ONOMICHI 尾道及び『尾道 白猫亭』に関する情報
尾道は、広島県南東部、岡山市と広島市のほぼ中間に位置し、瀬戸内海に面し古くから海運による物流の集散地として繁栄していた歴史ある古都。
その風情ある街並みと豊かな自然で多くの文人墨客に愛されたことから、「坂の街」「文学の街」「映画の街」として知られ、人口がおよそ十二万人なのに対し年間四百万人を超す観光客が訪れる観光都市でもある。
またたくさんの寺社仏閣のある「寺社の街」でもあり、中でも眼下におだやかな瀬戸内海を見下ろす千光寺山の頂上付近に位置する千光寺は、山陽地方を代表する名刹として名高い。
現在では麓の街から頂上までロープウェイで上ることができ、展望台からの大パノラマは一見の価値がある。
その頂上から下った、海を一望にできる開かれた場所にかつて『尾道 白猫亭』はあった。
1920年代、イギリスの名門貴族ウォルズリー家のひとり娘であるアン・ウォルズリーがイギリス留学中の若き日本人建築家・吉岡聖隆と恋に落ち、駆け落ち同然に日本へやって来て移り住んだのが、吉岡の故郷であるこの尾道だった。
吉岡は古くから別荘地としても有名であった尾道の伝統的な別荘建築様式である『茶園建築』とバウハウスやアールデコといった、様々な西洋の建築様式を複雑に取り入れた二階建ての屋敷を建て、そこで建築事務所を開いた。
その一風変わった外観は地元でも名物的な存在となり、友好国イギリス出身の明るく美しい妻アンの魅力も相まって仕事も順調、吉岡夫妻は地元の名士として充実した日々を過ごしていた。
だが、長男である吉岡・アーサー=太郎が誕生し、七年後に二人目の子供である長女の吉岡・ジョディ=華子を授かった頃から、夫妻を悲劇が襲う。
吉岡が伝染性の難病にかかり、遠く離れた山中の病院に長期療養で隔離入院することになったのだ。
アンは吉岡を慕う部下の大工たちの協力もあり、子育てをしながら仕事を切り盛りしていたのだが、1938年、実家であるウォルズリー家の相続問題でまだ十歳の息子の太郎を手放すこととなる。
その後、第二次世界大戦が始まり敵性国家となったイギリス出身ということで、アンに対する世間の風当たりはそれまでとは一転して強くなり、また傘下の大工たちも徴兵に取られ建築事務所は閉鎖されてしまう。
そして最大の悲劇は1945年8月6日ーー
広島市に投下された原爆によって、長期の闘病から回復して広島市内の病院に転院していた夫・吉岡を失ってしまうこととなる。
終戦後、まだ小学生の娘を抱えたアンは悲しみにくれる間も無く、自宅を改造し旅館として再出発を切る。
これが『尾道 白猫亭』の始まりであった。
名前の由来はアンと娘の華子を守るように、常に行動を共にしていた美しい白猫から取られたと言われており、夫・吉岡の設計した他に類を見ない奇抜な外観と美しいバラが咲き誇る英国様式の庭園、そして青い目の女将であるアンの働きぶりが評判となり、白猫亭は多くの文人墨客が訪れる尾道の名物旅館として繁盛する。
だが幼い息子を自分の都合で手放したこと、愛する夫を戦争で亡くした悲しみはアンの心に癒されることのない深い傷跡を残し、徐々に塞ぎ込みがちになってゆく。
そして娘・華子が成長し嫁いでしばらくしたある日、アンは突如旅館を廃業すると、屋敷からほとんど出ることもない世捨て人のような隠遁生活をおくるようになる。
そしてある日ー庭園の手入れの途中に亡くなっているところを、数少ない訪問客である出入りのラーメン屋によって発見される。
葬儀は親族とごく親しい身内だけで行われたが、生前アンの側に常に寄り添っていた白猫の姿はどこにも見当たらなかった。
その後、訪れる人もなくなった屋敷は見る影もなく荒れ果て、地元では幽霊屋敷と呼ばれるようになっている。
一説によると今でも満月の晩には、中庭ですすり泣くアンの亡霊が現れるとも言われている。




