綺麗事とか
古めかしいドアを引くと、ぴりっとした冷房の風が肌に触れた。屋外との温度差に少しびくついてしまう。
深夜二時のコインランドリーは、明かりが煌々と灯っていて、夜に沈まないよう顔を出していた。洗濯機が四つ。乾燥機が六つ。一つを残して全機が眠っている。
俺は、自動販売機で粉末洗剤を買い、ここ三日で出た洗濯物を洗濯機に放り込んだ。千円札を両替し、料金を入れてスタートボタンを押す。洗濯乾燥機は店内に流れるイージーリスニングに割って入るように動き始めた。
ドラムの中を白波みたいに勢いよく回っていく洗濯物。俺はいったん離れて、窓際のベンチに座った。
二つしかない茶色いベンチ。はしの方に女性が座る。
白のチュニックワンピースが細身の身体に似合っている。栗色の髪には緩くパーマが巻かれていて、薄橙のパンプスが木目調の床を踏みつけている。
少し体を丸めながら、タウン誌に目を通すその姿は、カフェでくつろぐ社会人を思わせた。
俺は、女性が座っていない方のベンチの真ん中に座った。スマートフォンを取り出して、SNSを眺める。ふと顔を上げると、まだ五分しか経っていない。女性も何も言わず、隣から聞こえてくるのはページをめくる音だけだ。
病院の待合室みたいに、ぼんやりと息が詰まりそうな沈黙が流れている。
こんなとき、話しかけるべきなのだろうか。暇を持て余す俺たちは、何かの同志のようにも感じられた。
「あの、このラーメン美味しそうじゃないですか?」
俺があれこれ考えていると、女性の方から話しかけてきた。タウン誌のページを指差している。
こちらを向く双眸の奥が澄んでいて、俺は一瞬言葉に詰まってしまった。
「確かに美味しそうですね。チャーシューが三枚も乗っていて」
「分かりますか。値段も手ごろだし、二つ先の駅の近くにあるから今度行ってみようかな」
それ以上返す言葉が見当たらず、ぎこちなく微笑んでしまう。女性も軽く会釈をし、会話は終了した。
室内には、よりいっそう気まずい空気が流れる。寝静まったこの街で、一番へんてこな場所。洗濯機の回る音が俺たちを責め立てる。
「あの、お住まいはこの近くなんですか」
得体の知れないものに押しつぶされそうになって、俺は口を開いた。時間を潰すためだとか、眠気を紛らわすだけだとか、内心では言い訳をしていたけれど、沈黙が怖かっただけなのかもしれない。
「はい、そこの団地に住んでます。ここにやってくる人は、この辺りの団地に住んでいる人が大半ですから」
「僕、三日前にこの団地に引っ越してきたんです。僕は二号棟なんですけど、あなたは」
「私は三号棟です。あの曲がり角に面した三号棟」
「じゃあ、交通量が多くて大変ですね。でも、駅からは近くて便利かも」
「ほんの五〇メートルの差ですけどね」
女性ははにかんだ。窓の外は広い街道になっていて、この時間帯でも車の往来は少なくない。ガラスを通り抜ける走行音が、耳に届くころには空気に溶けている。
「今日は何しにここへ……? といっても洗濯なんでしょうけど。いや、来週にはお盆があるからまとまった洗濯物をこの時期にするのって、ちょっと珍しいなって思って」
「洗濯機が壊れちゃったんです。もうここに来てから一〇年くらい使っているので、さすがに寿命が来ちゃいました」
「でも、洗濯機の寿命って八年くらいらしいですよ。そう考えたら、長生きした方じゃないですか。猫が一二歳を迎えるようなものですよ」
「実家の洗濯機はもう一五年くらい現役なんですけどね」
「じゃあ、ご長命通り越してもう化け猫の域ですね。もしかしたら、そのうち喋り出すかも」
「そうだとしたら、おかしいですね。洗濯機が喋り出すなんて想像もつかないです」
天井には空の絵が描かれていて、雲がまばらに散らばっている。赤い風船が平らな空を、縫うようにして浮かんでいる。
「さっき、三日前に引っ越してきたばかりって言ってましたよね。もしかして、まだ洗濯機届いてないんですか?」
「なにぶん急に決めたもので。部屋を決めたのも先週のことですし。ほとんど準備も何もないまま引っ越してきちゃいました。でも、洗濯機は今日買ったので、明後日には届くと思います」
「私も明日修理してもらう予定なんです。電器屋さん結構忙しいみたいで、先月から予約していたんですけど、ようやく明日来てもらえることになって」
「となると、このコインランドリーにもしばらくは来そうにはない感じですか」
「大きい布団やカーペットを洗う機会もそうそうないですし、そうなりますかね。あなただってそうでしょう。引っ越してきたばかりなら、しばらく大きい物を洗う必要はないでしょうし」
「そうですね」と言いかけそうになって、思わず俺は口をつぐんだ。同じ団地に住んでいるとはいえ、この女性がどんな仕事をしているかも、どんな生活リズムかも分からないのだ。ここを出てしまったら、俺たちの距離は五〇メートルよりもはるかに遠くなる。二度と会うことだってないかもしれない。
「さっき、ここに来てから一〇年くらい経ってるって言ってましたよね。もし良かったら教えてほしいんですけど、この辺りでおすすめのお店とかってありますか?」
「そうですね。この辺りだとやっぱり駅前の方になっちゃいますかね。この辺、団地と民家が多くてお店もあまりないですし。あの、ネイルサロンとか美容室とかって興味ないですよね……?」
「いえ、美容室とか興味あります。最近、髪伸びてきたなって感じてますし、紹介いただければ」
「じゃあ、南口を出て右に曲がってしばらく行ったところにAltistaっていう美容室があるの知ってます?」
「いや、知らないです。南口の方はあまり行ったことなくて」
「じゃあ行ってみるのもいいかもしれないですね。そこの美容室、店内の照明に気を遣っていて、ゆっくりとくつろげるような雰囲気ですし、緑も多くて、店員さんもオシャレなんです。私月一で通ってるんですけど、お値段も四〇〇〇円くらいで、そこまで高くないですし。ネットで検索すればすぐ出てくると思いますよ」
「そうなんですか。じゃあ、今度行ってみたいと思います。気分転換にでも」
「ぜひ行ってみてください。あと、そのお店の隣にパン屋さんがあるんですけど、そこのパンも美味しくて」
「何てパン屋さんなんですか?」
「ベーカリーアサノっていうパン屋さんです。定年退職したご夫婦がやっているお店で、けっこう評判なんですよ。クロワッサンとかサンドウィッチとか」
「そんなお店があるんですね。全然知りませんでした」
「まあ来たばっかりならしょうがないですよ。雑誌にもあまり載っていないお店ですから。あっ、でも気を付けてくださいね。アサノさん、休みが不定期なので、行ってみたらやってなかったってこともありますから」
「そのお店って朝からやってます?」
「七時から開けてくれてますから大丈夫です。休みも最近は木曜日が多いですし、そこに気をつけさえすれば、美味しいパンがいただけるんじゃないかと。私も週三くらいのペースで通ってますし、アサノさんのパンに慣れてしまったら、コンビニのパンにはもう戻れないですよ。とか言っておきながら、忙しい日は交差点の反対にあるコンビニで済ませちゃうことも多いんですけどね」
女性はまた微笑む。口に手を当てながら笑っているので、どこか品の良さが感じられた。
「他にも、南口の方には色んなお店が集まっていて、イタリアンレストランとか雑貨屋さんとか。バルも三軒くらいありますし。気が向いたら、散策してみるのもいいんじゃないでしょうか」
「そうですね。今度歩きながらいろいろ探してみたいと思います。近い北口で済ませるんじゃなくて、少し遠くへ足を運んでみるのも楽しそうです」
「はい、ぜひ。でも、北口も良いですよね。手ごろなお店がいっぱいあって。どこか入ったりしました?」
「大学に向かう道あるじゃないですか。その途中に酔ノ屋っていう居酒屋さんがあるんですけど、そこへは引っ越してきた初日に行きました」
「酔ノ屋ですか! 私も友達とたまに行きます! え? 何頼みました?」
「すじ煮込みと焼き鳥を食べました」
「すじ煮込みいいですよねー! とろりと溶ける食感で、味噌味が優しくて。私行ったら必ず頼みます」
「確かにあそこのすじ煮込みは美味しかったです。五〇〇円と値段もお手頃でしたし。あの、お酒ってよく飲まれるんですか?」
「まあ、それなりには。友達からは、強い方だねとは言われますけど」
遠くを眺めるような目をする女性。目線の先には乾燥機。タイマーは残り二分を指している。
女性はタウン誌を棚に戻すと、トートバッグから二つ折りの革の財布を取り出した。光沢があり、数万円はする品物に見えた。一〇〇円玉を三つ抜き出して、バッグに戻す。ピンクのネイルが花びらのようだ。
そして、今度はポケットからスマートフォンを取り出して、電源を入れた。見るつもりはなかったが、知らずと目が向いてしまう。
待ち受け画面は、背の高い男とのツーショットだった。その男は外国人かと思うほど金髪が似合っていて、顔立ちも端正だった。大学生だろうか。耳にピアスをつけている。
「あの、一緒に呑みに行く友達の方って、女性の方ですか?」
「まあ、女性の方が多いですね。大学時代から仲良くしている子ばかりです」
「そうですか」
少し俯きながらそう口にする。
「あの、何かお気に障ること言いましたでしょうか」
のぞきこんでくる女性から顔を背ける。冷房の風が、俺を突き放す。
俺がスマートフォンを手に取った瞬間、乾燥機がピーッという音を立てた。女性は、足元の洗濯カゴを持って、乾燥機へと向かう。
洗濯物を手に取って「うん、大丈夫」と満足そうにつぶやく女性。
その声があまりにありふれていて、特別で。胸の奥に触れてくるようで、俺は口を開いてぼそりと発した。
「お付き合い、なされてるんですね」
女性は動きを止めて、こちらを振り向く。心なしか戸惑っているようにも見える。
「そのつもりはなかったんですけど、スマホの待ち受け画面を覗いてしまいました。お付き合いされている方がいるんですね」
軽蔑の眼差しを向けられたら、逃げるつもりだった。逃げて忘れるつもりだった。
だが、女性は静かに息をする。
「はい、三年前から今までずっと。どうかなされたんですか?」
「いや、相手がいて良かったなと思っただけです」
何が良いのか自分でも全く分からない。安堵の言葉は自分に投げかけていたのかもしれない。テーブルに洗濯物を並べて畳み始める女性。その後ろ姿に、俺は儚い幻影を見てしまう。
顔が見えないのを良いことに、一方的に語りかけていた。
「僕、ここに引っ越してきたばかりって言いましたよね。実は彼女と別れて、ここに来たんです。五年間付き合って、同棲までして。僕はそろそろ一緒になりたいと思っていたんですけど、彼女とは些細なこと、それこそ使ったものを元に戻さないとか、冷房の温度が低すぎるとか、そんなことで喧嘩になってしまって。しまいには、『うまく言葉にできないけれど、なんか嫌になっちゃった』って言われて、それで終わってしまったんです」
女性は、黙々と洗濯物を畳んでいる。熱を持った暖かな匂いが鼻を抜けていく。
「浮気をしたわけじゃないんですけど、彼女はずっと我慢してきたんだなって思い知らされました。耐えさせてきてたんだなって。それを察せなかった僕がいけないんです。彼女の厚意に甘えていた僕が全部悪いんですよね」
「そんなことないですよ」
こちらを見ずに、それでも投げかけるように女性が言う。手も止まっていて、動いているのは洗濯乾燥機と時計の針だけだ。
「人はそれぞれの家庭で育ち方も違いますし、それをすり合わせて、妥協点を見つけるというのが同棲するってことなんじゃないでしょうか。それに、ある程度の関係にならないと分からないこともありますし。単にその方とはうまく合わなかっただけで、あなたが一方的に悪いなんてことないと思います。もちろん彼女さんも悪くない。ただ相性があまり良くなかっただけだと思いますよ」
女性は何かを紛らわすかのように、洗濯物を畳みながら言う。
表情が見えないことに少し安堵している自分がいた。嫌になるほど浅ましい。
「でも、それに気づくのに六年も費やしてしまいました。時間かかりすぎですよね」
「それは人それぞれですから。すぐ気づく人もいるし、気づかない人もいる。それだけの話ですよ」
「たとえ、付き合った時間の後に何も残っていなかったとしてもですか? まっさらな空白しかなかったとしてもですか?」
「これは私の勝手な考え方なんですけど、人生に無駄な時間なんてないと思うんです。たとえ、最後は別れることになっても、それまでの時間はなかったことにはならない。人との出会いって、気づかないうちに心に貯金されていくんだと思います。貯金があれば、色々な見方や考え方ができる。それは人生をほんの少しだけ豊かにしてくれる。まあこれはお母さんから教わったことなんですけどね」
「素敵な考えですね。僕もそう思いたいんですけど、やっぱりまだ心が痛むんです。僕は別れたくなかったのに。どうして、人と人はいずれは別れなきゃいけないんでしょうか? どうやったら悲しみはなくなるんでしょう?」
「悲しみはなくすことはできないし、忘れることもできないんですよ。たぶん。でも、別れて悲しいのは、出会ったから、大切にしていた時間があるからで、それも決して消えることはないと思います。あなたは彼女さんといたとき、楽しかったですか?」
「楽しかったですし、なにより安心しました。好きな人が側にいてくれることで、こんなにも心が潤うんだって。一人になってからはじめて気づきました」
「だったら、その時間を無理して傷つけなくてもいいと思います。楽しかった時間を否定することは、その時の自分も否定することになりますから。それじゃあんまりですよね」
テーブルから洗濯物はなくなり、全て畳まれて洗濯かごに入れられていた。
女性は、取っ手を握って、洗濯かごを持ち上げて、こちらを振り向く。片手で持てるような重さらしく、開かれた右手がどこか寄る辺ない。
「大丈夫ですよ。今は振り返るのも辛いでしょうけど、きっと落ち着ける日は来ますから。必要な時間だったって思える日があなたにも、彼女さんにもいつか来ると思います。だから、それまではどうか何てことない日々を送ってください。ご飯を食べて、お風呂に入って、テレビや漫画を見たりして、暮らしていってください」
今の気分が雨だとしたら、晴れるときはいつ来るのだろうか。
それでも、そのときはきっと来ると、微笑む女性を見て根拠もなく感じた。
「あの、ありがとうございました」
「別に礼なんていいですよ。深夜のコインランドリーに一人ってやっぱり寂しいですから。こちらこそ、楽しく話せて良かったです。じゃあ、私はこれで。こちらこそ、ありがとうございました」
女性は今度は深く礼をすると、ドアを引いて、夜中の街に消えていった。
外に出る瞬間、こちらに向けられた優しい眼差しを、俺はしばらく忘れることはないだろう。
一人だと、猫の額ほどのコインランドリーでもやけに広く感じる。洗濯は終わったようだが、乾燥が終わるまではあと二〇分もある。
俺は棚からタウン誌を手に取って、またベンチに腰かけた。
BGMが穏やかなクラシックに変わっていた。




