約束【レイアークス】
黒い影は黒い光を放つ。かろうじて中にいるシオンは目視出来るが、影と光は次第に濃くなっていった。
瞳は空。何も映さない。
私達はこの魔法を知っている。
千年前、英雄ヘルトが自身を消し去った魔法。だが、シオンのそれはヘルトを遥かに超えている。
シオンと過ごした日々の記憶が薄れていく。
消えようとしている。生まれたことさえ、なかったことにして。
存在の消滅。
生への諦め、死の受け入れ。
両方を満たした瞬間、闇魔法は対象の全てを飲み込む。命も記憶も。刻まれてきた歩みさえ。
天井を見上げたままピクリともしない。まるで生命のない人形。
ノアールが不安そうに鳴く。シオンの名前を呼ぶかのように。
いつも一緒にいて愛しているはずのノアールが中にいないことは違和感というか不思議だ。
一人で消えることは孤独を意味する。
自分が何者だったかさえ忘れてしまうかもしれないのに、そんな苦痛を選ばざるを得なかったシオンの痛みを理解出来る者は、ここにはいない。
「シオン嬢……」
不用意に近づこうとするアース殿下の腕を掴んだ。
「今まで何もせず放っておいたのだ。今回もそうしたらどうだ!」
「彼女を二度と傷つけたくない!!」
「シオンは我々が助ける。お前達は引っ込んでいろ!!」
取り繕う理由もなく、本音をぶつける。
口を開きかけてはすぐに閉じた。事実確認を怠り無視をしていたのは、蔑ろにしていたのと同義。
私からしたら、真実を知っていたのにシオンを助けようとしなかった王家のほうがよっぽど罪深い。
人の心が死ぬ瞬間を初めて見た。
死ぬためだけに生かされ続けたと知ったシオンが、これまでと同じように生きるのは難しい。
命の価値を下げられたのだ。限界になって全てを諦めるのは当然。
シオンを傷つけるとわかっていたら、公爵には何も話させなかった。
傷つけたくなかったなどとと、傷つけた後に思うのは卑怯。
生まれたことを懺悔し、世界を正そうとするかのように自らの命に終止符を打とうとする。
私の瞳を認め肯定してくれたシオンの顔が思い出せない。顔は影に隠れ、次第に全身へと広がっていく。
シオンの足が完全に消えてなくなった。
本人が消えてしまったら、記憶の全てを忘れてしまう。
「お母さん!シオン様が本物の娘なんだよ!助けてあげないの!?」
「ひ、ひぃぃ!し、知らない!あたしはあんな化け物を生んだ覚えなんてないよ!!」
輝きはより濃くなる。
シオンを拒絶すればするほど、シオンが消える時間が早まるのか?
「それより拘束を解いておくれ。このままじゃ、あの化け物に殺される。早く逃げないと」
「喋るな!!シオンを傷つけるだけなら黙っていろ!!」
「叔父上……」
関係者の証言から二人が親子であることは事実。
認めるつもりもなければ助けるつもりもない。
我が身可愛さに娘を化け物呼ばわりする人間からなぜ、シオンのような優しい子供が生まれてこられた?
人間の不思議とは、まさにこのことだな。頭の良い人間が集まって考えたところで、明確な答えが出ないわけだ。
「ごめんなさい、シオン様!私がいなければ、シオン様がこんな苦しい想いをしなくて済んだ」
「何を言っている、ユファン!お前は特別な……」
「特別なら何をしてもいいと!?それなら私は!特別になんてなりたくない!!」
シオンの悲痛な叫びが、レディーの魂に響いたのか。
不安定だった魔力は揺れることなく、自分という存在を取り戻す。
平民で光魔法を持って生まれたら精神的に不安になるのは当たり前。
魅了はそんな不安につけ込み、支配しようと周りを巻き込む。
この状況で魔力をコントロールしたのか。流石は本物の公女だな。
立場や身分を受け入れると信じていた公爵からしてみれば、レディーの拒絶は耐えられるものではない。
「優しくて……ただ優しいシオン様を虐げるだけの貴方達と同じになんて、私はなりたくありません」
家族としての時間を取り戻せることを夢見ていた公爵は、突きつけられた望まぬ現実を受け入れられないでいる。
自分と同じ血を引くレディーなら、同じようにシオンを蔑み公女に戻ることを喜んでくれると思っていた。
拒絶だけならまだいい。特別にならないということは、公女にならないということ。レディーは公爵のやってきたことを否定したのだ。
本物の娘のために人一人を死ぬまで追い詰めた行動が無駄となった瞬間。
「私が……いなくなるから。どうかシオン様。戻ってきて下さい」
見下してきた平民のために、自らの命と引き換えに救おうとするレディーの考えについていけず、壊れたように独り言を呟く。
過去に何度か姿を目にしたことはあったが、その面影さえない。
たった一度、娘に拒絶されただけでこのザマか。意外と脆かったな。
公爵が壊れようがどうでもいい。最優先はシオン。
どうすれば助けられる。
「叔父上、シオンを助けて。俺、何にも力になれなくて縋ってばっかりだけど。シオンがいなくなるの、嫌だ」
「方法を考えている。待っていろ」
あの魔法はシオンの邪魔をするものを飲み込んでしまう。
現に千年前も止めようとした王子の片腕が綺麗な切断面のまま消滅した。血が流れることはなく痛みもない。
こちらから声をかけてもシオンの耳には届いてすらいないのだろう。
ただ無意識に、そこにいるだけ。まるで人形のように。
傷つけるだけの言葉ではなく、私達を信じたんじゃなかったのか。
人間はどうしても悪意ある言葉のほうが脳に刻まれる。
レディーの淡い光など焼け石に水。あんなにも感情が乱れていたらまともな魔法も使えない。
加えて今のシオンには、感情そのものがないから中途半端は危険すぎる。
声が届かないなら触れて、一瞬でも意識をこちらに向けさせなくては。
「スウェロ。シオンの魔力を凍らせろ。あれは魔法だ。魔力が切れれば魔法は止まる」
「無理です」
「なっ…」
「というか。さっきからやってるんですけどね。見事に魔法が飲み込まれています」
魔力差だけなら今はまだスウェロのほうが上のはず。根底を覆すかのように、シオンの拒絶のほうが強いとでも言うのか。
まだ方法はあるはずだ。
シオンは英雄ヘルトではない。こんなところで、あんな奴らのために命を投げ出す必要がどこにある。
兄だった二人は助けることも邪魔をすることもない。
ただ笑って結末を見届けている。十六年、暮らした家族が死にそうな姿を目の当たりにしながら、早く死ねと言わんばかりの狂気。
連中にとっての真実とは、自分達に都合の良いことだけ。闇の真実だけは嘘で、レディーに関してのみ本当。
シオンとの記憶が消えていくことがよっぽど嬉しいらしく、歓喜を隠しもしない。
この国の人間を全員殺せばシオンを助けられるなら、私は躊躇うことはないだろう。力の制御をすることなく、焼き殺す。
無力な自分を恥じた。いつだってこの手で守りたい命は零れ落ちる。
『レイはすごいね。レイが王様になれば国は安泰だ』
違う。兄上こそが王の器だった。
『レイはどうしてそんなに強いの。羨ましいな』
私は……俺は。強くなんてない。
最上級魔法?そんなもの欲しくなかった。普通の炎魔法なら俺は誰も傷つけず、誰も失わずに済んだ。
強い人間というのはトラウマに支配されず、絶望を跳ね除ける者を指す。俺とは真逆の人間のことだ。
今だって怖くてたまらない。
最上級魔法を使って暴走したら。また周りを傷つけるんじゃないかと、内心では怯えている。
緊張より不安のほうが大きく、平気なふりをするのも疲れるな。
俺が散々、スウェロには魔法の才能があると言ってきたにも関わらず、心のどこかけでスウェロ自身が自分を信じていなかった。
祈花祭でシオンに魔法の才能がある、魔法を教えたらいいと説得されたスウェロは俺に進言してきたのだ。
最上級魔法の制御の仕方を教えたいと。
吹っ切れたわけではないが自信に溢れる金色の瞳に吸い込まれ、「頼む」と口走っていたことに驚いた。
他人のために頑張れるその姿は兄上と重なり、兄上の子供なんだと実感する。
それから、毎日ではないがなるべく時間を作っては空間部屋に籠り、スウェロの指導を受ける日々が始まった。
会得している魔法を扱えるまで時間がかかったのは俺が弱いからだ。加減を間違えればスウェロが焼け焦げてしまう。記憶が掘り起こされる。
心臓の音が気分を悪くさせ、過去に縛られた。
そんな簡単に魔法を使えたら俺の部下は死んでいないし、もっとこの魔法を誇らしく思っている。
全身の力は抜けリラックス状態であるのに、失敗が前に進むことを拒む。
いつまでも縛られて立ち止まっているわけにはいかない。俺の一部でもある魔法からずっと逃げていたら、いつか俺は俺が嫌いになる。
後悔と絶望を味わった。
部下のいない未来と生きる覚悟を決めて部屋の外に出た。
弱さ故に救えなかった命があるからこそ、過ちを繰り返してはならない。
逃げずに向き合って良かった。最上級魔法がなければ、シオンを助けられない。
最上級魔法と対等なのは最上級魔法のみ。通常の魔法では相手にすらならない。
言いたくても言えない悲痛な叫びは俺達には届いている。
『どうしようもなく苦しいのに助けを求められない状況になったら……助けてほしいの』
ああ。助けるさ。
約束した。シオンが暗闇に迷ったら、必ず導くと。
集中した。雑念を消して、一つの目的を果たすために。
最上級魔法はその性質上、魔力を抑えて加減をしたところで、最低でも数メートルに影響を及ぼす。
今回のように近距離で放たれた魔法を打ち消したり、腕に纏うなんて非常識なやり方は誰にも真似出来ない。
俺以外には。
それは自負。
こんなバカみたいな方法で上手くいくかは、やってみるしかない。
ダメで失敗したら……まぁ、そのときはそのとき。別の方法を考える。
かろうじて見えているシオンに手を伸ばす。霧のような影は触れた瞬間、感じたことのない不快感に襲われた。
全身を虫が這うようにゾワリと鳥肌が立つ。
伝わってくるのはシオンの感情。直接、触れたわけではないのに声にならない叫びが影から俺の感情にリンクする。
数センチの距離が途方もなく遠く感じる。炎が消えて腕が剥き出しになれば、持っていかれてしまう。
集中を切らすな。恐れるものは何もない。目の前にいるのはシオンだ。
肩に触れれば、光は輝きのない純黒へと変わる。
生まれてからずっと、恨み憎まれ、悪意ある言葉と理不尽な殺意は純粋なる心を黒く染め上げた。
光の速さで切り取られた映像が流れ込んでくる。
これは脳に記憶されているものではない。魂に刻まれているのだ。体験したことは癒えることなくとても深く。
俺がシオンになったかのように痛みが浸透する。
この手を離したい。
俺のトラウマも一緒に呼び起こされる。傷つけてしまった後悔。守れなかった絶望。
お前が生まれたせいで多くが不幸になった。影が耳元でそう囁く。低く暗い声。その通りだと認めてしまいたくなる。
【シオンを助けて】
聞き慣れない涙声。一人、置いていかれたノアールは泣いていた。
「大丈夫だよ、ノアール」
レクシオレゼが抱き上げた。優しく「大丈夫」を繰り返しては気持ちを落ち着かせる。
「叔父上はすごい人だから。俺達に出来ないことを何でもやってのける天才なんだよ」
過度な期待だな。だが……。おかげで“怖い”は振り払われた。
「シオン」
名前を呼んでも無反応。
体は半分消えた。もう記憶の中にいるシオンの顔は見えない。
名前さえ朧げになってきた。
触れてしまえば、どうにかなるなんて甘い考えだったのか。くそ、どうすればいい。
急激に減りつつある魔力。このままでは一分と持たない。
諦めるな。一番辛いのはシオンなんだ。
あんな……恨み言でもなく、自身の生を呪ったまま死ぬなんて認めない。
命は等しく平等。それでももし、切り捨てるべき命を選べと言うのであれば。それはグレンジャー家やケールレルでありシオンではない。
「嫌だよシオン。お前のいない世界なんて……」
レクシオレゼの願いのような呟き。神に祈っているわけではない。シオンにのみ向けられた言葉。
そうか。難しいことはなかった。シオンはもう独りではない。
帰ってこられないのは道に迷っているからだ。暗闇に一人。隣を歩くノアールがいないから帰り道がわからないのだろう。
かけるべき言葉が見つかった。
これでダメなら、シオンを追い詰めたこの国を消し去ってしまえばいい。
俺……いや、私達は伝えていなかった。感謝するばかりで。
伝えよう。シオンが求め、とっくの昔に諦めたことを。今更だと呆れられるかもしれないが。
もっと早くに言ってほしかったと怒るかもしれない。
それでも……。
想いは形にしないと伝わないと知っていたのに。
私達は甘えていたんだ。シオンの優しさに。
わざわざ口にしなくても、シオンならわかってくれるだろうと。
それがいかに愚かであるか、知っていたはずなのに。
「帰ろう。シオンが帰りたいと思う場所に」
虚の瞳が動いた。まだ色はないが、確実に私を見ている。
「みんなが待っている」
影と光は淡くなっていく。完全に魔力を切らし、腕を覆った炎は揺れながら消えた。
それでも私の腕は飲み込まれていない。死への覚悟が揺らいだ。
シオンを守る魔法の力が弱まっている今なら……。
腕を引っ張ればシオンは闇の中から出てきた。
闇は蒸発するかのように弾け飛ぶ。
千年前。世界は英雄を失った。
千年後の現在、同じくして失われようとした命は、確かに今、ここに在る。
生気の戻らない瞳からは光る涙が溢れ、自我を少し取り戻したシオンは泣きながら私に問う。
「私は、生まれてくる価値も存在理由もなかったけど、みんなと一緒にリーネットに帰ってもいいかな」




