三.忌避すべき白の傀儡
瞬間、罪王が動いた。
わずかに身を沈め、そこからほぼ無音で跳躍。天井の開口部に手を掛け、一気に体を引きあげる。そうして、魔人は一瞬で外に飛び出していった。
「ざ……」名前を呼ぶ間もなかった。
伸ばし掛けた手を彷徨わせ、天潤は呆然として天井を見つめる。
そこに、玄玄が飛び込んできた。
「おい、天潤! ザイの奴は――!」
「天井から外に出ました。玄玄さん、白翅が出たのは確かなのですか?」
「ああ、違いねぇ。三体も出やがった! この目で見たぞ! 早く始末しねぇと――!」
玄玄を肩に留まらせて、天潤は温室を出る。
外に出た途端、街の喧噪が聞こえてきた。先ほどまでとは違い、そこには怒号や悲鳴、銃声といった剣呑な音が入り交じっている。
そして、時折響く『ぽーん』という奇妙な異音。
美しい――しかし寒気のする音に、天潤は呪帯の下で眉を寄せる。
「白翅の声……近い……!」
「ああ、すぐ近くだ! ザイの庭に出てくるとは良い度胸だぜ!」
「案内をお願いしても?」
「構わねぇが……天潤、白翅と戦ったことはあんのか?」
「一度だけ。師匠とともにですが――」
天潤は廃ホテルの玄関を飛びだし、殺風景な胡洞を駆け抜けた。
「こっちだ! 来い!」
玄玄が肩から飛び立ち、先導する。
それを追って走りながら、天潤はかつて戦った白翅を思い出していた。
それは星覧山落陽洞にいた頃――突然現われた。
「白翅は、狂仙の手勢……。自我はなく、ただ狂仙の意のままに動く人形。こんな街中に現われたという事は、その目的は恐らく――」
「大方、攫いに来たんだろうな……虫酸が走るぜ」
唸る玄玄の声を耳元で聞きながら、天潤は目の前の壁に手をかざす。
道文字が煌めき、不可視の入り口を天潤の前に開いた。それが完全に開ききる前に天潤は歩みを進め、壁の向こう側へ――幽龍城砦へと入る。
玄玄に導かれたそこは、城砦の中でも比較的大きな通りのようだった。
建物の隙間、蜘蛛の巣のように張り巡らされた洗濯紐の向こうに青空が見えている。その下で、人々は狂騒状態に陥っていた。
「誰か捕まったぞ!」
「龍哭街の方士を呼べ! 早く!」
怒号が飛び交う中、天潤は人の流れに逆らって駆ける。
碁盤のそばで身を縮める老人、商品を放り出して逃げる花売り、飾り窓の向こうに身を隠す艶やかな女――彼らの視線は皆、頭上に向けられていた。
白翅は、まさにそこにいた。
鋭い爪を建物の側面に食い込ませ、じっと眼下の景色を覗き込んできている。
全身に白いヴェールを被っていて、形ははっきりしない。
ヴェールを纏った手足は異常に細長く、腕に至っては四本あるのが見てとれた。
丸い頭部はつるりとしていて、陶器のような質感をしている。白く滑らかなその中心には、大量の眼球がびっしりと埋め込まれていた。
「罪王様はどこに……?」
駆けながら天潤は呟き、七星剣を抜き払った。
建物にしがみついたまま、白翅は滑らかな頭部をあちこちに向けている。その腕の一本に、眼鏡を掛けた若い女がとらわれているのが見えた。
「返してっ、返してっ!」
背後から響く泣き声に天潤は振り返る。逃げ惑う人々の流れに逆らうようにして、エプロンを着けた老婆が白翅の元へとよろめきながら駆けてくるのが見えた。
老婆は足元に転がる石をとり、やたらめったらに白翅めがけて投げつけた。
「狂仙め! 紅蘭を離して! 孫を連れ去らないで!」
「駄目ッ、おばあちゃん! 逃げて!」
白翅の掌中で、眼鏡の女が青ざめた顔で叫ぶ。
しかし必死の制止も空しく、白翅の頭部に石の一つが当たった。
ぽーんと奇妙な声が一つ。白翅の体がわずかに傾ぎ、ゆっくりと腕の一つが伸ばてくる。
瞬間、天潤は両足に気を込めた。
霊眼に回している分の気が一時的に不足し、視界が揺らぐ。しかし構わず、地を蹴った。
一瞬で、天潤は老婆と白翅の腕との間に割り込む。
「せぇえ――ッ!」
足に回していた気を、腕を通して七星剣へ。
青い燐光を放つその刃を思い切り跳ね上げ、白翅の腕へと叩き込む。
硬い感触が腕に伝わってきた。七星剣は、強靭な陶器のような質感をした白翅の腕に傷を負わせることはできなかった。
しかし、その方向を逸らすことはできた。
「あ、ああ……」
白翅の腕が弾かれるのを見た途端、背後で老婆がへたりこむ気配があった。
「――玄玄さん、おばあさんをどうか」
「おう、梅花ばあさんは顔見知りだ! この俺にどんと任せとけ!」
玄玄が、天潤の肩から老婆の元へと移る。
彼が老婆をなだめているのを聞きつつ、天潤は七星剣の刃に軽く掌を滑らせた。
わずかに裂けた皮膚から血が滴り、刃に赤い線を引く。
「これでいい――」
白翅を初めとした狂仙は、穢れを嫌う。
故に彼らと戦う時はこうして武器を汚しておくことが肝要となる――師の教えを思い出しつつ、天潤は白翅に霊眼を向ける。
「せめて、誰か方士が来るまで時間を……!」
背筋に寒気が走った。
白翅は、強烈な視線を天潤に向けていた。
恐らく肉眼だけでなく、霊眼でも天潤を見ているのだ。
眼球しか存在しない白翅の顔に、表情など存在しない。けれども天潤は白翅のつるりとした頭部に、これまでにない奇妙な嫌悪感を感じた。
「ああっ――!」
白翅の手の力が緩んだのか、その指先から眼鏡の女が零れ落ちる。
天潤は息を飲み、とっさに落下する女へと手を突き出した。
「【風】――自在透流!」
眼鏡の女の元に風が巻き起こされる。落下の衝撃をこれで和らげることができただろう。
しかし、天潤にはそれを確認することもできなかった。
ぐらぐらと揺れる白黒の視界の向こうで、白翅が動く。ヴェールを不気味に揺らしながら、一気に二本の腕が天潤へと伸びてきた。
方術を使ったせいで、霊眼の視界は揺らいでいる。
しかし、天潤は動じない。
ただ呼吸を落ち着け、常人よりも遥かに優れた視覚以外の感覚を研ぎ澄ませる。
耳で白翅の腕が立てる軋みを――鼻で白翅の纏う独特の甘いにおいを――そして、肌で迫り来る空気の揺らぎを、捉える。
迷いなく踏み込んだ。七星剣を鞭のように鋭く繰り出せば、硬い感触があった。
金属を打つような甲高い音が立て続けに響く。
痛打を与えた感触はない。しかし、たった数撃で白翅は腕を引っ込めた。
その頃には、天潤の視界は回復していた。
色のない視界に移る白翅は、じっと天潤を見つめたまま動かない。
やはり血の穢れを避けているのか、白翅の腕の動きは悪かった。元々、狂仙の人形だ。多くの白翅は自立した思考ができないせいで、単調な行動が多いという。
――とはいえ、あまり油断はできない。
白翅は上半身を建物の側面から引きはがし、ゆらりと二本の手を広げた。
また腕を伸ばしてくるつもりか。天潤はとっさに七星剣の切っ先を白翅へと向ける。
しかし、白翅の手は天へと伸ばされた。
一体、なにをするつもりなのか――天潤の疑問は、すぐに氷解した。
霊眼に、白翅の手が奇妙な光を帯びるのが映った。同時に、白翅の手の周囲に真夏の陽炎のような奇妙な揺らぎが生じる。
「白翅なのに歪方術を……!」
息を飲む天潤の肩を、甘ったるいにおいを乗せた生ぬるい風が撫でた。
――ぽぉ――……ん。白翅の声が不吉に響く。
狂仙は腐っても仙人の一類――故に、方術に似た歪方術という術を用いる。それは形こそ方術に似ているが、世の法則を歪める狂ったものだ。
そして狂仙術は、謎が多い。
故に、一度発動すればなにが起きるかわからない。