特別【ノアール】
一年に一度だけ、すごくすごく悲しい匂いがする。
【シオン。ぼくね、お散歩行ってくるね】
「一人で大丈夫?」
【うん!行ってきます】
優しく微笑んでくれるシオンに、チュッてした。
窓から外に出て、匂いの元を辿る。
下におりると、いっぱいの子供に囲まれた。
痛くて怖い記憶が蘇る。
咄嗟に威嚇しようと身構えると、ここにいるのはぼくを傷つけない人だと思い出す。
黒いぼくを否定することなく、受け入れてくれて。
優しい世界にいるのだと気付く。
無数の小さな手が体を撫で回す。
ちょっと雑。でも、痛くない。
一通り撫でると満足したように離れていく。
──シオンにブラッシングしてもらったのに、もうボサボサ。
さぁ、気を取り直して行くぞー。
歩いているだけでみんな、ぼくの名前を呼んでくれる。
そこに嫌な感じはない。
くすぐったい気分になりながらも、呼ばれることが嬉しかったりする。
──ぼくの名前はシオンしか呼ばなかったから。
匂いの正体がもっと遠くにあるとわかると、勢いをつけて猛ダッシュ。
ぼくには、くうかん魔法があって、好きな場所に行ける。
着地した場所はさっきまでの景色と違っていた。
森なのに緑がない。微かに焼け焦げた匂いがする。
何もないまっさらな地面に立っているのはアーク。
その手には花。
ぼく、知ってる!あの花は、死んだ人にあげる花だ。
お母さんが埋められた土の上に、同じ花が置かれたのを覚えている。
アークからする匂いは痛いくらいに悲しくて。
いつも温かい瞳は無。
死んでいるかのように動かない。
【みゃ!?みゃぁーー!!】
アークは真っ黒な、シオンを守ってくれた剣を喉元に突き刺す。
あれは人を殺すもの。深く刺したら死んじゃう!!
勢いをつけてジャンプをした。手をガブっと噛む。
「ノアール?なぜここに」
驚きながらも剣を離さない手をまた噛んだ。
「私が死ぬと思ったのか?」
色の消えていた瞳は段々と光を宿す。
いつもみたいに口角が上がる。笑った。
「ここに来るといつも死にたくなるんだ」
剣は小さくなった。手の中にすっぽりと収まる。
「でも……死ねない。死ぬことは償いではないから」
空を見上げる目はここではない、ずっと遠くを見ていた。
雲よりも高い、空の上。
「生きるのは苦しいな」
ぼくはその顔を知っている。
ここに来る前、シオンがよくしていた顔と同じ。
生きたいと死にたいに挟まれて、自分を見失っている。
吹いた風はアークの苦しい感情を吹き飛ばしてはくれない。
強いはずの瞳から一筋の涙が零れた。
【にゃっ!!?】
あまりの衝撃に開いた口が塞がらない。
「ふっ……くく。その顔はどういう感情なんだ?」
サッと指で涙を拭ったアークは、いつもと変わらない。
ぼくを抱き上げる手は相変わらず大きかった。
「ここまで歩いて来たのか?」
【魔法だよ!】
ぼくの言葉はシオン以外には聞こえない。
それはもう、ずっと前から。
気にすることはない。
シオンにだけ聞こえていたらいいし、ぼくもそれでいいと思っていた。
でも、ここに来てからは。みんなとも話をしたいなと思うときがある。
かんていをしても、言葉が通じるわけでもなかった。
「一人でよくこんな遠くまで来たな。シオンが心配するだろう」
【みゃ?】
どのくらい遠いのか、わからない。
シオンの匂いがずっとずっと向こうから漂う。
「ここはリーネットの最東端の山だぞ」
首を傾げた。
距離にするとどのくらいなのだろうか。
「馬なら四時間程度……。空間魔法なら一瞬だな」
賢い真っ白な馬はアークをずっと待っていた。
「ノアールは魔法で帰るか?」
【んー……一緒!!】
言葉は通じなくても行動で示せば伝わる。
飛び乗ると、落ちないように片手で抑えてくれた。
ゆっくりと、ちょっと速く。進む。
やまの近くに人は住んでいない。
かつてここには、恐ろしい魔物がいた。
黒くて空を飛ぶ。人間よりも強くて怖い存在。
やまから下りてくることはないけど、そこにいるだけで恐怖は計り知れない。
黒い魔物の存在が、あたらしい魔物を生み出す。
この世界にいてはいけない。
へいわのために戦ったアークを、責める人はいなかった。
いるはずもない。
アークは頑張った。いっぱい。
みんなにいっぱい、褒めてもらえるくらいに。
昔話を語るアークの声は、罪のいしきを深く感じている。
ぼくは猫だから。人間とは別の生き物。
感情に違いがあるのだとしても、アーク一人で責任を背負う必要はあるのだろうか?
アークのおかけでへいわになったのに、それでも罪なの?
──人間の考えることは難しい。
今日が終われば悲しい匂いはしなくなる。
特別で、苦しいのは今日だけ。
「ノアール。ずっとシオンを守ってくれて、ありがとう」
耳に残る心地良い声。
振り向けばキラキラ輝く光がアークを照らす。
その綺麗が“美しい”ということを、ぼくは知っている。
──もしも、ぼくが人間だったなら。
誰よりもシオンを愛した。
呆れられるまで「好き」を伝える。
アークは……ぼくが夢見ていたぼく。
シオンのことを愛して、守って、傍を離れることはない。
どこにも行ってしまわないように、その手を掴む。
二人からは同じ「好き」の匂いがする。
特別で、その「好き」は愛。
──おふせからも好きの匂いはするけど、アークと比べたら薄い。
ぼく以外にもいた。シオンを愛してくれる人。
愛されることを諦めたシオンを抱きしめて、受け入れてくれた。
胸いっぱいの嬉しさ。
だらしなく顔が緩む。
もしも、いつか。特別な好きが結ばれて、一本の糸になったら。
シオンはもっと幸せになるだろうか。
【アーク!あのね、シオンはね。名前を呼ばれるのが好きなんだよ】
「えーっと……?何かを伝えたいらしいが、私にはノアールの言葉は理解出来ないよ」
【むぅ】
「帰ったらシオンに通訳してもらう」
ぼくが不貞腐れたことだけはわかったらしく、頭や顔を撫でてくれる。
シオンはてれやだから、今のことは内緒。
【アーク。シオンのことを守ってくれて、ありがとう】
ありがとうはいつだって、ぼくの言葉。
アークがいなかったらシオンは、いなくなっていた。
二人ぼっちから、また独りぼっちになる恐怖よりも、シオンがいなくなることのほうがよっぽど……。
だからこそ、シオンを助け守ってくれるアークには沢山の感謝をする。
いつか伝わるその日まで。
「ありがとう」を届けるんだ。




