白猫亭へーアン part3
『いっそ、あんたが「言葉」が喋れない方が気が楽だったんだけど。まあ、仕方ない。悪いけどこれも仕事なんでね』
リックと呼ばれた男は笑顔でアンに近づいてきた。
『近づかないで!痛い目に会わすわよ!』
アンは素早く右足を後ろに引いて左半身の姿勢をとると、顔と体を隠すように左腕を上げ、右腕を拳を上に向けるように外側に開きながら腰の右横に構えた。
『ホッホー!こいつは凄いや、見ましたか曹長!この21世紀にカンフーだとは!いいよ、子猫ちゃん、どこからでもかかっておいで!ほら!ほら!』
曹長と呼ばれた黒人の男がそれには応えずアンの構えをじっと見つめる中、リックは笑いながら両手を開いたまま、じりじりと距離を詰めてゆく。
『カンフーじゃないわ、空手よ!!』
踏み込みざま、上段、中段と散らしながら左右の突きを繰り出すが、濡れた地面では踏ん張りがきかずスピードに欠け、男は軽くステップバックしてかわすと素早く背後に回りアンを抱え込んで持ち上げた。
『つーかまえた!』
白い歯を見せてアンの髪の匂いを嗅ぐとうめくようにささやいた。
『ん〜美味そうな匂い!喰っちまいたいなあ!』
暴れるアンを抱え込んで話さないリックに、曹長が低い声で制するように応えた。
『獲物に手をつけるな、リック。俺たちはプロだぞ』
『曹長オオオ、一口ぐらいいいじゃないですかアアア』
笑いながら話すその声に明らかに興奮した様子が感じられ、嫌悪感で鳥肌を立たせるアンだったが、ある異変に気付いていた。
密着した男の吐息や体臭が、異常なほど獣臭いのだ。
『ハアアアア、たまらねえエエエエ!喰わせろよオオオオ!!』
『あんた何言ってんのよ!離してよこの変態!』
アンはいったん上半身を前傾させてから後頭部を思い切り男の鼻っ柱に叩き込むと、バレエで鍛えられた柔軟さを生かして左足で自分の肩越しに顔面を蹴り上げた。
『痛ってえエエエ!』
思わず手を離した男の腹部に右足のかかとで後ろ蹴りを突き刺すと、リックは鈍い呻き声を上げてもんどりうって倒れ、その隙にアンは飛び跳ねるように離れると、改めて二人組と正対した。
『ふむ、見事な技だな。キョクシンの流派か?』
曹長が初めてアンに話しかけてきた。
『沖縄剛柔流よ!舐めないでよね』
『おお、これは失礼。君のような若い女性が古式ゆかしい伝統派の使い手とは思いもしなかったのでね』
アンは油断なく構えながら男たちの様子をうかがう。
『あんたたち、いったい誰⁈何のつもりよ!』
『我々はー』
曹長が答えようとした時、顔を押さえ起き上がったリックが獣のような叫び声をあげた。
『てめえええ、よくもやりやがったな!許さねえエエ!』
『リック!』
曹長の制止を無視し、リックは着ていたシャツを引き裂くと、その体に見る間に変化が生じていった。
両方の目が真っ黒に染まったと思うと、耳が尖って立ち上がり、顔の中央が前面に突き出していく。
裂けるように大きく広がった口元からは、鋭い牙のように変形した歯がのぞいている。
それに合わせ上半身の筋肉が異様なほど盛り上がったと思うと、あっという間に剛毛に包まれてしまった。
『何なのよ、これ!太郎おじちゃんの本に出てくる魔物そのものじゃん……!』
アンは、子供の頃から読んでいた『泣き虫魔法少年アーサーと白猫ノーラの奇妙で憂鬱な冒険』に出てくる、黒の魔法使いの眷属である怪物たちの登場場面を思い出していた。
『やっぱり、ママの言ってた通り、あの話は本当だったのね。じゃあ、コイツをぶっ飛ばすのは一族の血を引くあたしの仕事って訳よね……!』
雨に濡れた金髪が、重力を無視するようにふわふわと浮かび上がり、視界が赤く色づいていく。
アンは深く息を吸い込み呼吸を整えると、意識を集中させ前方に突き出した左手を挑発するようにクイクイっと動かせた。
『かかっておいで、バケモン!』
『ウルセエエエエーー!喰らってやるぜエエ!』
狼のような怪物に変身したリックが大きく跳躍し、一気に距離を詰めてアンに襲い掛かった瞬間ー
「ハアアアアーッッ!」
力強い踏み込みと鋭い腰の回転から生み出されるエネルギーに、魔力を最大限に乗せたアンの上段突きが顔面に炸裂すると、怪物は後方に回転して周りの木をなぎ倒しながら大きく吹き飛ばされ、そのまま失神してしまった。
『やった……!』
自分が放った攻撃のあまりの威力に、まだ半信半疑のアンはジンジンと痺れる右の拳をじっと見つめていた。
パチパチパチパチパチパチ。
『素晴らしい。こいつが油断していたとはいえ、実に見事なものだ』
気がつくと曹長が微笑みを浮かべながら拍手をしている。
『それだけに、実に惜しい。こんな形で出会わなければ良かったんだがな』
曹長が大きく息を吐き出した。
雨に濡れた体から、大きく湯気が立ち始める。
リックと同じく両方の目が黒く染まると、頭が変形して尖り、両腕は丸太のように太く長く、上半身は大きく分厚く肥大化し、まるで巨大なゴリラのように変化していった。
『もっとも、私には通用しないがね。大人しく同行する方が君のためだ』
くぐもった声で話しかけながら近づくその姿を見てアンは本能的に悟った。
……こいつには勝てない!じゃあ、最後の手段ね……!
アンはくるりと踵を返すと、全速力でダッシュした。
『ゴメンねおじさん!あたしは無駄なことはしたくないのよ!』
『逃げ切れると思うのか?』
くねくねと続く坂道を駆け、細い横道をすり抜けるように走り続けて何とか巨大なゴリラのような怪物を引き離そうとしていたが、古い寺の長い階段を駆け下りようとした時、雨で濡れていた石段に足を滑らせた。
「なんで、こんなことになるのよ!」
神社の長い石段を真っ逆さまに転がり落ちながら、周囲の木々から小鳥が驚いていっせいに飛び立つほどの大声で叫んだ。
「神様の、ばかばかばかあー!」
最後の“あー”が空しく響きわたる中、石段を一番下まで転げ落ちたところで、アンは完全に気を失った。




