悪役令嬢の苦悩
呪いだと、思っていた。
物心ついた時にはその症状は出ていて、どの医者にかかっても原因は分からなかったから。
ライナ・エトーレの生まれつき爛れた右手は六才の頃から痛み出した。
いや、正確にはあの女、マリア・リグレッドと出会ってから。
「位の低いリグレッドのお嬢さんとは仲良くする必要はない。だが、伝統だからな。挨拶だけはしてもらう」
そうお父様に言われて、その女に出会ったのが始まりだった。
亜麻色の様な髪、ラピスラズリのように深く、煌めく青の瞳、そして守られるべく生まれたような華奢な体とおっとりとした顔。
そんな女は大嫌いだった。男に媚びることしかできない弱者。そう見下していた。
「初めまして、マリア様。私はライナ・エトーレ。リグレッド家の従者の家系の女でございます。最も、今は逆転しているようですが?」
元々はリグレッド家の方が位は上だったらしいが、今はエトーレの家の方が富を得ている。いつから逆転したのかはライナの知るところではない。
マリアは嫌味と牽制にも気付かずに答えた。
「はじめまして!ライナ様!これからよろしくお願いしますね!」
彼女は太陽のような笑顔で笑った。
その時だった。初めて右腕が疼いたのは。
「……ッ!」
「ライナ様?お身体の調子でも悪いのでしょうか……?」
「家柄が下の者に心配されるほど落ちぶれてはいないわ……」
だが、痛みは治らない。
「……悪いけれど、失礼するわ」
踵を返す。元々挨拶だけという話だった。
両者の親もこれでお開きだと言うように娘を連れて背を向けて歩いていく。
痛みを紛らわすために寝てしまおうと、父親と別れて自室に戻る時だった。
「ライナ、右手が疼くだろう」
「お爺様……」
ドアの前には、普段は両親と仲違いしている祖父が背をしゃんとさせて自分の事を待っていたように見えた。
「お爺様がいらっしゃるなんて珍しい。何かご用でも?」
祖父は自分から何かを行動を起こすタイプではない。
両親の金勘定を重視する思考について行きたくないのか、ここ数年は別宅にこもっていたくらいだ。
「リグレッドのお嬢さんと会ったな。それで、今叫びたいほどの痛みがお前の右手を襲っている。間違っているかな?」
どうしてそれを……、そう言いかけたライナに祖父が微笑む。
「部屋で話そうか。リグレッド家とエトーレ家の呪いについて」
普段無表情な祖父の目は会話中最後まで優しかった。
不気味に思いながら自室に入り、二人がけの椅子に腰をかける。
隣には祖父。
普段はない距離感にライナは動揺した。
「私が若い頃もそうだったよ。リグレッドのお嬢さんと会うと、いや、言い方を変えよう。彼女に危険が及ぶと右手が疼いた。跡はもう無いがね、お嬢さんは若くして死んでしまったから」
そうして見せてくれた祖父の右手には確かに痣の一つもなかった。
「リグレッド家には頻繁に「聖女」が生まれる」
「聖女?」
「この世界を救う神聖なお方だ。そして、彼女達をあらゆる危険から守るのが我らエトーレ家の役目だ」
「この世界を救うって……世界はこんなに平和だって言うのに?」
そりゃ、魔物は出るし、治安も城下町以外はよく無いと言う噂は聞く。
だが、世界が滅びるなんて聞いたことがない。救うとは、何の話だ。
「何から救うのかは、私も知らない。だけども、聖女が生まれた時、それを守るのが我々の仕事だと言うのは事実だ」
勿論。祖父は続けて言った。
「放棄することもできる」
「そうなのね。では……」
「だが、その場合彼女は死ぬ」
思考が一瞬、止まった気がした。
「聖女はこの世界で最も死に近い。放っておけば、じきに危険にさらされて死ぬだろう」
そうすれば痛みからは解放される。
祖父はそう言った。
「……お爺様は、どうしたの」
絞りきった声は小さかった。
たかが六才の子供に決断するには難しい事柄だった。だって、自分がどうにかしなければ、一人の命が失われるなんて。
祖父は力なく笑った。
「私は彼女に一目惚れしてしまったから。……リグレッドの聖女は短命だ。十六、十七年もすれば自然死する。それまで耐えれるなら放っておきなさい。実際、先祖にはそうした人間もいる。悪いことではないんだよ」
だけどそれは実質一択にしか過ぎない。
だって、痛みがなくなれば彼女は死ぬのだろう?それを自分は「わかってしまう」のだろう?命の灯火が消える瞬間を。そんなの嫌だ。
「……お爺様、私に稽古をつけて頂戴」
祖父はその一言で全てを察したようだった。
「人生を捨てることになるぞ」
「だって私が守らなきゃあの子は近々死んじゃうかもしれないって事でしょ?」
「そうなるな」
「だったら私強くなってあの子を守るわ」
「……本当にいいのか」
「夢見が悪いのは御免なだけよ」
言葉に嘘はなかった。理由なんてそれだけしかなかった。
だってマリアは自分に何の見返りも寄越さない。自分が損をするだけだ。そんなのはわかっている。
だけども、それ以上に怖いのだ。自分が切り捨てたことによって人間一人が死ぬことを自覚するのが。
「剣、魔法、体術。覚えることはたくさんあるぞ」
「舐めないで頂戴。私はライナ・エトーレ。貴方の孫よ。それとも孫の性根まで忘れた?私は頑固なの」
そう啖呵を切ると祖父は嬉しそうに口を歪ませた。
「お前は私より強くなるよ」
それから、すぐに稽古が始まった。
剣術、体術、魔法。魔法の才能は無いらしく、火属性の癖に火花を散らすことしか出来なかったけれど、剣術と体術の才能はあったらしい。
朝から晩まで稽古に励むライナに両親はいい顔をしなかったけれど、ライナはそれどころではなかった。
早く強くならなければ。たまに疼く右手が焦らせる。
マリアが生きている証。そして、危険が死や危険が迫っている証。
早く強くなって彼女を守らなければ。
幸い、ライナは七歳にして、数ヶ月で小さな魔物くらいならば倒せるように成長していた。
「ひっ……」
最初に助けに行ったのは、マリアが平和にお花摘みだとか何だとか言って森に行った時だと思う。
小さな動物に襲われたマリアは怯えながら「助けて」と呟いた。
それが初めだった。
深くかぶったマントのフードに祖父から譲り受けた真剣。それを魔物に大きく振りかぶった。
初めての殺しだった。
血まみれになった辺りを見て、安心のため息を吐く。
マリアに怪我はない。
そして自分にはーー……少しの切り傷が。
爪でやられたんだろうな。人ごとのようにそう思っただけのライナはそのまま花畑から離れようとする。
「待って!」
マリアの幼い声が森に響いた。
「ありがとう……ございます……助けてくれて……」
「恨み言を言われる事はやっても礼を言われる事はやってない。動物を一匹、殺した」
きっと直ぐに慣れるだろう。
だからこの気持ちを忘れたくない。
自分がマリアを守らなければいけないように、動物だって一匹一匹事情があるのだ。
「でも貴方はわたしを助けてくれました」
そうだったとしてもやった事は変わらない。
今更の罪悪感に苛まれているとマリアは私、いや、「僕」を見つめた。
「それには、たとえ貴方が罪悪感に苛まれていようとも、感謝させてください」
ライナはフードの下の目を丸くした。
流石聖女には隠し事は出来ないな、ライナは息だけで笑うと座り込んだままのマリアに手を伸ばした。
「お嬢さん、手を」
一緒に町に帰りましょう、そうして差し出された手にマリアは頬を染めて手を重ねた。
「は、はい……」
そうして町までマリアを送り出すと、彼女は意を決したように言った。
「お、お名前を聞いてもよろしいでしょうか……?!」
「……」
別に名乗る必要はないと思っている。自分は「聖女を守るシステム」だ。
それに名詞はいらない。だってやる事はどちらにせよ変わらないのだし。それより、変に名乗って懐かれるのが厄介だ。
「……いつかね」
適当に躱した後、マリアを街に置いてから街の外へ離れる。そこでマントを解き、一息ついた。
「……これで良かったのかしら」
仕方がないとはいえ、動物を殺した。
初めてのことだった。今更手が震える。
「……大丈夫……大丈夫……私は悪くない……」
動物は通りかかっただけかもしれない。危害は加えるつもりはなかったのかもしれない。
それを自分は殺した。
でも、アレはマリアのせいだ。マリアがあんなところにいたから。
「いいえ、責任転嫁よ……。殺す選択をしたのは私……」
それが逃げるより一番早く解決できると思ったから。
覚悟を、決めなければならない。
これからきっと、こういうことが増えるだろう。
マリアを守るために、誰かを、何かを殺したりすることがあるだろう。それを覚悟しなければいけない。
「これから……頑張らなくちゃ……」
私は震えた手で剣の柄を握り直した。
そうしなければ一つの命が消えてしまうのだから。
だけど、一つの命を守るために一つの命を殺すのは矛盾しているのではないだろうか。
誰も死ぬところを見たくないから始めたことなのに。
そんなことを考えながら汗で濡れた手を私はマントの裾で拭った。
のんびり更新です。ライナとマリアの恋愛を生暖かく見守ってください。