いざ、隣国へ
朝が来た。
何も変わらない、私にとっては特別な朝。
メイは昨日のうちに公爵に辞表を提出し公爵家とは関係がなくなった。
門の外に出て帽子を深く被る。
北の森へと向かう足取りは軽い。
時折、制服を着た学生を見かける。羨ましくはない。
私は自由だと、誰かが背中を押す。足は段々と動きが早くなり、気付いたら走っていた。
抱っこしているノアールの尻尾が激しく揺れる。
──私の感情が伝わっているみたい。
縛る物がない。鎖は解かれた。
さよならを言えるほど、この国に思い入れなんてない。
十六年も暮らしたはずなのに。
森の入り口には馬車が一台待っていてくれる。メイは先に到着していた。
「お待ちしておりました。お嬢様」
彼は私が何者か知った上で、最大限の礼を尽くしてくれている。
扉を開けて、乗りやすいように手を貸してくれた。
ずっと座りっぱなしになるため、お尻が痛くならないようにクッションが敷かれ、膝掛けも用意されていた。道中、退屈しないように本が置かれている。
移動には約一日かかるため軽食まで。
──まさに至れり尽くせりとはこのこと。
馬車は動き出す。
国を出るために。
別れ難いとか、寂しいとか感情はない。
解放される喜びしかなかった。
遠くなる母国を振り返ることもなく。
森の中は薄暗い。
なるべく平らな道を選んで進んでくれているのがわかる。
「メイはどうして、私を信じてくれたの」
「最初からではありません。お嬢様は唯一の公女でしたし、ワガママになるのも無理はないと思っていました」
「あ、そう……」
「ですが、ノアールを拾ったのを見て印象が変わりました」
ノアールの名前まで知っていたなんて。
みんな、猫とか獣とか、そういう呼び方しかしなかった。
メイは本当に私のことを見ていてくれたんだ。
馬車は進む。ひたすらに、隣国へ向かって。
退屈で寝てしまったノアールにそっと撫でて、ブレットが選んだ本を読む。
そんなに分厚くはなく、集中してしまえばあっという間。
内容は悪役令嬢が幸せになる何とも珍しい物語。
家族や友人、婚約者からも裏切られ全てを失った主人公に手を差し伸べてくれたのはモブキャラ位置にいた男性。
彼だけが主人公の良い所を知っていて、共に身分を捨てて平民として暮らしていく。
恋愛はともかく、私も幸せになれると、そう言ってくれているのだろう。
ブレットは気が利きすぎている。こんなにも良い人、滅多にいない。
森の中は景色が変わらない。外を眺めていても退屈。
メイと話すにしても会話の内容に困り、お互いに黙ったまま。世間話が出来るほど、私達の関係は親密ではない。
朝からの薄暗さが段々と濃くなり、陽が沈みかけてきたのだとわかる。
「すごい……」
見えづらくなってきた道を炎が照らす。
鬼火みたい。
魔法は使い方次第で便利だ。
私の知る炎魔法は、いつだって私を攻撃するものばかり。きっとこれが、正しい使い方なのだろう。
──彼の正しい行いがいつか、彼自身に返るといいな。
お腹が空いてきて用意してくれてサンドイッチを食べる。ノアールのご飯まで用意してくれているのは流石。
お腹が満たされ、することもなくなると睡魔に襲われる。
隣国に到着するまで起きていたかったけど、自然と瞼が閉じてしまった。
ハッキリとしない意識の中で、メイが御者に何かを伝えていた。
よく聞こえないけど、「お嬢様」「眠った」「わかりました」その三つはかろうじて耳に入ってきた。
馬車のスピードが落ちた。私を気遣ってくれているのか。
目が覚めたとき、景色は動いていなかった。
──トラブルかな?
「どうしたの?」
メイに聞いた。
「魔物に襲われている者がいるらしく」
前方では剣を持った騎士が馬車を守るように魔物と戦っている。
兎みたいなフォルム。頭……額に角が三本付いていて、一つ目。攻撃しようと開いた口は大人一人を丸呑み出来るほど大きく、骨を砕いてしまいそうなほど尖った歯。というか牙じゃん。
あれが下級魔物らしい。
魔物には名前はなく、魔法を使えない魔物が下級と呼ばれている。魔法が使えないだけで、あんな牙に噛まれたらほぼ死が確定じゃない?
怪我をさせるレベルの魔法を使うのが中級。一撃で人間を殺してしまうのが上級。
上級魔物は滅多に人前に姿を現すことはない。
はずだったんじゃないの。
前方の馬車の背後から二足歩行で五メートルはありそうな魔物が、口から赤い何かを吐き出そうとしていた。あれって炎?
下級魔物しか見えていないようで、このままでは最悪の事態が訪れてしまう。
目の前で人が死ぬかもしれないのに、見て見ぬふりはしたくない。
私は最低な人間に成り下がるつもりはなく、メイの制止を振り切って外に飛び出す。
物を飲み込む魔法。あれなら今の私でも多少はコントロール出来る。
対象は魔物のみ。頭の中でハッキリとイメージするのが大事。
ブラックホールに吸い込むイメージで魔法を発動すれば、意外と上手くいってくれた。
中級魔法の割に魔力をかなり使うけど、疲労感は皆無。
「今のは闇魔法?」
騎士の視線が私に向いた。
帽子を深く被って顔が見えないようにしているとはいえ、見られるというのは慣れない。
「待って!」
軽く頭だけ下げて戻ろうとすると、馬車の中にいる人に呼び止められた。
その人は慌てたように飛び出して、私の前に駆け寄る。
眩しい金色の髪。金眼。整った顔立ちではあるけど、どこか間の抜けた……緊張感のない……まぁ、そういう人だ。
「ありがとう!助けてくれて。君がいなかったら私も彼らも死んでいた」
「い、いえ……」
お礼を言われたのって初めてじゃない?
私の記憶には「ありがとう」なんて感謝の言葉、聞いたことはない。
「この道を通っているということは、リーネットに向かっているのかい」
「は、はい」
「君さえよければ、一緒に行かないかい?とは言っても、もうすぐそこなんだけど」
断る理由がない。
魔物が出たということは、隣国にかなり近付いている。またこの人達が襲われ、今度こそ死んでしまったら後味が悪い。
向こうの馬車に勧められたけど私にはブレットからの餞別がある。
一緒に行くのはいいけど、馬車に移るつもりもなく、見知らぬ人と同乗するつもりはない。
止まっていた遅れを取り戻そうとスピードが速い。
酔わないのは、安定した走りのおかげ。
「お嬢様。お待たせ致しました。リーネット国に到着です 」
検問はなく、すんなりと国境を超えた。
兵がいないわけではない。二人、ちゃんと立っている。敬礼をして馬車が通りすぎるのを見送るだけ。
あれが仕事でいいのだろうか。
「私の仕事はここまでですが、目的地があるのでしたら、お送りします」
「いえ。ここまででいいわ。ありがとう」
御者は目を丸くするもすぐに
「お嬢様が幸せになることを祈っております」
「ブレットにもお礼を言っておいて。おかげで、とても快適だったと」
「かしこまりました」
来た道を戻るとなると、また魔物に出くわす可能性がある。
遠回りをすれば身の安全は保証されるわけだけど。
森を抜ける気なんだよね。
あの炎魔法なら魔物と渡り合えるかもしれないけど、上級魔物が出てしまった以上、油断は禁物。
「イメージするんだ。結界で包むように。そうすれば君の魔法で彼を守れる」
──守る……。
森を抜ける間だけでいい。
彼が傷つかないように守って。
願いながら魔法を使うと、薄い膜が馬車を覆う。
闇魔法は壊すか消すか操るしか出来ないと思っていた。
御者は深く頭を下げて、来たときとは比べ物にならない速さで森の中に消えていく。
ブレットにすぐ帰ってくるようにでも命令されてるのかな?
【シオン。この国は良い匂いがするよ】
良い匂い?
風が吹く。爽やかな、私が好きな春風のような。
ノアールの言った良い匂いが私にはわからないけど、気に入っているみたいでなにより。
空を見上げた。雲一つない青々とした空は手を伸ばしても届かないほど高くて。
傷はまだ癒えていないけど、世界は苦しくて痛いことだけではないと知ったから……。
周りの優しさに気付いて、私も優しく接して、少しずつ変わっていく世界を愛おしく思えるようになれたらいいな。




