プロローグ
多くの人が行き交う街中を1人の少年が駆け抜けていく。
周りはその少年を見ると少し驚いた顔をして、途端に嬉しそうな顔をし次々と少年に声をかける。
「アルルカ! 帰ってたのか!」
「随分久しぶりじゃないかい? 二月もいないなんて初めてだろ」
「帰ったなら寄ってきな! サービスするよ」
アルルカはその全てに笑顔で返事をしながらもその足を止めることをしない。
「ただいまー! これでも早く帰って来たんだけどね。先に師匠のとこ行ってからまた来るよ!」
走り抜けるその背中を街の人達は暖かく見送る。
アルルカが向かうその先は住宅街の奥にある古びた一軒家。入り組んだ路地をひょいひょいと器用に進んでいくとそこに目当ての家がある。
その家の前に辿り着くと独特なリズムで扉を叩いた。
暫くして扉が開き、中からは無精髭の生えた男が出てきてアルルカを見下ろした。
「戻りました師匠!」
「ああ」
家の中に戻る師匠と呼ばれた男ルナルスの後に続きアルルカも中に入る。
ルナルスが拠点としているこの家でアルルカは師匠のルナルスと一緒に暮らしていた。1年ほど前からは単身で旅をすることが多くなったので、アルルカとルナルスが揃ってこの場にいるのは久しぶりのことだった。
出かけた時と変わらない家をアルルカは見回す。
家に入るとまず目に入るのはまだ若いルナルスと同い年くらいの男が仲良さげに映る写真。最高の相棒と。と書かれている。
この写真はルナルスが駆け出しのリチェルカとして働いていた時のものだ。
――探索者。
まだ誰も踏み入れたことのない場所。古代の文明や遺跡が眠る場所。さまざまな謎や未知が残るところを探索し特殊な媒体に記録する者をリチェルカと呼ぶ。
ルナルスはリチェルカであった。
そしてアルルカはルナルスの弟子であり、1年と半年ほど前に試用期間となったばかりのリチェルカ見習いである。
ルナルスはアルルカを迎えた時にこの拠点を余生を過ごすための住処と決め、リチェルカとしての仕事をセーブし始めた。今ではほとんどをこの街で暮らしている。
その判断は幼い子供を連れての長旅は危険と判断としてのことだった。
アルルカが弟子になったのは6歳の時だ。
空に弓なりの月が輝く春の日にひとり倒れるアルルカをルナルスが拾ったのが始まりだった。
孤児院に預けるもアルルカはルナルスから離れようとせず、無理に離すと泣き出すこともせずぎゅっと自分の手を握りしめてその場でまるで絶望したかのように立ち尽くすのだ。それに折れたルナルスが引き取り、リチェルカとしての生き方しかしらないルナルスは自身の弟子として育てた。
月日は流れ、アルルカは14歳になり場所こそルナルスに決められたところではあるが一人旅をすることを許されるようになった。
「今回はどうだった」
「遺跡の調査を手伝いました。その時に新たに地下に道が続いているのが見つかって、その探索と記録をして近くの支部に提出をしました」
アルルカは今回の旅の報告をしながら鞄から記録した証明書となる記録カードを机に置く。ルナルスはそれを受け取り確認するとひとつの箱を取り出した。
その箱は丁度カードと同じような大きさで、開くと中には記録カードが並んで仕舞われていた。新しく受け取ったカードが入れられると、箱はちょうどいっぱいになった。
その箱をルナルスはアルルカに見えるように開き机の上に置く。
この箱はアルルカが1人で旅をした際のリチェルカとしての記録を仕舞うものだった。1年半前、アルルカが旅立つ前日にルナルスが古物商から買い取った。アルルカはそれに触れたことはなかった。中に仕舞われたものが自分の記録カードだと知ったのも今この時だった。
この箱に正式な名前はない。
「この箱は役目を終えた」
「この箱ってあの時の……」
「リチェルカ協会の定める規定に伴い見習いリチェルカ、アルルカの正式なリチェルカ就任を認める」
ただ、こう呼ばれることがある【見習いの軌跡】と。
状況についていけていないアルルカをそのままにルナルスは桐の箱から藍色に染められ、銀のラインの入ったローブを取り出す。
それは写真に映るルナルスが身につけているものと同じものだ。
「まさかこんな早くに渡すことになるとは思ってなくてな、俺のを繕い直したものだ。あと数日あれば協会本部から新しいのが届くんだがな。まあ、それまではこれで我慢してくれ」
「そんな……。これがいいです! この、師匠のローブがいいです」
アルルカはローブを受け取ると羽織ってみた。ローブの裾は少しばかり長く踝を隠すほどだったが、アルルカは嬉しくて仕方がなくなりその場でくるくると回ったり喜び跳ねていた。
「皆に見せてきます!」
「おー」
ルナルスはきらきらと目を輝かせるアルルカにひらひらと手を振り送り出した。
家を飛び出したアルルカは街中の人にローブを見せびらかして回った。
「見て! 師匠から貰ったんだ!」
「おや、良かったねアルルカ。よく似合ってるよ」
街の人たちは暖かい目をアルルカに送る。
幼い頃から見守ってきた子供がやっと師匠に認められた姿は誰が見ても微笑ましいものだった。
数日後、ルナルスの家にはローブの入った箱ともうひとつ小さな箱がリチェルカ協会本部から届けられた。
ルナルスはその日生やしっぱなしだった無精髭を剃り、正装に着替えていた。ルナルスの目の前には緊張した面持ちのアルルカが立っている。
「見習いリチェルカとしての活動の成果は教会の定める規定を満たすものであった。故に貴殿を正式なリチェルカとして認定することをここに宣言する。……アルルカ・ミラ。リチェルカの証として探索者の衣と腕輪を贈呈する」
探索者の衣と呼ばれた真新しい藍色のローブがアルルカの方に掛けられ、左手には銀のプレートのついた腕輪が通された。
「これで簡略的だが正式な儀式は終わりだ」
「師匠」
アルルカは正装を解こうとしたルナルスを呼び止める。
腕輪のついた左手を胸へ置き自身の敬愛する師匠へと一礼をした。
「アルルカ・ミラ、ひとりのリチェルカとして、……師匠であるルナルス・ミラの子として生きていくことをここに宣言します」
ルナルスは驚いたように目を見開いた。その表情を見たアルルカはいたずらっ子のような顔で笑い、また深々と頭を下げた。
「生まれも分からない子供をここまで育ててくれてありがとう」
アルルカは、自分の存在がルナルスのリチェルカとしての人生を終わらせたのだと思っていた。自分さえいなければ、この人は今も尚リチェルカとして世界を旅していたのではないかとずっとそう思っていた。けれどもルナルスはアルルカを捨てることはしなかった。生きていけるだけの知識と技術を叩き込んだ。本当の親のように。そして今日、アルルカはルナルスの姓を授かった。それがルナルスの答えだった。
ルナルスは未だ下がったままのアルルカの髪をがさつな手つきでぐしゃぐしゃとかき回した。
「悪くない生活だった」
その日の夜、ルナルスは月を見上げながら酒を飲んでいた。いつもの蒸留酒ではなく、珍しくワインを開けていた。
紺色をしたそのワインは【夜明けのワイン】と呼ばれる銘柄だ。グラスにはそのワインにイエローチェリーが浮かべられている。
「師匠、またお酒ですかぁ」
眠そうな目をしながらアルルカがルナルスの前に座る。
「こんなとこで寝るなよ」
「わかってますよ~。師匠が飲み終わったら部屋に戻ります~」
ルナルスは呆れたようにため息をつくと、残っていたワインを飲み干し、グラスに残ったイエローチェリーをアルルカの口に入れた。酸っぱいことで有名なイエローチェリーがどうしてか甘くてアルルカは驚くもその甘さに舌鼓を打った。
「あまぁ」
「食ったら寝ろよ」
「はーい」
アルルカが自室に戻るのを見届けるとルナルスはグラスにもう一度夜明けのワインを注いだ。今度はイエローチェリーは浮かべずに。そして明るく照らす月にグラスを掲げた。
ワインに月が映り、まるで夜空のような光景を作り出していた。
「お前のこれからの人生が、幸多きものであらんことを」
ワインを一口で飲み干すとルナルスもまた自室へと戻っていった。
忙しなく出立の準備をするアルルカ。
それを横目にルナルスはズズっと音を立てて紅茶を啜る。
アルルカをリチェルカとして認めた時の姿は消え、いつも通りの無精髭を携え新聞を読みながらパンを齧る。ドタバタとアルルカの足音が響くのを聞きちらりと目を向けるが、その目はすぐに新聞に戻された。
「まったく決まらない出立だな」
残りのパンを口に放り込み紅茶で流し込む。読んでいた新聞を折りたたんでルナルスはアルルカの元へ向かう。
「何朝からずっとはしゃいでんだ」
「準備してるんですぅ!!」
「前からしてたろうが」
「いざ独り立ちとなると、こう、なんていうか、あれもいるかなとかもしかしたらとか考えちゃって、気づいたらひっくり返してました……」
ルナルスは呆れてため息を零すと散らかったアルルカの荷物を拾って仕分けを手伝っていった。途中、どうみても要らないものを詰めようとしたアルルカに拳骨を落としながら。
「今までと変わらないだろうになんでこんなに手こずるんだ……」
「……変わりますよ。だって、ひとつの旅が終わってもここには戻って来ないんだから」
どこか拗ねたような顔をしたアルルカにルナルスは思わず吹き出した。
「ふっ。もしかして寂しいのか」
「~~~っ!!!!」
「ははははっ。お前も可愛いところが残ってたなあ?」
「師匠こそ俺がいなくなって寂しがるんじゃないですかぁ!?」
揶揄われたアルルカは恥ずかしさから顔を真っ赤にしてルナルスに言い返す。するとルナルスはニヤついた顔から一転穏やかな微笑みを浮かべた。
「そうだな」
「えっ」
アルルカを拾って8年あまりの時間をふたりは過ごしたのだ。最初はなんともなくとも、ふとした瞬間に隣にいた人がいないことに違和感を覚えることも出てくるだろう。そしていないのだ、と理解した時にその違和感が寂しさだったと気づくのだ。
出会いと別れを繰り返す旅に出ればそんなことに気づく暇はないかもしれない。しかし、ここに残るルナルスは必ず気づく。手元に置いた弟子が思っているよりもずっと自分の世界の一部になっていたことに。
アルルカはお下がりのローブを着て、旅鞄を背負って家の扉のドアノブに手をかけようとした時だった。
「アルルカ」
後ろから声がかけられ、後ろを振り向く。
「“迷った時は星が導いてくれる。足を止めなければ必ずどこかへ辿り着く。足が動くかぎり歩みを止めるな。”」
「“世界の全ては繋がっている。安心して歩み続けよ。”」
ルナルスの言葉に繋げてアルルカが話すとルナルスは満足そうに笑った。
「良い旅路を」
「いってきます!」
街の人たちに見送られながら、アルルカは育った街を旅立った。
振り返って小さくなった街は何度も見ているのに、どうしてか涙が込み上げそうになる。
これが別れだと、アルルカはやっと今分かったのだ。
流れそうな涙を振り切るように顔を上げる。
出立の日にはぴったりな青空が広がっていた。
アルルカはもう一度、自分に言い聞かせるように呟いた。
「いってきます」