少し不便な話
左の手首に巻いた時計の針が、カチカチと無情に回る。見て焦る間すらもったいない。背中にじっとりと汗が滲み、肺から妙な味が漏り上がってくるのを感じながら、バタバタと手足を動かした。
大遅刻だ。信じられない。ハートの女王に怯える白兎のごとく、「大変だ、大変だ」と泣きそうになっていた。
昨日億劫で切り忘れた爪のせいでキーを打つのが少し難儀だった。そもそも枕元に置いておいた目覚まし時計が自身の揺れでベッドから転落し気絶していたのも悪い。人が急いでいるって言うのにあれこれと用事を頼んでくるお局様の機嫌が妙に悪かったのは私の運が悪いのか。
やらなければならないことを全て片付けた頃には、約束の時間を一時間も過ぎていた。
待ち合わせの場所は、初めて行く駅の洒落た喫茶店だ。店名しか聞いていないが、駅の近くと言っていたし、そんなに迷うことなく着くだろう。
頭の中で必死に言い訳を組み立てながら電車の手すりを握り締める。すぐ後ろで誰かが音楽を聞いているらしい。シャカシャカとわずかな音漏れが耳障りだった。
窓の外、見慣れた景色が流れていき、自宅最寄よりも三つほど手前の駅で降りる。急いでいた足が先走り、踵に小さな衝撃が走った。
「うひゃっ」
ヒールをホームに引っ掛けたらしい。
電車とホームの間が開いておりますので、ご注意ください。
付け足すように流れるアナウンスに流れる。バランスを崩して膝から落ちた私を、後から降りてくる人がちらちらと見やる。冷めていた顔に血が上った。
泣けてきた。
「もう……やだ……」
いまさら急いだところでどうなるというのだ。もうとっくに遅れている。あと数分、数十分遅れたところで遅刻に変わりはない。ゆっくり言い訳を考えながら行くか。
開き直って立ち上がろうと顔を上げる。すると目の前に手が差し伸べられていた。
「大丈夫、ですか?」
学校帰りであろう高校生だ。恐る恐るといった態で、反応のない私に腰を屈める。
「怪我してませんか?」
大丈夫ですか、と繰り返す彼女に甘え、手を取った。頼りない手に立たされると、足首がふにゃりと嫌な方向に曲がる。思わず声を上げた。捻挫していたらしい。
「ありゃ、これ捻っちゃってますかね」
冷やすんだっけ、温めるんだっけ。おろおろと辺りを見渡す女子高生に、「いいよ、自分で何とかするよ」と手を振る。聞いているのかいないのか、彼女は何かを見つけて若干表情を明るくした。
「ジュンちゃん、来て来て」
彼女が手招きした先で、もう一人同じ制服を来た女子が駆け寄ってくる。
「どしたん、ナナコ。ってうわ、やだお姉さんてば、足腫れてますよ」
二人に支えられてベンチに座る。待ち合わせももうどうでもよくなってきていた。
ジュンちゃんが改札を出て行くと、ナナコが心配そうに私の足を見て言う。
「この駅、ホームと線路遠いですよね。私も一年のとき、よく転びました」
「そうなんだ」
「少し大股って意識しないと、今でも時々引っ掛けるんです」
「そ、そう。あの、ありがとうね。でももう大丈夫、ここで休んでればそのうち治るし」
「そんなわけにはいきませんよ」
宙に浮いたような口調が突然地に足を着ける。彼女の目は真剣だった。
「捻挫って癖になるんです。その日のうちにまた転んで、もう一回捻るってこともよくあるんですから。ちゃんとしておかないと」
よくあるだなんて、そんな物騒な。
「とにかくじっとしててください。あんまり動かさない方がいいです。たぶん冷やすんじゃないかな。たぶん冷やすんだと思います。もうすぐジュンちゃんが戻ってくると思うので、そしたら冷やしましょう」
先に帰ったと思っていたが、どうやらジュンちゃんは戻ってくるらしい。何をしに行ったのだろう。助けを呼びに、だろうか。
ホームに聴き慣れない音楽が流れる。隣でナナコがメロディをなぞっていた。完璧にコピーされた口笛に、鼻唄を重ねてみる。気付いたナナコがふにゃりと笑った。
転び仲間を見つけた親近感からか、数々のすっ転び武勇伝を力説する彼女の背中に、ほどなくして息を荒げたジュンちゃんが突撃する。ただいまと息絶え絶えに叫ぶジュンちゃんに、ナナコはおかえりと応じた。
「はい、お姉さん、これ、湿布。って、あぁ、ストッキング……トイレあっちだけど、行けそう?」
思わず、身を縮めた。
「買って来てくれたの? えぇ、どう、ええぇ、いくらだった?」
「そうじゃなくて」ジュンちゃんがぐったりとその場にしゃがみこむ。「ああ、やっぱり、腫れが酷くなってる。どうするんだっけ、ナナコ。冷やすの? 温めるの?」
「冷やすんで合ってるよ」
との答えはナナコではなく、ジュンちゃんの後ろから返ってきた。
突然現れた人物に、私たちは顔を上げ、固まる。
待ち合わせていた、その人だった。
「高藤さん……」
怒られる、と後退った私にジュンちゃんが食いつく。その目はキラキラと輝いていた。
「お姉さんの知り合い? すっごい、え、すっごーい、かっこい、写真に撮っておきたいな、美男子。あっ、あのあの、一緒にプリクラ撮りに行きませんかっ」
「ジュンちゃん、ジュンちゃん、お兄さん困ってるから」
宥めるナナコもしっかり高遠さんから目を離さない。二人は手を取り合ってきゃあきゃあとしばらく騒いだ。その間も私はビクビクと女王様の首切り執行を待つ。
はぁ、と笑顔で息を吐いた。笑顔に紛れさせていて二人には分からなかったようだが、私にははっきりと重い溜息が見えた。
「探したよ。ったく、遅いと思ったらこんなところで怪我してるだなんて」
目の前に跪いて、腫れた足首を持ち上げる。二人が押し殺した悲鳴を上げた。私も叫びたい気分だが、ちょっと彼女たちとは違う。
「やっぱり、遅刻だよな」
低い声にぶわっと治まっていた汗が噴き出す。
「はい、あの、仕事がちょっと、多くて、ええと、高遠さんはどうしてここに」
彼はぎろりとこちらを睨み上げる。ひぃ、と身構えた。
「おかげさまで汗だくだ。まったく」
そう言われて見れば、高遠さんの顔にはうっすらと汗が滲んでいた。探し回って、いたのか。俯く私の視界に、高遠さんの背中が現れる。
「ほれ」
一瞬、理解できずに間抜けな声を発した私の膝を、彼はひょいと両腕で抱えた。ひっくり返りそうになって慌てて大きな肩に掴まった。おぶるならそう言ってくれたらいいのに。さて、と彼は女子高生二人に営業用の声で話しかけた。
「お礼をしなきゃね。お嬢さんたち、時間あるなら一緒にお茶飲む?」
「えぇ、そんないい、」
「いいんですかっ」
遠慮がちに手を振ったナナコを遮ってジュンちゃんが身を乗り出した。
「最近出来た新しいケーキ屋さんがあるんですけど」
ジュンちゃんに連れられて四人で入った店は、偶然にも待ち合わせの喫茶店兼ケーキ屋だった。新しい店でも、あまり人は多くない。そこかしこで談笑しているのは子連れの母親であったり、ジュンちゃんやナナコのような女子高生が大半だ。明るく落ち着いた音楽は静かで程よい。足の痛みもいつしか気にならなくなっていた。フォンダンショコラとレアチーズケーキを互いに突付きながら、他愛もない話をして二人は帰っていった。
「いやあ、しかし駅にいるとは思わなかった」
アールグレイを啜りながら高遠さんは笑いを堪える。女子高生との会話ですっかり上機嫌らしい。ほっとして私も頷いた。
「よく見つけましたね」
「一度駅には行ったからな。ジュンちゃんが薬局から転げ出なかったら、駅に行くのはもっと遅くなったかもしれない」
「ころげ……」
「転んでたよ、あの子」思い出しながら彼は微笑む。「ずいぶん焦って、それが他人の君のためだなんて、すごいよな」
私はまた、深く頷いた。二人の顔を思い浮かべながら、そういえば、と返す。
「ナナコちゃんもジュンちゃんが駅を出て行った後、私の横にいてくれたんです。二人とも何も言ってなかったけど、ジュンちゃんが薬局に湿布買いに行くことを分かっていたみたい」
「いい友達なんだな」
「羨ましいなあ。私なんて高遠さんのこと全然知りませんでした」
高遠さんの眉が片方上がる。
「なんで過去形」
口元がカップで隠れていたため、はっきり表情は見えなかった。だから油断した。
「高遠さんが私のことを一生懸命探してくれるような人だった、なん、て……」
これ以上ないくらい良い笑顔がこちらを見ていた。
「だったなんて、何?」
「え、と……び、びっくり、したなぁー」
「心外だなぁー」
口調を真似されて、愛想笑いしか返せない。店員におかわりを頼んだ後、改めて目を合わせ、高遠さんは真顔で首を傾げる。
「また遅刻しても良いかな、なんて欠片でも考えてたら怒るぞー」
「はは、はははは」
怖いには怖い。しかしまあ、意外な一面が見られたことに頬が自然と緩んでもいた。
携帯電話が無いとどんな感じだろうかと思って書いてみたら、案外違和感が無くて……
もっとこういう感じになるんじゃないか、等あれば教えてください