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初めてのメエル

作者: じゅそ

 


 小さなホテルの一室は、嬌声と水音で満ちていた。


 町を歩く人々の足元を幽かに濡らす小雨や、それを揺らす緩やかな風は閉鎖状態の部屋にいる私たちに届いてなんかいない。揺れたカーテンから差し込んだ柔らかい月光がリノリウム製の床を青く照らしていた。


 私は膝の上に感じる温もりをきつく抱きしめる。汗でじっとりと濡れた肌は、それでも美しく瑞々しかった。


 私の膝の上に乗っている彼女は抱きしめた私の二の腕を徐に撫でる。蠱惑的な笑みが薄暗い中、至近距離で私を見下ろしていた。ぞくりと私の背筋が粟立っていく。鳩尾の下辺りが何やらむず痒くなって、我慢できずに私は彼女の唇を奪った。


 荒い息のまま、押し倒す。年齢が私より一回りほど下回っている彼女の見た目はとても若々しく、だからこそ私の劣情は油をかけられた火の如く燃え上がる。しっとりと濡れた鎖骨が妙に艶めかしくて、私は唇を離し、鎖骨辺りまで舌を這わせていく。擽ったそうに腰を浮かす彼女が可愛らしかった。彼女の乱れた髪もまた扇情的だった。


 ふと、視界に私の手が映った。


 年齢のせいか少々くたびれて見える左手の薬指には、はっきりと金の指輪が嵌められている。


 甘えたように私にすり寄ってくる彼女を抱きしめながら、私は硬く目を瞑った。


 


 それは、迫りくる絶頂のためか、それとも心を圧し潰す罪悪感のためか。


 


 


 そんなこと、今はどうでもよかった。


 


 


 


 ──どうでもいいことにした。


 


 


 


 ▼


 


 


 


「今日はありがとう」


「ううん、私こそ、気持ちよかった」


 


 ホテルから出た私たちは、傘をさしてその下に潜り込むとそう囁いた。


 先ほどまでは乱れ切っていた彼女の髪も今では綺麗に纏められており、一本に結って肩から前に垂らしている。染められた柔らかな茶髪が私の腕を撫でる。スーツの上からでもわかるその擽ったさに、私は顔を顰めた。甘いフルーツの香りがした。


 腕を絡めてくる彼女。その横顔は嬉しそうに輝いており、くたびれた私の表情とは対照的だった。


 そのまま小雨の中歩いて駅前まで歩いていく。


 


「ありがとうね、また今度会おう」


「うん」


 


 駅前に着くと、ぴょんと傘から彼女が飛び出す。小さく手を振っている。手首に着いたミサンガが小さく揺れていた。


 気恥ずかしさを感じながら手を振り返すと、彼女は更に嬉しそうな表情になった。


 そして再び傘の下に潜りこんでくると、私の首に手を回し勢いよく口づけをした。


 雨粒がビニール傘を叩く心地よい音だけが広がっている。私の口内を蹂躙する彼女の肉厚な舌は、ホテルに行く前に食べたラーメンの味がした。


 


 やがて電車が来たのか、彼女は急いで改札を通っていった。軽い振動音がここからでも伝わってくる。


 私は静かに目を閉じると、先ほどまでの余韻に浸りつつ、心の隅にちらりと見えた罪悪感を更に向こうの方へと追いやった。


 すれ違ったサラリーマンの大きな咳で我に返る。それを皮切りに、様々な音が私の耳に流れ込んできた。


 確かな憂鬱を抱えながら、私は踵を返し帰路に就いた。


 


 


 


 


 


 私は不倫をしていた。相手は先ほどの妙齢の女だ。


 妻と結婚して既に十年以上。特に不満もないし、逆に充実した毎日だったと言える。


 少しどんくさいが優しく笑顔の素敵な妻に、小さいが懐かしさと暖かさに溢れている我が家。子供はいないが、その代わりに猫を飼っている。


 問題なんてない、ありきたりな家族。


 だが私にとってそんな生活はツマラナイものだった。


 刺激が欲しかったのだ。


 身を焦がすような恋がしたかった。貪るように抱き合いたかった。


 


 しかし、妻にそんなことを頼むわけにもいかない。かといってその欲望を捨てたくはない。


 


 葛藤の中で思考を放棄した私の指は、出会いを求め異性が集まるいかがわしいサイトへと伸びていた。


 色々と試しているうちに、私と会いたいと言った女に出会った。


 それが、不倫のきっかけだった。


 


 待合場所に行くと、サイトで見たのと同じ顔の──少女と言っていいほどの年齢の──女性がいた。


 話を聞くと、成人にはなっているらしい。だが既に四十を超えかけの私からすると成人式を終えたばかりの女性などまだ生娘に過ぎず、このまま彼女と一緒に歩いていいのかと逡巡した。


 しかしそれと同時に、普通では味わえないであろうこの体験に燃え滾っている自分がいることにも気が付いていた。


 


 気が付けば、彼女の手を取って歩き始めていた。彼女もまた私の手を握り返しにっこりと笑った。


 心の隅で妻の顔が浮かんだ。


 すぐに消えてしまった。


 


 


 


 彼女と体の関係を持ったのは、四回目のデートの後だった。


 いつものように町を歩き回り、ショッピングをしてご飯を食べた後、唐突に彼女が私の肩に撓垂れ掛ってきた。


 甘えたような視線に、潤んだ瞳。さりげなく私の太ももに乗せられた彼女の細い腕が、私の罪悪感を埋め尽くしていく。


 酒を飲んだわけでもないのにふらふらと酩酊する頭で立ち上がった私は、そのまま直行でホテルへ向かった。覚悟を決めていた。いや、違う。私は、その時はまだ自分の罪に気づいていなかっただけだった。


 


 彼女を抱いた後、心地よい気怠さに揺蕩い、私の腕を枕にして眠っている彼女を見た。


 そのうなじを見ているだけで、先ほどまでの行為が思い出され、かぁっと体が熱くなってきた。しかし反比例するようにベッドは寒々しかった。隣で彼女が寝ているのにもかかわらず、びゅうびゅうと風が吹いているのかと思ってしまうほどに冷え切っていた。


 


 ふと時間が気になって携帯を見る。世間ではガラパゴスやら何やらと馬鹿にされているが、私にとっては妻と共に買った思い出のある携帯だった。


 


 


 ──妻と? 


 


 


 熱く滾っていた私の体がすぅっと冷えていく。冷や汗が噴き出て心臓が暴れ始めた。


 携帯を開き時計を見る。十一時四十九分。いつもならとっくに帰宅している時間だった。壁紙に設定していた、にっこりと笑う妻の顔がこちらを見つめていた。その瞳は何だか私を責めているようにも見えた。


 途端に、先ほどまでは忘却の彼方へと追いやっていた罪悪感が鎌首を擡げ私の心を締め付けて来た。


 すやすやと眠っていた彼女を起こすと、急いで支度をしてホテルから飛び出る。


 彼女もまた、私が既婚者であることに気が付いていたらしく、理解して何も言わずにいてくれた。


 


 だからこそ、これは一日の過ちにするべきだった。


 赦されはしないし、忘れることも出来ない。だが、過去の産物にすべきだった。


 


 


 ──そこから溺れるように、私は彼女と肌を重ねていく。


 


 


 当初に抱いていた罪悪感は既に消え去ってしまい、残ったのは言い訳と欲望だけだった。


 一度抱いたなら、二度も三度も変わらない。どうせなら楽しんでしまえ。


 こんなチャンス二度とない。今のうちに出来るだけ抱いてしまえ。


 


 そんな言葉が、私の心を埋め尽くしていた。


 だから抱いた。数え切れぬほど抱いた。


 抱いた後、いつも後悔した。目の前で寝る裸の彼女に、自分の情けなさを見せつけられたような気がして、胸が痛んだ。


 


 だが、それでもやめることはできない。


 今日もまた、私は罪を重ねたのだった。


 


 


 ▼


 


 


 家に着いた時には、既に日が回っており、町には静寂が広がっていた。


 我が家の電気は点いておらず、それは妻が既に眠りに就いたということを表していた。


 ゆっくりと鍵を開け家の中に滑り込むと、ふわりと酢豚の匂いがした。どうやら今日の晩御飯は酢豚だったようだ。


 リビングに入ると、静かな寝息が聞こえて来た。


 見ると、ソファの上で妻が眠っていた。どうやら私を待っていたらしく、寝巻のまま毛布も掛けずに寝ている。私は近くにあったブランケットをゆっくりと彼女に掛けると、机の上に置いてある晩御飯をそのまま冷蔵庫に入れた。今は食べれる気はしなかった。


 


 スーツを脱ぎ寝巻に着替える。ホテルでシャワーを浴びたので手間をかけずに済んだ。


 


「手間をかけずに済んだ……か」


 


 そんな自分の思考を自嘲する。


 不倫をしておいて、妻が作った料理も食べないで、手間がかからずに済んだからといって喜んでいる。私はなんて破廉恥な人間なのだろうか。


 二人用のベッドにもぐりこむ。空白の隣がなんとも寒々しかった。


 妻と一緒に寝なくなってから、もう何日が経っただろうか。


 最初は、遅く帰った時に妻を起こすのは申し訳ないとソファで寝たことがきっかけだった。


 しかしそれから、私は何だか妻と一緒に寝るということにためらいを覚え始めた。


 理由なんてとっくにわかっている。罪悪感だ。


 他の女と寝たこの体で、どうして愛する妻と一緒に眠れよう? ホテルで抱き合って愛しているよと囁いたこの口で、どうやって彼女におやすみのキスをすればいいのだろうか。


 


 私は弱い人間だ。弱くて、弱くて、だからこそ他人に縋りつかなければ生きていけないのだ。


 


 ──いや、これもどうせ言い訳。汚い自分を隠すための、都合のよいスケープゴートでしかないのだ。


 


 私は弱い。しかし、弱いくせに誰かを愛したがる。愛せるような器もないくせに、愛してしまうのだ。


 妻を生涯愛すと、もうずっと前に誓った。愛していたはずだ。いや、今だって愛している。


 だが私は、他の女も愛そうと思ってしまった。支えきれないくせに、受け止めきれないくせに。


 掌から愛すると願ったはずの想いが零れ落ちても尚、私は違う物に手を出したのだ。


 


 目を固く閉じる。うねうねとした不思議な模様が真っ暗闇の視界に浮かび上がって、不思議な舞を始める。


 家の外では蛙が気持ちの悪い鳴き声を発していた。聞くだけで身の毛のよだつような無様な声だった。


 


 


 


 


 


 


 果たして私とどちらの方が無様なのか。


 答えは出なかった。


 


 


 ……多分。


 


 


 ▼


 


 


 目覚めは最悪だった。


 悪夢でも見ていたのか寝巻はびっしょりと汗に濡れており、割れるような頭痛が漂っていた。


 風邪でも引いたのだろうかと部屋を出ると、味噌汁の匂いが階下から漂ってきた。


 階段を下りていると、リビングから妻がひょっこりと顔を出した。ソファではよく眠れなかったのか、その目の下にはくっきりと隈が見えた。


 


「おはよう、あなた。朝ご飯食べる?」


「ああ、もらうよ」


 


 にっこりと笑う妻が眩しくて、私は目を逸らしてしまった。


 彼女の笑顔を見る度に私の頭の中に昨晩の情事がフラッシュバックして、途轍もない罪悪感が心を蝕んだ。


 しかし彼女は私の想いになど気づいてはいないらしく、すぐに顔を引っ込めてしまった。その事実に、私は少なからず苛立っていた。


 別に不倫しているという事実を見つけてほしいわけではない。そんなことを思うほど私は愚かでもない。


 だが、何故だろうか。彼女が私の変化に気が付かなかった時、私は彼女に少なくない苛立ちを覚えてしまったのだ。


 何と自己中心的な思考なのだろうか。


 私は階段の半ばでしゃがみこんで大きなため息を吐いた。


 目覚めは最悪だった。


 


 


 ▼


 


 


 最悪な目覚めに反して、朝ご飯はとても良いものだった。


 トーストとジャムに味噌汁といった、和洋折衷の極みの食卓は、なかなかに鮮やかな色どりだった。


 私より先に食卓に着いて笑顔でこちらを見ていた妻は、私の顔を見て心配そうに眉を顰めた。


 


「あなた、大丈夫? すごい酷い顔してるけど」


「……ちょっと、眠れなくてね」


「そうなの……気を付けてね?」


 


 君の方こそ、ちゃんと眠れたのかい? 


 


 その言葉が出なかった。自分にその言葉を言う資格がないように思えてしまった。


 結局、何も言うことなく朝食を摂る。味噌汁は泣きたくなるほどに暖かかった。


 暖かさが胸に沁みて、とても痛かった。涙が出るくらいに。


 欠伸のふりをして涙を誤魔化す。妻は眠そうに目を擦っていた。


 


「あ、そういえば、聞きたいことがあるんだけど……」


 


 そう言って立ち上がった妻は、徐にポケットから携帯電話を取り出した。妻と一緒に買いに行った、おそろいのガラケーだ。どきりと胸が飛び跳ねた。


 


「何だか昨日、よくわからないメールが来て……」


 


 携帯の画面をこちらに見せてくる妻。見ると、どうやらスパムメールが来ていたらしい。


 


「無視していいよ。こういうメール、あんまり意味がないから」


「そうなの……ごめんね、何だか不安になっちゃって」


 


 安堵の表情で携帯を仕舞う妻。


 妻は機械の扱いが絶望的に下手くそな女性だった。


 こういった電子機器特有の迷惑メールの対処法はおろか、ボタンやら画面の操作方法すらもわからないので、電話も出来ないのだ。


 


「いいよ、別に。僕がわかることだったら全部教えるから」


「ごめんね、メールも出来ないから、何だか申し訳なくて……」


「大丈夫、大丈夫。会話だったら家で出来るから」


 


 私は再び嘘を吐いた。


 妻が携帯の扱い方を知らなくて大丈夫なのではなく、逆にありがたいとさえ思っていたのだ。


 本当に大丈夫だと思っているのなら、携帯の使い方を教えればいいだけだ。しかし私はそれをしなかった。


 それは、自分のエゴのため。醜い欲望に突き動かされた男の愚かな行為だった。


 メールの履歴がわからないので不倫の痕跡がバレないし、情事の際に電話などがかかってきたりしない。


 妻の機械オンチは、私の不倫にとって非常にありがたいことだった。


 


 味噌汁を啜る。暖かい。


 けど何故か──冷めた妻への恋心は温まりそうにはなかった。


 


 


 ▼


 


 


『今日、夜一緒に会えない?』


 


 送信。あとは彼女からの返信を待つだけ。


 私はガラケーを閉じると、ソファの上に放り投げた。


 家に居ても会話がない。妻が話しかけてくれても、罪悪感で上手く言葉が出てこないのだ。


 だから、外に出て彼女に会いたかった。この寂しさを埋めてほしかった。


 


 私の視界の端では妻が何やらガラケーとにらめっこをしている。どうやら何か使い方がわからないところがあるらしい。


 どうしたんだいと言って助ければいいのだろうが、今の私にはできそうになかった。


 


「ねえ、これってどうすればいいの?」


 


 そんなことを思っていると、妻から話しかけて来た。


 面倒くささに内心舌打ちをする──そしてそんな自分に辟易する。


 妻から携帯を借り見てみると、そこには私と妻が一緒に映った写真がある。


 


「これを壁紙にしたいんだけど……どうすればいいかわかんなくて……」


 


 それは、私と妻が初めてデートをした時に撮った写真だった。


 ありきたりなデートスポットで行われたありきたりなデートは、今でもはっきりと覚えている。静かな湖畔でのツーショットの中では、今よりも若々しい私たちが映っている。


 恥ずかしそうにはにかむ私と、満面の笑みを浮かべた妻。足元に咲いているコスモスが何とも可愛らしい。ずっと前に撮った写真を、妻は今も大切にしているようだった。私も保存しているのはしているが、ここ数年画像を見返したこともなかった。


 画像を見ていると罪悪感が沸き上がってくる。私は極力画像を見ないように素早く壁紙を変更すると、妻に携帯を返した。


 


「ありがとう」


 


 柔らかな笑みを浮かべる妻。やめてくれ、そんな優しい笑みを浮かべないでくれ。私は汚い人間なんだ。そんな笑顔を向けられるべき人間じゃないんだ。


 


 いたたまれなくなった私は、つい顔を伏せてしまった。


 


「ねえ、この画像のこと、覚えてる?」


 


 不意に妻がそんなことを尋ねて来た。


 私はその言葉に、何も返すことが出来なかった。


 覚えているに決まっている。


 あの日交わした言葉も、行った場所も、服装さえもはっきりと覚えている。


 しかし、何も言うことが出来なかった。


 私は曖昧に微笑むと、ソファを立ち上がった。妻はそんな私に何も言わなかった。ただ優しく微笑んでいるだけだった。それが余計につらかった。


 


 いたたまれなくなった私は家を出た。


 どこに行くのかさえもわかっていなかったが、とにかく家に居たくなかった。


 


 携帯を見ると、彼女から返信が来ていた。


 


『会える。というか、大切な話があるから会いたいと思ってた』


 


 空を見上げる。青く高い空だった。薄い雲が千切れてぽつりぽつりと空を覆っていた。


 照りつける太陽を見つめると、光の環が私の眼を刺激する。


 眩しかった。眩しすぎた。


 


 彼女のメールからは、嫌な予感がしていた。その予感から逃げ出すように目を瞑った。


 目を瞑ったというのに、暈は消えずに暗くなった私の視界の中で光の環を作っていた。


 


 


 ▼


 


 


 せっかくの土曜日は冷や汗に包まれながら過ごす日になりそうだった。


 待ち合わせ場所に着いた時、彼女は既にその場に立っていた。


 


 いつもとは違う真剣な表情を見ていると、何故か不安が私の心に宿った。


 


「あ、こっちこっち」


 


 彼女が私を見つけ、手を振った。そこに先ほどまでの真剣な表情はない。


 だが私の中に漠然と積もった不安は消えることなく、私の心をみしりと締め付けていた。


 


「今日はすぐに帰ると思うの。だからご飯は大丈夫」


 


 快活に笑う彼女があまりに眩しくて、私は目を細める。


 


「わかった。じゃあちょっとそこらへんを歩こうか」


 


 どちらともなく伸ばされた手。ぎゅっと握りしめると、彼女の掌の暖かさが体にしみこんでくる。


 しかし何故だろうか、今日はいつものような高揚感は沸き上がることはなく、何だか焦りにも似た感情が肺辺りからせりあがってきた。


 知らず知らずのうちに彼女の手を強く握りすぎてしまっていたようだ。「痛い!」私は急いで手を離した。


 


「…………」


「…………」


 


 何故か再び手を握る気は起らず。


 私たちは微妙な距離感のまま、あてもなくぶらぶらと歩き続けていた。


 


 行先も、目的地も、帰る場所さえもない。


 まるで私の人生のようだった。


 


 


 ▼


 


 


「私ね、好きな人が出来たんだ」


 


 唐突に、彼女がそう言った。


 


 それは全ての終わり。


 私たちの最後。


 あまりにも呆気ない別れだった。


 


 私は何も言うことが出来ずに、ただ黙り込むことしかできない。


 そんな私を気にすることなく彼女は言葉を続ける。


 


「同じバイト先の先輩なんだけどね、すごい優しいの──」


 


 それから先の言葉は聞こえなかった。


 否、聞きたくなかった。


 


 人間の身体というものは上手く作られているもので、故意的に周りの音に集中することで任意の雑音を頭の中から消し去ることが可能なのだ。


 社会で生きていく上で必須な能力を惜しみなく発揮しながら私は空を見る。


 


 街路樹は既に秋の色が落ちかけており、風が吹くだけで枝についた命があっけなく散っていく。


 心なしか肌寒そうに見える木肌を眺めながら、私はぼんやりと鬱に浸っていた。


 


「だからね、今日は大事な話をしに来たの」


 


 彼女の話が佳境に差し掛かっている。


 次の言葉は、想像するに難くなかった。


 


「私たち、もう会わない方がいいと思う」


「…………うん」


 


 木枯らしが私たちの間を吹き抜ける。


 木の葉がぱらぱらと舞い降りてくる。掃除が大変そうだななんて詮無いことを考えて、私は大きくため息を吐いた。


 ついでに私の想いも吹き飛ばしてくれたらよかったのに。


 


 そんな女々しい言葉は、ありがたいことに頬の筋肉が何とか抑え込んでくれた。


 


 ぺこりとお辞儀をした彼女は、そのまま踵を返し帰り始めた。どうやら私の話は聞いてくれないらしい。


 その後ろ姿を見ながら、私は力なく街路樹に凭れかかる。がさりとした樹皮だけが暖かいと感じた。


 


 空が高いせいか陽光までも寒く思えるほどに冷えた秋のある日。


 私は振られた。


 視界がぼやけて見えるのは、老眼のせいだと信じたい。


 


 だって、そうだろう? 


 こんな年にもなって情けなくも本気で恋をしていただなんて、ありえないじゃないか。


 


 だから、これは勘違いなんだ。


 こんなに痛む心も、膨らんでくる怒りも、それでも忘れられないあの日々も。


 全部、全部、思い違い。


 彼女を責めることなんて私には出来ない。そんな資格は私にはない。


 私が唯一出来ることと言えば、去り行くその背中に向け「今度は私のような馬鹿を誑かすなよ」と精一杯の強がりを小さく吐き捨てるのみだった。


 


 残ったのはじんわりと横たわる痛みと愚かな私だけ。その痛みは消えることなく、現実逃避をもくらむ私の頭を幾度となく現へと引きずり戻す。


 


 ため息を吐く。幸せなんてもう私の中には残っていない。


 


 ここには誰もいなかった。うん、そうだ。


 だからもう帰ろう。


 どこに帰るんだっけ? 


 ああ、家だ。そうだ、そうだ。


 


 痛みを伴う倦怠感に抗うように街路樹から背を離すとその隙を縫うように風が滑り込んでくる。


 


 何とも寒い奴。


 


 そう呟いた私は、ふらふらと酩酊する頭で帰路に就いた。


 


 妻に会いたい。


 


 そんなことを考える私は、やはり卑怯で汚くて屑なのだろう。


 そんなこととうに知っている。


 


 それでも、この痛みを埋めてほしかった。


 エゴでもなんでもいい、今の私には温もりが必要だった。


 


 被害者意識に酔った私は自分の罪を棚に押しやって歩き去る。


 帰るべき場所なんてないはずなのに、その足取りはいやにはっきりとしている。


 


 そんな自分に辟易しながらも、迷いなく歩く。


 


 帰巣本能とでも言うべきか。


 名状しがたきその感情に関しては、案外どうでもよかった。


 


 


 いいのだろうか? 


 


 


 ────いいことにした。


 


 


 ▼


 


 


 愛しいはずの我が家に入ったにも関わらず、私の心は温まるどころか徐々に冷えていく。やけに暗い玄関が静謐の中に漂う不気味さを際立てていた。


 


「ただいまー……」


 


 囁くように帰宅を知らせる。もちろん返事はない。


 リビングに入ると、綺麗にたたまれた洗濯物が見える。そしてその横には、地面に腰掛けてソファに凭れかかるような形で妻が転寝をしていた。その手には畳みかけの私のシャツが握られている。昨晩、彼女との情事の際に来ていたシャツだった。


 どうやら仕事をしている最中に疲れて眠っているらしい。


 申し訳なさで心が埋め尽くされる。元気に形があるのなら、今すぐ私の心を開き取り出して妻に与えたいほどに悲しくなった。分け与えられるほどの元気が私にあるのか否かが問題だったが。


 ソファに座ると、ソファに凭れかかっている妻のうなじが見える。


 彼女のように扇情的でも、瑞々しいわけでもない。


 


 だが、何故かとても愛おしかった。


 これが本当の愛なんだろうかなんてことを思ってみた。


 


 答えなんてどうでもいいんだけれど。


 


「……ん」


 


 そっと妻の髪を梳くと、さすがに目を覚ましたらしく、うすらと目を開けてこちらを見た。


 


「あ、お帰りなさい……」


「ただいま。疲れてるみたいだから、少し休んだらどうだい?」


「……ええ、そうするわ」


 


 起き上がった妻の髪はぼさぼさだ。疲労で髪を梳く力もなかったのだろうか。その目の下にある隈は消えていない。


 リビングを出ていくその背中は丸まってとても疲れ切っているように見えて、思わず視線を外してしまった。


 見ていると、何だか罪悪感で潰されそうだった。


 


 窓から外を眺めると、太陽が黄金色になりながら浅い角度で私を照らしている。気づかぬうちにもう日暮れ時。部屋の隅に差す影に気が付いた。


 億劫だが立ち上がりリビングの電気を点ける。途端に部屋から影が消え去っていく。


 


 机の上に皿が置いてあることに気が付いた。


 私への昼食なのだろうか。


 私はそれを冷蔵庫の中に直した。


 


 腹は減っている。


 だが、食べる気にならなかった。


 


 やはり私は臆病者だ。


 


 


 ▼


 


 


 どうやら妻は本当に疲れていたようで、ベッドにもぐりこんだままずっと眠りこけていた。彼女の寝息に合わせ規則的に動く布団だけが暗闇の中でうっすらと見えた。


 


 私は寝巻に着替えると、リビングで寝るために部屋のドアノブに手をかけた。


 


「…………」


 


 そういえば、妻は一度寝ると何があっても朝まで起きないような女性だった。


 


 私はドアから手を離すと、静かにベッドまで移動する。


 


 ──なんの心変わりだろうか。多分、彼女がいなくなった心の隙間を埋めてほしいと願っているのだろう。


 そんな汚い心で見た妻の寝顔は、泣きたくなってしまうほどに純粋なものだった。


 


「…………」


 


 目を背けたくなるほどの罪悪感が心を蝕む。だが、逃げてはいけない。


 はっきりと前を見て、決断しなければならないのだ。


 


 じっくりと妻の寝顔を見た後、私はベッドに滑り込む。


 妻の寝息がはっきりと聞こえる。なんだか懐かしい気分だった。馬鹿みたいに暖かいベッドだった。


 目を開いて暗闇を睨んでいると、不意に昔のことを思い出してきた。


 


 妻と初めて出会った日。


 初めて妻と逢瀬をした日。


 結婚を申し込んだ日。


 初めて情事を終えた日。


 


 


 走馬灯のように暗闇を流れていく思い出を眺めながら、私は静かに幸せの中へと包まれていく。


 走馬灯の行く末はどこなのか。別に気にもならなかったが、何気なしに壁際を見た。流れ流れた走馬灯のその先。弥終のその向こう。


 


 眩しすぎて何も見えなかったが、その中に確かに誰かの背中が見えた。


 それが誰なのかわからないまま、私の意識は微睡みの泥濘へと落ちていった。


 


 


 ▼


 


 


 人間、拠り所がなくなれば案外簡単に温もりを求めてしまうようだ。


 ここ数日、私はそんなことをずっと考えていた。


 


 ソファに座る私の膝の上には妻の頭がある。


 


 数日前まで頻繁に密通を繰り返していた彼女が突如いなくなったことで、私の帰宅時間はかなり早くなっており、その結果妻と触れ合う時間が増えた。


 増えてしまったと言うべきか、それはさておき。


 


 妻は純粋に私との時間が増えたと喜んでいたが、私はそう愚直に喜ぶわけにはいかない。


 何故なら、私のこの自由時間は不倫という罪がなくなったからあるもので、いわば裏切ることが出来なくなったからこそ始まったものだからだ。


 良心の呵責と自らへの卑下。


 それらに苛まれながらの妻との時間は、正直なところ私にとっての苦痛だった。


 


 私は上手く笑えているだろうか? 


 きちんと妻の目を見て話せているだろうか? 


 


 わからない。


 わからないが、無邪気に私に甘えてくる妻を見るのは、少しばかりだが私の心に癒しを与えてくれた。


 癒しと苦痛を同時に与えてくる存在は、世界広しといえど私の妻くらいしかいないだろう。


 


「えっと、それでこれはここを押して……ねえ、かっこってどうやって打つの?」


「ここを押したら出来るはずだけど……ほら」


「本当だ。ありがとう」


 


 こちらを見上げにっこりと笑う妻の右手にはしっかりとガラケーが握られている。


 


 私がみっともなく振られてから、変わったことがいくつもある。


 挙げていけばきりがないので大幅に省略するが、それでも携帯については説明しなくてはいけないだろう。


 


 あの日から、私は妻に携帯の使い方を教え始めた。


 


 それは、来なくなった連絡帳の隙間を埋めるための行為。


 寂しさを紛らわすために始めた、何気ないことだった。


 


 しかしそんな汚らしい動機で執り始めたこの教鞭だったが、やってみると案外楽しかった。


 機械音痴の妻だったが、どうやら使い方がわからなかっただけであって、基本的なことはわかっているようだった。教えれば教えるほど携帯の使い方がうまくなっていく妻を見るのは、子育てにも似た感覚になれてなかなかに楽しいものだ。


 しかしだからといってやはり慣れは必要なもので、ボタンを弄る妻は未だにタイプに慣れていない様子だった。しかし、この様子なら数日も練習すればすぐに慣れてくるだろう。


 その事実に少し寂しい思いをしながらも、私はこちらを見上げる妻に笑い返した。上手く笑えているかはわからなかった。


 


「はい、チーズ!」


「……え?」


 


 ぱしゃり。


 


 どこか間抜けた音が響く。見ると、妻が私に携帯を向けて笑っていた。どうやら写真を撮られたらしい。


 


「ふふ、綺麗に撮れてるよ」


 


 画面をこちらに突きつけてくる。間抜けな顔をした私が映っている。


 


「本当だ。なら、お返し!」


「あっ、ちょっと、勝手に撮らないでよー」


 


 お返しにと携帯を突きだし写真を撮る。見事にぽかんとびっくりしている妻の写真が撮れた。


 妻は頬を膨らませ怒っているようだったが、すぐに破顔しぎゅっとその頬を私の膝に押し付けた。


 


 リビングに横たわる柔らかな雰囲気。窓から差す、朝だというのにどこか物悲し気な、夕陽のような陽光がひと際優しく幽玄な世界を彩っていた。


 


 


 ──だがわかっている。


 これは上っ面だけの演技であることを。


 私は心の底から笑っていないし、多分妻だってそうなのだろう。


 


 変わったことがいくつもある。


 その中には、泉の源泉のように湧き始めた、妻に対する猜疑心もあった。


 


 本当に妻は私を愛しているのだろうか? 


 もしかすると、私が不倫をしていたことも気づいているのかもしれない。


 そんな詮無い考えがいくつも浮かんできては、私の心を蝕んでいく。


 


 気が付けば、私は妻を信じられなくなっていた。


 


 いくら妻を信じようと心を改めても、まるで鍍金がはがれるみたいにその下から疑いの心が浮き出てくる。


 妻がそんな打算的な人間でないことくらいわかっている。しかし一度持った疑いの心はどうやっても剥がすことはできなかった。


 


 妻を愛したいと思う気持ちと、妻を疑う気持ち。


 まるで二重人格のような毎日に私は嫌気が差していた。


 


「──ねえ」


 


 ふと、妻が私を呼んだ。


 視線を下ろすと、微笑を浮かべながら私の眼をしっかりと見ている彼女が見える。


 


「──大好きだよ」


「……私もだ」


 


 本当に愛しているのか? 


 本当に愛されているのか? 


 


 


 幸いなことに、よくわからなかった。


 


 


 ▼


 


 


 秋の日は鶴瓶落としという言葉はまさしく言い得て妙で、この時期午後六時にでもなったものならすぐに薄闇が辺りを覆い始めていく。


 屹立する高層ビルに別れを済ませた太陽が凄まじいスピードで山肌を撫でながら沈んでいくのを見ながら、私はため息を吐いた。


 仕事は未だに終わりそうにない。募る苛立ちをキーボードにぶつけながら仕事を再開する。


 頭の中に浮かぶのは、未だに熱を持つ彼女との情事、そして痛みが伴うその最後。


 


 情けない話だが、私は未だにあの日のことを忘れられないでいる。


 自らの欲のために始めたはずだったあの関係は、いつの間にか私の中でそこそこ大きな存在になってしまっていたらしい。


 


 自嘲的な笑みを浮かべ再びパソコンの画面に集中する。


 


 不意に頭の隅に、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべた妻が浮かんだ。


 なんてことはないはずの妻の笑み。


 それがこんなに痛い。


 


 私はその痛みを知らんぷりして目を瞑った。


 


 痛みは更に大きくなった。


 


 何故か涙が出て来た。


 


 


 ▼


 


 


 結局仕事が終わったのは九時を越えてからだった。


 いつもなら、この後彼女と会いデートと勤しむところだったが、今はそういう訳にはいかない。


 多分、彼女の隣には今頃、私以外の男性がいるのだろう。彼女はその男と、抱き合っていたりするのだろうか。ホテルに入って、一緒に絡み合っているのだろうか。


 余計な想像を膨らませ軽い憂鬱を味わいながら、私は高い夜空を見上げた。


 ネオンライトと高層ビルに囲まれて、星空なんて見えやしない。重苦しい雲が月を覆い隠していた。


 ふと、一組のカップルとすれ違った。吹き付ける寒さが堪えるのか、少女が隣を歩いている青年のダッフルコートのポケットに自分の手を突っ込んだ。急接近する二人。吐かれた白い息が混ざり合って満足そうに滲んでいく。


 笑いながら青年を見上げる少女。青年も、苦笑ながらも爽やかに笑う。高校生だろうか。寒さで赤くなった鼻の頭に私が失った青春の全てが宿っているような気がしてたまらなかった。その後ろ姿が眩しすぎた。


 いつの間に私はこんなところへ来てしまったのだろうか。


 いつの間に私はこんなに汚れてしまったのだろうか。


 幼いころの私は、不倫を是とするような考え方を持っていただろうか? 


 否、正義の道を走るべきと、将来の自分を諫めていたはずだ。真面目な未来をその胸に描いていたはずだ。


 それがこのざまである。なんと破廉恥な。


 ネオンサインの毒々しい光が私の肌を舐めていく。光の一滴一滴が私の細胞の隙間に入り込んで、内側を穢しているような気がした。そんなことされなくても、既に私は穢れているのだが。


 とんと、すれ違ったサラリーマンの肩にぶつかってしまい、持っていた鞄を落としてしまった。


 安っぽい鞄である。くたびれた、私の夢だったものの成れの果てであった。


 


 もう、死んでもいいかもしれない。


 


 そんな考えが、私の脳裏をよぎる。どこからか響くクラクションの音が私の背中を後押ししているようだった。


 ふと首筋に水滴が落ちた。どうやら雨が降り始めたようだ。良いことはぽつぽつとしか起こらないくせに、悪いことは束になって押し寄せてくる。なんて理不尽な世界なんだろう。


 時雨に打たれながら緩慢な動作で鞄を拾う。


 須臾にして去る雨の冷たさが私の頭から合理さを洗い落としていく。醜い欲望と締め付ける良心の狭間で、私は静かに息をしていた。


 


 よし、死のう。


 


 呆気ないほど簡単に、そんな答えにたどり着いた。


 死ぬのは簡単だ。道路に飛び出すだけで肉片になれる。肉片になったらもうこの痛みを味わう必要もなくなる。


 なんて簡単なんだろう。


 なんて簡単で──残酷なんだろう。


 


 逃げたいだけだなんて、とっくに気が付いている。


 そうだ、そうなんだ。私はただ何処かへ行きたいだけなんだ。妻がいる我が家じゃない何処かへ。


 私の罪が消えてなくなるどこかへ。


 死んだらどうなるのだろうかなんてことは考えない。意図的に考えないようにしていた。


 ただ漠然と、何故かはわからないが、どうせ死んだところで私は妻に対し罪悪感を抱えてしまうのだろうな、なんてことを考えていた。


 


 ふらふらと何かに導かれるように、何かに引きずられるように足を動かす。行き先はガードレールのその向こう。


 もう帰る場所なんてない。ならば、このまま終わってしまえばいい。


 ──やけに静かだった。静謐が辺りに満ちて、私の頭を揺らしていた。


 ふらり、足が一歩前に出る。段差に躓く。ガードレールにわき腹が当たる。


 そのままぐらりと身体が傾いていく。車のヘッドライトが痛いくらいに眩しい。


 


 そしてそのまま私の身体は束の間宙を舞い、車道へと落ちて──


 


 ぴりりり


 


 軽快な音が鳴り響く。連動するように、私のポケットが振動で震えた。


 重力に従っていた私の身体が止まる。無意識のうちにガードレールを掴んでいた。


 上半身だけを車道へ投げ出していた私のつむじの上すれすれを車が走る。けたたましいクラクションが夜を切り裂いた。


 不思議なことにこのクラクションは、先ほどと違い厳しいながらも優しさを含んでいるように思えた。まるで、馬鹿なことをするんじゃないよと我が子を叱る祖母の膝の上のような温かさに満ちていた。


 


 ポケットから携帯を取り出す。落ちて来た水滴がプラスチックの表面を滑り落ちていく。ネオンサインと交じり合って、騒々しい煌めきを生み出していた。


 画面を開くと、ネオンサインよりも毒々しい光が飛び出してくる。


 目を細めながら画面を見ると、新着メールが来ていた。


 もしかして、と頭の隅の私が期待をし始める。


 


 もしかして、彼女からのメールだろうか。好きになった男とやらに振られたから、私に連絡をよこしてきたのだろうか。


 


 そんなバカげた思いが浮かんでは私の心を浮足立たせる。


 


 そっと、震える指でメールの受信ボックスを開いた。


 


 


 


 それは、妻からのメールだった。


 


 


 はっと息を呑んだ。心臓をぎゅっと握られたかのようだった。初めて雨粒が冷たいと思えた。


 


 妻からのメールなど、今までもらったこともなかった。機械音痴の彼女はメールを打つことさえもできなかったのだ。


 最近彼女に携帯の使い方を教えていた。それはただの暇つぶしだったのだが、彼女からすればそうではなかったらしい。


 全てはこのため。私と、遠距離で会話をするため。


 


 メールを開く。いつの間にか力なくその場に座り込んでいた。ガードレールに凭れかかり、力の入らない腕に鞭を打って携帯を持ち上げた。


 


 


 


 


 


 初めてのメエル(伸ばし棒がわかりません、)


 


 


 


 


 


 そんな子供じみた文章が、メールの題名だった。


 その題名からは、伸ばし棒を探すため携帯とにらめっこをしていたであろう妻の姿がありありと想像することが出来た。そのあどけない姿に思わず笑みがこぼれる。


 本文を見ると、そこには携帯の扱いに慣れていないことが丸わかりの文章が並べられていた。


 


 


 


 


 


 初めてのメエルです。何だか緊張してしまいます、


 お仕事終わりましたでしょうか? 今何をしてるんでしょうか。とても気になって、ついメエルをしてしまいました。忙しかったらごめんなさあ。けど、会いたいです。


 安全第一で帰ってくださいね! またけいたいの操作方法教えてください。


 


 追伸:かさ持ってますか? 


 


 


 


 


 


 気づけば雨は上がっていた。地面に広がった水溜まりに映る街灯の光が私のびしょぬれになった鞄を照らしていた。


 ぽたぽた、水滴がしたたり落ちる、小さくも力強い音だけが響いている。


 


 私は泣いていた。


 上を向いた私の頬を流れるこの熱い液体は、確かに雨粒だけではないはずだ。


 溢れる熱い涙は、私の心の中に巣食っていた汚いモノたちを消し去ってしまっていた。


 


 メールを閉じる。壁紙に映った妻がこちらを見ていた。あの時と同じように、満面の笑みだった。


 


 立ち上がると、心地よい頭痛と倦怠感が体を包む。生きているという感触を直に触れながら、私は鞄を拾い上げた。鞄の上に出来ていた小さな水溜まりが流れ落ちる。


 シルクで出来た布のような滑らかさを持つ水滴はそのまま、電柱の根元に生えていた小さな花に落ちていった。街灯の頼りない光の中で輝いた柔らかな翠が水滴を弾いて、きらりと光った。


 


 そういえば、妻と初めて出かけたデートスポットにも、こんな花が咲いていた。


 静かな湖畔の近くにある公園で、ベンチの脚元にそっと咲いていた野花。


 それをそっとつまんだ妻は、ふわりと笑って私を見上げていた。私も彼女を見ていた。野花みたいに強くて、美しい彼女を。


 


 ──家に帰ろう。


 我が家に。愛する妻が待つ私の唯一の家に。


 


 そして、今度の休日には一緒にデートにでも出かけよう。


 年甲斐もなくデートスポットを調べて、彼女が楽しめるように精一杯エスコートしてみよう。


 そしてまた笑いあうんだ、心から。


 


 罪は消えない。私は妻を裏切った。


 その事実は今際の際まで私に付きまとい、そのたびに私を自己嫌悪の渦へと誘い込むのだろう。


 だからこそ、私は今を大切にしなければならない。


 過ぎ去った過去を思い、それを未来へと繋げていく。


 自己満足でもいい。独り善がりでもいい。


 私は私が持っているものを全力で愛するだけだ。


 


 見上げた空は暗く、一条の光も見えてこない。


 それはまるで私の未来のようで、何だか空恐ろしさが心に宿る。


 けれど、大丈夫。どれだけ暗くて、一寸先も見えないような絶望の中でも、私を支え導く変わらないものがある。たった一つの、かけがえのない存在。それが私と共に在る限り、私はどこへだって行けるはずだ。


 


 再び空を見上げる。何もない宵闇。


 しかし先ほどまで空を覆っていた雲は少しだけ晴れており、その中に一つ、小さな星が見えた。


 その星だけを頼りに、私はしっかりとした足取りで帰路に就き始めた。


 

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