プロローグ
紅蓮の槍を手にして、戦場を駆けまわる。
数多の敵を、幾千の馬を、幾万の軍を相手に、その女は怯まなかった。
女には加護がある。神の加護が。
戦の神に愛され、その契約を結んだ女の前に、人など有象無象の蟻に過ぎない。
夜のような漆黒の長い髪を翻し、女神のような造形の顔立ち。
身軽さを重宝するため、黒い薄着に上から胴体のみ金属の板で包み込む。腕は白い肌を晒し、それは陶器のような美しさ。
幾度の戦場を駆け、幾度の勝利を手にし、幾度の悲哀をその身に刻んだ。
女は笑う。
何故笑うのか、それを一番身近で見ていた俺は知っていた。
楽しくて、悲しくて、苦しくて。全てを表す表現だという事を。
とても長い時間、女は笑っていた。
それが俺の師匠「エルメス」だ。
笑わなくなったのは、全てが終わった時だった。
神との契約は、代償を伴う。
その代償が寿命だった。
まだ、人として油の乗る頃と言うのに、師匠はベッドから動けなくなっていた。
その傍らには飾りとなった紅蓮の槍。
全ての世話を、その時10の小僧である俺が努めなければ生きていけないほどにまで衰弱していた。
何かをするたび、師匠は言う。
「――すまない」
詫びの言葉。そこに全盛期の面影は何処にもなかった。
ある日の出来事。
その日の昼餉のスープをベッドで横になる師匠に渡した時だった。
「昼餉、出来たぞ」
「すまない」
食事をとる木製のスプーンを師匠は手から零す。みかねて俺はスプーンを拾い、昼餉のスープを師匠に飲ませる。
その外見からは見て分からないが、もう一刻の猶予も無いのは感じていた。
近くにあった椅子に俺は腰かける。
抜け殻のように、ただ黙って死を待つ師匠に、俺は何とかしてやりたかった。
「なぁ、師匠。なんか願いはないのかよ」
「……願い?」
「ああ。何でもいい。やり残した事はないのか?」
師匠は虚ろな目で顔を下に向けていた。
やがて、その目に少しだけ光が灯った。
「一つ、あったな」
「あるのか。じゃあ、それを教えてくれよ。必ず俺が叶える。だからさ、もう少し頑張ろうぜ師匠」
その時の事は未だにハッキリと覚えている。
あの師匠が、久々に笑ったのだから。
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