第4話 気高き主(2)
この村に初めてアルルカがまだ10歳程の時のことだった。その時も別ルートからここを通りリチェルカ協会本部へと向かう途中だった。本部に村から調査依頼が来ていたために立ち寄ったのだ。
「師匠、この川すごい色」
アルルカはルナルスが川の水質調査を本部から寄越された研究員と共にしているのをそばで見ていた。
川の水を取り、川のそこの土や周りの土壌なども採取し検査する。
「駄目ですね。川回りの土壌は無事ですが、底の土は毒素が強くてそれが水に溶け込んでいるようです。ここから下流は飲むどころか手をつけるのもやめた方がいい」
検査結果を見た研究員がルナルスへとそう伝えるとルナルスはじっと川の中を覗き込む。
「ここには昔魚はいたか?」
「ええ。いつの間にかいなくなったと。まだここまで濁っていなかった頃はよく魚の死骸が浮かび底には朽ちた骨が見えたそうです。おそらく毒性のある魚の死骸が原因で毒素が湧き、水草なども腐らせたのでしょう」
「……そうか」
ルナルスが研究員に撤退した方がいいと進言すると研究員は眉をひそめてそれは出来ないと言った。
村からの依頼は原因を突き止めてなんとか川の水を浄化したいとのことだ。この川を綺麗にするには毒素の元である川底の土を取り除かねばならない。
この依頼を受ければ協会としても報酬が受け取れるし、村は川から水を引き発展していくことが出来る。依頼を断る理由はなかった。
「俺はやめろと忠告したからな」
「ええ。ご苦労さまでした」
ルナルスはアルルカを呼んで村を出た。
アルルカはルナルスの背を追いかけながらどうして止めたのかを聞く。
「師匠、なんで綺麗にしてあげないの?」
「アルルカ、あの川には何がいた?」
「でっかいお魚がいたよ」
アルルカの答えに満足したルナルスは雑な手つきで頭を撫でた。
「わざわざ人間がどうこうする必要がない。そいつがいれば充分ってことだ。あとで話してやる」
「魚が……」
話し込むアルルカの裾がくいっと引っ張られふたりの視線は下へと向けられる。裾を引っ張ったのは10歳ほどの少年だった。
「お兄ちゃんたち旅人さん?」
「そうだよ」
「さっき川の話してたよね! お父さんが危ないから近づくなって言ってたからやめた方がいいよ」
何も知らない旅人が危ないことをしようとしていると思ったのか注意しにきてくれたのだろう。
アルルカはしゃがんで目線を合わせ少年にお礼を言うと少年は笑顔で去っていった。
アルルカがアマハナ畑を通り過ぎそのまま森の方へ進んで行く様子にエレインは驚きながらもその後ろをついて行く。
「川を見に?」
「うん」
「人を襲う魚がいるのですよね? 1度宿に行って準備してからの方が……」
「たぶん大丈夫だよ。もうそろそろだから」
アルルカが意味ありげに笑い。エレインは不思議そうに思いながらも進んでいくと、水の流れる音が鮮明に聞こえてきた。
木々の先に川が現れる。
「これ、……」
「やっぱり、あと少しなんだ」
2人の目の前にある川は透き通り川底が見えていた。水草も新たに生えたのか小さな緑が揺れている。
川底の土が震える。顔を出したのは目のない大きな魚。
灰色のお世辞にも綺麗とは言えない見た目をしたその魚は川へふたりが侵入しないかを監視するようにじっとしている。
その魚を確認したアルルカは川へそれ以上近づかず来た道を引き返した。
「アルルカ、あの川は、巨大魚のことも、なんなんですか?」
「ひとまず宿に行こう」
アルルカは嬉しそうに笑いながらエレインの疑問を先延ばしにする。その顔はアマハナをアルルカに食べさせた時のルナルスに似ていた。
宿に付くとすぐに宿まわりと部屋の造りの確認をする。窓には格子がついており、隣の建物との間は人ひとり入れないほど狭い。外からの侵入はないだろう。部屋が鍵付きだったのは幸いだった。ティティは眠くなったのか備え付けのベッドではなくアルルカのリュックの上で丸くなっていた。
荷物を置いてアルルカは眠ったティティを置いてエレインと待ち合わせした受付に向かう。受付にはちょっとした机と椅子が置かれたスペースがあり、そこを借りる。
「エレインさんはスラッジランガーという魚は知ってる?」
「聞いたことはあります。泥の中に生息する珍しい目のない魚だとか」
「うん。泥中の主って名前だけあって普段は泥の中にいる。それも汚ければ汚いほどいる確率は高くなる」
スラッジランガー。泥中に潜む目のない魚だ。濁った水の更に下の泥の中にいるのでその姿を見たものは少ない。他の魚が生息出来ないような場所にいるために泥中の主などと大層な名前がつけられた。
「生物学者の間では他の呼び方をされてるのは?」
「知りません」
まるで講義のようにアルルカとエレインは言葉を交わす。
「気高き主」
「ノーブル、ランガー……」
「かの主が泥の中にいるのには理由がある。そして綺麗にしようとする人間を襲うのにももちろん」
「住みやすいところを奪われたくないから、ではないのですか?」
「なら、今日いたあの魚は? スラッジランガーではないのかな? どうして水は綺麗だったのかな」
エレインはアルルカの提示する謎を考える。
先程見た魚はエレインの知る情報だけでも特徴からしてスラッジランガーだと判断できる。現に川底から姿を現した。村人たちの証言からもあの川は確かに泥で汚れていたことが分かる。この数年で人間の手が入らずとも川は綺麗になったということだろうか。ならばどうして綺麗になったのか。
気高き主。何故スラッジランガーはそう呼ばれるのか。
「スラッジランガーは、泥を綺麗にすることが出来る……?」
エレインのその呟きにアルルカは綺麗に笑った。
「ある魚の話をしよう」
その魚は生まれながらにして目を持たなかった。
獲物を獲ることも出来ず、ただ地を這いながら水の中にいた。川の全ての生物を植物をその魚は愛していた。
見えずとも。
他の魚の動きで揺れる水、魚たちの出す音、水草の匂い、川に落ちた葉の音。その全てを愛していた。
しかし、命はいずれ朽ちる。その魚は他よりも大きく、寿命すら長かった。多くの命が川の底へ沈んだ。嫌われ者の毒を持つものすら同じように最期は沈む。そしてそれは川を汚し生命を寄せ付けなくなる。
その魚は悲しみ、その最期すら泥と消えた亡骸さえも慈しんだ。
――同胞よ。私があなた達の全てを連れて生きましょう。まだ永きを生きるこの身体。あなた達を連れてどこまでも。どこへでも。色々なところに行きましょう。
魚は愛した亡骸を少しずつ、少しずつ食べ始めた。
何日、何ヶ月、何年と月日をかけて。己の血肉に変えていく。時には毒すらも飲み込んで。
魚には見えないがいつか美しさを取り戻したこの場所にまた新たな同胞が集まることのあるようにと。
そして魚は全てを食べ終わるとどこからともなく消えていく。残されたのは美しい川だけ。
「それがスラッジランガーが泥の中にいる理由だと言われてる」
「図鑑には載ってないですよね」
「記録があまりにも少ないし、最初から最後までスラッジランガーが川を綺麗にするところを見た人はいないんだ。だからまだ学者たちの中の一説みたいな扱いなんだよ」
スラッジランガーの目撃情報は少ない。
近寄れば人間を襲うため捕獲もできず、その生態は明らかになっていない。
「俺は宿をキャンセルして川の近くでキャンプしようと思うんだ」
「私も! ……私も、ご一緒してもいいですか?」
「多分テントは張れないから野ざらしだけど大丈夫?」
「かまいません」
アルルカは部屋へ戻ると荷物を持ち、眠ったティティを抱える?手間賃として受付で宿代を支払い宿を出る。
エレインの分まで払っていたのに気づいたエレインが自分の分は払うと言うのを断るがエレインは引かない。
「じゃあ今日の夕飯はエレインが用意して。買ってきてもいいし作ってもいい」
「わかりました」
宿代とは釣り合わないがアルルカがこれ以上引かないと分かりエレインもその案で妥協することにした。




