第1話『私は僅か八歳にして世間の冷たさを知ったと言っても過言では無いだろう。』
私こと藤崎綾乃はどこにでもいる普通の人間である。
何かスポーツで秀でているという事もなく、勉強が凄い出来るわけでも無い。
テレビに出られるほど可愛くも無いし、絵を描いたり、音楽を奏でる才能だって無い。
ごく普通の人間だ。
しかし、世の中にはそんなごく普通の人間の中にもしっかりと上下関係が存在しているのは誰もが知っている事だろう。
例え一億人の中の一人にはなれなくても、数百人、数千人の中でならトップになれる人間というのは居るのだ。
ならば、彼らだってその数百人や数千人の中では煌びやかに輝くような人間だろう。
そうであるならば、果たして私は何人であればたった一人の特別な人間になれるだろうか。
答えは分からない。
そもそも私は自分を特別な人間だ。なんて感じたことは無いのだ。
生まれた時からそうだった。
何故なら私には優秀な姉が居て、私に出来る事はずっと前に姉が全てやっていたからだ。
おおよそ姉の劣化品として生まれてきた私は、幸いと言うべきか両親に多大な期待を寄せられる事もなく、穏やかに育った。
ただ、その代わりと言うべきか。
何かを頑張ろうという気持ちもあまり持てずにいたことは確かである。
別に姉のせいにすることは無いが、勉強もスポーツも、どうせ姉には勝てないという卑屈な気持ちが私の中には常に存在していた。
ただ、それだけは事実である。
そんな私の平凡な生活は平凡に過ぎてゆき。
小学校に入学するまで何ら大きな出来事は無く、小学校も半分が通過する頃になってもまだ何も起こっていなかった。
波風など存在しない穏やかな世界。
何となくこのまま私の人生は何も輝くことなく終わっていくんだろうなと思っていた。
でも、それは大きな間違いであると思い知らされる事件が起きた。
それは恐らく、私以外の人たちからしたら大した出来事では無かっただろう。
だが、私にとっては間違いなく大事件だった。
切っ掛けはある男の子が発した発言だ。
「あーコイツ、学校に漫画持ってきてるぞー!」
そう言われ、私は読んでいた本を奪われてしまった。
それはいくつか挿絵があるだけで、別に漫画では無いのだけれど、その男の子はちょうど絵の所を見つけてそう叫んだようだ。
私は当然取り返そうと手を伸ばすが、運動能力が大して存在していない私にとって、男の子から取り返すのは至難の技であった。
しかもその子だけでなく、他の子まで一緒になって本を渡し合いながら私に取られない様にしていたのだ。
当然複数人の中でそんな事をされてはどうする事も出来ず、私は半ば涙目になりながら本を追いかけた。
同性の女の子もクスクスと笑っているだけで誰も助けてはくれない。
孤立無援だ。
私は僅か八歳にして世間の冷たさを知ったと言っても過言では無いだろう。
このまま永遠に地獄の様な時間は続くのかと、私は胸が締め付けられるような気持ちになったが、それは唐突に終わった。
ちょうどクラスに居なかった二人の男の子が教室に入ってきたからだ。
「だー! 暑い!」
「そうだねぇ」
「古谷君は大丈夫そうだな?」
「慣れてるからね」
二人はごく普通に会話をしながら教室に入ってきた。
その二人の登場に場の空気は一瞬止まったが、私がその止まった空気の中で本を取り返そうとした時に、また同じ時間が動き出してしまった。
本を手に持っていた一人が古谷君に本を投げ、私が悲鳴を上げるよりも早く古谷君はそれを綺麗にキャッチすると、私と本を投げた男の子に目を向けた。
「なに? どうしたの?」
「コイツ、漫画持ってきてたんだぜ? それでボッシューしてたんだよ」
違う。それは漫画じゃないと言おうとしたけれど、教室中から突き刺さる視線に、私は手が震え何も言い出す事が出来なかった。
「ふーん。漫画ねぇ」
古谷君は本を丁寧に一ページ、二ページとめくり、中を確かめてからすぐ横にいた鈴木君に目を向ける。
鈴木君は興味無さそうだったが、古谷君の視線を受けて本の中を確かめて、噴き出した。
「ワハハ。これが漫画かよ! お前、バカじゃねぇの!?」
「どこからどう見ても、小説だよ。これは」
「なっ」
「少しは本読めよ。テレビばっか見てるから小説と漫画の違いもわからねぇんだろ」
「違う! 俺は! お前のせいだ!」
私はすぐ傍にいた本を投げた子に付き飛ばされ、床に投げ出されお尻と手を打って痛みに涙が滲む。
しかもそれだけで終わらず、男の子は私に向かって強く握った手を振り下ろそうとしていた。
それを見て、私は思わず目を閉じ、痛みが来るのを待った。
だが、いつまで経っても痛みは来ない。
どうしたのだろうと薄目を開けると、そこには男の子の手を握り、私を庇う様に立っている古谷君の姿があった。
「悪いのは君だ。藤崎さんに当たるのは違うだろう」
「っ! 違う! 俺は最後に持ってただけで、最初に始めたのは小林だ! 俺は悪くない!」
「悪いよ。小林君も君も。止めなかったクラスの人はみんな悪い。悪くない人なんて居ないだろ」
古谷君はそう言いながら、男の子の手を振り払い、私の方に振り向いた。
そして、さっきまでの怖い声とは違っていつもみたいな優しい声で話しかけてくれる。
「大丈夫? 藤崎さん。立てる?」
「えっと、痛くて、難しい」
「そっか。じゃあ抱きかかえちゃって良いかな。保健室まで連れていくよ」
「えっ、い、良いけど。私、きっと重いよ」
「大丈夫。鍛えてるから」
古谷君はそう言うと、私を横抱きにして歩き始めた。
その足取りはしっかりとしていて、私はそのお姫様抱っこという可愛い女の子にしか許されていないハズの行動をされながら保健室を目指すのだった。
「古谷君。保健室に行くなら僕も行くぞ」
「君は授業に出なよ。サボりは良くないよ」
「これも人助けだからな! しょうがないと思わないか?」
「僕は少しも思わないね」
「ワッハッハ。古谷君は手厳しいなぁ」
何だかんだと笑いながら鈴木君も古谷君について、一緒に保健室に来てくれた。
そして鈴木君は保健室の先生にやや大げさに先ほどの出来事を伝え、この問題はやや大きな問題となった。
とは言っても、先生から少し話があった程度で、それ以上の何かがあったという訳じゃないけれど。
それでも、私にとってこの事件は大きな事件となった。
何故なら、あの日から。ずっと、古谷君が気になって、古谷君を目で追ってしまうからだ。
見ているだけでドキドキと心臓が早くなって、目が合うだけで頬が熱くなって思わず視線を逸らしてしまう。
夢に見るのはあの時、私の前に立ってハッキリと言葉を紡ぐ古谷君の格好いい姿だ。
でも、それだけじゃない。
古谷君は周りの男の子みたいに、騒いでおらず、いつも落ち着いて話をしていた。
困っている人にもすぐに気が付いて、手を貸している。
しかも、それはすごく自然で、助けられた方もそうだと気づけていないくらいだ。
なんて格好いい人なんだろう。
私は古谷君を見ているのが楽しくて、授業中でも、休み時間でも何となく古谷君の姿を探す様になっていた。
そして毎日古谷君を見つけ、今日も良い一日だったなと思うようになり。
古谷君を見つけるのが日課になっていた。
そんな日々を送っていたある日。私はこの気持ちが、恋という名前の現象であると知るのだった。