婚約者は淑女ではなかった
「恥をかかないように」
それは、耳にタコができるほど繰り返された、母の口癖だった。
セシリアは、オリアン公爵家の公女として生まれ育った。
豪奢な邸宅、絹の衣服、贅を尽くした食事、取り巻く人々さえも——まるで飾り物のように整えられた、欠けることのない生活。そこに不足は一つもなかった。ただし、親からの愛情を除いて。
両親の仲は冷え切っていた。父ヘルゲは家の後継としての義務を背負い、母ヨハンナは名門ハルネス家の娘として厳格に育てられた。
幼い頃から決められていた二人の婚約は、家柄を尊重したものにすぎず、そこに二人の感情が考慮されることはなかった。歴史あるオリアン家とハルネス家においては、それが当然のことだった。
結婚前に大恋愛を経験した母は、自身を家の繁栄のための道具としか見ない生家のハルネスはもちろん、嫁ぎ先オリアン家のことも心から嫌悪していた。
貴族に求められる“義務”を果たした母に、もはやヘルゲとセシリアに向ける愛情は残されていなかった。
母が唯一セシリアと向き合ったのは、彼女の学びに関することだけである。セシリアを“失敗作”にしないため、母は教育に熱を注いだ。雇われる講師は皆一流。だが、成績が少しでも伸び悩めば即座に解雇され、セシリア自身も叱責された。
「字が乱れている」「音程が狂っている」「歩き方が汚い」——どれほど努力しても褒められることはなく、失敗は即座に矯正された。指先が震えるまで繰り返しペンを握り、完璧な姿勢で数時間立ち続けることもあった。
講師たちも必死だったのだ。資金を惜しみなく注ぐヨハンナに見捨てられまいと、彼らはセシリアをさらに厳しく追い込むしかなかった。
一度だけ、父が母に「度が過ぎる」と苦言を呈したことがあった。母は「あなたともう一度など、あり得ないわ!」と吐き捨てた。以来、父は娘と妻から完全に距離を置き、無力な沈黙だけを選んだ。
やがてセシリアが十二歳になり、寮制のストールバリ学院へ入学すると、物心ついた頃から続いた母の監修は終わりを告げた。すでに「貴族の淑女」として完璧に仕立て上げられたからだ。仕草一つに至るまで寸分の狂いもなく、歩く姿さえ美しい絵のようだと評されるほどに、母による教育は成功を収めていた。
母はセシリアを“貴族の令嬢”に育て上げると、家を出て行った。貴族が離縁することは滅多にない。母は王都からも、領地からも、遠く離れた別荘で自由に暮らしていると伝え聞く。以来、一通の手紙すら寄越さなかったが、セシリアは寂しいとは感じなかった。むしろ、「ようやく解放された」とさえ思ったのだ。——もっとも、それは強がりだったのかもしれない。学院での生活もまた、常に模範であることを求められ、緊張から逃れることはできなかったから。
* * *
完璧なセシリアが唯一心を開いた相手が、侍女のモナだった。
地方の貧しい子爵家の出身であるモナは、公爵家に生まれたがゆえに厳格すぎる教育を強いられるセシリアを気の毒に思っていた。
裕福でありながら、子供らしく成長することを許されない環境に置かれたセシリアの姿に、モナは胸を痛めていたのである。
そんなセシリアに、一冊の本を渡したのが始まりだった。『サバイバル術』。
田舎で生まれ育ったモナにとって自然は身近な存在だった。名ばかりの子爵家に生まれ、平民とほとんど変わらぬ暮らしを送り、狩り好きの父のもとで育った彼女にとって、それは愛読書でもあった。
十歳だったセシリアに、新しい扉が開かれた。
それは、セシリアにとって初めての“娯楽としての読書”だった。母に見つからぬよう王国史のカバーをかけて隠しながら、一語一句諳んじるほど読み込んだ。
セシリアが行動を起こしたのは、ほどなくしてのことだった。
まだ誰も目を覚まさず、太陽も昇る前の薄闇の中。セシリアは窓からそっと抜け出し、初めて木登りをした。木の上から眺めた朝日は驚くほど美しく、夏の朝の涼しい風が頬を撫でるのが、なんとも心地よかった。
その朝、いつものように部屋を訪れたモナは、泥だらけでボロボロの姿をしたセシリアを見つけて絶句した。けれど、満面の笑みで木登りや朝日の感動を語るその姿は、まぎれもなく年相応の少女だった。
その日を境に、セシリアは息抜きのように邸を飛び出し、自然の中を駆け回るようになる。そしてモナは、そんな彼女が見咎められぬよう密かに手を貸した。二人だけが共有する、大切な秘密だった。
やがてセシリアがストールバリ学院に入学してからは、その息抜きは長期休暇の間に限られるようになる。だがその反動か、休暇に入るや否や、一日中裏山で過ごすことも珍しくなかった。母はすでに家を去り、邸に残るのは娘への関心をとうに失った父だけ。誰に咎められることもなかったのだ。
王国一の淑女と称えられる少女が、森を駆け回り、枝から枝へと飛び移り、腹が減れば自ら食料を調達し、調理までしてしまう。——そんな野趣あふれる秘密を、誰一人知る者はいなかった。
◆ ◇ ◆ ◇
「俺をこれ以上失望させるな」
冷え切った声が、刃のように胸へ突き刺さる。
ケネトは拳を握りしめながら、それでも父に縋ろうとした。
ケネト・ラーシャルド。
ラーシャルド王国の王子。
王である父のクラースはケネトの母であり、王妃であったシヴィを愛していた。
シヴィは王妃にふさわしい血筋ではなかった。クラースが王太子であった頃、二人は出会い、恋に落ちた。まだ婚約者が決まっていなかったクラースはシヴィを連れて王宮へ戻り、周囲の反対を押し切って婚約を宣言した。貧しい男爵家に生まれ、兄弟も多く学費や生活費に困っていたシヴィにとって、王宮に入ることは家族を助ける現実的な選択であった。だが、彼女の心には次第にクラースへの真実の愛が芽生え、結果として二人は互いを深く求め合うようになった。
しかし、シヴィの体は弱かった。
病弱であったシヴィを心配するクラースに対し、シヴィは強く子を望んだ。やがて生まれたケネトは彼女の喜びであり、同時に命を削る存在ともなった。
クラースが必死に彼女を労わっても、彼女の体調は悪化の一途をたどり、ケネトが六歳の時、ついに命を落としたのだった。
クラースはシヴィだけを深く愛していた。そのため、ケネトに関心を向けることはなく、むしろ彼をシヴィの体調を悪化させた元凶であるかのように——忌み嫌った。
けれど、シヴィは違った。彼女は幼い息子を何よりも愛し、亡くなる直前、幼い息子にこう語りかけた。
「クラースは不器用な人なの。辛い思いをさせてごめんね。ママの身体が弱いのは昔からなのよ。決してケネトのせいじゃないわ。それだけは忘れないでね。……ママは、ずっとケネトを愛してるわ」
王妃を失った国王に対し、臣下たちはこぞって新たな妃を迎えるよう強く勧めた。ケネト王子一人では、もしものときに国の安定が揺らぐと考えたのである。しかし、クラースが首を縦に振ることはなかった。
「二度とそんな言葉を口にするな」
その言葉とともに、彼はすべての進言を一蹴した。
幼いケネトは父と仲良くなろうと何度も試みた。だが返ってきたのは、「失望させるな」というような冷たい言葉ばかりだった。
シヴィに似て、おっとりとした性格のケネト。クラースのように威厳に満ちた振る舞いはできず、その柔らかさが、むしろ臣下たちの「新たな妃を」という声を後押ししていた。
「……お前がしっかりしていれば、臣下たちからくだらない新妃の提案などされずに済むのに」
シヴィの命日に、クラースがぽつりと零したその言葉が、ケネトを変えた。
彼は笑わなくなった。声から抑揚が消え、表情は固く凍りついた。
彼は父に認められようと、ひたすら完璧を求めた。母に似た可愛らしい笑顔も、優しい性格も捨て、十歳になる頃には“鉄の子”と呼ばれるほど冷たく無機質な人間へと変わっていった。
もともとクラースに似ていた容貌は、成長とともに、父と瓜二つになり、母の面影は完全に消えた。
そのため、そんなケネトをクラースが可愛がることはなかった。ケネトが努力すればするほど、そして自分に似ていけばいくほど、クラースはシヴィの姿を重ねられない息子を避けるようになっていった。
ケネトの婚約が成立したのは彼が十四歳の春だった。数年ぶりに父と共にした夕食の席で、唐突に告げられた。相手はクラースの右腕である、オリアン公爵の娘。顔を合わせた記憶もなく、同じ学院に通っているらしいが、わざわざ会いにいくほどの興味もなかった。自分の欠点にならなければ、婚約者など誰でもよかった。そう思うほどに、彼の心は冷め切っていた。
この頃には、父に認められようと足掻くケネトの姿はもうなかった。ただ、胸に抱くのは亡き母への恋しさ。そして、父を愛した母のために、そんな母が父の唯一の人となるように、完璧を求め続けていた。
だからこそ、父からの言葉にはひどく驚いた。
* * *
「……なんだって?」
「はい、『夏に一ヶ月、オリアン領へ行け』とのことです」
「……陛下が?」
「はい」
秘書マルクスの報告に、ケネトは耳を疑った。
「なんのために?」
ケネトはマルクスに詰め寄った。父に似た、冷たい表情を浮かべて。
「い、いえ……それは……」
「はあ……もういい。僕が直接聞きにいく」
バタンッと力強く扉を閉めれば、父のいる書斎へと向かう。
「陛下」
書類をさばく手は止まらない。クラースは顔を上げることもせず、書斎へと入ったケネトを無視した。
「オリアン領へ行く話、拒否いたします」
その一言に、クラースの眉がわずかにぴくりと動く。
「……では、失礼します」
「却下」
「……はい?」
「命令だ。従え」
冷たく吐き捨てると同時に、止まっていた手が忙しなく再び動き始める。
「どうしてですか」
クラースは答えない。
「オリアン領に一ヶ月も……時間の無駄です」
「……命令だ。……ニコライ、つまみ出せ」
それからというもの、ケネトは毎日のようにクラースのもとを訪れ、しつこく抗議を繰り返した。だがついに「廃嫡」という言葉を突きつけられてからは、抗うことを諦めざるを得なかった。
「どうせ仲良くすることもない。王太子相手に強気に出れる女はいないだろう」
そう割り切り、荷物はできる限り持参し、一日たりとも無駄にしないよう過ごそうと心に決めた。相手の都合など、知ったことではなかった。
——だが、その予想は大きく外れることになる。
◆ ◇ ◆ ◇
馬車に揺られ、王国を縦断する。
南方の王都を出発し、目指すのは遥か北部に位置するオリアン領。
積み込んだ荷は多すぎた。衣服、書物、執務に必要な書類……「無駄に過ごすつもりはない」と、ありとあらゆるものを詰め込んだ結果、列をなして進む大移動を生み出していた。
「……無駄でしかない」
カーテンの隙間から景色を眺めつつ、ケネトは小さく吐き捨てる。
それは心からの本音だった。どうせ愛のない結婚に終わる。子供さえ成せば、それでいいのだ。
たとえ相手の邸で一ヶ月暮らしたところで、惚れるほど愚かではない。
陛下の思惑など、知ったところで意味はない。
今の自分には、必要のないことだ。
(相手も所詮、公女じゃないか)
秘書マルクスの報告が脳裏をよぎる。
公爵夫人は異様なほど教育熱心で、娘にも苛烈な期待を押し付けているらしい。
オリアン公爵夫妻の仲が冷え切っていることも、すでに周知の事実だ。そんな環境で育った娘が、愛だの夢だのを信じているはずもない。
ケネトは目を細め、手元の手袋をきゅっと締める。
「……愛なんて、人を狂わせるだけだ」
* * *
長旅は体に堪える。王都を発って数日、馬車に揺られ続けた。だが、途中で立ち寄った宿場町や小都市を視察できたのは収穫だった。
石畳の整備具合、往来の活気、兵の警備体制……ケネトは一つひとつ目に留め、必要とあれば秘書のマルクスに指示を飛ばした。無駄な時間を嫌う彼にとって、旅路もまた“職務”の一部に過ぎない。
そして、オリアン領に最も近い宿場町を夜明けとともに出立し、昼前には公爵邸に到着した。
門前にはすでに公爵が待ち構えていた。恭しく頭を垂れるその姿に続き、視線の先に現れたのは新築の館。
「……別館、だと?」
案内役の声にケネトの眉がわずかに動く。
王太子を迎えるために急遽建てられたというその建物は、本館と見間違えるほど立派だった。磨き上げられた白亜の外壁、広々とした庭園、窓にかけられた新しいカーテンさえ光を弾いている。
(わざわざ、このためだけに……無駄の極みだ)
豪奢なもてなしを当然と受け止められるほど、彼は鈍感ではない。
用意された建物が立派であるほど、自分に向けられた“期待”と“圧”が重くのしかかる。
客室ひとつで十分だったはずだ。
それ以上は、ただの見栄と浪費に過ぎない。
ケネトは無言で視線をそらし、胸の奥に重く沈んでいく居心地の悪さを押し隠した。
そんな豪華な出迎えの中に公女の姿はなかった。
新築の別館まで用意しておきながら、肝心の娘を紹介することさえない。公爵も一切触れず、ケネトもまた、わざわざ尋ねる気にはならなかった。
用意された昼食は、公爵と二人きりの静かな席だった。
出された料理は贅を尽くしていた。公爵の口から出るのは王室やケネトを称賛する言葉ばかりで、娘の名が話題に上ることは、一度もなかった。
(……同じ、かもな)
昼食を終え、ケネトが抱いたのはそんな感想だった。昼食を終えると、公爵は「今日は旅の疲れを癒していただきたい」とだけ告げ、何の予定も用意していなかった。疲れが取れた頃に領内を案内するという。あの豪華な出迎えに比べれば、あまりに素っ気ない。
部屋で横になっても、ケネトはどうにも落ち着かなかった。
侍従に断りを入れ、庭を散策することにする。
整えられた花壇、寸分の狂いもない並木。
まるで王宮を写したような、乱れ一つない、“完璧な”世界。
——ガサガサッ
背後の茂みで、不意に聞こえた葉擦れの音。
振り返れば、そこには小さな踏み跡が見える。
人が何度も行き来したせいで自然にできたような、細い小道。
完璧に整えられた庭の中で、そこだけが唯一の“乱れ”だった。少し隠れてはいるが、これほど完璧な庭園を造り上げる庭師たちが、この道に気が付かないなんてあるのだろうか。そんな疑問は興味に埋もれ、一瞬で過ぎ去ってしまった。
整然とした景色よりも、わずかな乱れのほうが、なぜか心を惹いた。
——気づけば、彼はその道へと足を踏み入れていた。
その道は邸の裏へと続き、やがて裏山へと辿り着いた。整えられた庭とは違い、木々は自然のままに茂り、風に揺れる枝葉が陽を遮っている。
——ガサガサッ
再び、葉擦れの音。今度は、頭上から。
ケネトは思わず立ち止まり、音のする方へ視線を向けた。そして、息を呑む。
(……人……?)
木の上に、ひとりの少女がいた。
粗末な平民の服、髪を束ね、麦わら帽子を深くかぶっている。
「あ」
少女は目が合うと、小さく声を漏らした。
驚いたというより、見つかってしまった、とでもいう表情で。
次の瞬間。
熟れた果実を片手に、少女は枝から飛び降りた。
軽やかに地面に着地すると、ケネトを真っ直ぐに見据え、口を開く。
「……何の用?」
立ち尽くすケネトを置き去りに、少女は身を翻して山の奥へ駆け出した。
「あっ、ちょっと……ここはオリアン邸の敷地だぞ!」
思わず声を張る。
本来ならば、平民が立ち入っていい場所ではない。見つかれば、面倒なことになりかねない。
(早く出て行ってくれ……)
そう願いながら声をかけたのに、少女は足を止め、振り返る。少女は悪戯っぽく笑ってみせて、再び走り出した。
「あ……待て!」
少女は驚くほど足が速い。
背丈も体格も自分の方が勝っているはずなのに、茂みをすり抜け、枝を避ける身のこなしは軽やかで、油断すればすぐに見失いそうだった。
ケネトは必死にその背を追った。
やがて、水の流れる音が近づいてくる。
(……川?)
視界が開けた瞬間、少女は立ち止まっていた。
肩で息をしているケネトが並び立つと、澄み切った川面がきらきらと光を反射し、その光が少女の横顔を照らしていた。
思わず、見とれる。
陽に透けた髪。水面に映える、涼やかな瞳。
ほんの一瞬、時間が止まったように感じた。
——ぱしゃっ
冷たい水が頬を打つ。
「うわぁっ!」
間抜けな声が漏れた瞬間、少女の唇が弓のようにゆるむ。溢れ出した笑いが、清流のせせらぎに溶けていった。
少女は抱えていた果実を川に浸し、手のひらでごしごしと擦り落とすと一つをケネトに押し付ける。もう一つを少女は自分の口に運び、豪快にかぶりついた。仕方なく、ケネトも真似をする。素手で食べ物を頬張るのは初めてだった。しかも、安全性もないこんなものを。
「……名前は?」
思わず問いかける。
「好きに呼んで」
少女は涼しい顔で言い放つ。
その奔放な答えに、ケネトの常識はまたひとつ覆された。
「……僕はケネト」
口をもぐもぐさせながら告げると、少女は小さく頷いた。
「そう」
少女が素っ気なく答えると、会話が途切れてしまった。けれど、不思議と気まずさはない。
せせらぎと果実を噛みしめる音だけが響き、二人は並んでただ無心に食べ続けていた。
川沿いに座り込み、風に吹かれていると不意に少女が立ち上がった。
ためらいもなく川へ入り、次の瞬間——
——バシャァンッ!
水飛沫が大きく弾けたかと思うと、少女は片腕で暴れる魚を抱え上げていた。
光を受けて銀色の鱗がきらめく。
「つ、捕まえたの?!」
驚いたケネトは思わず声を上げる。
一瞬の出来事だった。まさか素手で捕まえるとは思っても見なかった。
少女は何食わぬ顔で川辺に戻り、どこから取り出したのか小さなナイフで魚を捌き始めた。
その動きは迷いがなく、慣れた手つきだった。
「枯れ枝と葉を集めて」
短く指示されるままに、ケネトは足を動かす。言われるがまま働く自分に、ふと可笑しさを覚えながらも、気が付けば彼女のペースに巻き込まれていた。またまた慣れた手つきで火が起こされると、香ばしい匂いが辺りに広がる。
あっという間に、黄金色に焼き上がった魚が出来上がった。
少女は果実と同じように、当たり前のように半分を差し出す。ケネトは今度こそ躊躇うことなく、それを口にした。
日が傾き始めた頃、ケネトは少女に別れを告げて別館へと戻った。
ちょうど良いタイミングで浴槽の支度が整っていた。
そして待っていたのは、昼と同じく公爵と二人だけの静かな夕食。
だが、ケネトの頭の中に、上品な料理の味は一つも残らない。浮かんでいるのはただ一人——野蛮な少女の笑みだけだった。
* * * * *
「初めまして。セシリア・オリアンです。どうぞよろしくお願いします」
翌朝、食事の席に現れたのは噂に違わぬ淑女だった。オリアン家の公女であり、ケネトの婚約者。背筋をすっと伸ばし、所作ひとつ乱れぬ完璧な姿。流れるような挨拶の声も、磨き抜かれた“貴族の令嬢”そのもの。
洗練された“貴族の振る舞い”をする少女は、麦わら帽子をかぶり、木から飛び降り、魚を素手で捕らえて笑っていた——あの野蛮な少女。
束ねていた髪は解かれ、光沢を帯びた長い髪が肩に流れている。仕立ての良いドレスに包まれた姿は、まるで別人。
「王太子殿下。こちらが娘のセシリアです」
唖然とするケネトの横で公爵が彼女を紹介する。
公爵より一歩後ろで、セシリアはあの悪戯っぽい笑みをケネトに向けた。
胸の鼓動が、これまでにないほど激しく高鳴った。
手が震え、心が躍る。知ってはならないものを知ってしまったようだ。鼓動は止まることなく、なおも速さを増していく。
——ケネトのオリアン邸で過ごす一ヶ月の夏は、まだ始まったばかりだ。
〔おまけ〕
オリアン公爵・ヘルゲは長い廊下沿いの窓から庭を眺めていた。邸から素早く出ていくひとつの人影。それは隠されたように置かれた小道を駆け抜けていく。その姿に気づくと、後を追うようにもうひとりの人影が小道へと入っていった。
公爵の書斎には裏山を一望できる大きな窓がある。風とは異なる揺らぎで木々が揺れるのを見つけると、彼は静かに微笑んだ。
「明日の朝は顔を出してくれるとありがたい。一応、相手は王太子だからな」
ヘルゲは呼び寄せたモナにそう告げる。
「そろそろ浴槽の準備を始めてくれ。別館もな」
続けてそう言った。
公爵の爵位を持つ者が、娘の変化に気が付かないわけがない。幼い頃、守れなかったことを申し訳なく思い、今は彼女を理解し、尊重し、見守ること選んだヘルゲ。この度の王太子の小旅行も、すべて彼が仕組んだものだが、本人たちはそのことを知らない。
ヘルゲの期待が込められた、夏が始まろうとしていた。