黒衣の天使
死───。
久遠は死を覚悟した。
パフォーマーが高層ビルの最上階から転落するように
病院もないような未開の地で猛毒蛇に噛まれるように
レーザーで肉体を細切れにされるように
彼女の眼前に絶対的な死が降り注ごうとしていた。
敵を撃つ。
その一瞬の判断が遅れたのが悪かった。
自分が死なないことより殺すべき相手への配慮を優先してしまった。
相手は配慮の欠片もない殺人狂だと言うのに。
鋭い切っ先が迫る。
あと一センチくらいか。
ダニエル達の期待を裏切り
カミシアに負けて
何一つ残せない人生はここでおしまい───。
死の直前特有のゆっくりと流れる時間を懺悔にフル活用した久遠。
だが
彼女に死をもたらそうとしていた殺人狂は、次の瞬間吹き飛んだ。
銃声と共に。
一瞬遅れて飛び散る血飛沫。
助かった。
生きることを完全に諦めていた久遠だが、今自分が助かってホッとしていることに気付く。
奇跡だ。
とにかく奇跡だ。
神が絶望の闇を破って救いの手を差し伸べてくれた。
しかし誰だ。
カーシルは撃たれた。
銃声が聞こえたということはそういうことだ。
「純潔なるか弱き女子に手を出すとは許せん。
この薄汚れた魂を持つ悪魔め……恥を知れ。」
「……ッ。」
聞こえてくる、低い声。
そこに立っていたのは───
黒いロングコートを纏った赤い長髪の青年。
声からは男の色気が感じられたのだが、見た目は完全に女である。
二丁拳銃を手に、変なポーズ。
片目には眼帯。
簡単に折ってしまえそうなほど華奢な体。
吸血鬼のように真っ白な肌は遠くから見ても艶があると一目で分かる。
手袋には何か書いている。
総じてこの街には似つかわしくない、何というか……不思議な格好だ。
コスプレ大会から抜け出してきたのだろうか。
いや、こんな街でコスプレ大会など開く者はいないだろう。
そんなのは狂気の沙汰としか言いようがない。
となると、一体何者……?
「お怪我はないかな、お嬢さん。」
「あ……はい、何とか……大丈夫です。」
「それは良かった。
君のような可憐な少女が傷つくのは許せん。
安心したまえ、コイツは私が片付けてやる。」
赤髪の女(?)はクールに拳銃を構える。
何か胡散臭いが、久遠を救ってくれたのは間違いない。
少なくとも実力だけは本物だ。
「くぅぅぅ、何者だお前……邪魔するならお前も殺さなきゃいけなくなるじゃないか……!」
「貴様ごときでは我が名の美しさを理解することも出来まい。
それに私は貴様のような下品なクズが嫌いだ……生理的に受け付けない。
迅速に屠殺してやる……頭を差し出せ……。」
カーシルは腕から血を流しながらも何とか立ち上がる。
今更拳銃など何の脅威でもない。
そう思っていた。
だがこの女は只者ではない。
拳銃使いという表現すら生温い。
まるで拳銃そのものが意志を持っているかのようだ。
今まで殺してきた連中の誰よりもはるかに、圧倒的に強い。
コイツを殺せるだろうか?
───カーシルにとって初めての不安。
「サラマンドラとポセイドン……燃え盛る焔と清き激流が貴様を地獄に送ってくれる……。
我が邪眼の前で若き娘に手を出した時点でそうなる運命だったのだ。
そもそも悠久の時を生きる我を差し置いて最強を気取るなど愚かにも程がある。
我は孤高にして唯一無二、最強、聖なる女帝だぞ。
貴様ごときが───」
女が長々と語り出す。
久遠もカーシルもその様にはあからさまにドン引きせざるを得なかった。
と、思いきや───
「ぐぁらぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
どこにそんな体力を残していたのか!
カーシルは隙を見てとんでもない速さで逃走しはじめた。
「あッ、逃げた!!」
「フン、我が素晴らしい垂訓の途中だぞ。
そこのクズも目を輝かせて聞き入っているに決まって……あれ?」
辺り一面を見回す赤髪の女。
だからもうそこにはいないって。
せっかくのチャンスだったというのに。
「クソッ、捕まえてもう一度初めから説教しなおしてやる!
どこに行ったァ、待てェェエエ───ッ!」
「うわああっあああ、引っ張らないでぇぇ!!」
女は久遠の腕を掴んだまま、多分カーシルに追い付けそうな勢いで走った。
いつだって救世主はギリギリのところで現れる。
ギリギリのところで現れるからかっこいいのだ。
それで良いではないか。
何も問題なかろう。




