186 182話ごろのしらね
「えーと、あれが新横浜の取水施設やな・・・」
マーメイド族は地上の地名に疎く、しらねは水中の地名に疎い。だが方角だけは共有できるので、新大坂からとりあえず西進していた。おおざっぱに進んで、時々地上に顔を出し現在位置を確認する作業が必要だった。それができるのはしらねだけである。
「オードリーはん、この先って北に分岐しとるんやったな?」
「だねー。真西に進む水路はないよ」
「ほな、ちょう南に寄せましょか。ええ感じの水路ありますん?」
「南と言うと、ナンホのほう行けばちょうどいい感じかな?」
「いや、ネーカネのほうがいいんでない?ナンホだと南に行き過ぎる気がする」
「私もネーカネに一票」
「んー、じゃあそれでいいか。しらねさん、もう潜れますか?」
緑人はマーメイド族ほどではないが、水中で長時間活動を続けることができる。浮上しての位置確認は、呼吸目的も兼ねていた。
「ほやな、そろそろええか思います」
「じゃ、行こっか」
水中の地名には不案内なので、そこはマーメイドたちに頼るしかない。しらねは思い切り息を吸い込むと水に潜っていった。マーメイドたち3人もそれに続き、水中でしらねを追い越して前に出る。緑人は『潜れる』だけで、泳ぐスピードではマーメイド族とは勝負にならない。思い切り速度を落としてもらいながら、しらねは3人の後を追っていった。
「皆はん、よう見えますなぁ」
一部明るいところもあるが、基本的に地下で水中なので真っ暗だ。当然松明など持ち込めないので、光源はない。
「慣れたら見えるよ?」
「地上にも同じようなものがあるって聞いたけど」
「同じようなもん?ほないなん聞いたことないけどなぁ」
マーメイド族の視界確保は、特殊な波長の光を発する材質の岩肌によって確保されている。過去にはこれを人工的に再現する技術があった。それをふんだんに用いて作られたのが、今小松島たちがいる地下遺跡だった。人間の目には光として認識できない波長であるが、これを可視光として増幅し照明として用いる技術である。マーメイド族が利用する地下水脈にはその元となる天然由来のものが使われており、光量としては大幅に劣るが必要最低限の視界が確保できるようになっている。残念ながら不慣れなしらねにはこれを十分に活用することができないが。
「次で下に行くから」
地下水脈は地上の洞窟と違って、左右だけでなく上下への分岐も当たり前のように存在する。階段も梯子もなしだ。
「そこ出っ張ってるから気を付けて」
「はいな」
整地された道路ではないので、壁に沿って移動するとどうしても出っ張りや凹みに引っかかる。マーメイドたちは中性浮力を使いこなして壁から離れたところを自由に泳ぐが、しらねには無理だ。壁に手や足を突いて加速することでなんとか3人についていけているので、これについては気を付けるしかない。真っ暗闇でこの芸当をやってのけるのは本当に大変なのである。すでに多数の裂傷や打撲痕がついているが、それで済んでいるのが奇跡だ。
「次右ね」
「はいなー」
右左どころか上下もすでにわからない状態。これを空間識失調、バーディゴというのだが、普通は航空機で激しい機動を行った結果生じるものだ。暗闇を上下左右に泳ぎ回った結果そうなった事例はたぶん、ない。しらねも自覚はしていないが、すでにその状態であった。
「道なりに進めば、10分ぐらいで明るいところに出るからね」
「ほな、そのへんで一息いれましょか?」
「しらねさんのおやつは美味しいから好きー」
しらねが持ち込んだのは地上の食料である。水中の食料は火が使えないので生もののみだし、乾かせないので干物や乾物がない。食事の水準では地上のほうが圧倒的にバリエーションが豊富だった。ただし、塩味の食事は受けが悪い。なぜなら塩が欲しければ海水水域に行けばいいので、いつでも味わえるからだ。香辛料系、それも鼻に抜けるのではなく舌に刺激を与えるものが好まれていた。
「でもやっぱ、水上で食べたいよねー」
「まあ、ほこんとこは。水中で食べるんや想定してへんやろし」
マーメイド族が地上の食べ物を口にできる機会はほとんどない。水から上がって自分で買いに行くことはできないし、水辺で営業してくれる飲食店などないからだ。船に近づいて分けてもらうぐらいしか入手方法がないが、この場合は保存食ぐらいしかもらえない。ウラシマ祭りはマーメイド族が地上の食べ物を手に入れられる貴重な機会だった。
聞いていた通り、10分ほどで上から光が差し込む場所にたどり着く。
「この上ってどないなってますのん?」
「落とし穴」
「えっ」
穴の底が、この水路につながっているのだという。であるから残念だがここでは浮上して食事というわけにはいかない。しらねはおとなしく水底に座り込んで、マーメイドたちが寄ってくるのを待ちおやつ用の食品パッケージを開封した。
「今回のはあんま長ぁ保ちませんえ」
ふやけきる前に食べきるのが望ましいので、急いで3人に配る。今回開けたのは砂糖を使ったパイだった。




