1 プロローグ 終わりの声
最後に聞こえたのは、ブレーキの悲鳴と、誰かの叫び声。
――ああ、まただ。
横断歩道の白線が、やけにゆっくり流れていく。空は夕焼けで、まるでステージのスポットライトのように眩しかった。 男は倒れながら、そんなどうでもいいことを考えていた。
三十歳。 売れない歌手。 名前は、もうどうでもいい。
高い声が出なかった。それだけで、夢は遠ざかっていく。 メインボーカルになれず、いつも後ろでハモるだけ。コーラスの仕事は嫌いじゃなかったが、胸の奥に刺さった「主役になれない」という棘は、最後まで抜けないままだった。
――せめて、一度でいいから。
誰かの心を震わせる歌を、歌ってみたかった。
意識が暗転する直前、男は祈るように呟いた。
「‥‥‥次があるなら、声をくれ」
◇水瀬しずくという少女
「おぎゃあ」
その願いは、思いがけない形で成就する。
目を覚ましたとき、世界はやけに大きく、ぼやけていた。だが、自分の喉から漏れた声は――信じられないほどに澄んでいる。
(‥‥‥声、高っ)
それが、水瀬しずくとしての最初の記憶。
女の子として生まれ変わったことを理解するのに、時間はかからなかった。前世の記憶は夢のように曖昧だが、「歌えなかった後悔」だけは、妙に鮮明に焼き付いている。
だから、彼女は迷わなかった。
物心つく前から歌い、言葉より先に音程を覚えた。 母親が流す童謡を正確にトレースし、幼稚園では先生よりも正しいピッチで歌う。そのせいで、少しだけ浮いた存在にもなった。
「しずくちゃんの声、天使みたい」
誰かがそう言った日、胸の奥がきゅっと熱くなる。
前世では、一度も得られなかった言葉。
両親の勧めで始めたボイストレーニングは、彼女にとって遊びであり、修行でもあった。呼吸、発声、共鳴。 幼い体に無理のない範囲で積み重ねた基礎は、やがて才能と結びつき、唯一無二の声を形作っていく。
気づけば彼女は、「天使の歌声」と呼ばれるようになっていた。
◇十四歳、仮想世界のステージへ
十四歳になった春。
水瀬しずくは、自室のデスクでモニターを見つめていた。画面に映るのは、淡い水色の髪をした少女。自分自身をモデルにした、VTuber用のアバターだ。
「‥‥‥よし」
小さく息を吸い、マイクの前で姿勢を正す。
前世では、オーディションに落ち続けた。
でも、今は違う。この声がある。積み重ねた時間がある。
そして――顔を出さずとも、歌だけで勝負できる場所がここにある。
「はじめまして。新人VTuberの、水瀬しずくです」
自分の声が、ヘッドホン越しに返ってくる。 澄んでいて、柔らかく、それでいて芯がある。
(これが、私の声‥‥‥)
胸の奥が震えた。
デビュー配信の最初に選んだのは、オリジナル曲でも流行の曲でもない、静かなバラード。 前世、ステージの隅から何度も聴いた思い出の曲だ。
歌い出した瞬間、コメント欄の動きが止まった。
音の一つ一つに感情を乗せ、言葉を大切に紡いでいく。
それは、主役になれなかった男が、何十年ものあいだ温め続けてきた歌い方だった。
♪――
曲が終わったとき、画面は無数のコメントで埋め尽くされていた。
『声、やばい』『本物の天使?』『涙出た‥‥‥』
水瀬しずくは、静かに微笑む。
「‥‥‥ありがとう。プロを目指して、ここから頑張ります」
それは宣言だった。 仮想世界から、現実のステージへ駆け上がるための、最初の一歩。
かつて歌えなかった男の夢は、 今、少女の声となって、確かに世界へ届き始めていた。




