井戸の中のお母さん
これは、私が数年前に、ある男性から直接聞いた話だ。
彼は、憔悴しきった顔で、それでも、誰かにこの話を聞いてもらわなければ、前に進めないと、ぽつりぽつりと語ってくれた。
これは、決して面白半分の怪談ではない。
ある家族が、夢の田舎暮らしの果てに迷い込んだ、現実という名の、底なしの闇の記録である。
プライバシーに配慮し、名前や地名は仮のものとさせてもらうが、それ以外は、全て、彼が語った通りの、紛れもない実話だ。
◇◆◇
健一さん一家が、都会の喧騒を離れ、山間の小さな集落に引っ越してきたのは、夏の始まりのことだった。
夫の健一さん、妻の美穂さん、そして、小学校に上がったばかりの一人娘、ひかりちゃん。
三人家族だ。
健一さんは、長年のシステムエンジニアとしての仕事に心身ともに疲れ果てていた。
毎日の満員電車、終わりのない残業、希薄な人間関係。
ふと、気づいた時、娘のひかりちゃんは、もう七歳になっていた。
自分は、この子の成長を、一体どれだけ見てこられただろうか。
そんな思いが、日に日に、鉛のように彼の心を重くしていった。
「田舎で、暮らさないか」
ある晩、健一さんがそう切り出すと、美穂さんは、驚いた顔をしたが、すぐに、優しく微笑んだ。
「いいわね。ひかりも、自然の中で、のびのび育ててあげたいし」
夫婦の意見は、すぐに一致した。
それからの行動は、早かった。
健一さんは会社を辞め、退職金を頭金にして、ネットで見つけた格安の古民家を購入した。
それは、山の麓にぽつんと建つ、広大な庭付きの、立派な家だった。
自給自足の生活。
家族三人で、畑を耕し、採れたての野菜を食べる。
夜は、満点の星空を眺める。
そんな、牧歌的なスローライフを、彼らは夢見ていた。
引っ越してきた当初は、全てが輝いて見えた。
澄んだ空気、鳥のさえずり、木々の匂い。
ひかりちゃんは、広い庭を、毎日楽しそうに駆け回っていた。
健一さんと美穂さんも、慣れない手つきで畑仕事に精を出し、心地よい汗を流す日々に、大きな充実感を覚えていた。
あの、古井戸を見つけるまでは。
それは、広大な庭の、一番奥。
鬱蒼と茂る木々に隠れるようにして、存在していた。
古い石で組まれた、円形の井戸。
その上には、分厚い石の蓋が置かれ、さらに、真新しい注連縄が、まるで何かを封じ込めるかのように、固く、固く、結ばれていた。
「なんだろう、これ」
健一さんは、不審に思いながらも、それほど気には留めなかった。
古い家には、よくあるものだ。
きっと、昔の人が、子供が落ちないようにと、厳重に蓋を閉めたのだろう。
むしろ、彼は、この井戸を再利用できないかと考えていた。
ポンプを付ければ、畑の水やりに、大いに役立つはずだ。
数日後、畑仕事のやり方を教わりに、近所に住む、古くからこの土地にいるという老人の元を訪ねた時、健一さんは、何気なく、井戸の話をしてみた。
すると、それまで穏やかだった老人の顔が、さっと|曇った。
「…あの井戸には、近づかんほうがええ」
老人は、それだけ言うと、あとは、固く口を閉ざしてしまった。
健一さんは、迷信深い田舎の老人らしい、と、その忠告を軽く受け流した。
そして、その週末。
彼は、斧を持ち出し、ためらうことなく、井戸にかけられた注連縄を、断ち切った。
次に、バールを石の蓋の隙間に差し込み、渾身の力を込めて、それをこじ開けた。
ゴゴゴゴ…という、重い音と共に、蓋がずれる。
途端に、ひやりとした、カビ臭い空気が、井戸の暗闇から、溢れ出してきた。
中を覗き込むと、そこは、光の届かない、底なしの闇だった。
健一さんは、その時、自分が、ただの井戸の封印を解いたのではないことを、まだ、知る由もなかった。
◇◆◇
異変に、最初に気づいたのは、娘のひかりちゃんだった。
封印を解いた、その日の夜。
「パパ、あの井戸から、誰かの声が聞こえるよ」
リビングで、楽しそうにお絵かきをしていたひかりちゃんが、ふと、顔を上げて言った。
「声?気のせいだよ」
健一さんは、笑って取り合わなかった。
しかし、ひかりちゃんは、真剣な顔で、続けた。
「ううん、聞こえるの。『おいで、おいで』って、女の人の声が、呼んでるの」
その言葉に、健一さんの背中を、ぞくりと、冷たいものが走った。
まさか、とは思った。
だが、その「まさか」は、数日後、より現実的な形で、家族を脅かし始める。
ある朝、美穂さんが、悲鳴に近い声を上げた。
彼女が指さす先、玄関の土間から、リビングへと続く廊下に、点々と、濡れた足跡が続いていたのだ。
それは、裸足の、小さな子供の足跡のように見えた。
前の晩、雨は降っていない。
家族の誰も、夜中に外へは出ていない。
では、この足跡は、一体、誰のものなのか。
足跡は、ひかりちゃんの寝室のドアの前で、ぷっつりと、途絶えていた。
その日から、美穂さんは、何かに怯えるようになった。
「あなた…、庭に、誰かいない?」
洗濯物を干している時、畑仕事をしている時。
彼女は、何度も、井戸の周りをうろつく、長い髪の女の姿を目撃した、と言うのだ。
しかし、健一さんが慌てて見に行くと、そこには、誰もいない。
風が、ざわざわと、木々を揺らしているだけだった。
健一さんは、妻の気の迷いだと思おうとした。
だが、彼自身も、奇妙な現象に悩まされ始めていた。
夜中に、金縛りにあうようになったのだ。
体が、鉛のように重く、動かない。
声も出せない。
そして、耳元で、はっきりと、女の囁き声が聞こえるのだ。
『…かえせ…』
それは、恨みに満ちた、凍えるような声だった。
何を、返せというのか。
健一さんには、分からなかった。
いや、分かりたくなかった。
全ての元凶が、あの古井戸にあることは、もう、疑いようもなかった。
自分の、軽率な行動が、この家に、何か、得体の知れないものを、呼び込んでしまったのだ。
後悔が、彼の胸を、締め付けた。
一番、変わってしまったのは、ひかりちゃんだった。
彼女は、一人で、井戸のそばで過ごす時間が増えていた。
そして、誰かと、楽しそうに話しているのだ。
「ひかり、誰と話してるんだ?」
健一さんが尋ねると、ひかりちゃんは、無邪気に、こう答えた。
「井戸の中にいる、お友達だよ。とっても、優しいの」
その笑顔は、どこか、虚ろに見えた。
健一さんは、ひかりちゃんを、無理やり家の中に連れ戻した。
そして、あの井戸に、もう一度、蓋をしようと試みた。
しかし、あれだけ苦労して開けた石の蓋は、今度は、びくともしない。
まるで、地中に、根でも生えたかのように。
家族は、ゆっくりと、しかし確実に、見えない何かに、追い詰められていった。
◇◆◇
運命の夜は、嵐と共にやってきた。
風が唸りを上げ、激しい雨が、家の屋根を叩く。
健一さんと美穂さんは、リビングで、不安な気持ちを紛らわすように、テレビを見ていた。
ふと、ひかりちゃんがいないことに気づく。
いつもなら、この時間は、母親の隣で、絵本を読んでいるはずなのに。
「ひかりー!」
二人は、手分けして、家の中を探した。
しかし、どこにも、娘の姿はない。
まさか。
健一さんの脳裏に、最悪の想像が、稲妻のように閃いた。
彼は、玄関を飛び出し、嵐の中を、庭の奥にある、あの井戸へと走った。
足が、ぬかるみにはまり、何度も転びそうになる。
井戸が見えた時、健一さんは、絶望に、息をのんだ。
あの、びくともしなかったはずの石の蓋が、大きく、開け放たれている。
そして、その暗い穴の中から、確かに、聞こえてくるのだ。
ひかりちゃんの、きゃっきゃっ、という、楽しそうな笑い声が。
それに混じって、知らない女の、陰鬱な子守唄のような歌声も。
「ひかりっ!」
健一さんは、井戸の縁に駆け寄り、必死に、中を覗き込んだ。
スマートフォンのライトが、濡れた石の壁を、滑るように照らす。
そして、その光の輪の中に、信じられない光景が、浮かび上がった。
井戸の底、水面すれすれのところに、ひかりちゃんがいた。
長い、黒髪の女に、優しく、抱きかかえられて。
女が、ゆっくりと、顔を上げる。
その顔は、水にふやけて、白く、膨れ上がっていた。
目は、どろりとした闇が、広がっているだけだった。
「ひかりを、返せっ!」
健一さんが叫んだ、その時だった。
「だから、言うたじゃろうが!」
背後から、怒声が響いた。
振り返ると、あの、近所の老人が、カッパを着て、立っていた。
「あの井戸は、ただの井戸じゃない。あれは、『おんな井戸』じゃ。この村の、忌まわしい歴史そのものなんじゃよ」
老人は、語り始めた。
昔、この村では、日照りが続くと、若い娘を、龍神様への人身御供として、この井戸に沈めたのだという。
井戸の女は、その犠牲者の一人の、哀れな霊なのだ、と。
「じゃが…」
老人は、そこで、言葉を切った。
そして、何かを、ひどく、ためらうように、続けた。
「本当は、違う。わしが、子供の頃に、婆様からこっそり聞いた話じゃ。あの井戸の女は、人身御供なんかじゃない。あれはな…、自分の子供を、この井戸に突き落として、殺した、気狂いの母親なんじゃ」
「…え?」
「そして、自分も、後を追って、身を投げた。あれが、井戸の底で探しとるのは、自分が殺した、子供の代わりなんじゃよ…」
その、衝撃的な言葉に、健一さんは、ただ、立ち尽くすしかなかった。
だが、本当の恐怖は、そこからだった。
老人の話を聞いて、健一さんの頭の中に、一つの、恐ろしい疑念が、浮かび上がったのだ。
この家を買った時、不動産屋は、こう言っていた。
「前の住人の方は、ご家庭の事情で、都会に引っ越されましたよ」と。
しかし、もし、それが、嘘だったとしたら?
もし、この家に、以前住んでいた家族にも、ひかりちゃんと同じくらいの、女の子がいたとしたら?
そして、その家族が、井戸の女の伝説を、狂信していたとしたら?
自分の娘を、「人身御供」として、あの井戸に、沈めてしまったのだとしたら?
健一さんたちが解いてしまった、あの注連縄の封印。
あれは、悪霊を鎮めるためのものではない。
あれは、おぞましい、殺人事件の証拠を、隠蔽するための、封印だったのだ。
井戸の底にいるのは、気狂い母の霊だけではない。
そこには、この家の、前の住人に殺された、幼い少女の亡骸が、今も、沈んでいるのだ。
『…かえせ…』
耳元で聞こえた、あの声。
あれは、井戸の女の声ではなかった。
殺された少女の、「お母さんを、返して」という、悲痛な叫びだったのではないか。
健一さんの足元から、地面が、崩れ落ちていくようだった。
自分たちは、ただの怪奇現象に、巻き込まれたのではなかった。
人間の、底知れぬ狂気が生み出した、おぞましい犯罪の、後始末をさせられようとしているのだ。
やがて、パトカーのサイレンが、静かな山村に、けたたましく響き渡った。
警察の、懸命な捜索の末、井戸の底から、引き上げられたのは、二つのものだった。
一つは、奇跡的に、かすり傷一つなく、ただ、ぼんやりと虚空を見つめるだけの、ひかりちゃん。
そして、もう一つは。
小さな、子供の、白骨遺体だった。
健一さんは、その場に、崩れ落ちた。
これは、実話だ。
そして、この話には、まだ、続きがある。
前の住人である、その殺人犯は、今も、日本のどこかで、のうのうと、暮らしている。
そして、ひかりちゃんは、あの日以来、一言も、言葉を発していない。
ただ、時々、何もない暗闇に向かって、こう、呟くのだという。
「…次は、あなたの、番だよ」