箱を返そうとするアルエを宥める。
「あなたはもう立派な王女であり、この国を背負うだけの人物なのです。だから、自覚を持ってもらいたいと思って」
「で、でも……これはお母様にとって大切な物じゃ……!」
「いいのです。あなたもその指輪に負けないような、立派な殿方と結ばれるといいわね」
「……本当にいただいていいのですか?」
アルエにとっては父の形見の指輪である。そんなものを貰っていいのかと逡巡するが、アイロネが頷くと、アルエも納得したようだった。
「分かりました。これはお預かりします。大切にしますね」
「そうね。私の棚で眠っているより、広い世界に出してあげた方がその指輪も喜ぶでしょう」
アイロネが疲れたので少し眠りたいと言い出したので、アルエは宝石箱を大事に抱え、そっと扉を閉めた。
「そうだわ。この指輪、セレネにも見せてあげなきゃ」
アルエと違い、セレネは父親の顔を知らない。せめて指輪くらいは見せてやろうと、アルエは足早にセレネのいる部屋へと向かう。
「セレネ、起きてる?」
「おきた!」
セレネは寝ていたが、アルエが近付くのを足音で感じ取って素早く身を起こした。普段にぶい癖にこういう時だけ異常な察知能力を発揮するのは何故なのか。時刻は既に陽が傾いて薄暗くなるくらいで、ちょうどセレネが活動しだす時間だったからかもしれない。
セレネは寝巻のままだったので、アルエは苦笑しながらアークイラに来るために用意したドレスに着替えさせた。アルエが着付けしてくれる時のセレネは、まるで等身大フィギュアになったように大人しい。
「セレネに見せたいものがあって」
「なに!? おっぱい!?」
「もう、セレネったら何を言ってるの? これよ」
アルエはセレネの失言をジョークと受け取ったらしく、笑いながら先ほどの宝石箱と中身の指輪を見せた。アルエと違い、セレネは無表情でそれを眺めている。
「なに、これ?」
「見ての通り指輪よ」
「へー」
セレネは冷めた反応だ。丸くて円形状だったらドーナツの方がセレネにとって価値がある。基本的にセレネは貴金属や権力に興味を示さない。人間の三大欲求に強く反応する性質を持った姫なのだ。
「ただの指輪じゃないのよ。これはね……婚約指輪なの」
「なんやて!?」
アルエの言葉を聞いて、セレネが急に大声を出す。なんで関西弁やねん。
「だ、だ、だれ、くれたの?」
「お母様よ。素敵な殿方と結ばれるようにって」
アルエが笑顔でそう言うと、セレネはなぜか顔面蒼白になった。その様子を、アルエは不思議そうに眺める。
「ね、ねえさま! それ、くれ!」
「えっ!? この指輪を?」
先ほどまであまり反応していなかったのに、婚約指輪だと知った途端、急激に興味を示し出した。そこでアルエはピンと来た。
(そっか。セレネはミラノ王子と婚約交渉の最中だものね)
父と母を結んだ婚約指輪だ。セレネにとっては形見であると同時に、お守りのような効果を期待しているのかもしれない。それに、自分と違いセレネは父の面影を知らない。だから固執するのだろう。
「分かったわ。これはセレネが持っていてちょうだい」
「うん!」
アルエが宝石箱を手渡すと、セレネはひったくるようにしてアルエの手から奪い取った。よほどこの指輪が欲しかったのだろうと、アルエは内心微笑ましく思った。それからセレネの頭を優しく撫でると、アルエはそのまま部屋を出ていった。
「くそがぁ……」
アルエが出ていった直後、セレネはアルエ成分が切れたのと同時にブチ切れていた。あのおばさん、何て事しやがる。
婚約指輪をアルエに渡すという事は、ミラノとアルエの婚約を認めた事になるではないか。ご丁寧に指輪まで用意しておくとは予想外だった。
セレネが持っているのはアイロネとセレネの父との指輪なのだが、主語が無かったのもあって、セレネはミラノとアルエ用にアイロネが用意しておいたと思ったらしい。
こんなものをアルエに渡すとはけしからん。アイロネ女王に速攻で返さねば。今ならまだ間に合う。そして、意地でもアイロネ女王を説得せねばならない。
「ペイオフだ!」
セレネは勝手に憤慨し、気合を入れ、敵地アイロネ女王の部屋へ単身乗り込む事にした。なお、クーリングオフと言いたかったらしい。ペイオフは全然違う意味である。
×ペイオフ=銀行が破たんした時に預金を一定額保証する制度。
○クーリングオフ=訪問販売などで一定条件内なら売買契約を解除できる制度。