番外編 愛しているを伝える代償【ノアール】
「ノアール!見て!誕生日パーティーの招待状よ」
【みゃ?】
シオンがすごく嬉しそうだったのを覚えている。
紙を貰うとシオンは喜ぶのか。
──じゃあじゃあ!今度ぼくもシオンに綺麗な紙を取ってくるね。
ベッドの上でぴょんぴょん飛び跳ねるシオンの喜びが、ぼくにも伝わってきた。
本当に嬉しいんだ。
シオンに拾われてからここで過ごすようになって、初めて見るようなシオンの笑顔。
そんな顔で笑うのだと、新しい発見。
嬉しいや楽しいの感情がいっぱいで、シオンが嬉しいとぼくも嬉しい。
緑色のドレスに着替えるときも、口角はずーっと上がりっぱなし。
一生懸命、髪をとかす姿はとても言葉に表せない。
普段は布をかけている鏡で確認をした後、小さくうなづいた。準備万端。
部屋を出て、ぼくを抱っこしようとする手が止まる。
はっ、そうか!
せっかく可愛くなったのに、ぼくの毛が付いたら台無しになっちゃう。
大丈夫だよシオン。ぼく、歩けるからね。置いて行かれないように必要に足を動かす。
いつもなら嫌な人間がいる廊下も、今日はいない。
シオンの後ろを着いていく。
大きな扉の前で立ち止まって、大きく息を吸って吐いた。
コンコンって扉を叩いて、ゆっくりと大きな声で自分の名前を口にした。返事はない。
頑張って扉を開けた先には、シオンをいじめる子供二人と、同じ匂いをした大人が数人。
──ここ、すごく居心地が悪い。
直感でそう思った。
シオンが入った途端にピリって空気を尖らせた。
ツンとする嫌な匂い。女の人間から漂ってくる。
人間は色んな良い匂いをさせることが多いけど、ここにいる人間の匂いは臭い。
「あら。本当に来たわ」
「立場を理解していないのかしら」
緑色のつり上がった目がシオンを睨んだ。
ぼくはあの目を知っている。
敵意と殺意が入り交じった濁った目。
「それに見て。あのドレス。まさか私達の瞳の色を表しているのかしら」
「まぁ!なんていやらしい子なの。姉様を殺しておいて、よくもそんな無神経なことが出来るわね。信じられない」
二人の大人が喋る度にシオンの心がザワってする。
無意識に足が下がることに気付いたのはぼくだけ。
俯いてしまったシオンの表情は下からだとよく見える。
唇を噛んで必死に泣くのを我慢しているかのよう。
「お兄、様」
「誰がお前の兄だ?穢らわしいことを口にするな!!」
「お前のような者が生まれただけでもグレンジャー家の恥晒しだというのに、兄などと呼ばれると虫酸が走る!!」
【シャァーッ!】
シオンから音がした。パリンって、何かが割れる音。
色付いていた瞳に影が落ちる。
この男はシオンを傷つける。悲しませる。近づけたくない。
禍々しい赤い炎。負の感情が強い。
どうして……。
シオンはこの男を「兄」と呼んだ。兄は、お兄ちゃんって意味でしょ。
お兄ちゃんは大きくて優しい存在。色んな人間を見て、そう思った。
でも、コイツは違う。シオンをいじめる最低な奴。優しさの欠片もない。
「まぁ!何なの、その穢らわしい獣は!?ただでさえ不気味な色をしているくせに、真っ黒な獣まで!私達に対する嫌がらせのつもり!?」
耳に響く甲高い声。それに続くのはシオンがぼくを見つけてくれるまでに散々言われたこと。
黒はダメ。黒は悪。化け物。存在そのものの否定。
痛いが蘇る。石を投げられて、当たったら喜ばれて。
顔のない多くの影がぼくを取り囲む。大きく口を開けて笑う。
世界は怖いものであったと思い出す。
ぼくのせいで死んでしまったお母さん。また、繰り返してしまうと体が震える。
それでも。背中を向けてはいけない。
『ノアール』
ぼくを呼んでくれるシオンを、守れるのはぼくだけ。
あの日、シオンが守り助けてくれたように。今度はぼくが守り助ける番。
恐怖から逃げたら、きっとぼくは死んでも後悔する。
「お前のような欠陥品如きのせいで私の娘が死んだのだぞ!詫びることもなく、のうのうと生きよって。恥を知れ!!」
大声で怒鳴ってはシオンを怖がらせる。
ぼくにはわかるんだ。シオンはただ、自分を嫌っているこの男に、何か特別な言葉を伝えたいのだと。たったそれだけ。
ぼくと違って言葉が通じるのに。
どんなに頑張ってもぼくの言葉はシオンには通じない。人間と動物は全く異なる人種。
もしもぼくが、話すことが出来たのなら。花束のような色とりどりの楽しく嬉しい感情で、シオンに愛してるって伝えるのに。
声が枯れるほどに何千何万回と、シオンの名前を呼ぶのに。
ぼくと違ってシオンと同じ人間であるからこそ、羨ましくて、ズルくて嫉妬する。
叶うことのない夢を見ては、ぼくは自分が人間でないことにひどく落胆した。
この小さな体では限界がある。
悲しいときにシオンを抱きしめてあげられない。傷を癒すことはおろか、手当てすらも。
ぼくの欲しいものを持って生まれたはずの“家族”が、シオンを除け者にすることが許せない。
「ご……ごめん、なさい。生まれてきて……ごめんなさい。生きてて……ごめんなさい」
今度の音はもっと大きい。ガシャンって、何かが落ちる音。
視線を少しズラして後ろを見ると、心臓が強くはねて、体に強い衝撃が走った。
黒い瞳は何も写そうとはしていない。
コイツらがみんないなくなれば、シオンの心は救われるだろうか。
いなく、なれば……。
憎めば憎むほどに血が沸騰したように熱くなる。あの喉元に力いっぱい噛みつこうと体勢を整えると、シオンがぼくを抱き上げた。
悪いことをしていないシオンがいっぱい謝って、酷いことしか言わない人間が正しいみたいな態度を取る。
ぼくを蔑みいじめてきた人間達なんかよりもよっぽど、理不尽さを感じた。
ぼくは真っ黒だったから殺されかけた。でも、シオンは。小さな黒しか持たない。
とても綺麗な黒。
コイツらは人の形をした別の生き物みたいだ。
「自らの不注意を他人のせいにするな!!」
違う!この女がシオンの足を引っ掛けたんだ!!
こんなにもすぐ近くにいたのに、転んだシオンが悪いと言うこの男のことが、もっと嫌いになった。
足を引っ掛けた女も醜い笑みでシオンを見下す。
背後から襲ってきた老婆から感じ取れるのは怖いぐらい純粋な殺意。
ここにいる全員に、シオンが何をしたの言うのだろうか。
シオンはとても小さくて、か弱いだけの女の子。恨まれ憎まれることなんて出来るはずもない。
この家にはぼくのような余所者には、わかり得ない秘密が隠されている。
【みゃー…】
──ごめんねシオン。ぼくじゃ痛みを和らげてあげれない。
伝えたいことが伝わらない。
シオンがいつもしてくれるように、柔らかな頬に前足を当てた。上手く撫でられなくて、ポンポンと叩くだけ。
泣くのを我慢していた顔から涙が流れることはなく、笑った。
それが、ぼくを心配させないための行動であるとわかり、胸がギューってなった。
ぼくが人間みたいに大きかったら、優しく抱きしめてあげられる。
重たい足取りで一歩ずつ部屋に近づいていく。来るときと同じで誰とも会わない。
部屋に着くと緑色の服を脱ぎ捨てて、それを踏んでしまった。
そんなことにも気付けないほどにシオンの視野は狭くなっている。
シオンの体から漏れ出した魔法が服を包んでは消してしまう。
「ねぇ、ノアール。お腹空いたの。悪いんだけど、果物を持って来てくれる?」
【みゃー!】
うん。任せて。
ご飯を食べたら少しは元気になるだろうか?
窓から外に出て、屋敷の裏手に向かった。
建物の陰にひっそりと小さな樹が生えていて、そこには色んな果物が実っている。
ここは、おさんぽをしているときに見つけたんだ。
甘い匂いに誘われた。味見すると美味しくて、シオンも気に入ってくれた。
人間は時々、シオンにご飯をあげないときがあるから、ここから持って行ってあげるの。
生き物はご飯を食べなきゃ死んじゃうから。
──シオンが死んじゃったら、ぼくはきっと……。
果物は体の小さなぼくでも簡単に採れる。
ここはまるで、シオンのためにあるみたいだ。
採っても採ってもなくなることはない。魔法の樹。
シオンはこのブドウって果物が好き。食べやすいからだって。
ひと房取って、落とさないように慎重に運ぶ。でも、ちょっと早足で。
──シオンが待ってるから急がなくちゃ。
こんなにも周りを気にせずに移動出来るのは初めて。
部屋に戻るとシオンはベッドに横になっていた。
お腹が空いているからじゃない。
ぼくと同じ黒い瞳からはあの日と同じように涙が流れていて。
どうしていいかわからず、あたふたしてしまう。
ブドウは落としてしまい、とにかくシオンを慰めたくてベッドに飛び乗る。
ぼくがいない間にアイツらが来て、いじめられたのかも。
シオンが泣く姿なんてもう見たくないから、涙を舐めた。
その涙はキラキラしていて、妙に温かかったのが不思議。
【シオン!どうしたの!?】
うみゃ?ぼく、今……人間の言葉を?
どうして急に喋れるようになったのかなんて、わかるはずもない。
ただ、言葉が話せるようになったら、ぼくの気持ちをシオンに伝えることが出来る。それがどうしよくもなく嬉しかった。
これでもう人間を羨む必要がない。
【シオン!ぼく!喋れるようになったんだよ!】
「ノアール?ふふ、そっか」
おいでと言うように伸ばしてくれた手に甘えて、シオンに擦り寄る。
【あのねシオン!ぼくね!シオンのこと、だぁーい好き!!世界で一番、愛してる!!】
やっと言えた。ずっと言いたかった言葉。
シオンの気持ちが埋め尽くされるように、この声が枯れるまで何度でも伝えるんだ。
明日には全部消えてなくなるかもと不安になる。
こんなにも嬉しい気持ちが夢であるはずがない!
明日もその次も、きっと。ぼくは喋れる。
「私も……好きよ。愛してるわ、ノアール」
ぼくに触れてくれたシオンの手は、いつもより冷たい気がした。
シオンは目の前にいるのに。なぜだか、遠くに行ってしまったような。
そんな悲しい気持ちになった。
いつか現れるだろうか。
ぼくの代わりにシオンを抱きしめてくれる人間。
現れたら……いいな。
その日からだ。ぼくの体にこれまでなかった血とは別の何かが流れるようになったのは。
それが魔力であり、ぼくがシオンの魔法を使えるのだと知るのは、もっと、ずっとずっと先の未来。




