乙女ゲームのヒロインをいじめ殺そうとした罪で処刑?とりあえず国は滅びるだろうけど、覚悟はできているのかな?
「マリーベル・ポンズ・ブロッコリー公爵令嬢! リリアンヌ・キナコバター男爵令嬢を嫉妬により執拗にいじめた罪、および暗殺未遂の罪で逮捕する!
しかも貴様は、闇の神の依り代であるということに慢心し、挙句の果てに閉鎖されていた学園の地下室でアンヌを生贄にしようとした。これは禁忌魔法である。処刑は免れないと思え!」
セキハン国王太子ハロルドが重々しく宣言する後ろでは、寄り添うようにしてふんわりとしたピンクブロンドのボブヘアを編み込んだ少女、リリアンヌが立っている。
ここはセキハン国第一学園、3年生の卒業パーティ。
全国津々浦々から集まった貴族の子弟達が、魔力の制御や高度な礼儀作法を覚えたり、お偉いお貴族様のお子様とツテを作ったり、将来この国の覇権を握るべく勉学にいそしんだりしながら青春を謳歌するセキハン国の最終教育機関である。
王太子と同じく2年生のマリーベルは言われたことが呑み込めないようにしばらくきょとんとしていたが、徐々に顔色を失っていく。当然だ。なぜなら彼女はたった今処刑を宣告されたのだから。
恐る恐る、皇子や同じくにらみつけてくる騎士団長の息子に魔法の天才少年、色気あふれる伯爵子息などの伊達男達に囲まれているリリアンヌに目をやる。
リリアンヌは男爵家のご落胤で平民として暮らしていたが、ある日突然魔力を開花させて出自が明らかになり、この学校に入学した。彼女の天真爛漫な行動はたくさんの権力者たちの息子を引き付け、今では学校内でたびたび取り合いすら繰り広げられる始末だ。
彼女が目に涙をためて王太子を見ると、彼は何もかもわかっているというふうにほほ笑んで頷いて見せる。それを見たリリアンヌは意を決したように彼女を守るように取り囲む男たちの輪から出て、楚々とマリーベルに歩み寄り、途中のテーブルでまだ刃物を入れられる前のリンゴを一つ手に取る。
白い手で真っ赤なリンゴを両手で包み込み見つめる美少女は、まさに宗教画のような神々しさだった。
そして彼女は顔を上げ、マリーベルの前に立ちはだかると、その場で180度回転して皇子に向き直り、鬼神のごとき顔でにらみつけた。
「いじめも暗殺もされてないってさっきから何度も何度も何度も言っているでしょうが! っこれ以上マリーベル様をいじめたらあなたたちの命はないものとお考えください!」
一気に叫び終えると、彼女はふっと息を吐いて、リンゴを掴む手に力を加える。とたんに彼女の握った手からは閃光があふれ出し、一瞬にしてリンゴは蒸発した。
リリアンヌの光魔法だ。マリーベルは判断した。マリーベルが闇の神の加護を受け闇魔法を行使するのに対し、リリアンヌは光の神の加護を受け光魔法を行使する。
この国には、巫女と呼ばれる女性が存在する。国の平和のために祈り続ける役目を持つ、この国で最も強い権力を持った女性であり、光か闇の神の加護を持った少女しか就任できない役職だ。
加護を受けた少女が二人いるということは、当然リリアンヌとマリーベルはライバル関係とみるのが普通であった。普通であるのだが。
リリアンヌは手袋を脱ぎ、王太子に叩きつけた。
「言ってもわからないなら決闘してください! 私が勝ったらハロルド様にはマリーベル様のことをあきらめてもらうわ! 私が負けたら……」
そこでぐっと言葉を詰まらせたリリアンヌは、次の瞬間頭を抱えてうずくまる。
「だめぇっ! いくら私は絶対負けないと分かっていても、口に出すのもおぞましい!」
「なんかおかしな話になってきた!」
やわらかに漂うさわやかなリンゴの香り。次々と予想もできない展開が繰り広がる会場に、観衆たちの開いた口はふさがらない。
「お、落ち着けアンヌ、君が優しいのは知っているが、そんなにもやけになってかばわなくてもいいんだ。」
「いや、様子がおかしい。まさか、マリーベルの暗示にかかって……?」
リリアンヌの取り巻きの男たちが騒ぎ出す。リリアンヌはきっと顔を上げてにらみつける。
「かばっているわけでも、ましてや暗示でもありませんわ! だってマリーベル様は……」
リリアンヌは高らかに叫んだ。
「私の一生の最最最推しなんだから!」
〇
その日は私、リリアンヌの最高の一日になるはずだった。お兄ちゃんが朝なのにチョコボールをくれたし、ヘアアイロンも気持ちいいほどに綺麗に決まった。
何より、ずっと片思いをしていた男の子と同じクラスになれた輝かしい高校生活一年目の初日だ。
でも降ってくる桜の花びらの中で自転車をこぎながら、私はちょっと浮かれすぎた。曲がり角でカーブしてきたトラックに全く気が付かなかったのだから。
何の話をしているかって? もちろん前世の話。別に私が電波だとかそういうわけじゃない、本当に私には前世の記憶がある。
でもこれが前世の記憶だとしっかり認識できたのは、多分4才くらいのころだ。
ようやく自分に前世の記憶があると分かった時、私は大いに安堵した。だって、今この世界にどうしようもない違和感があったのだ。いつだって何か違う、ここは違う、なんて湧き上がってくるものがあるけれど、どうしてそんなことを思うのかも分からない。お父さんとお母さん(本当は実の親じゃなかったらしいけど!)のことも大好きだったけれど、心のどこかが冷めている。普通の親子に沸く熱い情のようなものが、私には浮かばないのだ。
だから、私前世持ちでよかった。だってこんなの、人格破綻者みたいじゃないか。
でもこの世界が前世大好きだった乙女ゲームの世界だって気が付いたのは、ずいぶん後だった。
あれは確か7歳の春の昼間。いつも遊んでくれる近所のお姉ちゃんがその日は別の子と遊びに行っちゃって、私は一人で道路に座り込んでありの行列を見ていた。
ちょこちょこと小さいのが何か荷物を運びながら行列を作っているのを見ていたら、ことのほか郷愁が胸を焦がして、気を抜いたらすぐにでも涙がこぼれてきそうだった。
そう、私はいつだって前いた世界に帰りたかった。残してきた家族や友人に、会いたくて会いたくてしょうがなかった。でも、それは死んだ人にもう一度会いたいって願いくらい、かなわないってことを何故か確信していた。だから、だからこそ、日を過ごすごとにどんどん記憶が風化していくのが悲しくて、寂しくて、どうしようもなかった。とても、気持ちを切り替えて、新しい世界で生きようなんて気持ちはおこらなかった。
その時、ありの向こう側から規則正しく回る車輪の音が聞こえてきた。私は急いで道のわきに座り込んだ。馬車は土ぼこりを上げながらありの行列を踏みつぶしてとおりすぎた。窓から小さな女の子の横顔が見えた。初めて会うこの少女の名前を、それでも私は知っていた。マリーベル様。私が前世大好きだった乙女ゲームの悪役。その時ようやく私は気が付いた。私は乙女ゲームの世界に転生したようだった。
マリーベルはあのゲームの中で、いやゲーム以外のすべての二次元媒体において前世の私の生涯の最最最推しだった。私は金髪が好きだ。ふわりと緩いカーブを描いている長髪が望ましい。高飛車で強気な女の子が大好きだ。でも、少し短慮だともっと魅力的だ。男勝りだといい。男言葉の美少女なんて最高だ。
そしてそのすべてがマリーベルだった。マリーベルは私のすべての性癖を網羅し、そのうえで凌駕した。まさに性癖の塊。性癖のオンパレード。むしろ彼女こそが性癖。
最後の断罪シーン、すべての悪事がばれて捕縛される瞬間、今までの優雅な物腰をかなぐり捨て、乱暴な男言葉で叫ぶ彼女を見た時、私は不謹慎にも黄色い悲鳴を上げながら突っ伏した。もう大好き。愛してる。
そんな最高の美少女を生み出した乙女ゲームは神棚に祭り上げたって足りないが、最大かつ唯一の問題点が彼女はどのルートでも死んでしまうことだった。
ヒロインが誰を選ぼうが、もれなく彼女はヒロインを誘拐して生贄にしようとし、ヒロインはその回のヒーローに救出されて断罪イベントが始まるのだ。最悪だ。製作陣に会ったらまず握手を求めて全財産を貢ぎ、その金を差し出した手で顔面をぶん殴るに違いない。
しかし。しかしだ。こうして私はストーリーに介入できる存在として生まれ変わった。これはきっと「マリーベルたんを幸せにせよ」という神からの啓示だ。そうに違いない。私に生きる目標ができた輝かしい瞬間である。
そして15歳になった今、私はセキハン国第一学園の制服を着て校門前に立っている。持って生まれた魔力を隠し通す方法はないかあらゆる手段を用いて調べたが、たかが平民の子供にできそうなことは何もなかった。別にマリアンヌを目にする機会が減るから手を抜いた、とかそういうことはない。断じてない。
それならばあえて、さっさと魔力を開花させて魔法の力を磨いて磨いて磨きまくること決めた。入学前から魔法をカンストさせてしまえば、よっぽどのことがない限り一令嬢に暗殺の危機にさらされることはあるまい。ゲームのアンヌは15歳になるまで魔法は発動しなかったようだが、私は自己流で練習した結果7歳には安定して発動できるようになっていた。
校門をくぐって校舎に向かう道を歩く。気を付けるべきことはたくさんあるが、目下気を付けるべきことはマリーベルに会った時、感激のあまりとちくるって妙なことを口走らないようにすることだ。変態だと勘違いされてしまうではないか。
などと考えていたら後ろから突き飛ばされた。ひざの痛みに顔をしかめながら立ち上がって振り返ると、複数の女子生徒が立っていた。見覚えのある顔ぶれ。多分ゲームに出てきたマリーベルの取り巻きだ。一人少し離れた場所に立っている若い男性は、多分マリーベルの従者だ。
と、言うことは。無意識のうちに目が彼女を探す。
水色の瞳とかち合う。緩やかに波打つ蜂蜜色の髪。きめ細かい陶磁の肌。ふわりとグレーの制服がなびく。素敵。画面越しに見るより、ずっと、ずっと。
クスクス、クスクス、とあざけるような取り巻きたちの笑い声ではっと我に帰る。状況を確認する。
そうだ、今私は二年生であるマリーベルに突き飛ばされたのだ。このシーンは百週以上もやったというのに、ついうっかり思考がそれてしまっていた。何ということだ。ファン失格だ。
「何よ。」
マリーベルが問う。震える手を押える。落ち着け、考えろ。当たり障りのない返答をするのだ。間違っても彼女を困らせたり、彼女にさげずまれるような返答は――おいしいけど――してはいけない。
「何か言ったらどうなの。」
再びマリーベルが問う。大丈夫。落ち着いた。返答ばっちり。仲良しびっくり。
「好きです!」
しかし予定していた言葉は彼女の瞳を見た瞬間フェードアウト。理性スタートクライ。胸中ロックンロール。
マリーベルはぽかんとして、やがて顔を真っ赤に染める。取り巻きも似たような感じだ。当然である、見知らぬ女子生徒から唐突な告白である。私の心は反省の嵐と照れ顔げっちゅの竜巻に粉砕される。
「お前たち! 何をしている!」
しかし心の暴走雨は鋭い声によって阻まれた。便宜上振り返ったが顔を見なくとも知っている。二年生の生徒会長にしてこの国の王太子、ハロルド・ゴマ・セキハンである。
私は慌てて口を開く。
「何をって……お話ししていただけですよ! 先輩に案内をしていただいていました!」
完璧に練り上げた台詞通りに言うが、王子は鼻を鳴らしてマリーベルをにらみつける。
「どうかな……、新しく現れた巫女候補をやっかんで、いじめていたのではないか。世間では闇の神より光の神の方が神聖だと言われているものだからな。」
それお前が言っちゃうかー。私は脳内でちっちっと舌を鳴らす。王太子の母上、つまり王妃はもと闇の巫女なのだ。皇子的に問題ありすぎる自虐である。ついでに言えば、マリーベルの嫉妬の内容はそれだけではない。庶民出のため天真爛漫で素直な性格をしているリリアンヌに憧れていることの裏返しなのだ。天使だな!
懐の狭い皇子を懐柔するべく、見つかってしまった!みたいな顔をしているマリーベルに「違いますよね! ですよね!」と再度呼びかけるも、彼女は無言のままに去ってしまった。
取り巻きが慌てたように後を追う。私ははて、と首をかしげる。現段階で王太子の嫁の最有力候補はマリーベルだ。てっきり彼との仲良しアピールをしてくるものだと思っていたのだが。
「……お前が噂の光の巫女候補か。」
立ち去るマリーベルの背中を見ていた皇子が振り返って問いかける。怖いくらいにゲーム通りだ。私は脳内でガッツポーズを決める。
私はマリーベルのスチルを拝みたいがためにゲームを百を超える数クリアしてきた猛者だ。どの返答をすればどのルートに進むかなんて手に取るようにわかるし、何なら目の端に、存在しない選択画面が見えてくるほどだ。
私は皇子に向き直りにっこりとほほ笑む。目指すルートはただ一つ。逆ハーレムである。
〇
逆ハーレムを達成した。怖いほどに簡単だった。だってなんと返答すればどのような反応が返ってくるのか知っているのである。答えが最初から分かっているコミュニケーションほど楽なものはない。
最近になってはもう私に愛をささやく者もいるし、直接には言わなくても、攻略対象全員が順当にこちらに気持ちが傾いていることは明白だ。とはいえ、私はただ金髪高飛車且つ男勝りで男言葉の美少女が好きという性癖を持つだけのただの一般人である。こんな一般的女子高生に未来の国家の重鎮が次々落とされてしまうというのは、自分が起こしたこととはいえこの国の未来が心配である。
そこまでは簡単だったのだ。
「ハロルド様、こんなに素敵なネックレスをいただいてしまってよいのですか? とてもうれしいです! 特にほら、この宝石の飾りなんてまるでお優しいマリーベル様の瞳のよう! ああほらご覧になってください! あの蜂蜜とってもおいしそう、私と仲良しのマリーベル様の髪のように輝いているわ!」
なるべく、なるべくゲーム内の会話と内容が変わらない程度に自然にマリーベルへの弁護を織り込む。もはや織り込みすぎてサブリミナル効果が発現してもおかしくはない。
落とした攻略対象たちに、最高の笑顔で「マリーベル様は私のお友達で、私はマリーベル様が大好き」といえばさすがに処刑なんてするまい。入学した当初は確かにそう思っていた。
しかしやつらは私がそういうたびに痛ましげな顔をするか、むしろマリーベルへの怒りを募らせていくのだ。
落とすまではイージーモードだった。しかし手玉に転がすことがこんなにも難しかったとは。
平民への嫉妬でかわいらしい嫌がらせをしているマリーベルより、私情で未来の国家の重鎮たちを落として侍らせている自分の方がよっぽど悪女だと鼻高々になっていた自分を張り飛ばしたい。悪女への道は険しかったのだ。
王太子と別れ、もらったネックレスについた水色の石を眺めながら私は廊下を歩く。たびたびおこなわれるマリーベルからの嫌がらせが唯一の憩いである。教科書や弁当を勝手に捨てられるのは困ったものだが、嫌味を言われるなんてご褒美でしかないし、足を引っかけられるのはおみ足に触れさせていただいた分お金を支払いたいぐらいだ。
「あら、ハロルド様からネックレスをもらえてご機嫌の様ね。平民にはそんなに宝飾品が珍しいのかしら。」
うん、ルート通りだ。いつものように喜色満面の体でマリーベルに向き合うと、マリーベルは少し鼻白んだように後ずさった。最初は好意的な態度を向けるたびに真っ赤になっていたマリーベルも、最近では私の暑苦しすぎる愛に若干引いている。
「ええ。だってマリーベル様の瞳の色のネックレスですもの!」
「いやそこはハロルド様の瞳の色って言うところでしょう!? というかあなた、ハロルド様たちに会うたびに、私のことをわざとらしく褒めちぎっているようね。そうやって健気な子の猫でも被っているのかしら、卑しい子!」
猫? 猫も何もむしろこちらが本心だ。いや、マリーベル様と仲良しは若干私の願望だが。私はふと頭をかしげる。こんなふうにマリーベルを弁護することがけなげな子アピールになる?
それってつまり……むしろそれに対応して攻略対象たちのマリーベルへの憎悪が高まる?
どんどん顔から血の気が引いていく。手が震える。口の中が乾く。あまりのことに涙も出てこない。私はなんてことを。
突然真っ青になって目をかっぴらいて震え出した私を見て、マリーベルがちょっと目をむく。
「ど、どうしたのよ!? 今更こんなことで動揺するわけ!?」
「あう、ど、どうしよう、私なんてお詫びしたらいいのか……。」
「え、いや、あなたが本気で弁護しているのははた目から見たらすぐわかる……」
「どうしようマリーベル様が死んじゃったら!」
「論理の飛躍!」
ガタガタ震えながらも、私は叫ぶ。
「こ、こうなったら私腹を切ってお詫びいたします!」
「腹を切る!? どういう発想よそれ……やめなさい! 刃物をしまえ!」
「だって、大好きなマリーベル様が死んでしまったら、私も生きていられない……」
「死なないっての! ああもう、一度お前とは話をつけておく必要があるようだな……」
小さく呟いた声が聞き取れなくて、私が首をかしげるとマリーベルは私の胸ぐらをつかんで引き上げた。タッパのあるマリーベルがそうすると、私はちょうどつま先立ちのような形になる。
「……今日の昼休み、体育館裏に来なさい。誰にも言わずに一人でね。」
耳元で小さくささやかれた声に驚いてマリーベルを見ると、彼女はにっこりとほほ笑み私を開放し、くるりと背を向けて歩いて行った。階段を上って、二年生のクラスのある階に行くのだろう。
私は、さっきマリーベルの手がつかんでいた襟元をそっと撫でた。
……こんな展開は、ゲームにはなかった。
〇
昼休み、体育館裏。私は体育館の壁を背にぴったりとつけて立っている。顔の横には手。手はくの字を描く腕、そして肩に続き、肩は私の目の前で微笑む美しい顔に続いている。そしてその顔が近い。すっごく近い。
お分かりだろうか。壁ドンである。
「リリアンヌさん、あなた何かと私にかまってくるわね。私のこと素敵だとか、大好きだとか。何を企んでいるの?」
サクランボのような唇が放つその吐息すらかぐわしいような気がして、つまりは内容が全く耳に入ってこない。
落ち着け。落ち着くのだ私。私は賢いので同じ轍は踏まない。すっごく興奮しているからと言って、決してこの人に気持ち悪がられるようなことは言ってはいけないのだ。もうすでに手遅れのような気もするが。
「……あなた、何を知っているの?」
知っているどころか、ゲームのスチルはもちろんプロフィール欄の余白の模様まですべて暗記しております、なんて言ってはいけない。言ってはいけないのだ。
決意を固めて顔を上げ、彼女と目を合わせた。
駄目だった。
ゆるくウェーブした金髪に編みこまれた水色のビーズは風に乗って揺れる。一番きれいな空の色の瞳は金色の長いまつ毛に縁どられて鋭く吊り上がり、思春期だというのに白い肌にはニキビの跡一つない。漂ってくるのはミントの香り。そうか、この人はミントの香水を付けているのか。
前から画面越しでないの最高、とは思っていたけれど。こんな至近距離から見てしまったら、芸術品なんて言葉では生ぬるい。奇跡だ。私は生命の奇跡を目の当たりにしている。
祝福の雨が私の頬を伝う、と思ったら涙だった。唐突に泣き出した私におののいたのか、マリーベルは慌てて壁から手を外し、気まずげにスカートのすそをつまむ。そのしぐさすら完璧だ。可愛い。愛しい。天使。
偽ってはならない。罪人が神の子に首を垂れるが如く私のよこしまな心は隅々まで浄化され、この性癖の塊に一切の隠し事をしてはならないという神の啓示が心の雨と一緒に降ってきた。
「……その……」
「……」
「……悪かった。」
「前世からお慕いしております。」
「は!?」
心は定まった。気持ち悪がられたり嫌われたりするのが怖いとか、私の心はそういう次元の外にいた。こんな私を前世の友が見たらこう呼ぶだろう、狂信者と。
「前世では生ぬるい、前々世、いや前前前世からあなたを探し始めたのに違いないのでございます!」
「なんか君口調変わってない!?」
うつむいて眉間をもみだすマリーベルを見て、私はうっとりとため息を漏らす。
「口調が変わっているのは、お互い様ですね。」
「――っ?」
慌てて口を押えるマリーベル。
「隠さなくても大丈夫です。その口調のことも、私前世から知っていました。私、マリーベル様のことなら何でも知っているのよ。」
マリーベルのこちらを見る目が、もはや化け物のそれである。
「……で、電波。」
「私、マリーベル様が存在してくれるなら電波でもいいです。」
「その、好きってしょっちゅう言うけど、それってどういうあれ?……恋愛的な意味、なんてことはないよな?」
「恋愛? 考えたこともなかったな……」
前世で私には好きな人がいた。それに、マリーベルと付き合うなんて恐れ多くてとてもできない。どちらかというと壁になって見守っていたい勢だ。つまり、この感情は恋ではない。
そこまで考えて、ふとある記憶を思い出した。あれは、確か中2の冬。何度も繰り返されるマリーベルの死刑エンドにとうとう精神崩壊した私は、こうなったら二次創作でマリーベルの幸せエンドを作ってやろうと思い立ったのだ。マリーベルが死刑を免れ、ヒロインと仲良くなったまではよかったが、何故か流れる筆はいつの間にかヒロインを男にしていて、マリーベルとちょっと強引に……。
「……恋です。」
私は据わった眼で言った。
「……あ、あの、リリアンヌ嬢?」
「恋です。純粋で、清廉な、清く正しい恋です。」
「お、おう……」
よこしまな感情にとらわれすぎて、私の心は一周回って浄化され凪いでいた。
「あなたは素敵です。
私、金髪で高飛車な女の子が大好きなんです。あと、男勝りで男言葉を使う女の子も。
あなたは、それの混ざり具合が絶妙なんです。その合間合間に見える影とか、もうたまらない。
例えば私が二次元……絵や文章で私の好みの女の子を創作しようとしたとしても、決してあなたにはならない。
あなたは、私にとって何か人知を超えた、宇宙の力みたいなものを感じさせる。
あなたと私が出会えたことは運命で、それでいて奇跡なんです。ああ、なんて言ったらいいんでしょう……、言葉で表現することは難しいけれど、とにかくあなたは私を救ってくれたんです。前世でも、今世でも。あなたが大好きです。あなたがいてくれさえすれば、きっと私には一つも怖いものなんてないのだわ。」
言葉を終えないうちからマリーベルの顔はだんだん虚無、みたいな感じになってきて、瞳からはハイライトが失われていった。まあそうだろう、この感謝の気持ちなんて伝わらないだろうって思うけれど、私は伝えずにはいられなかった。気分は踏み絵ができなかったキリシタンだ。
「えっとつまり……きみは同性愛者なのか。」
「同性愛とか異性愛とか、そういう領域を超えたものです。性別じゃなくてジャンルを愛しているというか……。そうですね、あえて名前を付けるなら性癖愛ですね。」
「性癖愛……」
マリーベルは何か遠くを見るような眼をして言った。
「俺は君のことを、もっと違う感じの人間だと思っていた。何の言うか天真爛漫で、思い通りにならなかったことなんて何一つないような、それでいて誰からも愛されないことはないような種類の人間だって思っていたんだ。何というか、君の本来の姿が今日知れてよかったな。」
「あら、私はマリーベル様の新たな面を見ない日はありませんよ。毎日毎日、マリーベル様は私の新たな性癖を開拓していく。そして、私はもっともっとマリーベル様のことを好きになるの。」
「あ、そう……」
プイっと向こうを向いてしまったマリーベルの耳が少し赤いことに気が付いて、少しはこの愛が、感謝が伝わったのかもしれないとうれしくなった。
「さっさと教室に戻るぞ。昼食を食べ損ねる。」
「あら、今日の私のお弁当はマリーベル様が捨ててしまったではないですか。」
「は?」
ぎょっとしたようにこちらに向き直るマリーベルを見て、私は胸に不穏なものがわいてくるのを感じた。
「え? いつもマリーベル様が捨ててたんじゃないんですか? 体操服とかと一緒に……」
「体操服も? 俺は知らない。まさか取り巻きたちが勝手に……、悪かった。これはさすがにやりすぎた。取り巻き達には俺から注意しておく。」
「いえ、弁当箱も体操服もごみ箱から回収できるし、便所に捨てられていた前世と比べたら断然ましなのですが。暴力も振るわれないし……」
「な、何かわからないけど苦労してたんだな……」
「あの弁当箱はフェイクで、もやししか入っていないのでお気になさらず。」
「本当に手馴れている! いや、それでもやりすぎはやりすぎだ。あいつら、ちょっと暴走しやすいところがあるとは思っていたけれど、まさかこんなことまで……」
呟きながら校舎に戻るマリーベルの背中を追う。私への嫉妬をこじらせたマリーベルの取り巻きが暴走した。本当にそんな理由だろうか。
湿った風が吹いてきたので空を見上げると、先ほどまでさんさんと輝いていた太陽は、すっかり厚い雲に覆われてしまっていた。
〇
暗がりの中で目を覚ました。あちこちが痛む体に顔をしかめながら起き上がる。地下室の中はいつものようにやたら寒い。
「光魔法、なんかいい感じにぼわってなるやつ!」
自己流の呪文を唱えると、手元にカンテラ大の光の玉が浮かび上がる。私は光の玉を掲げながら、地下室の中を見渡した。
足元には血文字のような巨大な魔方陣。ところどころ、水色の石が埋め込まれている。魔方陣の周囲にはビロードのような黒い布があちこちに垂れ下がっている。布の向こうでは人の気配。きっと生贄の儀式を執り行おうとしている人たちだろう。
スチル通りの光景。これが例の儀式か。実物で見るとやはり迫力が違う。思わず見入りそうになるが、いつまでもこうしてはいられない。ぐずぐずしているといい感じになった攻略対象が、つまり私の場合は攻略対象全員が、この場に踏み込んできてしまうのだ。
私はいつものように光を屈折させて自らの体を透過させる魔法を使う。本来なら私は力いっぱい光がバンってなるような魔法が得意で、このように繊細なコントロールが必要になる魔法は苦手なのだが、今まで何度も練習したし、実際に何度も使ってきたのでこの場でこれを使うのは楽勝だ。
暗幕の向こうにいきなり消えた生贄に驚いているような気配がするが、私は構わず人の間を潜り抜けて、部屋の隅へ向かう。
ほら、あった。もしも儀式の準備のために開かなかったらどうしようかと思っていたが、部屋の角に作られた隠し扉はいつものように容易に開いた。
そう。私はこの地下室に何度も忍び込んだことがある。ゲームのストーリー上私が地下室に連れ去られることは承知していた。
ならば普段から地下室に忍び込んでおいて、造りを把握するまでだ。
隠し扉をくぐって狭くて暗い通路を渡る。このような暗い場所を通っていると、前世でトイレの用具置き場に閉じ込められていたころのことを思い出す。
廊下を歩いていると汚水をぶっかけられたこと。先生がいない時を見計らって蹴られ、チョークの粉をぶっかけられたこと。学校を休みがちになった私に向けられる酷く怒った母の顔。中学生の時の記憶は特に鮮明だ。
密かに気になっていた男子が心配してうちに来て、母親と話をするよう励ましてくれたこと。母親が泣きながら謝って、私を抱きしめてくれたこと。私が学校に行っていないからと、友達が勉強会を開いてくれたこと。念願の高校に合格して、みんなでお祝いしたこと。何度だって思い返したから、瞼を閉じれば、今でも昨日のことのように思い出せる。
幸せは暗闇に比べれば、今辺りをほのかに照らす手の中の光のようにちっぽけなものだけれど。それでも、私はその光を愛していた。光を与えてくれた私の世界を愛していた。これから先のことなんて真っ暗で少しも見えなかったけれど、私には確かにやりたいことがあった。この光を与えてくれたたくさんの人たちに恥じない人間になること。たくさんの人たちに恩返しをすること。
私に前世があることを、証明するものは何もない。本当は前世なんて、ただおかしくなった私が作り出した妄想なのかもしれない。素晴らしい力を持っていて、だれからも評価される今世よりも、存在するかもわからない前世を恋しがっている私は狂っているのかもしれない。
狂っていてもいい。狂っていても、私は残された光のかけらを見つめながら生きていく。
マリーベル。最後に残された私の前世の痕跡。私の最後の光。
通路の突き当りの扉を開けるとまぶしい春の日の光が差し込んできたので私は少し眉をひそめた。目が慣れてくると、いつも通りここは中庭だ。腕時計を見る。そろそろ卒業パーティーが始まる。私は慌てて会場へと足を急がせた。
〇
そして今、卒業パーティー大騒動に至る。私のマリーベル最最最推し宣言に対し、王子たちは「さ、さいさい? 何のことだ?」と戸惑っている。話が分からん男どもめ。私は鼻息荒く主張する。
「大体、もしもマリーベル様が私を誘拐して暗殺しようとしているのなら、私がここに無事で立っているわけ無いでしょう、はい論破!」
「い、いや、地下室には確かに闇の生贄の儀式を行おうとする痕跡があった。君は聡明だから、一人で逃げのびて、そのうえでマリーベルをかばおうとしているのだろう。しかし、禁忌魔法を行使しようとすることは重罪。マリーベルは処刑を免れることはできない。」
「はぁ!? 何ですか、マリーベル様がやった証拠でもあるんですか? なら証拠出しなさいよ、証拠!」
私は勝ち誇った顔で問い詰めるが、王子は厳しい顔をして首を振る。
「証拠ならある。君がさらわれたのは中庭だ。そうだね?」
「な、なぜそれを……?」
「中庭にこれが落ちていた。君は髪の色になじむからと言って、このピンクブロンドカラーのヘアピンを付けていた。」
皇子がポケットからヘアピンを取り出す。私はばっと自分の髪に手をやる。確かに編み込みを止めていたヘアピンが、一本なくなっている。
「そして、同じ場所にマリーベルの万年筆が落ちていた。これは決定的な証拠だ。」
皇子が取り出した万年筆は、確かにマリーベルの物だった。長年マリーベルだけを見つめてきた私だからわかる。目の端でマリーベルの顔色がさらに悪くなったのが見えた。
私は呆然として呟いた。
「な、なぜそれをハロルド様が持っているの……?」
「だから言っただろう、中庭で拾ったと。」
「いいえ、そんなはずはないわ! だって、中庭に落ちている万年筆は……
私が回収させたんだもの!」
〇
それは卒業パーティーの二日前のことだった。
「リリアンヌさま。私にどのような御用が?」
呼び出したマリーベルの従者は怪訝そうな顔をしている。
「一つお願いがあるんです。明後日の卒業パーティーの直前、私はかどわかされます。」
「は?」
「中庭でかどわかされる予定なんです。その日絶対に中庭に近づかないってことも考えたんですけれど、私が下手人だったら確実に私を人目がない場所に誘導して、急遽適当な場所でさらうので。それならいっそ堂々と中庭に赴いて、予定通りさらわれた方がいいと思うの。」
「はい?」
「現場にはマリーベル様の万年筆が落とされている予定なんです。私がかどわかされた後回収してください。」
「ま、万年筆が……?」
従者は眉間をもみだす。
「主人は性格が良いわけではないが、誘拐なんて馬鹿なことをするたちでもない。誰かが主人に罪を擦り付けようとしているということでしょうか。
そういえば、主人は先日筆箱を無くしたと言っていました。その中に入っていた万年筆の一つとか……」
「マリーベル様の取り巻きが彼女に知らせずに私に嫌がらせをしているみたいなんです。例えば、彼女たちがマリーベル様を陥れるためにありもしない罪をでっちあげているとすれば……」
先日のマリーベルとの会話で私は確信した。マリーベルは私情で誘拐、ましてや暗殺なんてするような人じゃない。王族としての威厳。素敵。
つまり、誰かがマリーベルを陥れようとしている。
従者が顔を上げる。
「分かりました。万年筆は必ず回収します。貴重な情報をどうもありがとうございます。しかしあなたは、なぜそのような情報を……?」
訝し気に問いかける従者に、私はにっこりとほほ笑みかける。
「愛の成せる技ですわ。」
従者はちょっとおののいたような顔をして、そそくさとその場を去った。
前世のことをマリーベル以外に言うつもりはない。前世の記憶は私のもの。私だけのものですもの。
〇
「な、なぜ君が証拠品を隠す必要があるというのだ!
いや、それ以前に君はさらわれることを予知していたというのか? 一体どうやって!」
「そんなことよりなぜハロルド様がマリーベル様の万年筆を持っているの!?
そんな私の暗殺未遂をマリーベル様に擦り付けるような真似ではないですか!
まさか……」
私ははっと息をのむ。
彼は地下室に闇の神に生贄を捧げようとした痕跡があったといった。ではなぜ闇魔法を使えない彼がその痕跡を闇魔法のものだと断定できたのだ。だって、この国にいる闇魔法使いはマリーベル様とあとはただ一人。
「王妃様……?」
思わず漏れた私の言葉に、王太子が青ざめる。
「マリーベル様が犯人ではなかったとしたら、そんな大掛かりな儀式を行えるのも、それを生贄の儀式だと断定できるのも王妃様だけだわ……!」
「何だって、王妃さまが……!」
「そんな、何のために……!?」
会場は大混乱だ。
「何故、なぜマリーベル様にこんなことをするの!? こんな美少女を処刑しようとするなんて国家の、いえ世界の損失だわ!」
叫ぶ私に、震えていた王太子がやがてくつくつと笑いだす。
「なぜ君はそんなにも彼女にこだわるんだい?」
「こんな最高の美少女にこだわらない人類なんていないわ!」
「美少女? 何をたわけたことを。マリーベルは嘘つきだ。」
「嘘つき? あなたは何を言っているの?」
「そう、そんなにも愛してくれている君に彼女は嘘をついていた。いや、彼女ですらないな。だってマリーベルは―――」
「おい、それ以上言うな!」
焦ったマリーベルの制止も聞かず、王太子は笑いながらまっすぐ彼女を指さす。
「男なのだから。」
〇
マリーベルは体育館裏での騒動以来、意地悪な顔はあまりしなくなり代わりに虚無の顔を多く見せるようになった。今もまさにそんな顔をしている。
でもそんな顔もとてつもなくかわいいのだ。まさに天使。至高の存在。性癖の塊。
なのにこの男は何を言っているのだろう。マリーベルが男? 馬鹿らしい話だ。
しかし私の脳の一部が私の意志とは無関係に推測を続けていく。
マリーベルが男? ではなぜ女性の格好をしている。巫女になるため? でも服を脱いだら男なのであれば、マリーベルはどうあがいたって巫女にはなれない。何故なら巫女は女性が成るものだからだ。
では王族の男性の依り代は何になる? 答えは簡単だ。次代国王となる。
苛烈な性格で知られている王妃がもしもこの真実を知っては、ただじゃ置かないだろう。間違いなく暗殺しようとする。だから公爵夫妻は息子の命を守るために女として生かせることを選んだ。しかし万が一王妃が性別の偽装に気が付いたとしたら。息子を皇太子にするべくマリーベルの処刑の理由を無理やりでっち上げようとするだろう。
すべての符号があってしまった。
彼らを手玉に取るなんてとんでもない。ずっと掌の上で踊らされていたのは私だったのだ。
ゆるゆると振り返ってマリーベルを見る。ハイライトを失った水色の瞳も、式典用にいつものビーズといっしょに丁寧に編み込まれた髪も、最高に性癖なのに。
男勝りで男言葉の美少女が男だったら、それはただの男じゃないの。
すべては幻想だった。
今まで信じてきた光は、幻想だった。
では。では。では。私は何のためにここにいる。
一番大切な世界を消し去って。中途半端に記憶だけ与えられて。最高の性癖は幻想で。
「こんな、こんな世界。」
目の前にピカリピカリと火花が散る。
会場のどよめきがどこか遠くから聞こえる。
でも、今は、そのすべてが、どうでもいい。
「いらないよ。」
〇
リリアンヌを中心に稲妻が空間に亀裂を入れるように輝く。感情と一緒に魔力までが暴走しているのだ。
「ま、マリーベル様、何とかしてください!」
従者が半泣きでマリーベルにすがる。
「リリアンヌさまの光の魔力蓄積量は歴代最高。こんなのが暴走したら、世界は確実に消滅します!」
「お、俺にどうしろっていうんだ!」
「自分で考えてくださいよ理想の美少女なんだから!」
「やりたくてやってるんじゃないんだよ、こんな格好!」
マリーベルは頭を抱える。
会場はもはやパニック状態だ。あちこちで男女の悲鳴が上がり、避難しようとしていた群衆がドミノ倒しに倒れる。このままでは魔力がすべてを破壊する前に普通に人死にが出るだろう。
「頑張れマリーベル様! 世界の平和はあなたのお色気にかかっている!」
「あってたまるかそんなもの!」
ちょっと泣きそうになりながら叫ぶも、確かにこの状況を放置しておくわけにはいかない。他に彼女を落ち着かせるための人材に、自分以外の適任がいるとも思えなかった。
なかばやけくそでリリアンヌに駆け寄る。
頬につうっと涙を流しながら振り向くリリアンヌを、意を決して抱きしめる。
「お、落ち着け! 落ち着かないと世界が滅ぶぞ! 国民に多大な迷惑がかかる! 頼むからその物騒な火花を引っ込めろ!」
ぼんやりとしたまなざしで顔を上げたリリアンヌは、マリーベルと目が合うと少しだけ生気を取り戻す。
これを止めてはならない、直感したマリーベルは幼子を相手にするようにやさしく問いかける。
「だいじょうぶ。ゆっくり息を吐いて吸え。いい子だから。」
稲妻が少しずつ弱まっていく。リリアンヌの瞳に光が戻る。
「そうよ、こんな……、――こんな美少女が男なはずないわ!」
ちょっと膝から崩れ落ちそうになったマリーベルを支えて、リリアンヌは生き生きと叫ぶ。
「そうよ、これは絶対何かの誤解よ! だってこんな美少女が男なはずないもの! 男な、はず、ないのよ!」
リリアンヌの叫びに呼応するように、稲妻は弱まり、ついにはすっかり消えてしまった。
世界。世界を守るためだから仕方がない。自分に言い聞かせながら、マリーベルはリリアンヌを胸に抱きよせる。
「ああうん、そうだな、女だな。もう女でいいからちょっと黙ってくれ。」
「そうよ、女の子よ。だってこんなにも性癖……あら?」
しゃべりながらマリーベルの胸に顔をうずめていたリリアンヌが不審な声を上げる。
「この胸……本物じゃないわ。」
状況はわからないまでも、なんとなく安心を取り戻しつつあった群衆に一気に緊張が走る。
青ざめるマリーベル。そうだ、ほかの令嬢に馬鹿にされないように、マリーベルは多少大げさな偽乳を使っていたのだ。
「マリーベル様……あなた……」
ばっと顔を上げたリリアンヌは目に一杯のお星さまをためていた。
「貧乳を気にしている系女子だったのね!」
「は?」
「もうっ、どれだけ私の新しい性癖を開拓すれば気が住むの!? いいぞもっとやれ!」
歓喜に身を震わせながら上目づかいで詰め寄るリリアンヌに、マリーベルは困惑する。気にしているも何も、乳なんぞできようはずもない。だって男なのだから。
「最高です! むしろあなたが性癖です! 私あなたを一生推し続けます!」
飛び跳ねながら目を潤ませるリリアンヌを、茫然と王子達攻略対象が見つめる。
「で、……なんだっけ。彼女をいじめたから処刑だっけ?」
マリーベルは力なく笑った。
「とりあえず国は滅びるだろうけど、覚悟はできているのかな?」