『最後の音』
銀縁の丸眼鏡をした男が白鷺館の門をくぐった。
春の空気はまだ冷たかったが、頬を撫でてくる風に対して鬱陶しそうに軽く手を振るだけで彼は言葉を発することなくそのまま足を進めた。
男の名は、名倉響一。髪は黒く七三に分ければ整った髪型になるだろうに、無造作に撫でつけただけなのだろう、やや癖が目立っていた。濃紺の羽織の襟元からは白いシャツの端が覗き、灰色の袴の足元は黒の革靴という装いはどれも高価というわけではないが手入れが行き届いている。まるでこの日の為に下ろしたように。
響一は周りを見渡しながら進んでいく。石畳の道の両脇には枝垂れ桜が咲き始めていた。花びらはまだ硬く、風に揺れても散ることはない。だが、その蕾の間をすり抜ける風はどこか湿り気を帯びていた。遠くで誰かが炭を焚いているのか、微かに煤の匂いが混じっているのを感じ、響一は細い眉を一瞬だけ不快そうに上げたが、少し鼻をこすって気にしないように努めた。
白鷺館。
そこは、明治末期に建てられた洋館で、煉瓦造りの外壁に蔦が絡み、窓枠は白く塗られていた。屋根の上には風見鶏が立ち、今は南東を指している。
響一はそれを見つめると、その風向きに耳を澄ませた。
これは響一の癖でもある。
人より聴覚が鋭い彼はあらゆる音の些細な違和感に気付くことが出来る。
帝都の新聞記者という職について彼にとって例えどんなに些細な情報でも宝の種だ。その種を少しでも拾い上げるために、こうして自分の長所を生かして耳を傾けることが二十歳から職について六年経った今、すっかり癖づいていたのだ。
しかし、ここへは宝の種を拾うために来たわけではない。
響一が来たのは、本日この洋館で行われる演奏を新聞の文化欄に載せてほしいという依頼があったからだ。来るのは誰でも良かったのだが、音楽ならば耳の良い響一が適任だろうという編集者の命により足を運ぶことになったのだ。
その仕事を思い出した響一はすぐに耳を傾けることを止めて石畳を大股で進んだ。
すると、玄関前で待っている人影が見えた。
音楽評論家でもある、神崎礼一。
彼は燕尾服に身を包み、白手袋をはめていた。襟元には黒い蝶ネクタイ、胸元には金鎖の懐中時計が揺れている。彼の髪は七三に分けられ、ポマードの匂いが風に乗って漂ってきた。
その装いから、響一とは違う世界の人間だろうということが一目で感じられる高貴な姿であった。
「名倉さん、ようこそ。今宵は、音楽と沈黙の夜です」
神崎に促され軽く頷いた響一は館内に足を踏み入れた。
すると、靴音が変わった。
外の石畳とは違い、内側は磨かれた寄木細工の床。
響一の耳は、その音の反響の違いを即座に捉えた。
そこでとある違和感に気付いた。
一人だけ、足音を消す工夫をしている。
何故そんな必要があるのかとささやかな疑問が過ったが、響一が風に対し耳を傾けるのが癖のように、その人も音を消して歩くことが癖なのだろう。そこまで気にすることではないと結論づけた響一は改めて内装を見渡した。
サロンの壁には淡いクリーム色の壁紙が貼られ、金縁の鏡がいくつも掛けられていた。天井にはシャンデリアが吊るされ、ガス灯の柔らかな光が部屋を包んでいる。電灯ではないその光は、人々の息遣いに添うように揺らぎ、影を曖昧にする。
まるで、誰かの輪郭をぼかすように。
響一は一旦安い耳栓を両耳につけた。
人の多い所では、人のざわめきや足音が聞こえすぎて耳が痛くなることがある。その対策の為に、人が密集していて情報を拾う必要などない場所では、一般の人と同じような音だけ拾えれば十分ということで耳栓を常に持ち歩いていた。かといって全く聞こえなくなるのは困るので、ある程度音が聞こえてしまう安い耳栓という選択をしていた。
案内されたサロンは流石有名な白鷺館と言うべきか、両手に溢れるほどの人数が余裕で入れるぐらいの広さがあった。そして、そこに居るのは小奇麗な装いをしている人ばかりであった。
女性たちは絽や紗の着物にレースの羽織を重ね髪を洋風に結い上げており、髪飾りには真珠や鼈甲が使われ、耳元には小さなイヤリングが揺れている。男性たちはモーニングコートや和装にハンチング帽を合わせ、煙草の香りと香水が混じり合っていた。
様々な香りが満ちる空間であったが、幸い響一の鼻は一般人と同じ程度なのでその香りに困ることはなかった。
そのかわり、人の多さから暫くはざわめきが絶えないだろうと察し辟易としていた響一であったが、ふと全ての視線がとある方向に向き、静寂が訪れた。
響一もつられて視線を向け、つけたばかりの耳栓を外した。
注目されているのは今日の目玉であり、響一がここに連れてこられた理由。
演奏の舞台だ。
ピアノの調律音。
フルートの試し吹き。
誰かが紅茶を注ぐ音。
カップがソーサーに触れる微かな音。
誰かの咳払い。
そろそろ演奏が始まるのだろう。
舞台に立つ楽器を持つ演者たちに響一が視線を向けた時だった。
──キィィィ
金属が何かにこすれる嫌な音がした。
あまりにも深い極まりないその音に響一は思わず周りを見渡した。
だが、視界にはサロンの中に音の根源らしきものは見当たらない。ならば外だろうかと奥にある窓を見ると、どうやら庭に面しているようであった。ガラス越しに見える桜は光を受けて白く光り、まるで水面のように揺れていた。
その美しい光景はそうそう見られるものではない名倉響一は思わず窓辺に立ち、桜の音を聞こうと耳を澄ませた。
──カチ、カチ、カチ
すると、耳に入ってきたのは壁掛け時計の秒針が規則正しく時を刻むものであった。しかし、それがほんのわずかに遅れていることに響一は気づく。
誰かが、時計の針を触ってしまったのだろうか。
でもそれは不可能だ。秒針はむき出しではあるが、時計は天井に近い位置にかけてあって身長が170㎝ある響一がジャンプをしても届かない距離。劣化だろうか。それとも、掃除の際に何かが触れたか。
「名倉さん、こちらへ。演奏が始まります」
神崎礼一の声で響一の頭に浮かんだささやかな疑問は瞬時に消えてしまった。
仕事でここに来たことを忘れてはいけないという真面目な性格も勝り、神崎の案内に従いサロン中央の演奏席へと歩み寄った。
そこには、フルート奏者の朝倉美弥が立っていた。
彼女は、淡い藤色の着物にレースのショールを羽織り、髪はこの場に居る女性たちと同じように流行の洋風に結い上げられていた。髪飾りには小さな桜の花が添えられ、耳元には銀のイヤリングが揺れている。
「今夜は、ドビュッシーの『月の光』を吹かせていただきます」
朝倉の声は、静かで澄んでいた。
彼女が優雅な所作でフルートを唇に当てると、サロンの空気が変わった。
響一もその雰囲気に刺激され、急いでペンとメモ帳を手に持ち仕事を全うしようという頭に切り替えた。
──スゥ……
朝倉が短く息を吸い込む。
そして──音楽が、始まった。
フルートの音色は柔らかく、夜の庭に溶けていくようだった。
月の光を描く旋律は、まるで桜の花びらが空に舞うように軽やかで、儚かった。
だが、響一の耳は。
その中に異音を感じとっていた。
──キィィィ
またあの不快な音だ。
フルートの音に混ざって金属の擦れるような音が微かに響いている。
また周りを見渡してみるも、誰も気づいていないし、異変も感じない。全員の目はフルート奏者の朝倉に注がれており、美しい音色に耳を傾けている。
しかし、間違いなく不快な音が混ざっている。
思わず、響一は片耳を抑えた。
聞き心地の良いはずの演奏が後半にゆくにつれて、何か別の音が混じった聞きがたい不快な演奏となっていた。
メモを取ることも出来ず異音に気を取られている間に、ふと音が止まる。
拍手が起こったことで演奏が終わったのだと気づいた響一は、しまった、仕事を全うできなかった、と焦りを抱いた。だが、そんな響一の焦りなんて些細な出来事と言わんばかりに周りから不安と困惑に塗れたざわめきの音が波紋を広げていた。
演奏が終わったのに、演者である朝倉が全く動かないのだ。
彼女は椅子に座ったまま、ただただ静かに俯いていた。
「……朝倉さん?」
誰かが声をかけた。だが、彼女から返事が来ることは永遠になかった。
朝倉美弥の死は、まるで演奏の一部のようだった。
彼女は椅子に座ったままフルートを膝に抱え、目を閉じていた。頬には血の気がなく、唇はわずかに青みを帯びていた。その姿はあまりに静かすぎて誰もすぐに死と結びつけられなかった。
サロンの音が、一瞬にして変化していく。
誰かが立ち上がろうとして、椅子を軋ませた。
誰かがカップを落とした。
誰かが、何も言わずに庭へと出ていった。
その全てに対し、響一はただ、耳を澄ませていた。
──音が、足りない。
演奏前に聞こえた足音の数と、今のそれが一致しない。
誰かが、途中で音を消している。
そこで響一は、洋館へ足を踏み入れた時に音を消す工夫をしている足音がある、とささやかな疑問が過ったことを思い出していた。
「医者を呼べ!」
「毒か? いや、持病では」
「誰か、彼女に何かを」
ふと過った疑問を解き明かそうとする思考を遮るように、数多の声が飛び交う。
誰も彼女に近づこうとしていなかった。
それもそうだろう、誰が好き好んで死体に触れたいと思うだろうか。
ここで響一の記者魂がうずいた。まだ警察がいないこともあり、響一はそっと舞台へ近づき朝倉に触れないように観察した。大変整った顔立ちをしている朝倉は、死に顔すらも芸術品のように美しく、遠目から見ればただ眠っているだけと言われても納得してしまうほど静かに息を引き取っていた。一体何が原因でこのようになってしまったのか。何と無しに彼女が持つフルートに視線を落とすも、なんら異変を見つけることは出来なかった。
「名倉さん、あなたは記者でしょう。これは……事件ですか?」
神崎礼一が背後から囁いてきた。
振り向けば、背後にぴったりと張り付いていた。響一の行動を見て事件の真相を暴いてくれるのではないだろうかと感じたのだろう。その声には、恐れの中に期待が混じっていた。
「事件かどうかは、警察が決めることです」
響一は冷静に答えた。
自分はただの記者であり、警察や探偵などではない。下手に手を出したら職を失う可能性すらある。
これ以上は目立った行動は避けた方がいいだろう。
響一はそう判断した。
この館には、帝都の名士が集まっている。画家、作家、音楽家、そして陸軍の関係者。誰もが「名倉さん、これは内々に」と言うだろう。新聞に載せれば、響一は「空気を読めない記者」として干される。
大正という時代は、自由と抑圧が同居している。
女性が演奏家として舞台に立つことでさえ珍しいほどだ。
朝倉の場合は優れた才能と美貌を持っているから表舞台に立つことを許された選ばれし人間。
だが、それでも「誰の庇護下にあるか」と囁かれる事を避けることは出来なかった。
例えどれだけ彼女が優れた才能を持っていようと、美貌を磨こうと。
誰かお偉いさんの後ろ盾があったから、と噂されるのがこの時代では当たり前のことであった。
故に、彼女の死について誰かが「色恋のもつれ」と言い出せばそれで事件は終息となってしまうだろう。そして、朝倉という天賦の才を持った演者が去ったことで、その空いた席の奪い合いが始まる。さらに響一は、その空いた席に立った者の記事を書かされるためにまたこの館に招かれる。
そんな未来が容易に想像できてしまった響一は、これ以上ここに留まるのは時間の無駄だと判断した。
朝倉の死により本来すべき仕事がなくなったのだから、面倒事は避けるに限る。そう思い響一が踵を返した時だった。ふと、サロンの隅に立つ一人の使用人に視線が吸い寄せられた。
「朝倉さんの身支度をしていたのは彼女なのですが、喋れないのです」
そんな声が聞こえた。
見れば、その使用人は手話で必死に意思を伝えようとしていた。しかし使用人の前に立つ人たちは手話を嗜んでいないようで、彼女が何を訴えようとしているのか全く分からないといった表情を浮かべていた。
だが、響一の耳は彼女の『足音の癖』に気づいてしまった。
焦りともどかしさ。
早く伝えたいという必死な音。
──彼女は、何かを見た。
だが、証言はできない。言葉が出ないから。
そして、誰も彼女の音のない声を『証拠』として扱わないだろう。
「現場はここか」
凛とした男の声が響き、複数の足音がサロンへ入室する音が聞こえた。
どうやらこの辺を巡回対象にしている警察が近くにいたらしく、部下らしき数人をつれた強面で背丈の高い男が入ってきた。響一は少し悩んだが、リアルな捜査現場を目の当たりに出来るならばひとまずメモだけはとり、記事にするなと言われたら記事にせず、個人的に何かの資料として保存するのは有益だと考え、ペンをとった。
白鷺館のサロンは、警察が来たことによってさらに騒然としていた。
彼らは朝倉美弥の死体をくまなく確認していたが、どうやら特段成果はないようだ。彼女が何か持病を持っていたか、もしくは何か不慮の事故が起こったせいかと結論づけ始め『悲しい事故』として処理されかけていた。
胸糞悪い話だが、彼女が有名人であればもう少し丁寧な捜査がされただろう。しかし残念なことに、今日がその『有名になるための演奏』であり、響一が書く予定の新聞に載せるための日だった。故に、有名になる前の彼女は警察にとってもただの一般人と変わらない。例え、このサロンの中に有名人がたくさん居たとしても、明確な死の理由が簡単にわからないのであれば巡回や他の事件で忙しい警察にとっては、この事件は早く片づけたい案件にしか過ぎないだろう。
かといって、この杜撰な捜査模様を記事に書いてしまえば響一の首が危ない。
ならば現場に立った人間としてどのように書くのが一番か。
響一がペンで頭をかきながら悩んでいたその時。
女性が一人、突如警察の方へ駆け寄った。
彼女は十七、八歳ほど。髪を低く結い、地味な袷を着ていた。あの口がきけない使用人だ。彼女の足音にはわずかな癖があった為、メモに集中していてもその音に響一は気づいた。
他の人よりも、右足が半歩遅れるような足音だ。
彼女は警察たちの目の前に立つと、震える手で何かを伝えようとしていた。
指先が空を何度もなぞる。
だが、警察たちは困惑するばかりだった。
「何を伝えたいのだこの者は」
「恐らく手話です。誰か、手話がわかる者は──」
困り果てた警察の様子に、流石にこれは放っておけないと判断した響一は、協力したことで記事を優先的に書かせてもらえるかもしれないという淡い期待を抱いて手を挙げた。
「僕ならわかります。わたくし、記者の名倉響一と申します。様々な記事を書く上で手話を嗜んでおりますゆえ、そちらにご迷惑でなければお力添えさせていただきたく存じます。よろしいでしょうか?」
使用人の目が、ぱっと明るく見開かれた。
「記者、か……まぁ、手話が使える者が他にいないのなら致し方ない。すまないが、頼らせていただく」
部下を引き連れていた背丈の高い男が責任者であり警部なのだろう。記者、という言葉にやはり戸惑った様子はあったが、他に助けを求めるように視線を彷徨わせても誰も手をあげなかったことから、諦めたようなため息と共に響一に協力を仰いだ。
これは響一にとって良い方向に事態が傾く可能性が高い。上手くいけば協力報酬として率先して記事を独占させてもらおう、とこの現場には似合わない邪な期待を抱きつつも使用人の方へ視線を向けた。
彼女は、目が合った瞬間急いで手話を始めた。
「銀の指輪」
「庭」
「桜の下」
それは文章ではなく、単語を羅列させたような手話だった。
どうやら彼女は生まれた頃からの難聴なのではなく、ある程度音を聞き取れるが声を発せない何かの病気なのだろうか。その手話はまだ覚えたてと思ってしまうぐらいに単語を何とか並べた覚束ないものだった。
「ええっと、文章になってなくて単語だけを彼女は伝えているようです。ひとまず僕が読み取った言葉を繋げると、銀の指輪が庭にある桜の下にあるということ、ですかね?」
響一は出来るだけ、ゆっくり、ハキハキとした口調で言いながら手話を試みた。
すると、口唇を読み取ることは出来るようで、彼女は見るからに嬉しそうに頬を染め上げこくこくと頷いた。
「庭の桜の下? そこに何かあるということか? おい、そこのお前、庭の桜を見てこい」
「はっ、警部。すぐに行ってまいります」
警部の指示に、朝倉の死体を探っていた部下はすぐに手を止め敬礼をするとすぐにサロンから走り去った。素早い判断力に、この人はきっと優れた警察なのだろうな、と響一は感心しながら、再び使用人の方へ視線を向けた。
「何故、そこに何かあると知っているのですか?」
先ほどと同じように尋ねると、彼女は再び拙い手話を始めた。
「手紙」
使用人はその一言だけ手話すると、懐をごそごそと探ってくしゃくしゃになった便箋を一枚差し出してきた。
もし証拠に繋がる物なら何故最初に出さなかったのだろうと疑問に思いつつ響一は受け取り、読み上げた。
『美しき笛姫は永遠に死人の根元へ沈めた』
「なんだその手紙は」
あまりにも奇怪な文章に響一が首をひねっていると、横から警部が取り上げ同じように読みあげた。
「こりゃあ、どういう意味だ?」
刑事が使用人に向かって尋ねると、彼女は困ったように首を傾けながら「銀の指輪、庭、桜の下」という手話を再び繰り返した。
「ぬぅ、よくわからん。君は、事件の一部始終を見ていたのか?」
言葉が聞こえていなくても、警部の苛立ちは感じたのだろう。ビクリと肩を跳ね上げた彼女は泣きそうな表情で縋るように響一の方を見遣った。
「ええっと……これは記者としての解釈となりますが。おそらくですが、彼女はこのよくわからない文章の謎を読み解いた答えを僕たちに教えたかったのではないでしょうか?」
響一が手話をしながら発した言葉に、彼女はこくこく頷いた。
「つまりこの使用人は我々にこの手紙について伝えたかったということか。なら何故すぐに渡さなかった」
「いきなりくしゃくしゃの紙を捜査中に渡されても、警部さんたちは邪魔だと言って見てもくれなさそうなイメージが僕にはありますが、彼女も同じ気持ちだったのではないでしょうか?」
本来この発言は失礼に値するものだ。それでも今の状態を正確に伝えるのであれば、正確な情報を伝える仕事をしている響一としては言わずにはいられなかった。実際、警部は「ぬ、ぬぅ、そう言われると確かに……」と痛い所を突かれたとばかりに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「では、この手紙はどこにあったか教えてくれるか?」
自分の非を認め、捜査の情報集めにすぐ切り替える警部に感心しながら響一は手話で質問を伝えた。
すると使用人は一瞬顔を曇らせるが、恐る恐ると手話を始めた。
「部屋」
「彼女」
そこで一旦手を止め、舞台の方へ視線を向けて指をさした。
「朝倉さんの部屋にあった、だそうです」
「何故そこへ入った?」
被害者の部屋ということに警部の表情が厳しいものへと変貌する。ただでさえ強面であったため、使用人は怯えたように一歩後ずさった。そこに割り込むように響一は入り、慌てて警部をなだめた。
「彼女は朝倉さんの身支度をする使用人だったそうです。僕はずっとこのサロンにいたのですが、彼女は朝倉さんが演奏中一度姿を消していました。そして演奏が終わる頃にサロンにいました。つまり、朝倉さんがまだ生きている時に部屋の掃除をしてそこで見つけたのではないでしょうか?」
「ほぅ、何故そう言い切れる?」
早口に述べた響一の言葉に、疑いの目が今度は彼に向けられた。
しかし響一は仕事柄そう言ったマイナスの感情を含んだ視線に慣れているため、にこやかに笑ってみせた。
「僕はちょっと耳のいい記者です。些細な情報も逃さないようにしているのですよ」
そう言って響一がトントン、と自分の右耳を指すと「ち、厄介な記者め」と警部は憎々し気に吐き捨てた。そういった反応にも慣れている響一は「記者は憎まれ役なので、どうぞお好きに」と返した。
「とにかく状況は分かった。……が、情報が足りない。……致し方ない。ひとまず、先ほどお前さんが通訳してくれた桜の下を見に行くか。おい、お前たちもついてこい。気乗りはしねぇが、些細な情報でも見つけてくれそうな記者と一番被害者に近かった使用人がいたら俺たちには見つけられねぇものが見つかるかもしれねぇからな」
警部の言葉に、響一は一先ず安堵した。かなり挑発的なことを言ってしまった為、もし彼が性格の悪い短気な警部であればこの場からつまみ出されていたであろう。兎にも角にも捜査に同行出来るのは記者として好都合だ。響一はすぐ了承した。
「そうですね。見に行きましょう」
「君も大丈夫か?」
警部の問いかけに、手話がなくとも何を言われたのか分かったらしい使用人は頷き、響一の服の裾をぎゅっと掴んだ。どうやら彼女は響一に懐いてしまったようだ。うら若き少女にこのような接近のされ方をしたことは殆どないため響一は少々動揺したものの、これは殺人事件の捜査だと自分に言い聞かせ警部の後についていった。
庭へ着くと、桜の下には土がわずかに盛り上がっている場所があった。どうやら先についていた警部の部下たちが怪しいと思った場所を掘った後のようであった。
「あ、警部。こんなものが!」
こちらに気付いた男が小さな何かを掲げた。
銀の指輪だ。
「見せろ」
警部は手袋をはめて受け取ると、じっくり観察した。
「内側に被害者の朝倉美弥の名前が刻まれているな」
響一も出来るだけ近くから覗こうと足を踏み出そうとしたが、つんっと引っ張られる感覚がして振り向いた。
使用人が響一の裾を掴み、悲しそうに両眉を下げた表情をしていた。
「どうしましたか?」
手話を交えながら会話を試みると、彼女はおずおずと両手をあげ、手話をした。
「婚約」
「今日」
「終わったら」
「婚約……? もしかして、今日の演奏が終わったら朝倉さんは婚約予定だったということですか?」
響一の言葉に警部が「確かに、これは婚約指輪で間違いない。今日の演奏が終わったら、式を挙げる予定だった可能性が高いな。おい、この館の主人に被害者が演奏後結婚を予定していたか聞いてこい」と推理し、そのまま部下に指示を出した。
無言で敬礼し、すぐさま走り出す警察の背を視線で追いながら、響一も頭の中で言葉を整理していた。
朝倉美弥は演奏後結婚予定だった。
それはつまり、誰かのものになるということだ。
けれどその前に、彼女の命を誰かが奪った。
それはまるで。
──誰かが、彼女を所有するために殺した
ということは、やはり愛憎のもつれなのだろうか。
それはそれでスキャンダルになる。響一は警部に向かって記事の執筆許可を得るため「あの」と声をかけた。
刹那。
──キィィィ
不快な金属音が再び響一を襲った。
同時に、様々な声が聞こえてきた。
「持病ではないか」
「もし毒ならば誰が」
「可哀想に」
「まだ若いのにもったいない」
「やっと私の物になった」
喧騒に紛れてわずかに聞こえた勝利の声。
響一は思わず辺りを見回したが、庭は警部と使用人、そして自分しかいない。
では、音の出所は?
名倉響一は、耳を澄ませた。
──ザリ
誰かが歩いた音。だが、靴音ではない。布か、裸足か。音の粒が小さく、湿っていた。庭の奥、物置小屋の方からだった。
響一は「おい、どうした記者」という声を無視して走り出した。白鷺館の庭は洋風の造りでありながら、ところどころに和の意匠が混じっていた。石灯籠、苔むした飛び石、そして竹垣。その混ざり合いが、和と洋を絶妙に美しく表現していた。
西洋への憧れと、和の誇り。
それに慣れてからは、当たり前になった景色。
裕福な人々が訪れる館であるからか、響一が見たことのないものも多くあり新鮮なものが殆どだ。思わず足を止めたくなるが、彼の足は音のした物置小屋へと迷いなく向かっていた。
見ると、扉がわずかに開いていた。
「失礼、します」
その声かけは意味のないものだろう。
それでも、響一はその一言をかけずにはいられなかった。
扉を押し開けきってみると、中には誰もいなかった。
ふと、棚の上に置かれた古びた箱に目が吸い寄せられる。
何故かそれは半開きであった。
響一は思わずそれに手を伸ばし、開けた。 中には、無数の裁縫用の針。
それだけでもぞわりと背筋が泡立つのには充分であったのに、中心に一枚の紙きれがのせられていた。 〈見つけた、僕の仲間〉 「記者さん、何か見つけたのか?」
「あ……」 響一の心臓が跳ね上がった。
「それは証拠品か」 警部は響一の隣に立つと手元を覗き込んだ。
そして「これはこっちで預かるよ」と言って素早い手つきで箱を閉め、響一の手元を見た。
しかし、そこに書かれた文字を読むと、事件には関係のないものだと判断したのかすぐに目を逸らした。 「僕を、疑わないのですか?」
「疑ってほしいのかね?」
「い、いえ」
「まぁ他の奴らであれば疑うだろうな。だが私から見れば君は犯人ではない。それに」
警部は響一を見ると、にんまりと悪い笑みを浮かべた。
「勝手に物置を漁ったという事実を黙ってやるということで、これまでの捜査についての記事はなしだ。その代わり警察の希望通りの記事を書いてくれ。それで互いの利になるだろう。どうだ?」
「なるほど……」 やはり、頭のいい警察だ。
響一は了承の意として、お手上げとばかりに両手を上げた。
その夜。 朝倉美弥の死は、事故として処理された。
彼女は『体調不良を隠して演奏した』とされ、
新聞には『惜しまれる若き才能』とだけ書かれることとなった。
その記事の署名は、勿論、名倉響一であった。
朝倉美弥の死から三日後、名倉響一は再び白鷺館を訪れていた。
館は、何事もなかったかのように静かで、
庭の桜は少しずつ花を開き始めていてこの静かな風景にぴったりの景色であった。
しかし、響一の耳にはサロンに入った際に聞いたあの音が届いた。
──カチ、カチ、カチ 秒針の音。
規則正しいその音は、今日はずれていない。正しい時間を刻んでいる。
「ようこそお越しくださいました、名倉響一様。主様がお待ちです」
以前と同じように、館の入り口で神崎礼一が待っていた。
まるで、事件の起きた日を再現するかのように案内されていることに
妙な気持ち悪さを感じた響一は声をかけた。
「今日は屋敷の評判を上げるための記事を書いてほしいとのことでしたが、
どのような記事を主に書けばよいのでしょうか」
「お庭が素晴らしいことはご存知でしょう?
ですので、今度は室内ではなく外で演奏会を開くことになりました。
そうすれば二度とあのようなことは起こらないという主様の配慮です」
「なるほど」 「前回は警察が絡んでいたがために報酬も少なかったと聞きました。
本日のご依頼は色を付けさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「記者としてはありがたい話です」
「ああ、丁度着きました。こちらが主様の書斎となります。
二人きりでお話がしたいとのことですので、私はここで失礼いたします。
出口は二回目ですのでわかるかと思いますので」
「そうですね。大丈夫です。有難うございました」
「はい。では、失礼します」
神崎と一礼をし合った後、響一は書斎の扉へ向いた。
扉を数度ノックするとすぐに「どうぞ」と声が聞こえたので、「失礼します」と中へ入った。
その心中は、決して穏やかではなかった。
あの時物置で見つけたメモ。
新聞社に帰ってから、館から届いた封書の筆跡と比べて気づいたことがあった。
それも確かめたいという想いがあった為、響一はまだ事件が起きて間もない館からの招待を断らなかったのだ。
「名倉さん、お待ちしていました」 響一が中に入ると、
黒いスーツに身を包み、薄い色素の髪色をした男がいた。
男性にしては珍しく、女性と思えるほどの長い髪を後ろに結い背中に垂らしていた。
顔立ちは整っており、どこか作られた印象がある笑みを浮かべた彼の指先は、
机の縁をリズムよく叩いていた。
──カチ、カチ、カチ
秒針と全く同じリズムだ。
さすが、音楽を開く館の主である。
音のリズムに寸分の狂いがなかった。
「僕は、いつも音を聴いている。
とくにですね、音楽の始まる前の静寂が好きなのですよ」
突如男が発した言葉に、響一はどう答えればいいのか戸惑った。
何を言いたいのか、さっぱりわからなかったのだ。
「僕にとって彼女は“完成された音”だった。
だから、最後の音としてコレクションした。誰にもわからないでしょうけど」
──キィィィ
男の言葉と一緒に金属音のような耳鳴りが響いた。
そのため、響一には今の言葉が殆ど聞き取れていなかった。
「あの、すみません。ちょっと耳鳴りがしてしまって。
もう一度おっしゃっていただいてもよろしいでしょうか?」
響一の問いかけに、館の主は大層嬉しそうに微笑むと「気にしなくていいですよ。
僕の独り言でしたので。さぁ、僕の向かいの椅子におかけください。
是非、この絵を見てほしいのです」と、流れるような所作で椅子をすすめた。
そう言われてしまえば断るわけにも、追及するわけにもいかず、主に進められるがまま響一は椅子に座った。すると、一枚の絵が差し出された。 「これは?」 「桜の下で行う演奏会の図です。美しいでしょう」 「確かに、美しいですね」 「この絵を使って頂き、いかに外での演奏会が素晴らしいか宣伝してほしいのです」 「なるほど。では、こちらの絵は印刷の為にお預かりしてもよろしいでしょうか?」 「いいですよ。むしろそのまま貰ってください」 「それではいただきますね」 進められる会話は仕事のことのみ。 自分の身に何か起こるのではないかと一抹の不安を抱いていた響一は安堵しつつ会話を進め、脳内でどのような記事を書くか構成を始めていた。 「ああ、しまった。大変申し遅れました。私の名は志摩京介。ご察しの通り、この館の支配人でございます」 館の主、志摩の言葉にそういえば自己紹介を全くしていなかったとハッとさせられた響一は「こちらこそ失礼いたしました。記者の名倉響一と申します」と慌てて答えた。 「はい、大変、非常に、存じ上げております」 妙に熱のこもった口ぶりに、響一は言葉では測り知れない恐怖を抱いた。 謎の悪寒を感じつつも「あ、ありがとう、ございま、す?」となんとかお礼を口にした。 「さぁさぁ、次はこれを是非見てください」 そう言って志摩が広げたノートには、演奏会に参加するのであろう演者の名前が並んでいた。 「僕はですね、音を収集しているのです。彼らの“最後の音”を」 恍惚とした歓喜を含んだ志摩の言葉に、響一は鳥肌が無意識にたっていた。 「あの、最後、とは」 果たしてこれは聞いてよかったのだろうか。それでも、聞かずにはいられなかった。 「おや、わかりませんか?」 「そう、ですね。音楽にはそれほど聡いわけではありませんので」 「でも、耳がいいでしょう?」 「はい、そうですが……」 そこで響一は、はたと言葉を止めた。 響一の耳について知っているのは仕事仲間と警部と使用人のみ。もしかすると仕事仲間が口外している可能性はあるが、他の新聞会社にはない能力を持っているということで響一の耳の良さは秘匿情報とされている。それに、警部と使用人に対して言ったのも『ちょっと耳のいい記者』としか伝えていない。それなのに、志摩はまるでずっと前から知っているかのような口ぶりで『耳がいいでしょう?』と言った。 この人は、どこまで何を知っているのだろうか。 改めて志摩を真正面から見た響一は凍り付いた。 彼は、響一のことをまるでこの世で一番美しい宝石のようにうっとりとした瞳で見つめていたのだ。こんな風に誰かに注視され、肌で感じるほどの好意を見せられるのは初めてで響一は身の危険を感じていた。 「あなたは、僕と同じだ。音で世界を見ている。誰も気づかないのに、あなただけが気づける。だから、僕は確信したのですよ。あなたは僕の仲間だ」 志摩の声の弾みようは無邪気な子供のようだった。 しかし、彼の指す仲間とは何なのか。 どうして自分を仲間だと言うのか。 響一にとってわからないことだらけだった。 ただ、一つ確信したのは。 ――早くこの場から離れなければならない ずっと響一の直感がそう告げている。響一は膝の上に載せた握りこぶしの中にじんわりと冷や汗が滲むのを感じながら、乾ききった唇を何とか開いた。 「ぼ、僕は、次の仕事もありますので、そろそろお暇させていただこうかと思います」 「ああ、そうでしたか。それは……非常に残念だ。あなたともっとお話をしたかったのに」 残念そうに言いつつも、志摩は意外にもとんでもなく優しい笑みを浮かべて言葉を繋げた。 「うんうん。そうだね、すぐには受け入れられないよね。ならば、あなたが僕の思考に追いつくまでもっと音の美しい人を選んであげよう。あなたが、僕の音を理解できるようにとっておきの音をね」 「今日はありがとうございました。失礼します」 気づけば響一は志摩の言葉を遮るかの如く跳ね上がるように立ち上がり、書斎から素早く退出した。 息が苦しい。それもそうだ。響一は普段全くしない全力疾走で館の出口に向かっていたのだから。 ――これ以上関わるべきではない 記者としての直感がそう告げていた。 例えこの行動が失礼に値していたとしても、これ以上、志摩という男の言動を聞くべきではないと。 仕事をさっさとすませて、彼との関係を断ち切ろう。 館を出た瞬間、そう決意した響一であった、が。 運命はそう簡単に彼との出会いを否定してはくれなかった。 その翌日、帝都の新聞社に一通の封書が届いた。 差出人は不明。 嫌な予感がして響一は開けられなかったが、見かねた職場仲間が封筒を開けた。 中には、短い予告文があった。 『次は、帝都音楽院の教授。 彼の最後の音は、あなたにしか聞こえない。 名倉響一が同行しなければ、真実にたどり着けない』 自分たちの新聞の文字を切り取られて作られた手紙に、案の定、新聞社は騒然となった。 そして勿論の事、警察が動き、響一は呼び出された。 警察署の応接室で彼を待っていたのは、あの時出会った警部ではなく、響一と年の近そうな刑事だった。 「名倉さん。私は警視庁捜査課の三枝です。お話は弓柄警部から伺っております」 弓柄とは事件の日に合った強面の警部のことだろう。あの日のことを思い出しつつ目の前の彼を見ると、温和な雰囲気を纏いつつもあの警部に負けないほど鋭く、何もかもを見透かすような瞳の光を放っていた。 「上は“民間人を捜査に巻き込むな”と怒っています。弓柄警部もその一人です。が、予告文にあなたの名がある以上、あなたがいなければ捜査は進まないと私は判断いたしました」 そう言って、三枝刑事は新聞社に届いたのと同じ手紙を見せた。どうやら、警察にも全く同じものが届いているようだった。 「僕は……どうすればいいのでしょうか」 震える声で答えた響一に、三枝は少しだけ沈黙した。 だがそれは本当に数秒だけ。 「私があなたを守ります。なので、ついてきてくださるだけで構いません。命の保障も、報酬も弾ませていただきます」 そう言って、ニヒルな笑みを浮かべ頬の横で人差し指と親指を使って丸を作る三枝。誰でもわかる。お金を示すポーズだ。 本当は、気乗りがしなかった。 だが、記者というものは割とその日暮らし生活でお金はあればあるほど助かることも事実。 それに警察直々に真正面から頼まれてしまえば、断ることは許されなかった。 響一は観念し、了承することにした。 こうして警察の上層部は「名倉響一が同行すること」を条件に、音楽院の警備を強化した。そして名倉響一は否応なく「捜査協力者」として捜査に巻き込まれることになった。 そして、志摩京介は。 刻一刻と、準備を始めていた。 ──キィィィ 「ああ……」 裁縫用の針が山ほど入った裁縫箱を開けて、志摩は恍惚と笑む。一度警察に持ち帰られたが、ただの針しか入っていないため返された箱。今その中は、毒針で満ちている。 この箱に、名倉響一が触れた。名倉響一だけが気づいた。名倉響一だけが、聞いてくれた。 「この世に生きる者は美しい音を奏でられても私の鳴らす音に気付かない愚鈍な者ばかりだった。しかしやはり黄金の神ムーサは私を見捨てはしなかった。やっと私の理解者に出会わせてくれた。あとは彼が私の仲間だと気づかせるだけだ。それにはどうやって私が殺したのかを気づいてもらわなければいけない」 志摩は裁縫箱を愛おしそうに撫でた。 彼の手にある裁縫針。 それは全て、毒針。 事件の日、志摩はずっと桜の下に居た。 長い自分の髪の毛を専用の手袋をつけて器用に結び、長い糸を作りあげた。そこに裁縫箱に入っている毒針をくくりつけた。庭に寄って来る毛虫や蜂の毒を抽出して作成し、針の先端に付け込んだ特性の毒針たち。その中で一番多いスズメバチの毒を演奏前の朝倉と握手を交わす時に、一度刺しておいた。手袋の人差し指の先端から針の切っ先を少し出しておいたので、相手は握手の瞬間に静電気でも起こったのかという錯覚を起こす程度のちくりとした痛みしか感じない。実際に、朝倉は「いた、あら?」と針を刺された手首を見たがあまりにも小さすぎる針の穴を見つけることはできなかったようだ。後々刺された場所は色が変わっていただろうが、丁度血管の位置を刺していた為、少々青くなっている内出血程度にしか思われなかった事だろう。 仕上げは演奏の瞬間だ。 朝倉の椅子の座る場所に針を隠していた。それは髪の毛で全て結ばれた長い糸に繋がっている。髪の毛は秒針に繋ぎ、演奏が始まる時間と共に秒針が動き糸の仕掛けが作動する。秒針の動きに合わせて糸が引っ張られ、椅子の下からゆっくりと針の先端がむき出しになり、座っている演者の太ももにゆっくりとささる。 演奏中の演者はプロだ。 些細なイレギュラーごときで演奏を止めるわけにはいかない。 例え太ももにチクリとした違和感があっても、我慢して奏でたことだろう。 指に力が入らなくなり、呼吸が苦しくなっても。 どれだけ痛くても。 視界が朦朧としても。 耐えて、耐えて、最後まで美しい音を奏でる。 その命が尽きるまで。 「その瞬間が一番美しい」 演奏が終わり、ざわめきが起こったあたりで糸を引く。 秒針に糸が絡んでいる為少々金属音をたててしまったが、あのざわめきの中で聞こえるはずもない。志摩は青紫と血の色で滲んだ切っ先の針を回収して桜の木の下を踏みつけた。 「これで美しい笛姫の音は永遠に私のものだ」 満足感と背徳感。 この瞬間がたまらなく志摩に快感を与える。 今頃、声を出せない使用人が演奏中に見つけたメモを誰に伝えるべきか悩んでいる頃合いだろう。 「さて、いつ気づくだろうか」 桜の木が見える物置にでも隠れて見守っておこうか。 そう思いついて早速物置に入っていれば、なんとすぐに警察が桜の木の下を捜査しはじめたではないか。 あまりにも早すぎる。使用人が優秀だったのか。 それはそれで面白いと思いきや、使用人と警察ではない人物が登場した。 もしや、と直感が働いた志摩は物置に置いていた、まだ毒に染めていない針たちが入っている裁縫箱を開けた。 そこで、針と針をこすり合わせる。 常人には聞こえない、不快音。 それを鳴らしてから、物置の扉はあえて半開きにしたまま、志摩しか知り得ない隠し扉からそっと脱出して一切足音を立てず桜の方にいる人物たちからは見えない影に隠れながら、だがこちからはのぞき穴を使って庭を見渡せる一室に入り庭を伺った。 そこで、名倉響一が物置に走りこむのを見た。 あたりを何度も見渡した彼はなんと、志摩と目が合った。 だが、眼鏡をかけているもののそこまで視力はよくないらしく視線はすぐ逸らされた。 けれど気配を察知しているのは確かだった。 つまり彼は。 「私と同じく神に選ばれた耳の持ち主だ」 志摩は歓喜した。 今まで自分の感性に称賛してくれるものはいても、同じように音が聞こえる者がいなかった。 見つけてほしい。 彼の手で。 彼の耳で。 私という同類を。 高揚した志摩はあの純粋な瞳を忘れなかった。 名倉響一という人物が欲しくて欲しくてたまらない欲求に支配された。 故に、今まで隠し続けていた音のコレクションを予告した。 なぜなら、志摩にとって。 これからの『最後の音』のコレクションは。 「名倉響一がいないと意味がない」
終




