魅惑のお菓子、チョコレート
【シオン。おはよう。起きる?】
「おはよう、ノアール」
太陽が昇ると自然と目が覚める。目覚まし時計もなく、起こしてくれるお母さんもいないのに。
しばらくボーっとしていると、ノアールが肉球で頬をポンポンしてくれる。
朝から癒されたことにより、爽快な目覚め。
ベッドから降りて服を着替えた。
相変わらず殺風景な部屋を見渡しては、模様替えをしないとなと思う。
家具は色んな人が使わないからと譲ってくれた物がある。その中で大きさや雰囲気が家に合う物を選んだ。
私の部屋だけは未だにベッドとクローゼットだけ。寝るだけみたいになっているし、勉強机の必要性もあまり感じていない。
小物をしまう台も貰い物。ベッドのすぐ横に置いてあり、寝ながらでも手が届く位置。小さくて軽いから好きに動かせる。
本当に必要最低限の物しか置いていないのだ。
推しの写真やポスターもないから壁は真っ白なまま。
何を置いたらいいのかわからず、不便がないのならこのままでもいい。
ノアールと下に降りると、今日は早めの出勤らしくメイは支度を終えていた。
私の朝食と昼食を作っておいてくれるなんてお母さんみたい。
「お嬢様。行ってまいります。帰りはいつもと同じですので」
「ねぇ。その呼び方、やめない?私はもうお嬢様じゃないわ」
「私にとってお嬢様はお嬢様でございます」
「シオンでいいと言っているの」
メイに「お嬢様」と呼ばれると嫌な記憶が蘇る。忘れたいあの屋敷での日々が。
自由になって、これから徐々に忘れていきたい記憶ばかり思い出すなんて嫌。
──メイには慣れ親しんだ呼び方かもしれないけど。
「かしこまりました。これからはシオン様とお呼び致します」
様もいらないけど、まぁいいか。
メイはどうあっても私を主人としたいようだ。無償で私の世話をしてくれて、お金を稼いでくれる。
口にはしないだけでこれは罪滅ぼし。私への暴力を見て見ぬふりをしてきた。
罪悪感は消えることなくメイの中で大きく膨らんだまま。
メイは仕事に出掛けて、私は野菜のスープとパンを食べる。
元々、そんなに食べさせてもらっていない私は少食で、量としてはこれぐらいがちょうどいい。おかげで食費はあまりかかっていない。
食べ終えた食器は魔道具で洗う。魔力の扱いの特訓になるので、洗い物は率先してやるようにしている。
「ノアール。リンゴを採りに行こっか」
【リンゴ!!食べる!!】
「食べるんじゃなくて採るのよ。わかってる?」
口の中いっぱいにリンゴの美味しさが広がっているみたいで、口の端からヨダレが垂れていた。拭いてあげると肩に飛び乗り、早く行こうと催促される。
家を出ると温かい風が吹く。ねっとりとしてなくて爽やか。
階段を降りると今日もみんなが元気に挨拶をしてくれる。ノアールは子供達に囲まれてしまうから私の肩にしがみついたまま。
多くのお店が並ぶ通りで気になるお店を見つけた。看板が出ていないので何のお店なのかわからない。営業は……してるようだ。
焼き立ての良い匂いについ足が止まる。
──見るぐらいなら、いいよね?
そっとドアを引いて、恐る恐る中を覗く。
人はいない。どうやら食べ物を売るお店らしいから、ノアールには外で待機していてもらう。
こじんまりとしていて個人経営みたい。
奥のショーケースにはクッキー、パイ、タルト、マドレーヌ、バームクーヘン。焼き菓子がズラリと並んでいる。
隅っこには目立たないように、もうお目にかかれないと諦めていたチョコがひっそりと置かれていた。板の状態で。
手を加えようとした形跡すらない。
「聖女様。いらっしゃい」
声に覇気がない。どんよりとした空気を纏って、とても接客業をしているとは思えない。
「ノアールは一緒ではないのですか」
「外で待ってるわ。入れないほうがいいと思って」
「大丈夫ですよ。商品はケースの中ですから」
取り出してすぐに渡せるように、既にラッピングもされている。
良心的な値段から察するに子供のオヤツ広場だね、ここは。食べ切り量のサイズだし、みんなで違う物を買ったらシェアも出来る。
人気がありそうなのに、なぜ店主はこんなにも暗いのか。
チョコが全く売れないことが原因だった。
味見をさせてもらうと、甘ったるいわけでも、顔をしかめるほど苦いわけでもないまろやかなミルクチョコ。
舌触りもよく、そのまま食べても良し。溶かしてバームクーヘンにかけても美味しくなるはず。
ほんとなんで、落ち込んでいるんだろう?
もっと詳しく聞いてみると、そもそもこの世界でチョコは全っっっっく珍しいものではない。
平民が買えるお手軽の物から、貴族のための高級チョコまで揃っている。
私は食べたことも見たこともないけどね。グレンジャー家で出されるチョコは超高級であり、私の目に触れさせることすらもったいない、と思っていたのなら話は別。というか、絶対そうだ。
しかも、チョコは板状のまま食べるものであり、見た目が地味というか面白味に欠けるので買っていく人は少ない。
販売を辞めないのは月に一度は必ず買ってくれる顧客がついているので販売を継続。
「単品で売るなら形を変えたらいいんじゃない?」
「形を……変える?」
馴染みある長方形を食べるときに一口サイズに割るしか思い当たらないようで、かなり頭を悩ませている。
お菓子作り未経験。知識なんてからっきし。買う、食べる専門なのだ。
これ美味しいから作ってみようとか、レシピを調べようなんてのは皆無。
そんな私でも湯せんは知っている。
厨房にお邪魔させてもらい、余っているチョコを温め溶かす。
魔道具に魔力を込め過ぎないよう慎重に、神経を尖らせた。
沸騰させたらダメってのは記憶の片隅にぼんやりと浮かんでいる。
粒がなくなり滑らかになったのを確認して型に……。今日はクッキーの型に流し込む。
食べ物を扱うお店には瞬間冷凍させる魔道具もあり、それを使いチョコを冷やす。加減がわからなさすぎて、ちょっとしか魔力を入れてないのに思っていたよりも固まってしまった。
私とハート型のチョコを何度も交互に見る。店主はこんな発想はなかったと驚愕。
まるで魔法を目の当たりにしたかのように店主の驚きは尋常ではない。
──私からしたら本物の魔法が使えるほうが、すごいんだけど。
人の手によって作られたこの世界は、現実に生きる人間と同様の知識は持ち合わせていない。
思い知らせれる。彼らはゲームキャラであると。でも、私は知っている。彼らはこの世界で生きている人間であり、ただのゲームキャラだと見下すのは愚か。
学んだのだ。人間には心があり感情があることを。
一緒懸命に生きる彼らや彼女達のために、私が出来ることは何か。考えて答えを出していけたのなら。
難しいことは今ではなく、時間があるときに考えよう。覚えていたら。
今はとにかく。このチョコをどうするか。
店頭に並ぶのは形が綺麗な物であり、崩れたりしたのは自分達のオヤツになる。それにチョコをコーティングして試食として出してみるのはどうかと提案してみた。
焼き菓子はそのままでも充分に美味しいけど、チョコ味があってもいいと思う。
「聖女様は天才ですね。どうやったらそんなこと思いつくのですか」
「えっと……。美味しいのと美味しいのが合わさったら、すごく美味しくなるかなぁと」
「なるほど」
バカすぎる発言を納得されると恥ずかしい。これではまるで、私が食いしん坊みたいだ。訂正しようと口を開くも、店主の嬉しそうな顔を見ると何も言えない。
食べることは好きだし、まぁいいか。
お試しで使ったハートのチョコはアイデアのお礼にと渡された。私も欲しかったので素直に受け取る。
こんなに冷えて固まっていたらすぐに溶ける心配もなく、透明の小袋に入れてもらう。わざわざリボンまでラッピングしてもらわなくて良かったのに。
【ねぇねぇ。それ何?それなぁに!?】
店を出て、レーツェルの森に向かっている途中、肩に乗ったノアールがずっとチョコに狙いを定めている。
袋から取り出したら俊敏な動きで奪われてしまいそう。
猫ってチョコは食べたらダメだった気がする。注意しなくては。
【シオン~~!!】
「ノアール。リンゴは食べたくない?」
【リンゴ!?食べる!!】
うん。チョコから気をそらせたようでなにより。
代わりにレーツェルの森へ急いでほしそう。頭の中はリンゴを食べることでいっぱい。
「その前に。ちょっと寄り道していい?」
【いいよ!】
食欲を我慢して私を優先してくれるノアールにキスをすれば、体の体温は上昇。へにゃっとなりながらも、お返しのキスをしてくれた。
顔が少し赤いのは熱ではなく照れているからだとわかる。ノアールはスキンシップ多めだけどキスには弱い。
──そこが可愛いんだけどね。
連絡もなしに朝一番で訪ねるのは非常に迷惑極まりないので、通信魔道具で連絡は入れた。
レイはもう仕事に取り掛かっていて、スウェロもすぐに来るとのこと。
王宮の門の前ではナンシーが私を待っていてくれて、すぐに空間に通される。
執務室ではレイがスウェロに書類仕事を教えていた。本格的に宰相の仕事を任せようとしているのかな。
「おはよう。朝からごめん」
「いいんだ。それより見せたい物とは?」
開けた窓から風が吹いて書類が飛ばされないように重しを乗せた。
裏向けたりはしないんだ。重要書類じゃないの?それ。
私が見たところで理解なんて出来ないだろうけど。
「これなんだけど」
ハート型のチョコをテーブルに置くと、四人は上から覗き込むようにまじまじと見つめる。
見たことあるようでない物にレイでさえ頭を悩ませていた。
鑑定して、これが自分達の知るチョコだと知ったときの反応。
「提案があるの。リーネットには特産品がないでしょ?だから……ね。このチョコを売りにしたらどうかな」
湯せんという言葉すらないこの世界なら真似をしたくても出来ない。唯一無二になるはず。
ハート以外にも形を作るのもいい。様々な形があったほうが選ぶ側も楽しいし。
「そうだな。今日の午後、客人の予定がある。彼女にも感想を求めてみよう」
「彼女?」
レイとスウェロは無言で目を合わせた。飲み込みかけた言葉は少し意外なものだった。
ヘリオンの婚約者候補、南の国の公女。エイダ・スセリダ。
南の国特有の焼けた肌。暑さから髪はあまり伸ばしてなく、長くても肩までしかない。
髪や瞳は涼しげな色合いが多く、ほとんどが青か緑。
ヘリオンと魔力の釣り合いが取れる令嬢が自国や近隣にはいなかったということか。
今の魔力量を計測していなければ昔のままだと思い込むのも無理はない。
私がいなくなったことにより加護は消えた。私のおかげで増えていた魔力はとっくになくなり、元の自分達の魔力しか残っていない。
急激に増えたことにより、魔力を増やす特訓をしていなければ上級貴族に相応しくない魔力量ということになる。
次男はともかく長男はその辺しっかりしていそうだから、怠ることはないのだろう。
というか。あの二人は兄ですらないから呼び方も変えるべきか。
ヘリオンはヘリオンだし、クローラーとラエル。これでいいや。いいことにしよう。うん。
「それとシオン。これを読んでほしい。アース殿下からの手紙だ」
王族の手紙のやり取りは機密事項が多そうで怖い。
受け取らずに身構えていると、腹黒さを含んでいそうな爽やかな笑顔を浮かべながらテーブルに手紙を広げた。
見ないようにしてもつい視線は下がり、文字を追ってしまう。
第三者の目に触れたところで、国の重大な秘密が書かれているわけでもなく。
内容はユファンに関すること。
──ん?ユファン?なんで?
共通の話題でもないだろうに。
「シオンの意見を聞かせて欲しいんだ。彼女の奇行について」
懐かしいな。レクリエーションのときのことか。
そうそう。あったね、こんなこと。
ゲームの力が働いたかのように、ユファンの足元が崩れて落ちそうになって。
それを私が助けると、私が故意に突き落とそうとしたと言い分を聞こうともしなかった。
クローラーに至っては叩いたよね。そういえば。あの一発分だけでもやり返しておけば良かったと後悔する。
あと、ラエル。あの男に関しては拳を握り締めていた。ありったけの力で痕がくっくり付くほどに。
あの二人から謝罪もなかったし、思い出すだけでも腹が立つ。
私が何もしなくても、二人だけではなくあの国に住む全員が、いずれ加護がなくなったことにより苦しむ。
当たり前に続いていた平和が終わる。魔物の被害も増えるだろう。
農作物も育たなくなり、酷い天災に襲われることも。
不幸を願いブレット達を巻き込みたくはないから、平和が崩れたことだけを喜んでおく。
学園ではクローラー、ラエル、ヘリオン、そしてアルフレッドにだけ私に突き落とされそうになったと嘘をつき、その他の生徒には誤解を招く曖昧な微笑み。外では無実だと主張。
奇行と思われても仕方がない。
「どうしてこの四人にだけ嘘をつくのか。四人の共通点は何なのか。考えてもわからないそうなんだ」
恐らく、共通点は攻略対象。
学園内でのユファンの行動はまるでゲームのシナリオに沿っているかのよう。
もしかして。攻略対象者が自然とゲーム通りに動くことに対して、ユファンは自我のようなものがありシナリオを無視しているのでは?
転生者ならともかく、ヒロインが好き勝手するのはこの世界そのものの否定。許されない行為。
行動を正そうと強制的に力が働いても不思議ではない。
だとすると、ユファンは本気で私を庇おうとしてくれていた。得なんて一つもないのに。
報復を恐れている感じもなく、ユファンという一人の人間がシオンのために勇気を出してくれた。
ヒロインと悪役令嬢。その関係性がいつか消えてなくなったとき、私達は友達になれたのだろうか。
「シオン?」
「ごめん。わからないわ」
「だよね。変なことを聞いてごめん」
「ううん。私のほうこそ役に立てなくてごめんね」
手紙はまた封に戻される。後で返事をするそうだ。魔道具を使って。
正方形の木箱に手紙を入れるだけで、相手側に転送される仕組み。一箱で複数の国を同時登録出来ないのが難点。
そのため、各国によって色違いの木箱を作ったとか。
遠い国もあるし、手紙を届けるために一日かけて森を抜けるのは危険すぎる。
魔道具を提案し制作したのはアルフレッド。
攻略まとめサイトに書いてあったような。好感度を上げるために魔道具の話題があり、そこで幼い頃に作ったと照れながら話してくれたそうだ。
「レディー。もう大丈夫か?」
戸棚から取り出した缶の中身はクッキー。リズの手作り。
貴族が料理をするのはかなり珍しい。しかも王太子妃が。スウェロの喜ぶ顔が見たくて頑張った結果、今ではお菓子作りが趣味となった。
テーブルに飛び乗ったノアールは匂いを嗅ぎ、貰える前提のキラキラ光線を送ってくる。
一枚を半分に割って口元に持っていくと、すぐさまかぶりつく。
「大丈夫って何が?」
心配されるようなことは特に何もしていないはず。
「エノクに聞いたのだろう?」
「聞いた……。ああ!騎士団の過去?」
それがどうして、「大丈夫か」に繋がるのか。私の頭では理解が出来ない。
伸ばされたレイの手は私に触れる寸前で止まる。不可解で不自然。レイ自身も困り、その手はテーブルの上のノアールを撫でた。
手の位置から察するに頬に添えてくれようとしてくれていたのかな。
「レディーは優しい心を持っている。耐えられなかったんじゃないのか」
優しい藤兄が狂気となり大好きなお母さんを殺した。私はあの日初めて、目の前で失う怖さを知った。
殺され死ぬ痛みは、もう経験した。
ただ、この世界は死ぬよりも辛いだけ。
想像するだけで胸の奥が熱く痛むけど、彼らがいなければ今の平和はない。
死を嘆き悲しむだけではなく、命を懸けて戦ったことを感謝することが弔いではないだろうか。
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫。私ね、決めたの。毎日祈りを捧げるって。私には何も出来ないけど、この国で生きていた人達、生きている人達、そして。これからの未来を生きていく人達の幸せを」
「レディーの祈りは天に届いた」
美しい絵画のような控えめに微笑むレイに後光が差す。
嬉しいような、悲しいような。感情が複雑に絡み合った表情でもあって。
純粋に綺麗だなと思った。
レイだけではなく、スウェロもルイセもナンシーも。同じように感謝をしてくれた。
私はただ祈っただけ。それを大袈裟に感謝されるのは恥ずかしい。
大袈裟ではないと判明したのはレイの説明で。
一時的に思考が停止した後に私の祈りは無駄ではないのだと確信した。
祈ろう。心優しい人達が今よりもっと、幸せでいられるように。
「そうだ。ルイセ様」
瞬間、レイとスウェロのナイフよりも鋭い視線がルイセを突き刺す。
「シ、シオン様!どうか名前だけでお呼び下さい」
今にも泣きそうな声。
相手は貴族だからね。許可もなく呼び捨てにするのは無礼だから敬称を付けて呼んだけど、困らせてしまったみたい。
確認の意味も込めてナンシーを見ると激しく首を縦に振って同意していた。
これから名前を呼ぶときには、どう呼べばいいか先に確認しよう。
「それでね。ルイセに型を作ってほしいの」
「型、ですか?あ!チョコのですね」
「そう。お願いしてもいい?」
「もちろんです。どういう型にしましょう」
絵はあまり得意ではないので、無難に思い浮かべやすい月や星、花を伝える。
「あと!ノアールも!」
おかわりを貰おうと口の周りに見事に汚したノアールを抱き上げて、グイッと顔を近づけた。
【うみゃあ!】
表情豊かで愛らしいノアールが元気いっぱいに鳴けば、ルイセの胸は撃ち抜かれた。
猫好きではなくてもノアールの可愛さには誰もがやられる。
まぁ、ノアールはクッキーのおかわりが所望しているだけなんだけど。私には「もっとちょうだい」と聞こえる。
ルイセは両手を合わせ集中していた。創造する際に複数を思い浮かべたら全てが具現化されるのだから、最強の部類に入っていてもおかしくはない。
一口サイズの型がそれぞれ大量に現れた。特産となり人気が爆発すれば、これでも足りなくなる。
まずはエイダの反応から大量生産するかを決めるそうだ。
中学の頃にお菓子作りが趣味な子がいて、クッキーの型でホットケーキを作ってくれたことがあったような。
記憶違いでなければ、何にでも使える。はず。自信はないから、他の型を使うお菓子にも使えるかもねと曖昧なことを言っておく。その辺はプロに任せておくに限る。
「レディー」
レイが入り口を指差すとルイセとナンシーは理解したように執務室を出た。スウェロが防音の水魔法を発動すると、珍しくレイの視線が私が逸れて下がる。
「その……すまない」
感謝の次は謝罪。忙しいな、今日のレイは。
「レディーの秘密を……出生を話した」
「出生……ああ。私が平民だってこと?いいよいいよ、全然」
私自身、最初から知っていたことだし、悲観ぶるつもりなんてない。
公爵夫人が公爵の愛を確かめるべく行ったこと。私とユファンは巻き込まれた被害者。
扱いは酷かったし、苦痛でしかなかったけど。終わった過去を蒸し返して慰めてほしいわけではない。
予想に反して明るく笑う私に、ホッとしつつも困惑する二人。
「私は気にしてないから、気にしないで」
「侍女は知っているの?」
「聞かれてないから話してないよ」
自分から話す内容でもないし。
わかっている。メイは私が公女であったから、その境遇を不憫に思い同情しているだけ。
ただの平民であったと知れば、同情も忠誠心さえも消える。
私は私を裏切る人は嫌いだと言った。メイには私を裏切るなと言った。
秘密を明かすつもりもないまま、呪いのように。
ように、ではない。呪いだ。私はメイ呪いをかけた。
ノアールと二人の世界。他には誰も必要とさえしていなかったのに、なぜ私は……。メイに傍にいてほしかった?
いいや、違う。私はシオンの心に従った。優しいシオンなら、正体を隠して自分に優しくしてくれていたメイを無下にするわけがなかったから。
作り出した私とノアールの世界に、第三者が入ることはない。引いた線を飛び越えるつもりもなく、あくまでも親しい人として接することにしている。
「そろそろ私、帰るね」
「もう?まだいていいんだよ」
「ううん。仕事の邪魔をしたら悪いし」
私と違って二人は忙しい。
折角、来たことだしリンゴを収穫してから帰ろう。摂った後はレイに連絡を入れたらナンシーが空間魔法で取りに来てくれる。
直接、ナンシーに連絡をしたらいいんだろうけど、人様の部下を呼び出して使うのはどうにも。
許可を貰ったとしても、採取する度に呼び出して仕事の邪魔をするのも気が引ける。休みだってあるだろうし。
今回だけは特別ということで、レイにお願いしてナンシーの魔法を借りる。
お土産にはノアールが気に入ったクッキーを缶ごとくれた。
喜びのあまりテーブルの上でゴロゴロ転がるノアールに全員が声を失う。
長居したら仕事の邪魔になるため、ノアールを抱き上げて早々に退室する。
レーツェルの森に向かうため、歩くスピードを早めていると、同じ顔をした薄ピンクの髪をした女性二人に両腕を捕まれ、どこかに連れ去られた。
手に持っていた缶は床に落ちる前に、三人目の女性がキャッチし、そのまま後ろをついてくる。




