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「すげえ量だな」
「これほどの量をまとめ買いいただけて、生産部も大歓喜しておりました」
心の底から嬉しそうな笑顔でシチェルから小松島へと視線を動かしたオタ氏はそこで表情が変わった。
「あの・・・何か?」
自分が何かとんでもない大失態をやらかしたようだと思ったのか、先ほどまでの明るい声ではなく深刻な声で小松島に問う。小松島から負けず劣らずの深刻声で答えがあった。
「これで・・・全部でありますか?」
「はい」
樽が4つ。大きさからみておよそ200リットル入っていると思われる。それが4つで800リットル。重量にして0.64トンである。
「・・・なんてこった」
夕雲型駆逐艦の航続距離は600トンの重油を搭載して18ノットで5千カイリ。単純計算すると、4樽での航続距離は5.3カイリ。キロメートル換算で約9.8キロメートルになる。呉軍港を出発して、江田島を周回しようとし始めたあたりで使い切る量だ。
ついでに言うと、普通の軍艦は燃料が完全にゼロになるまで使い切ることはない。燃料そのものを艦のバランスを維持する錘として使うからである。つまり、燃料が減りすぎると転覆しやすくなるのだ。そのため、普通は満載状態から3分の2ほどを使ったところで燃料切れとみなす。伊号第168潜水艦が重油残量1%未満まで使い切って帰還した例はあるが、これは補給艦と遭遇できなかったために生じた極めて異例の出来事である。
「品質について確認したけど、量については完全に見落とした」
「え、こんなにあるのに足りないのか?」
「全く足りん。この100倍あってもまだ足りない」
「ひゃく?!」
「そんなにたくさんの墨油を集めて、いったい何をなさるおつもりですか?」
朝霜の燃料タンク容量の半分、300トンぐらいはあるだろうと思い込んでいた小松島は頭を抱えた。第三新東京港から第一新東京港へ移動するだけで、ここに用意された以上の重油を消費するのである。全く元が取れない。
「おっちゃん、400樽分の墨油を作るのってどのぐらいかかる?」
「1年や2年でできることではないでしょう。第一、うちで年間に取り扱う鉱物油の総量より多いじゃないですか」
「だよなあ・・・」
シチェルが実家にいた頃、石油職人さんが油石から石油を作る様子を見たことがある。簡単に言うと、まず油石をすり潰してビーカーの中に入れて水を注ぐ。アトイ商店開発の特殊な膜を落とし蓋として油面に浮かべ、これがゆっくり沈むのを待つ。途中で沈まなくなるが、膜より上が軽油(黄泉の世界では灯油を含む)となる。膜を取り出し、透明な部分をスポイトで取り出すとこれがガソリン。その下の黒い層が墨油=重油となる。残りは水と、この世界では使い道のない搾りカスとして捨てられるアスファルト、それに技術力の関係で回収不能の気体等だ。アトイ商店以外では軽油とガソリンの正確な分離ができないため、境目付近の油は捨てるしかない。ここが他店との競争におけるアドバンテージだった。また、抽出した油をさらに加工することで品質を上げているのだが、ここから先の工程はシチェルも見たことがない。すべて手作業のため、日産5リットルぐらいが限界である。
「どうした?トラブルか?」
ジェムザも乗船してきた。探し求めたものが手に入ったにもかかわらず喜びの様子がない小松島を見て、何か問題があったのかと考えたようだ。
「主はん、どの樽運べばええんですのん?」
「白い蓋のやつ」
とりあえず、手に入った分だけでも港に借りた倉庫に移すことにする。
「なんだ、ちゃんとあるじゃないか」
「ほな、この4つでんな。皆はんおなしゃーす」
しらねと作業員らが、墨油の詰まった樽を持ち上げて運び始めた。




