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DOKIDOKI

作者: 香

運命が偶然を装って私に囁く。何かが始まる、そんな気がする・・・ドキドキ。


「美都、人が前通るよ、少し引っ込みな」

 お弁当を食べるために広げていたランチマットと、自分の足を無理矢理折りたたんだ。今日は私、小山美都の所属している藤山女子高校(通称藤コー)バスケ部の練習試合で、隣の市にある沢月高校(通称沢コー)に来ている。近隣の高校が集まっての合同練習試合だ。午前の練習試合が終わって、体育館の二階の狭い通路で一列に座ってチームメイトとランチタイム・・・だったってとこ。私たちの前を沢コーの男バスジャージ集団が通っていく。その男子集団をまじまじと見上げた。女子高に通っていると、練習試合でもない限り同年代の男子にはお目にかかれない。

やっぱり男子って大きい。私の二倍くらいあるんじゃない?二倍っていうと、三メートル?巨人じゃん。ってなことを考えながら過ぎ行くジャージの足元についてる名前のタグを見ていたら、「纜繕」という全くもって私の学力じゃ読めない名前が近づいてきた。

そして見上げた。その人を、その目を。一瞬、目が合った。澄んだ海のように深い、その瞳の色。危なく吸い込まれてしまうところだった。そのくらいきれいで引力のある瞳だった。その人は瞬き一つして通り過ぎた。

世界がぐるぐる回る。何?何なの?心臓にものすごいスピードの塊がぶつかっていったような感じ。私、どうしちゃったんだろう。ドキドキドキドキ、心臓が変な動きをしている。目で追うと、その人はもうどこへやら。

「・・・と、美都っ、おいっ」

「ギャアッ」

「ぅおってやんでぃばろちきしょうめぃ」

 驚いて声をあげたら、クラスメートの鈴木春奈(通称ハル)が、江戸っ子なんだか田舎の族なのかよくわからない言葉を発した。

「ハルー、驚かさないでよ」

「驚かされたのはこっち。もうシュート練習始まっているんだから弁当しまいなよ」

「うん・・・」

「どうしたのよ?」

「沢コーの男バスってさ、」

「沢コー?あっちでシュート練習してるよ」

「あの人たちって、ジャージ、みんな一緒?」

「バスケ部で共通のやつでしょ、外で練習してたバレー部は違うジャージだったし」

 ハルは手すりに身を乗り出して、今にも飛び降りそうな格好で私を見下ろしている。

「さっきね、苗字?名前?どっちだかわかんないけど、難しい漢字の人がいたの。あそこにいる人たちの中にはいない、みたいだけど」

 どう説明していいかわからずに答えた。

「難しい字ってどんな?」

「糸偏に、えーっと、巨人の巨みたいなのと、見るっていう漢字が合体したヤツと・・・、」

「はあぁ?そんな漢字あるの?本当に日本人?中国人じゃないの?」

「違うよ、絶対日本人。どっちかっていうと西洋系に分類されると思う」

「美都、ハル、早く降りてきな!」

 チームメイトが呼んでる。午後イチで試合だ。しかも沢コーと!

「中国人だったら留学生かな」

「だから違うよ、ハル!」

 ウオーミングアップを終え、藤コーVS沢コーの試合開始。沢コー女子とは、二カ月前の地区大会で三点差で負けて準決勝に出られなかったというアイタタタな因縁があって、勝手にライバル心むき出しの炎メラメラモード。試合は白熱。まるで公式試合並み。

 でも、でも。私はどうしたって試合コートと網で仕切られた向かい側のコートが、気になって気になって気になって、仕方なかった。強い力で引き寄せられるみたいに、藤コーを応援していても、気付くと向かい側のコートを見ている自分に気付く。さっきのでっかい男の子がコートに出てる、から。多分。だってその子ばっかり目で追っちゃう。

あ、もう少し、うわーすっごい、あのディフェンスかわした・・・あっやった、入った!聞こえてくる大きな歓声。「いいぞいいぞランゼンナイスシュート」の連続コール。あの漢字、ランゼンって読むんだ。苗字かな、名前かな。響きは何となく異国風。

「何ぼーっとしてんの、タイムアウトでたよ」

 マネージャーに肩を叩かれ、急激に我に返った。いかんいかん、試合中。

「今日の美都、変だったよ?」

 沢コーからの帰り道、混みあった電車の中。チームは駅で解散。ああお腹すいた。

「あれと関係あるの?あの、何か言ってたじゃん・・・中国人がどうのって」

「だーかーらー中国の人じゃないんだってば。あ、でも漢字の読み方はわかったよ。ランゼン、って聞こえた」

「へー、やっぱ外人?」

「ハル見なかった?沢コーの背の高い男子」

 私が両腕を伸ばして長さを表そうとすると、

「男はみんな高いって」

 ハルはチラリと横目で私を見た。

「お弁当を食べてた時だよう。前通ったじゃん、集団がさあ」

「そうだっけ?もー私が食べ物を前にすると悟りを開いちゃうって知ってるでしょ?」

 試しにチョコレートをハルの前に差し出してみた。よだれがたれた・・・何も言わないのに私の手から勝手に奪って・・・食べた!

「おいしー、やっぱチョコは明治に限るわ」

「本当に無心になるんだねーハルは」

「だから言ったでしょ?で、何だっけ、」

「だから・・・だからなんだろ」

 そういえばその人がどうかしたんだっけ?話してもいないのに。

「さーてーはー惚れたなー」

「よくわかんない。惚れたの?私」

「惚れた惚れたっ。惚れた腫れたのケンカはお江戸の花でぃ」

「何?何が江戸の鼻なの?」

「てやんでぃべらちくしょー」

 ハルが狭い空間でドジョウすくいを始めちゃって、私は参加した方がいいのか悪いのかわからず、とりあえず手拍子、打ってみた。

「ハル、もう駅だよ、下りようよ」

「うん、下りよう。で何の話だっけ。うわーっドア閉まるなー」


 そして次の日。

「ハルー!」

「なんでぃっ」

 私たち、同じクラス。でも、大声で呼び合う。しかも席も隣同士。

「やっぱり忘れらんない、あの人、昨日の人」

「え?誰そーれオーソーレミーヨー」

「ほら、あの難しい人」

「ランドセルさんね。アメリカ系だっけ?」

「違うよ、ランゼンさん」

「おっ今日もきれいだねっ。活きのいいの入ってるよっ」

 クラスメートは、そりゃあ、いつものことだと思って気にも留めないさ。ハルのせいで机も椅子もガタガタいってるさ。お菓子の袋やジュースが飛び散ってるさ。

「でね、」

 私は慎重に、声のトーンを下げた。

「やっぱり私ね、もう一度言うけどね、忘れられないの」

「沢コーなのは確かなのね?」

 ハルの髪がゆっくりと揺れる。私の憧れの長い黒髪。色の薄い、猫っ毛の私とは正反対。しかもハルってば、ちょっと変だけどかなりの美人。雪みたいに肌白いしモデル体型だし、目はおっきくて二重でまつ毛はマスカラいらず。だから私は時々見とれちゃうんだ。

「ハルってきれい」

「キャッはづかちい」

 ハルはぺシ、と私の肩を軽く叩いた。その反動(?)で、なぜかハルがブリッジをするようにのけぞってそのまま床に転がった。ハルったら、パンツは白ね。

「なのになんで彼氏いないの?」

「できんのだよ、キミィ」

 ハルはうんしょと起き上がりながら言った。

「ヘーエ。世間のヤローどもはどこを見てほっつき歩いてらっしゃるのかしらね」

「ありがとう、ありがとう、友よ!」

 ハルは私の肩をガシっとつかみ、前後左右に揺すぶった。でももう慣れっこな私は普通に続ける。

「イヤイヤ、それでね、さっきのことなんだけど、どうしたらいいかな、私」

「何が?」

「もーランゼンさんのことだよ。彼、すっごいバスケうまいの。顔も・・・うーんと、千代の富士に似ていたなあ。細長くってね、髪の毛なんて風もないのになびいちゃってね」

「千代の富士って、いつの時代の力士よ。現役時代を知っている人の方が少ないわよ。しかも力士で細長くて風もないのに髪の毛がなびくってどういう人よ」

「学校違うのにどうしたらいいかなあ」

「うーん、よしっ、ここは私が一肌脱ぐぞい」

「あー・・・服、脱がなくていいから」

ハルが沢コーに偵察に行っているから、私は一人きりでの帰宅と相成りました。

もうすぐ十二月。すでにコート、マフラー、手袋、耳あて着用の私。冬は苦手。空はどんより曇り空が増えるし、風は冷たくなるし、植物はみんな茶色になっちゃうし。ほら、もうこんなに日が短くなった。

夕日が沈んだ後の、微かなダークオレンジの余韻が消えるより早く、空を上質なビロードが覆ってゆく。吐く息が白い。

あ、まだ月になったばっかりのお月様だ。細い細い三日月だ。ランゼンさんに似てる。忘れられないあの瞳。手の届かないお月様みたいに、高級な感じがした。どんな人なんだろう。でも、どんな人でもいいや。

 道端の石ころを蹴ったら、あることに気がついた。それって結構重要なこと。つまり・・・ランゼンさんがハルに惚れちゃったらどうしよう、ってこと。あわわわわ。大変大変大変。  

私は急いでもどうにもならないのに、あたふたしながら道を急いだ。


「おはよー、美都っ?うわっなになになに」

 私は教室に入ってきたばかりのハルをひきずって屋上へつれていった。屋上は北風がビュウビュウ吹いていて、容赦なくスカートと髪の毛を巻き上げた。

「うわぁさむぅ。何なのよぉ」

「昨日、どーだった?」

「きょ、教室でもいいじゃん」

 ハルは寒さのあまり歯がかみ合ってない。私は寒さよりももっと別のものにせかされて、言葉を放った。

「会えた?」

「会えた会えた。ふゅえ~」

「ハルはどう思った?」

「あ、あたひ?千代の富士に似ているかどうかはわからなかったけどさ、なかなかかっこよかったよよよよ」

「・・・やっぱりーうわーん」

 やっぱりカップル成立だあぁ~。そんな急に言われても~。

「何よ~も~わけわかんないよ美都~」

ハルが私の腕をぐわっとつかんで、屋上の入り口近くの給水塔の裏っかわにつれていった。座って身をかがめると無風状態になった。目の前も背中も、コンクリートのねずみ色。

「どうして泣くの」

「カクカクシカジカ」

「なんだ、そんなこと心配してたの。私のタイプじゃないから安心してよ」

 ハルがにっと真っ白な歯を出して笑った。なんて力強い笑顔。

「ハルのタイプって?」

「まず、力こぶができないとダメ!身長は百九十センチで体重は八十キロ。金髪で目がでかくて鼻が高くて英語ができて名前は譲二」

「アメリカ人?」

「日本人よぉ、もおやだなあ美都は」

「じゃあ安心♪ところで、さっきの続き」

「美都はゲンキンなんだからー。うーんとね、実はあっちが急いでてゆっくり話聞けなかったの。ごめんね」

「うううん、いいのいいの」

「だから好きな女の子のタイプだけ聞いてきた」

「ぅわあお。素敵!」

「ロングヘアーの子だって」

 ん?ん?ハル何か言ったかなア。風が強いから聞き間違えたかなア。今日のお昼ご飯は何にしようかなア。

「コラコラ現実逃避しないの」

 ハルがよしよしって頭を撫でてくれるけど、髪の毛は伸びない。私、髪の毛短い。バリバリのショートカット。イコールランゼンさんのタイプと正反対じゃん。

「でもさあ、イマドキ長髪がタイプって古風だよねえ。ま、見た目じゃないって」

「いや、ハル、見た目は大事よ!」

 私は立ち上がって握りこぶしで空を、もといコンクリートをあおいだ。

 そして早速その日の放課後。歯医者ってことで部活を早退し、ある所へ寄ってから沢コーへ。思い立ったら吉日!時間はちょうど七時。そろそろランゼンさんが部活を終えて出てくる頃♪何て話しかけよっかな。おっ、男バスっぽい集団が出てきた出てきた。んーと・・あっ、発見!

私はひときわ目立つ長身のあとを、長い髪をなびかせて追いかけた。

「ランゼンさん」

 かけちゃったかけちゃった声かけちゃった。キャー振り向いたーっ。

「何」

 ランゼンさんは低い声でそっけなく言った。私を上から下までいぶかしげに見つめてる。かっこいー見てる見てるーっキャー。

「何か用」

「ハイっ」

 うわーやっぱりいい男さんだー。顔ちっちゃいしすっと鼻筋が通ってるー。それでもって、やっぱりやっぱり目がきれい。

「で、何」

 ランゼンさんはうざったそうに(その感じもうっとり)もう一度言った。

「これからどこに行くんですか?」

 私がそう言うと、ランゼンさんは少しの間黙った。

「ランゼンさん?」

 変だと思った私が声をかけると、ランゼンさんははっと我に返って、トゲトゲしい口調になった。

「あのな、いきなりなんだよ。ストーカー?」

「はいっ」

 ランゼンさんはくるっときびすを返し、スタスタ歩き出した。私は呆然と立ちすくんだ。私の横を、何人もの学生が通り過ぎていく。体が、急に熱を失っていくのを感じた。

 何か変なこと言っちゃったかな。怒らせちゃったかな。でも何で?私、ロングヘアーだよ?もっと長い方がよかった?って、黒髪を手でひっぱった。だって、これより長いのは予算オーバーだったんだもん。

 ランゼンさんが遠ざかっていく。このままになってしまうのは嫌だ。私は駆け出した。追いかけなくちゃ、どこまででも!

「待って、待って!」

 私は、自分に出せる全てのパワーを使って走った。血管が切れてしまうほどの血の巡り。いきなり走り出したことに驚いて苦しくなる肺。行かないで、やっと見つけたのに、偶然じゃないのに、絶対。だからお願い。行かないで、その足を止めて、私の方を見て、私の話を聞いて!

「何なんだよ、一体」

 止まってくれた。神様、アリガトウ!

「さっきの答え!」

「バイト!」

 ただでさえうるさいと言われる私の声の、何倍もの声量でランゼンさんは言った。ポケットに手をつっこんだままで、白い息をまきちらしながら。通りを行く人がチラチラと見ているけど、そんなの、気にならない。

「どこ?どこでバイトしているんですかっ」

「何でそんなこと教えなけりゃいけないんだよ。しかもお前ストーカーだろ?余計怖い」

「あ、私の名前は小山美都ですっ」

「ハア?誰が自己紹介しろっつったんだよ」

「え?だって、」

「とにかく、俺はさっきも言った通りこれからバイトだから急いでいるんだよ。だからストーカーの相手はしてらんないの。わかるか?じゃあな、気をつけて帰れよ」

 ランゼンさんは一気にそれだけ言うと、早足で歩き出した。もちろん、私はそのあとをこっそりつけた。だって、この恋は絶対逃せない。逃すわけにはいかない。本能がそう言ってる。

 

 ランゼンさんのバイト先は沢コーから歩いて十五分の、見るからに個人経営とわかる小さな本屋だった。店番をしていた店長らしきハゲ丸さん(くまのプーさん似)に挨拶し、店の奥に入って「木戸書店」とプリントしてあるエプロンをつけて出てきた。エプロン姿も素敵。向かいの家の植え込みに体を隠し、垣根に穴を開けてランゼンさんを観察した。

 黙々と単行本や文庫や雑誌を棚や引き出しからひっぱりだして整理したり積み重ねたり揃えたりしている。本屋ってイメージじゃなかったけど案外マッチしてるかも。あ、ずるい、お客さんに笑いかけてる。何やっても爽やかなんだな。

日もとっぷり暮れて夜の十時。ランゼンさんがバイトを終えて店を出るのを目で追ってから、追いかけたい気持ちをぐっとこらえて、シャッターを下ろし始めたハゲ丸店長の横に立った。

「はい?何か?」

「バイト募集してませんか?」

「あいにくこんな小さな店だから、これ以上人を雇える余裕はないんだ」

 ハゲ丸店長はすまなそうに微笑んだ。店内からは蛍の光が聞こえてくる。

「働かせて下さい、どうしても。明日から!」

「いや、あの、だからね、」

「いえいえお気になさらずに、いーんです、お給料なんて!」

「ええっ・・・じゃあまあそういうことなら・・・いいのかい本当に」

「じゃあ働かせてくれるんですか?」

「そんなに言うなら・・・」

「じゃあ明日来ますねっ」

 たったったたた。たたたんたん。

 足元軽い。心が軽い。人もまばらな帰り道。体があったかい。心があったかい。明日がうんと、楽しみだ。


「ププッ、へえ、ププッ、よ、よかったね」

 学校に行ってすぐさま事情を話すと、ハルはグフグフ笑い出した。クスクスじゃないところがハルらしい。でも、同じ状況だったら絶対ハルだって同じことするよ!

「ヅラは思いつかなかったなー。ヅラだって・・・グフフフフ」

「地道に強力育毛剤使った方がよかったかなあ?私だって迷ったんだよ?」

「そういう問題じゃないっつうの。育毛剤は伸ばす薬じゃないっつうの、増やすの!」

 私は横を向いた。昨日の日付のままの黒板。石油ストーブの匂い。開け放たれたドア。

「でもさ、美都。こっちで放課後に部活やって、沢コーの方まで行ってボランティアバイト?かなり大変じゃない?体力持つ?それに、もうすぐ期末試験あるよ?」

「大丈夫、愛は勝つ」

「古い・・・」

 ハルは口を半開きにしたまま私の顔を見た。

「そんなに驚かなくってもいいじゃん」

「いや、ちょっと瞬間的に顎が外れた」

「もー医者に行って来た方がいいよ?顎関節症ってはやってるらしーし」

「うん、行ってくるよ。で、何科?」

「顎科?」

「明日にでも顎科に行くよ。でも、明日からずっと美都と帰り道逆だね。寂しいな」

「大丈夫、心はいつも一緒だから」

 ハルの肩に手を置くと、ハルも私の肩に手を置く。そして何となくコサックダンス。

 淡い冬の光の中、きれいなハルが微笑む。きれいなものって大好き。透明なもの、純粋なもの。そんな宝物を見つけるのが私は得意。だからきっと、私の選択は間違っていない。この機会を失ったら、もう一生やってこない流星みたいな出会い。それが、今なんだ。

「本当に来たんだねえ。じゃあ早速だけど仕事、教えるから」

 はりきって木戸書店のエプロンをつけて、店長の後ろをくっついていく。

「紹介するね。今日から新しく働いてもらう、」

「小山美都です」

 キャーッもう来ていたのねランゼンさん。すっごく驚いた顔して、私を指差したまま止まってる。そりゃあ昨日の今日だもんね。

「ラ、ランゼン君?どうしたんだい?」

「店長こいつはっ、どうしてお前がここに、」

「知り合い?だったら早く言ってくれたらいいのに。水臭いなー」

「そーなんですー、えへへへ」

「違いますよ店長、こいつはモガモガ」

 私はすばやくランゼンさんの後ろに回り込み、精一杯背伸びをして口をふさいだ。

「あの、ランゼンさん今日あまり喋るなって医者から言われてまして」

「そうなの?風邪?小山さんも、本屋は乾燥しているからこまめに水分補給してね」

 店長はそう言うと、ランゼンさんにあとを任せてレジに戻っていった。

「モガモガモガ、このやろっ、離せっ」

「店長に不安を与えるようなことを言わないであげて下さい。彼も悩んでいるんです・・・」

「何がだっ。あーもー本当にお前は・・・」

 がっくりと肩を落として、その場によろよろと座り込んだ。

「泣くほど嬉しいんですか?」

「違うわボケ」

「ボケって言った・・・」

「本当のことだろ。嘘泣きすんなっ」

 あんまり冗談通じないみたい。

「お二人さーん、早く仕事始めてー」

「「はーい」」

 二人同時に顔を見合わせた。

「真似すんなっ」

 恋とは難しいものね。でも楽しーっ嬉しーっ。ウヒヒーッ。

「気持ち悪い笑い方すんなっ」

 み、見られた・・・。しかも気持ち悪いって言われた・・・。

「うわっ、雑誌破くな、もっとこうだよこう、下から腕を回して安定させて・・・あーもう」

 アルバイト雑誌の束をラックに入れようとしたら、すみっこを持ったせいでビリっといってしまった。ランゼンさんはブツブツ言いながらもうまくごまかしてくれた。見た目とは違う荒っぽい口調。でも、優しいんだね。

「次っ、ぼーっとしない」

 店の隅に山のように積まれた明日発売の雑誌たち。朝は店長一人だから、今のうちに並べておくんだ。ふむふむ。

「週刊誌は外のラック、バイト関係はその隣。経済関係はそっちでファッション誌は下」

「身長いくつですか?」

「一八八」

 ランゼンさんは私の方を見ずに、返品する雑誌をてきぱきと紐で縛り新しい雑誌をきれいに並べていく。閉店間際で人もまばらだから、今が一番の勝負時らしい。

「すごーい、私とちょうど三十センチ違う。定規一つ分」

 ランゼンさんが腰を上げて私を見た。バイトの合間に二人だけの秘密のおしゃべり。これが理想だったのー。

「仕事中だぞ?遊びに来てんじゃねーんだよ。ふざけてんなら帰れ」

 私はちょっとムッとして黙った。

「ったくう。なんで店長はこんなちんちくりんを採用したんだ」

 雑誌の並べ替えを再開したランゼンさんは、なんだか遠くの存在に逆戻りしたみたいだ。

「突っ立ってないで手伝え」

 ちょっとロンリーな気分になって、ランゼンさんがするとすごく小さく見えるエプロンを黙って見ていた私に、ランゼンさんはまだ紐を解いていない雑誌を手渡した。その時、言葉は冷たいけどバイトの一員だと見てくれている気がして嬉しかった。

「何て呼んだらいいですか?あ、名前なんていうの?」

「達郎様」

「達郎君かあ・・・」

「オイ、お前いくつだ」

「十七だけど」

「ちっ、同じ歳か」

「そこ悔しがるところじゃないじゃん。達郎君、ハサミ貸して」

「おい、まだ俺は君付けを認めてないぞ。しかもはさみって、さっき雑誌を渡してからもう十分以上たってるぞ、何やってんだよもー」

 左ポケットからハサミを取り出して、私の手に乗せた。おっきい手。バスケやってるのにきれいな手。突き指とかしないのかな?

「オイ、また固まってるぞ。早く切れ、そして並べろ。俺まで帰れなくなるだろ」

 おそろいのエプロン。達郎君の大きな手と靴。本屋の軒先。目線をあげると、照明に反射して光る店長のはげ頭。・・・幸せ。

「キヒヒヒヒヒ」

「うわっ危ねえヤツ」

「ハイお二人さん、今日はもうそのへんでいいよ。あとはシャッター下ろすだけだから」

 私が返事をし終わる前に、達郎君は秒速で店を出て行った。そして闇にまぎれて消えた。一緒に帰ろうと思ってたのにぃ。

「ハハハ、いつもながらに早いなあ。でもね、ランゼン君があんなに喋るのは珍しいよ」

 店長はニコニコしながら言った。

「私も、もっと無口でクールな人なのだと」

「いつもはそんな感じだけどね」

 すれ違う人も少ない、私にとっては真夜中の時間帯。一日がもうすぐ終わっていく。鼻息まで白い真冬の夜空の下。満点の星空の下。

今日はたくさん話せた。目を見て話せた。達郎君って呼べるようになった。私のことも知ってもらった。一緒にお仕事できた。今日は本当に短い一日だった。充実した一日だった。ありがとう神様。ありがとう達郎君。

達郎君はこの星空、見てるのかな。気付いていなかったら、教えてあげたい。うううん、違う。一緒にこの星空を見たいよ。


「おっそいよー達郎君」

「なんなんだよお前はー。またいんのかよ。もしかして毎日?うっわ、マジ勘弁。俺をノイローゼにする気か」

「なによなによその言い方~」

「まあまあ」

 来るなり店先で言い争いを始めた私たちを、ハゲ丸店長が笑いながら仲裁してくれた。達郎君はブツブツ言いながらも着替えるために店の奥へと入っていった。

「今日は返品のやり方を教えてあげてね、ランゼン君」

達郎君はこっち来い、と言って店の隅に積み上げてあるダンボール箱を指差した。

今日は金曜日。お店は混み混み。きっとお休みの土曜日に雑誌でも読んでダラダラしよ~っていうお仕事人たちなんだろうな。

「ボサッとしてんな」

 達郎君、口悪い。その意外性にやっぱりメロメロ。

「フンフフンフ―ン」

 調子に乗ってスキップしてたら、隅に積んであった文庫本につまづき、前方の新刊の列に突っ込んだ。

「うひゃあ」とか「うへえ」とか言ったと思う。何か考えるよりも先に、体が動いた。なんとか私の膝くらいの低い棚に手をつき、つま先でブレーキをかける。スキージャンプの飛んでいる時の格好を想像してくれたまへ。自分のことながら、バスケで培った反射神経の良さにちょっと驚く。そして気付く。ヅ、ヅラが危ない。

「おい、何だよ今の声は」

 達郎君の声を、腰の辺りで聞いた。

「ななななななんでもなーい、トトトイレっ」

 急いで店の奥のトイレへ駆け込んで鏡をみた。心臓バクバク、肺ゼイゼイ。

 ずれてる・・・ビミョーに。もう少し派手に転んだら前と後ろが逆になってた。危うい危うい。結構大変だな、ヅラも。おぢさんたちの気持ちがまるでわかったよ。でも、達郎君とお近づきになれたことはこのヅラのおかげなのかな?うーん、多分そうだな。断定。達郎君はロングヘアー愛好家だし。

ガチャリ。

「「あ」」

トイレのドアを開けると、外には達郎君が立っていた。ちょっとだけ、お互い無言。

「どうしたんだよ、いきなり」

「いやあのその急に尿意が」

 私が言いにごると、達郎君の視線がちょっと漂って、私の足元に落ちた。

「足、血ぃ出てるぞ」

「あ、本当だ。痛い!」

 うわあ膝から血がドクドク出てる。棚にぶつかった時だ。気がつかなかったぁ。

「今頃気付くなよ。今まで何してたんだよ」

「し、死ぬぅ」

「てーんちょー」

 達郎君が店長の方を向いて大声を出した。

「流血者一名出ましたー救護しまーす」

「了―解、すぐに処置に当たるようにー」

「ほら、休憩室直行」

 こう見えても(どう見えても?)血はだめなんですよー。自分のでもだめなんですよー。

「おい、しっかりしろ、傷は浅いぞ」

 休憩室とは名ばかりの、着替え室兼掃除用具入れ。狭いことこの上ない。救急箱を出してきて、椅子に座った私の膝を消毒してくれながら、達郎君はつぶやいた。

「うわー出てくる出てくる。血が」

「ひぃ~言わないで」

「なんだお前、血ぃ弱いのか?」

 イヒヒ、と達郎君は笑い、消毒用に使っていた脱脂綿を私の目の前に持ってきた。

「ギャー」

「美都、おいっ」

 達郎君が初めて私のことを名前で呼んでくれた・・・し、幸せ・・・。

「気付いたか?おい?」

「達郎君」

「店長、美都、意識戻りましたー」

 遠くで店長の、休んでていいよ、の声。そういえば私、バイトしてたはず。

「まだ起き上がんな」

 達郎君の困った顔。その後ろの薄ぼけた天井と、まだ慣れない電球の白。

ねえ、何がそんなに悲しいの?

「救急車呼ぼうと思ってた。さっきはごめんな、ふざけすぎた」

 私を覗き込む達郎君の、天然ものの白い肌が眩しい。ちょっととがった耳も、くっきりとした二重の瞳も。この人が欲しい。だめ?神様。私のものにしたい。独り占めしたいよ。

「おい?聞こえてるか?」

「達郎君、私のこと、どう思う?」

「は?」

「なんでもないっス」

 私はゆっくり起き上がった。手をついたフローリングが冷たかった。

「もう帰るか?」

「大丈夫、店長に治りましたって言ってくる」

 まだ、きっと早すぎるね。達郎君を困らせてしまうばかりだ。


「美都、先生呼んでたよ?」

 休み時間、トイレから戻ってきたハルに背中を叩かれた。担任の宮古先生はバスケ部の顧問でもある体育教師。厳しさと優しさのメリハリのある、学校の中で一番先生っぽい先生だ。何の用事か見当もつかないまま、急いで職員室に向かった。宮古先生は時間に厳しい。

「小山」

 職員室の隅の相談用の小スペースで向かい合って座ると、意味もなく緊張した。

「最近、何か悩み事でもあるの?クラスでも部活でもぼーっとしていることが多くて上の空だし、前にも増してミスが多くなってる」

 人からはよくぼーっとしてるって言われるけど、悪いことだとは思ってなかった。でも先生、怒ってる。

「一人がそうだと、全体が浮ついた雰囲気になってしまうのよ?試合も近いんだから、気持ちを引き締めて。いい?」

 よく頑張ったって撫でてくれる手の平も、小山は楽しいなって笑ってくれる笑顔もない。体中から血の気が失せていくのを意識した。私はやっとのことでうなずき、促されて席を立った。下を向きながら廊下へ出ると、誰かの笑い声と軽やかな足音が響いていた。

「今日一日元気なかったね。宮古先生に何言われたの?話してみなって」

 今日は部活がお休みの水曜日。バイトもお休みをもらった。ハルと歩く駅までの道。もう夜みたいに暗い空。

「要約すると、浮ついてるって」

「そんなのいつものことじゃん。私なんか美都よりもずっと浮つき気味よ」

 がははとハルは笑った。私は笑えなかった。

「ハルは浮ついててもいーじゃん。バスケうまいし頭いーし。浮わつく資格あるよ」

「美都?いつまでうじうじしとっとね。元気だしんしゃい。そげに気にすることなかね」

「何弁?」

 ハルはふんわり笑った。

「ハイ、ホカ弁」

 そう言ってハルは、私の大好きなミルクチョコレートを三つくれた。金色のセロファンに包まれた、甘いお菓子。ホカ弁よりもあったかいよ。

「うわあぁ~ん。私、みんなの重荷になってるの。みんな私のせいなの~」

 ダムが崩壊したみたいに、私は泣いてしまった。止められなかった。止めたくなかった。

「ほーらほらほら泣くでねえ、おなごは強くならにゃいかんね」

 ハルのダッフルコートに顔をうずめて、泣けるだけ泣いた。

「どうしたらいいの?みんな私のこと、うざったいって、本当は思ってるの?」

 ハルは何にも言わず、私をぎゅっと抱きしめた。ハルのダッフルコートの色が変わって、だんだん冷たくなっていく。

「・・・ねえハル?みんな見てる」

 夕闇の公園のベンチで、女の子が二人で抱き合ってる。見ない人はいないよね。何か、恥ずかしくなってきた。

「見られたっていいよ、かまわない」

「ハルは、強いね」

「強くないよ。美都と一緒」

 私の荒い息が落ち着くまで、ハルはそのままの体勢でいてくれた。

すとん、と夜が落ちてきて、公園の街灯がついた。鼻の頭が冷たかった。

「ハル、」

「何?」

「漫画とかでね、恋と勉強の両立、なんて悩む主人公が出てくると何でって思ってた。でもわかった。気持ちを二つにわけるって難しいんだなって」

「最初はね、きっと難しいと思う」

 ハルのダッフルコートから顔を離して、木のベンチに座りなおした。夜風に吹かれて、裸の桜の木がおおげさに揺れた。

「達郎君が好き。バスケも好き」

「だったら両方あきらめちゃだめ」

 私は頷いた。

「何ボケーっとしてんだよ」

 余りの声の大きさに何人かのお客さんがこっちを見た。そうだ私はバイトしてたんだ。深緑色のエプロンをかけて仁王立ちしている達郎君がいた。

「さっきから同じ本四十分もはたきかけてるだろ」

「そうだっけ?だってこの本汚いし」

「そういう装丁なんだよ。どうしたんだ?」

 達郎君が私の顔を覗き込む。その水晶の瞳で。どうしていいかわからない。何て言ったらいいかわからない。でも、至福。ずっとこの目の中にいたい。

「オーイ、あがっていいよー」

 外から聞こえる店長の声で我に返った。

 休憩室でエプロンを脱いでいると、「これ」と言いながら店長が入ってきた。店長の手には、四角くて白い箱。

「よかったら二人で食べて。友達が来て置いていったんだよ。ぼく、ダイエット中だから」

 店長は私に、にこにこしながら箱を渡した。私もつられて笑った。

「じゃあ行くか」

 鞄を持った達郎君がドアを開けながら振り返った。店内から漏れる明るい光が眩しい。

「一緒に帰っていいの?」

 達郎君は不機嫌そうな顔をして、店先で私を待っていてくれた。

「店長ありがとう。さよなら」

 店長は、返事の代わりににこにこ笑った。

「何してたんだよ」

「店長にありがとうって言った」

 外は真っ暗でも心は明るかった。達郎君と一緒に歩ける。絶対に死ぬまで忘れずにいよう。達郎君のグレーのマフラーも紺のコートも、ドライアイスみたいな白い息も。

「何にやにやしてんだ」

ゆるんでしまう顔を毛糸の手袋で押さえた。風がビュウと吹いていった。

「何でもないッス。あ、ケーキどーする?」

 達郎君は黙って団地の近くの小さな公園を指差した。ブランコと鉄棒と小さな滑り台があるだけの公園。私達は近くの自販機で温かい紅茶を買って、ギシギシいうブランコに座った。

「うわ、おいしそ」

 箱を開けた瞬間、達郎君の顔がぱっと変わった。子供みたいなワクワクした顔に。

「ケーキ好きなんだー」

「ああ好きだよ、悪いか」

「イメージと違ーう」

「ハイハイ星がきれいだね」

「ごまかしきれてないーい」

 達郎君の横顔が、街灯に照らされているせいかちょっと赤い。それで、ますます好きになってしまった。星も灯りも達郎君もとてもきれい。きれいすぎて切ない。もう手が届かなくなりそうで。どんどん水位を上げる思い。いっぱいになって許容量を超えてしまいそうで苦しいよ。ねえ、気付いてる?

「そんなに見るなよ」

「ごめん」

「何深刻な顔してんだ」

 顔を上げた達郎君と目が合う。やっぱり、遠い。こんなに近くで一緒にいるのに。

「達郎君、ブランコからはみだしてる」

「仕方ねーだろ」

 言ってから、達郎君は少し笑った。

「俺、これとこれ」

「あー選ばしてくれなかった!強制じゃん」

 達郎君は、嬉しそうにショートケーキとフルーツプディングをナプキンの上に乗せた。

「チョコレートケーキ好きだろ?アップルパイも」

「好きだけどさー。普通、女の子に先に選ばせるでしょ」

「うるせー食うぞ」

 言って三秒後にはもう達郎君の膝からケーキは消えていた。

「チョコレートケーキ食べる?」

「食べる」

 また三秒。

「食い足りねえ」

「どれだけ食べたら足りるの?」

「十個はいける」

 目を合わせて笑った。笑うっていいな。一人で笑うよりも、二人がいいな。

「何かあったのか」

 まだ笑いの止まらない私に向かって、達郎君は言った。気にしてくれたんだ。だから一緒に帰ってくれたの?

「調子に乗りすぎて、先生に怒られちゃった」

「やっと気付いたのか、遅いぞ」

「やっぱりそうかなあ」

 スカートから出てしまう自分の膝を、かばうように包んだ。寂しいヘッドランプが時折、通り過ぎた。

「俺なんてしょっちゅう言われてるぞ?いい気になるなって。でもその気になんないといいプレーができないんだよな」

 そう言いながら、横顔の達郎君はゆっくりこっちを向いた。達郎君のずっと後ろにある星たちが、急に近づいて見えた。

「そんなもんかな」

「そんなもんだろ。人に迷惑かけてなんぼだろ。いい結果が出れば」

 この人は、私よりもたくさん何かを知っている人だ。私が持っていない何かを持っている人だ。だから私は惹かれたんだ。

「ナーバスになってると悪循環だぞ」

 紅茶の最後の一口を飲み干し、ゴミ箱に投げた。

「ナイッシュ」

 缶は一直線に楕円形の筒に収まった。もう、きっと大丈夫だ。

「行くか」

 私は頷いた。寂しかったけど、頷いた。

「美都さ、姉妹いるか」

「一人っ子だよ、どして?」

「別に・・・そんな目で見るなっ」

 時間も時間で、人けが少ないプラットホーム。私は達郎君が乗った電車のドアの前に立った。明日は火曜日だから、バイトはお休み。会えないね。たった一日だけなのに。

「バイバイ」

「じゃあな」

 閉まりゆくドアが悲しかった。私と達郎君を遮断して電車がいってしまった。恋ってこんなに切なかったっけ?胸の奥が変な感じにしびれてる。私に魔法が使えたら、何度でも時間を戻すのに。でも、バイバイ、またね。


「美都、空いてる!チャンスだよ」

「オッケ」

 飛び散った汗でツルツルすべる、広い、明るい体育館。ハルから絶妙なパスを受け取り、ゴールに体を向ける。ディフェンスは近寄ってきてる。得意のドリブルフェイントで一人抜き、あとはゴール下のディフェンスを交わすだけ。味方の声が遠くで聞こえる。目の前の敵は、誰だろう?

「美都!」

 ハルの声が響く。大丈夫、ゴール下にハルがいる。身を縮めてディフェンスの体を避け、狙うステップインシュート。

「ナイッシュ!」

「あと、ナイスフェイント!」

 やっと周りの声が戻ってくる。交わす手の平。気持ちのいい高揚感。私はつい気になって先生の方を向いた。見ててくれたかな、今の。あ、少し笑ってる。

「ほら美都、集中!」

 先生の、ハスキーな声が聞こえる。

「ハイッ」

 私はその声に負けないように大きな声で返事をした。

「美都、」

 練習のあと部室の脇の水道で顔を洗っていると、キャプテンのトーコが話しかけてきた。

「今日調子いいね、ちょっと前までスランプだったみたいだけど」

「うん、楽しさが戻ってきた」

「スポーツなんて楽しくてなんぼだからね。次の試合には出してもらえるんじゃない?」

「だといいなあ」

 中学の時から万年補欠の私。だから公式試合の出場経験はゼロ。アガリ症なのを見透かされているのかもしれない。

「美都が落ち込んだのは珍しいよね」

 二人で、部室の壁に体を寄せて座り込んだ。風は冷たいけど、まださっきの余熱で体はぽかぽかしていた。

「実は、美都に自分で考えさせたいから相談には乗るなって言われてたんだ。先生に」

「え、そうなの?気付いてないと思ってた」

「そんなわけないじゃん。わかりやすすぎだもん、美都は」

 そっか、あれからハルも何も言ってこなかったもんな。

「冷たいかもしれないけど、先生の言う通りにしてよかったって思うよ。美都はちゃんと自分で答えを見つけられたみたいだし」

 ショートボブの髪の毛を揺らして、トーコは笑った。私よりも背の高い、結構強がりなトーコ。でも、思いやりは一番。

「話は変わるけど、昨日用事あって沢コーの近くまで行ったんだ。そしたら美都にそっくりな人がいて・・・美都って一人っ子だよね?」

 藤コーはバイト禁止で、バレたら停学だってハルが言ってた。私は一人で大慌て。

「トーコったらなーに言ってんだか!練習のし過ぎで幻を見たんだよ、きっと!」

「ホント~?隠れて男にでも会いに行ってたんじゃないの~?」

「人違いだって!」

「何慌ててんの~?」

「あっ私んち今日大変だから先に帰るねっじゃあねっ」

「え?大変って何がよ!」

 私は大急ぎで部室に入り、荷物とハルを持って校門を出た。

「ふぎゃー何よ美都。何が起こったの!」

 ズンズン歩いて五分くらいいったところでハルが我に返って騒ぎ出し、私は立ち止まった。よく見ると、ハルは上半身が制服で下半身はジャージ、片足ローファー、片足バッシュという何だか中途半端な姿になっていた。

「でもほら、ここまできちゃったしもうこのまま帰ろう」

「うん、帰ろっか」

 ハルはにぃって歯を出して笑った。ハルのこの顔、好き。そして私たちは駅へ向かって歩き出した。

「えー、それはまずいね。やばいね」

「でしょ?どうしたらいいかなあ」

 ハルが腕を組みながら空を見た。

「今日はやけに星がいっぱいあるねえ」

 ガク。

「何か考えてるのかと思ってたのにー」

「何にも考えてないよ~も~美都ったら私を哲学者みたいに~」

「言ってないって」

「それで、どうなのよ、ランゼンさんとは」

「えへへへへ~達郎、美都の仲なの」

「でも、アレ?藤コーって男女交際禁止じゃなかったっけ?」

 そんなの、そんなの聞いてないよ!

「店長、達郎君まだ来てないんですか?」

 いつもは私よりも先に店に出ている達郎君の姿が見当たらない。背の高い、神経質そうな横顔がいない。

「風邪をこじらせたらしいんだ。インフルエンザじゃないといいんだけどねえ」

 て、店長そんなのんきな!今年のインフルエンザはかなり強烈ってニュースで聞いたばっかりなのに。大丈夫かなあ。

「あのっ店長っ」

「な、何」

「これっていけないことなのでしょうか・・・達郎君の住所を教えて欲しいんですけどっ」

「ああいいよ、お見舞いでしょ?」

 店長はやけにあっさり承諾してくれ、メモ用紙にサラサラと書いてくれた。へえ、電車で二つ先かあ。

 夜の天蓋が空を覆い、星のワッペンがちらちら光る。一人で駅に向かいながら考えた。勝手に住所を店長から聞いてしまったことの良し悪しを。達郎君の病状を。このしめつけられるように寂しい気持ちを。

「今日も来てないんですか?」

 ため息に似た息を吐き出してしまった。インフルエンザって死ぬ人もいるって聞いたな。やっぱり昨日お見舞いに行けばよかったかも。最後の別れに立ち会えたかも・・・いやいや死ぬって決まったわけじゃないし!

「昨日、お見舞いにはいかなかったの」

「急におしかけるのもなんだなあって」

「ランゼン君はああ見えて結構寂しがり屋だからね、行ってあげるといいよ」

 おお、なんてキュートなウィンクをかましてくれるんだ店長!これではげてなかったらモテ男なんだろうなあ。でもはげててもいいなあ。

 あっという間にバイトが終わって、一人真っ黒な空間に取り残された。うう・・・やっぱり緊張する。迷惑だって言われたらそれまでだし、でも心配だから一目だけでも会いたいし。ああ・・・とうとう私の家と反対方向の達郎君の家行きの電車に乗ってしまった。私が行って治ったらいいのになー。こんな時ハルが一緒にいてくれたらなー。ハルーっ。いかん、これは私の問題だっ。おお・・・いつの間にか地図も見ずに達郎君の家の前についてる。表札も合ってるし。私って実は天才?しかしここからが問題だ。このっインターフォンをっこらっ私の右手!押してしまえ!

 ピ、ピンポーン

 待つこと五分。私は始終ドキドキ高鳴る胸をごまかすために、達郎君ちの大きな門や、つやつやの石がはめ込まれた壁や、暗闇に腕を広げる庭の小木をくるくる見まわしていた。

「ゴホッは、ゴホッはいゴホッ」

 達郎君のおじいちゃんかな?

「あ、あのう、小山と申しますがっ」

「あ?ゴホッみどが?ぢょっどまっでろ」

 このくぐもった声、達郎君の声なの?相当辛そう・・・やっぱり来ちゃまずかったかあ。

 門の鍵が自動的に外れ、木製の扉が開き、そして広い玄関に達郎君の姿。上下グレーのスエットに裸足でボサボサ頭。鳥の巣みたい。

「上がれ」

「お邪魔します」

 そろそろと靴を脱ぎ来客用のスリッパを履いたけど、家の中は真っ暗。人の気配はない。

「寝てた?起こしちゃってごめんなさい。ご両親は?」

「旅行」

「病院行ってないの?薬も飲んでないの?」

 達郎君は真っ赤な顔を左右に振った。ぬうー、なんて言いながら頭を押さえてる。

「キッチンどっち?」

「あっち」

「自分の部屋行って熱測りつつ寝てて!」

 達郎君が階段を上がる音を背中で聞いて、これまた広いキッチンの電気をつけた。流しがピカピカのまま、ってことは達郎君何も食べてないんだ。本当に死んじゃうよ。えーと、とにかく冷やさなくちゃ。台所から続く扉を開け、浴室で桶に水を張って達郎君の部屋らしきところへ向かった。

「熱は?」

「あ、忘れてた」

 達郎君の顔は今にも蒸気を噴出しそうだ。ぐったりとベッドの中に沈み込んでいる。冷たいタオルを額に当てると、ほっとしたように目を閉じた。

「体温計どこ?」

「薬箱の中」

「薬箱どこ?」

「電話の脇」

 赤い救急箱の中から体温計を探し、熱を測ってもらうと八度七分あった。

「ギャーッ」

「う、うるせえ頭にひ、響く」

「ごめんごめんだって~」

 達郎君死んじゃうぅ。一人であたふたあたふた部屋を歩いた。

「ご両親はいつ帰ってくるの?」

「明日」

「救急車呼ぶ?」

 達郎君は微かに首を横に振った。とにかく、と私はすぐに熱くなってしまうタオルを取り替えて、もう一度階下に下りた。

 冷蔵庫や炊飯器を勝手に開けて勝手におかゆを作った。床のフローリングはピカピカに磨いてあって、つるつる滑った。

「ハイ、おいしくないけどまずくはないから」

 達郎君はゆっくりと首を横に振った。

「食べたくないと思うけど、薬を飲まなきゃいけないから食べて」

 達郎君は熱で潤んだ目で私を見上げた。うーん、可愛い・・・ハッ、いかんいかん。

「食べないと即死だよ!バスケできなくなるよ!救急車でどこかへ運ばれちゃうよ!」

 達郎君はどこかってどこだよと言いながらも上半身を起こした。

「食べ終わったらこれ飲んでね」

 さっき救急箱の中から見つけておいた風邪薬の壜を開けて、お水と一緒に錠剤を渡した。

「薬、嫌い」

「好き嫌いの問題じゃないよ」

 私がぐいとコップを押し付け、錠剤を無理矢理手の中に押し込めると、達郎君はしぶしぶ飲んで、空のコップを私に渡した。

「何かして欲しいことある?」

 枕元に顔を近づけて、何かを思案しているような達郎君の顔を盗み見る。右手でぺたぺたになった髪の毛を触ってる。

 そうだ、ここ枕元だった。本屋じゃない。達郎君の家で、達郎君の部屋で、二人きりで。ちょっとだけ、よこしまな心が顔を出す。

「スポーツドリンク、飲みたい」

「オッケ」

 立ち上がって台所へ行き、巨大な真っ白い冷蔵庫を開け、ポカリスェットのボトルを見つけると、そこに青いストローを挿して部屋へ戻った。達郎君は音を立てて美味しそうに飲んでくれたから、冷蔵庫からもう一本ボトルを持ってきて達郎君の枕元に置いておいた。

「じゃあ私、帰るね。落ち着かないでしょ」

 達郎君は頬を赤くさせたまま、何も言わずに首を横に振った。気を使ってくれてるだけだよ、きっと、って冷静な自分がスプリンクラーのスイッチを入れる。

「もう少しだけ、」

 そばにいろ、って達郎君は確かに言った。私は立ち上がりかけた腰を下ろした。どうしよう。ドキドキが止まらない。何も言わずに部屋を出ればよかった?

「美都の手、冷たい?」

 ガサガサした声で達郎君は言った。

「私の手?うん、」

 私の手、いつも冷たいの。末端冷え性気味。それが嬉しかったことは初めてだ。達郎君が、ベッドから手だけを出してプラプラ振ってる。いい、のだろうか。そして私は、その熱い手をにぎった。電流みたいなのがビリビリきた。

このドキドキが伝染しないといいな。

「ほんと、つめてえな」

 そう言って達郎君は目を閉じた。本当は不謹慎だよね、こんな時に。お願い、私の手、震えないで!がちがちに緊張して下を向いていた。でも、十分くらいするとすうすうと寝息が聞こえ出した。やっと緊張から解放されてほっと一息。もう少しだけ、もう少しだけ達郎君の寝顔を見つめていたい。時が止まってしまえばいい。どうか、神様。

 ベッドサイドの液晶時計は終電が近いことを示していた。気持ちをなんとか断ち切って、丸めたタオルを変わりに達郎君の手に握らせて部屋を出た。

 外は凍えてしまいそうなくらい寒かった。奥の奥にまで寒気が流れ込んできて肌がぴりぴり痛かった。吐く息がパリパリと音を立てそうな真夜中。でも心の中は暑いくらい。初めて触れたドキドキが、今もここに残ってる。


 昨日の夜が特別寒かったからか、達郎君の風邪がうつったからか、起きたら布団がすっ飛ばしてあったからか、どうやら私はめでたく風邪をひいたようだ。

「よかったね。あんた馬鹿じゃないよ」

「ハル~嬉しいけどなんか悲しい~」

「しかもランゼンウィルスだよ。喜ぶべきことだね」

 鼻水せき、寒気と倦怠感でぼーっとしつつ隣のハルを見た。

「もう今日は部活休んで帰りな。こじらせると怖いよ。風邪をなめるなよ」

「ヤダ」

 もうみんなウオーミングアップを始めている。緑色の網で半分に仕切られたいつもより狭い体育館。網の向こう側ではバレー部がアタック練習をしている。

「やめときなって」

「私は始めるよ、ハルも早く」

 言った拍子に水っ洟が垂れた。

「集合、試合近いからゲーム形式でやるよ」

 トーコが大きな声で言い、後輩の返事が続いた。いつもよりも広く感じる体育館。照明もきつい気がする。

「パスパスッ」

「伊藤のマークずれてる」

「鈴木、マークきつくして、マンツーマン」

 女の子の元気な声が響く。バスケットシューズが床とこすれるキュキュっという音。時々、オフェンスとディフェンスがごっちゃになって、右手と左手の感覚が逆になった。

何もかもが頭を素通りしていく。体だけが反射的に動いていて、心がそれについていけてない。ってゆうか何にも考えられない。シュールにゆがむ景色をただ、映していくだけ。しっかりしろ、美都。全部自分のせいでこうなったんだ。自分の責任だ。

 でも、私の身体能力は精神力より弱かった。腕と足、口、目、鼻、手の平。全身がバラバラに動いて、そしてバラバラに機能を停止した。美都、って誰かが私を呼ぶ声が遠くで聞こえた。

目を覚ますと、私の目に誰かの影が映った。私を覗き込む、複数の影。そして白い世界。

「美都、」

 聞き覚えのある、懐かしい誰かの声がした。ここはどこだろう?眩しさに目が慣れると、その影の一つ一つが実体を伴って見えてきた。

「お母さん、」

 お父さん、ハル、トーコ。

「あんた倒れたのよ」

 お母さん、エプロン姿。ご飯を作ってる途中だったんだ。お父さんも背広姿のまま。ハルとトーコはジャージ上下。

「だからやめとけって言ったのにい」

 ハルが泣きそうな顔をして言った。

「あんたいきなりバッタンだもん、みんなびっくりしてたよ」

 トーコがよくする、困った子、という顔で言った。みんなが安心した、という表情で私を覗き込んでいるのがわかる。私もちょっと泣けた。

「今何時?」

「十時よ。あらいけない、お医者様呼んでくるわ」

 お母さんがやわらかく微笑みながら言った。十時か・・・バイト休んじゃった。ってゆうか連絡もしてない。クビになっちゃうな。あー、大失態。

 白いカーテンの隙間から見える景色は真っ黒。今夜は星も見えないんだ。風で木が揺れる、寂しい音がする。

「ゆっくり休みなよ」

 ハルとトーコはそう言い残して帰っていった。

「お父さん、心配かけてごめんね」

「びっくりしたぞ、会社に電話がきた時は」

 お父さんに頭を撫でてもらうのは何年ぶりだろう。おっきい、暖かい手。達郎君の手に似てる。本当は、ここにいるわけにはいかないの。会いたい人がいるの。確かめたいことがあるの。あの人に、会いたい。会いたいよ。いつから私は、こんなにわがままになったんだろう?


「昨日は連絡もせずに休んじゃってすいませんでしたっ」

 店に入ってすぐ、右手にあるレジにいた店長に、下げられるだけ頭を下げて謝った。

「仕方ないよ。ランゼン君に続いて君も風邪とはね。風邪は怖いね。次は僕かな」

 店長がにこにこ笑って言った。ああ・・・天使の輪が見える。

「昨日はランゼン君が治って来てくれたから大丈夫大丈夫。昨日はランゼン君の方が小山さんのこと聞いてたよ」

「達郎君、今日は来てるんですか?」

「今、はさみが壊れちゃったから買いにいってもらってる。若い人は回復が早くていいね。あ、気付くのが遅くてごめんね。小山さん、ショートカットも似合うね」

 ・・・ま、まさかぁ~!恐る恐る髪の毛に触れると、いつものショートカットの襟足があった。やっぱりカツラ忘れてきたぁ!

「て、店長これからお葬式なの忘れてましたっはやびけしますっ」

 早口でそれだけ言うと、目をつむって店を飛び出した。神様、どうか達郎君に見られていませんように!右、左、よかった、いなかっ・・・いた!とっさに向かいの庭先に逃げ込んで塀際に立った。ありがとう山田さんの庭!わんちゃんいい子だから鳴かないで!早く、早く通り過ぎて~。あ~カツラがあればな~色々話せたのにな~カツラの馬鹿~それより自分が馬鹿~。

 半透明の小袋を下げて通り過ぎる達郎君を見送って、吠える犬に謝り山田さんの家に感謝して早足で駅に向かった。まだ夕暮れの街並みが、何となく虚しく目に映る。空には星が一つ二つと増えていく。気温は下がり、空気は透明度を増していく。家々の窓には、優しいオレンジ色の灯がともり始める時間帯。

 私、嘘ばっかりついてるな。バイトのこと、カツラのこと、今日のこと。積み重なった嘘は、いつか崩れてしまうもの。もうこれ以上嘘を重ねながら達郎君と会うのは難しいかもしれない。いつか何もかもバレて、そして、私嫌われるのかな。達郎君は私がショートカットだってわかったらなんて言うのかな。嘘つきって言うのかな。嘘ついてるってことは、私、色んなことから逃げてるんだなあ。

カサカサチクチクした痛み。私は何から逃げているんだろう。何に怯えているんだろう。でも、達郎君のそばにいたい。嘘をつき通してでも、そばにいたい。それが本音。一つ手に入れると次が欲しくなる。神様、この恋はどうなるのでしょうか。

「おい美都、新人のくせに二日も休んでんじゃねーよ」

「達郎君だって休んでたじゃんっ私も風邪ひいたんだよ、誰かにうつされてー」

「悪かったな」

 急に声のトーンを落として達郎君は言った。そっぽを向いて、怒ったように。

「見舞い、ありがとう」

「よおしよおし素直でヨロシイ」

「て、てめえなめんな」

 達郎君は真っ赤になって怒鳴った。遠くで店長が、しい~と指を口に当ててこっちを見た。毎度の光景。あ、店長には賄賂饅頭を贈っておいたから口封じは完璧。

「イヒヒヒヒヒッ」

「いい加減気持ち悪い笑い方すんのやめろっ妖怪が来たと思うじゃねーか」

 そう言いながらも達郎君は、本を蹴飛ばし、万引き撲滅ポスターをやぶり、敷物にけっつまずいた。これっていつもの私の役割だよ。達郎君、まだ風邪治ってないの?

「二人とも、今日は二日分働いてね」

 店長がくすくす笑いながら言った。私も笑った。達郎君は怒った顔のままうなずいた。こんな風に笑えても、心の隅ではもう一人の私が冷静に言う。あんたは本当の美都じゃない。そんなにうまくいくはずないよ。本当は弱虫で意気地なしなんだから、って。 嘘が、積み重ねた嘘が、どんどん私を侵食していく。

「お先に失礼します」

 店長のピカピカ頭にさよならと言って、私たちは歩き出した。

「風邪はもういいのか?」

「うん、大分。達郎君も治ってよかったね」

 高い横顔がうなずく。その向こうに、子供の頃作った切り絵みた半月が懸かってる。

「スカート、寒くねえの?」

「しょうがないじゃん、校則なんだから。いいよねー男子は」

「美都はスカートくらいはかないと女子高生に見えないか」

「失礼ですよ、達郎君」

 あ、達郎君が笑った。空の彼方に、今にも溶けてしまいそうだ。

「・・・あ、そうだ、あのさ、」

「何?」

「やっぱいいや、なんでもない。気にするな」

「気になるじゃん」

「今更だけど、美都はどうしてあの本屋でバイト始めたんだ?」

 ドキ。心臓が私の意思に反して大きく音を立てた。少し、視野が狭まる錯覚。

「お前もしかして」

 え?えーっ!いきなり?キャー!イヤー。こんなところでーっ。

「俺を、」

ま、待って達郎君、ストップ!

「俺を手本にしているのか?」

 あ、あうー。

「なんだそうだったのか、早く言えよ」

 達郎君はちょっとうつむいた、ように見えたのは、私の勘違い?

「お前がバイトに来始めてから一ヶ月か」

「そんなにたつんだ。始めたのって先週のことみたいに思える」

「最初は本当にストーカーかと思った。それがいきなり同じバイトってなあって」

 私は顔を上げた。オリオン座が目に付いた。大きな、きっといつまでもこの手につかむことのない星たち。遠いな。どのくらい離れているんだろう?そして不意に達郎君と目が合った。街灯の冷ややかな光の下で、海よりも深いその瞳と。本当に、その目の中に私はいるの?言ってしまおうか。今、ここで、何もかも。自分の気持ちも重ねた嘘も。

「美都」

 今、今言おう。

「本、好きか?」

「す、好きっ」

「俺も好きなんだよなー」

 あ、あうー。

「バイトしてると割引で本買えるかなって、下心あってこのバイト始めたんだ。似合わないよな、俺が読書してるなんて」

「そんなことないよ!」

 私は無闇に明るく言った。

「どうして達郎君ってバスケうまいのにキャプテンじゃないの?」

「話、飛びすぎ。でも、俺がいつキャプテンじゃないって言ったよ?」

「あ、そうだっけ、何となく」

「しかも、いつバスケやってるって言った?」

「雰囲気雰囲気。バスケやってそうじゃん。背、高いし」

 あわわわわわ。何が言っていいのか悪いのかの区別がつかなくなってきた。

「協調性がないんだろうな、人をまとめるの、苦手だし」

「あー、苦手そう」

「失礼な奴。まあ、飽きっぽい性格だし。バイトが一年続いたのが嘘みたいだしな。バスケに限っては小学生からだから奇跡に近い」

 時間がもっとゆっくり流れて、もっと駅までの道が遠くなってしまえばいい。このままどこまでだって行ける気がしてるのに、駅はもうすぐ。

「バスケ、好きなんだね」

「まあな」

 私も大好きだよ。バスケも、達郎君も。

「藤コーってバスケ部あるよな」

「え?何で私が藤コーだって知ってるの?」

「制服見ればわかるよ」

「そっか、そうだよね。この制服って女子高っぽいもんね」

「何慌ててんの」

 達郎君が意味ありげに微笑む。何か、してやられたっぽくて悔しい。

駅が見えてくる。どうして達郎君といる時だけ、神様は時間の螺子を早く巻いてしまうんだろう。でも、楽しかった。忘れたくない思い出がまた一つ増えた。宝箱にしまって、鍵をかけて、たまに取り出して眺めよう。

「達郎君さあ、もてるでしょ、女の子に。告白とか、されたことあるでしょ」

「女は、顔がよけりゃなんでもいいわけ?」

「誰の顔がいいって?」

「俺だよ、俺」

 そして二人同時に笑い出す、改札の前。でもね達郎君、誰だってきれいな人に憧れる。自分の持ってないものを持っている人に惹かれてしまうんだよ。私だってそう。

「じゃあ明日」

「うん、明日ね」

達郎君が、別のホームへ吸い込まれていく。明日まで会えないんだね。明日。何て長い時間。


「うわっ、美都どけっ、」

 達郎君が、本と人がひしめき合う店内を、積み上げた本を抱えてゆらゆら走る。勢いがついて止まらなくなったらしい。振り返ると、ここ何日かいつも同じ時間に見かける女の子と目が合った。沢コーの制服。ちょっと短めなスカート、すらっと伸びた足、小さな色白の顔、アイドルばりの大きな目。そして背中の中ごろまであるさらさらのきれいな髪。可愛い子だな・・・こんな子なら達郎君の隣に並んでも不自然じゃない。毎日来てるってことは、達郎君の彼女?達郎君ばっかりを見ているし・・・もしそうだったらどうしよう。

 私がくだらないことをダラダラ考えながら積まれた本にはたきをかけていると、その子は足元にあった文庫本の一冊を手に取った。買うのかなって思いながら見ると、その本をすっと自分の鞄の中に入れた。万引き?しかもその瞬間、私を見てくすって笑った。店長も達郎君も絶対見てなかった。どうしようどうしようと思っていたら女の子はスタスタ店から出て行っちゃった。うわー店長、ありがとうございましたなんて言わないで~。私は冷静に、冷静に、って自分に言い聞かせながらそのあとを追った。

「お客様」

「何」

 冷ややかな応答と視線。

「本の代金がまだ、ですよね」

 嫌な感じの胸の高鳴りと、手の平の冷たい汗。怖くて逃げたくなるのをぐっと抑えた。

「何のことですか?」

 強くきつい目で私をにらむ二つの目。

「とぼけないで下さい」

 だんだん語気が上がる。その子の余裕が、嫌だった。万引きが目的なんじゃない。全身でそれを語ってる。私に向けられた何か、敵対心みたいなもの。それが歯がゆい。

「店の前で何やってんだ」

 達郎君が中から出てきて、私たちを交互に見た。

「代金をもらってないんです」

 達郎君の顔つきがさっと変わる。

「そんなの嘘よ。私は万引きなんてっ」

 うわあ~ずるいよ、泣くなんて!

「わ、私見たもん。鞄の中に文庫本を入れたところ」

「そんなことするわけないっ」

「したよ!」

「美都、」

 達郎君が手で制した。

「すみませんが、鞄の中を見せてもらってもいいですか」

「ええどうぞ」

 その子のやけにきっぱりとした態度に、嫌な予感がした。達郎君は休憩室にその子を連れていき、店長にも事情を話して来てもらった。私はレジを代わって、変にばくばくしている心臓を手で押さえた。

 確実に、あの子が文庫本を自分の鞄の中に入れるのを見た。間違いない。きっと見つかるはず。どちらにしろあの子は達郎君目当てでこの店に通って来ていて、近くにいる私が嫌だったんだ。でも、どうして万引きなんかしたんだろう?逆効果だと思うんだけど・・・。

 本を鞄に入れた時のあの挑戦的な視線、細い足、きれいな指、万引きする度胸(良い度胸ではないけど)。私に無いものばかり。そんな断片がぐるぐると無限に駆け巡った。

 やけにゆっくりドアが開いた。その子が私の横をしたり顔で通り過ぎるのが、スローモーションのように見えた。頭から血の気が引いてく。

「本は見つからなかったよ。鞄もコートのポケットも調べさせてもらったんだがね」

店長が困った顔をして言った。

「そんな、」

「本当に見たのか?ぼーっとして見間違えたんじゃないのか」

「私、目だけはいいもん」

「でもね、本が見つからない限り、どうしようもないんだよ」

「店長、あの子嘘ついているよ、本当だよ本当に、」

「人に迷惑かけんのも大概にしとけよ」

 達郎君が、本気で怒っているのがわかった。私にはその視線が耐えられなかった。

「小山さん!」

 店長の声を振り切って店を出た。勝手に涙がぼろぼろ溢れてくる。体中がズキズキ痛い。どうして信じてくれないの?証拠がないから?私の行いが悪いから?

走り疲れて道の真ん中で立ち止まった。涙は頬を通り過ぎて首を伝って流れていく。深呼吸しながら歩くと、少しずつ落ち着いてきた。私、エプロンつけたまま出てきちゃった。鞄も店の中だし。本当に行き当たりばったり。でも定期と財布はポケットにあるから、このまま家に帰ってしまおう。私、子どもだな。証拠がないんだから主張が通るはずがない。曲がりなりにもお客様だし。罪悪感も後悔も、あとからくるなんて遅すぎる。

 上を向くと、昼間のままの雲が薄暗い空に漂っていた。まるで白夜みたいに、雲が月の光を浴びて発光している。もう、私は達郎君に会えないかもしれない。そう思うだけで辛かった。

 次の日、学校をさぼって木戸書店へ鞄を取りに行った。入るのに数分かかった。意を決して店へ入ると、店長は案外優しく迎えてくれた。

「以前はよくあったんだよ。小さい本屋で、店員は僕しかいなかったから目の届かない所が多くてね。ランゼン君が働くようになってからは減ったんだけどね。でも、やっぱりいくら見たと言っても証拠がなくちゃだめなんだ。そこは、わかってね」

「ハイ」

「小山さん」

「ハイ」

「これからも続けてね」

 ヤバイ、泣いちゃダメだ。甘えちゃダメだ。私は黙ることで涙をこらえた。店長は開店作業を一旦やめ、またシャッターを下ろした。そして私を休憩室へ連れて行ってお茶を入れてくれた。

「ランゼン君がバイトに来てから、働かせてくれって言う女の子が多くてね。でもランゼン君は無愛想で口調も荒いでしょ。すぐにやめちゃうから女の子は雇ってなかったんだ」

「私一応、女なんですけど」

 店長はフフフ、と笑ってお茶をすすった。

「だから一度はお断りしたよね。でも、お金はいらないから働かせてくれって言う子は初めてでね。しかも不器用ながら一生懸命やってくれているし」

「迷惑かけどおしなのに、私」

「僕から見たら大したことじゃないよ。一番重要なのは諦めないことだからね」

 店長はにこにこ笑って言った。て、店長ぉ!

「学校はいいのかい?」

「今から行きます」

「鞄と制服はそこにあるから。ランゼン君もね、言い過ぎたって反省してたよ」

 私は着替えて鞄を持って店を出た。ほっとした。だって絶対クビだって(これ初めてじゃないけど)思ってたもん。はーっ、とにかく緊張した。一気に脱力した。そして思い返してみて気付いた。昨日の女の子も、本当はあそこでバイトしたかったんだ。それができてる私が羨ましかったんだ。それがわかってしまうと、同じ思いが切なかった。


「美都、昨日はスマン、言いすぎた」

 少し早く来て紙袋を補充していると、鞄を持ったままの達郎君が横に来て頭をわしゃわしゃかき回しながら言った。彼なりの照れ隠しなんだろうな、きっと。って(ちょっと大人ぶって)考えた。

「私のほうこそごめんなさい、急に店を出ちゃって・・・反省してます」

「あのさ、あー・・・いいや、帰りに言うわ」

 そしていつもと同じ帰り道。いつもと同じ制服。でも、いつも違った音で心臓は鳴る。毎日毎日新しい何かを発見する。

ほんのちょっとだけ太った半月が昇ってきたばかりの夜空。今日は星の光が明るく見える。

「学校で昨日の沢コー生探し出したんだ。一年だった」

「えっ沢コーってクラスはいくつあるの?」

「二十一クラス。七クラスめで見つかったけど、結構しんどかった」

「うわー、大変だったよね・・・ごめんね」

「見つけて問い詰めたら、盗ったって言った」

 私は何も思わなかった。予想はついていたことだから。ムカつくとか通り越して、何だか彼女がかわいそうだった。

「言いたいことあったら会わせるよ」

「いいよ、いいよそんな、もう。その子の気持ちもわかる気がするし」

「万引きの気持ちがか?」

「違う違う。別の」

 はあ?と達郎君が首をかしげている。今はまだ、内緒にしておこう。いつか、言える時がきたら。

「あ、カレーの匂い。山田さんち、今日はカレーだね」

「山田?親戚?」

 私が笑うと、達郎君も笑った。つられ笑い。でも、急に達郎君の目が真剣になった。心がまた、違う音をたてた。ガラスが触れ合うみたいに、センチメンタルな音。歩いていることを忘れてしまいそうだ。

「泣かせてごめんな。美都のこと、信じてなかったわけじゃない・・・ダメだ。言い訳だ」

 そんなこといいのに、と言おうとしたら達郎君の言葉にさえぎられた。

「何かお詫びする。何がいい?」

「いいって、全然」

「早く言え」

 きっと達郎君も悩んだんだろうと思うと、裏腹に、嬉しかった。私のことを考えてくれたんだと思うと。

「じゃあ映画。映画を一緒に見に連れてって」

「そんなことでいいのか?」

 そんなことって!私には十分すぎる。だって・・・だってそれってデートじゃん!

「今週の日曜は?午前練習だから、午後から空いてる」

「わかった。日曜」

 やったーっ。私は声に出さずに叫んだ。日曜日も会えるんだ。しかも映画だなんて恋人たちの初デートの代名詞じゃーん。よく思いついた!偉いぞ自分!達郎君の電車を見送って、ベンチに座りながらうずうずうずうず。日曜日は明後日。何を着ていこう?

「よかったじゃん」

 にやけちゃう目じり。緩んじゃう頬。地に足がついてないってこのことを言うのね。

「私が知らないうちにそこまでねえ」

 ハルが肘でぐりぐり私の肩を押す。押されて椅子からずり落ちた。

「あいたた・・・ハルはデートしたことある?」

 言いながら、ハルの髪の毛が冬の光に照らされて金色に揺れるのに見とれた。

 昼休みのざわめく教室。淡い、日の当たる窓辺。二階の教室からは中庭の噴水が見える。光を受けてしぶきを上げる水は、ダイアモンドをちりばめたようにキラキラ光っていた。

「初デートなんてちょー前のことだから忘れた。あのね、この年でデートの一つや二つ、してない方がおかしいの。」

「ずるいよずるいよハルばっかり」

「・・・で、カツラはやっぱりしていくの」

「うん」

「で、いつはずすの、それは。髪の毛が長い短いで女の子と付き合わないでしょ、ランゼン君も」

でも、やっぱりヅラなしで会うのは怖いな。私に自信をくれた代物だし。

「プッ、ヅラねえ。ヅラ・・・面白い響きだよねえ。何度聞いても」

「もーハルは」

「あなたは、もーう、忘れたカツラ~♪なんちゃって」

 ハルがおかしくなってきた。もう、他人事だと思って。

「カツラ・・・ヒーッヒッヒッヒッ」

 笑い転げるハルを眺めていたら、肩越しに隣のクラスのトーコが私に向かって手招きしているのが見えた。やっと笑いやんだハルを連れてドアのところまで行った。

「事務連絡。土曜日は午後練習、日曜日は先生法事のため休み。水曜の祝日は沢コーで地区予選。以上。お?美都嬉しそうじゃん。日曜に何かあるの?」

「それが美都ってばね、ぐふふふふ、フグッ」

「フグ?」

 無理矢理ハルの口元を手で覆って教室の隅に引っ張っていった。

「もーハルー?さっき何て言おうとしたの?バイト禁止、男女交際禁止でしょ?」

「硬いこと言いっこなしよ。ルールは破るためにあるのよ」

「ハルは気楽すぎだよ」

「失礼ね。何を言うか。日曜日に合コンいこうなんて誰も考えてないって」

「えーするのー?」

「美都も来る?」

「行かないっ」

 ハルったら本気なんだか冗談なんだか。でも、日曜日も午前練習くらいはあるかなって思ってたからラッキーだったな。もしやこれって良い前触れ?


そして日曜の朝。

ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ

「姉ちゃんうるせえぞ」

「正宗・・・止めて」

 カチ。

「自分でかけたんなら自分で止めろ」

 五つ年下の弟が私よりしっかりしてるってどういうことよ・・・ああ眠い。いやしかし!

 寝ぼけ眼をこすって階下へ下りる。両親は土日は昼まで寝てるから、キッチンは静まり返って、明るい日差しが降り注がれていた。

 パンをカリカリに焼き、ポットで紅茶を淹れて優雅な朝食。念入りに顔を洗い、歯磨きをしながらラジオ体操第一をし、おじいちゃんの盆栽に無意味に水をかけ、嫌がる犬を連れて近所を三周し、シャワーを浴びてから部屋に戻った。洋服のほこりを取り、アイロンをかけ、マニキュアを塗り、バッグを選んで洋服を着る。もう電車の時間が近い。締めにヅラをかぶって準備完了。ようし行くぞ~。

 駅に着いたのは約束の十五分前。まさか来ていないよね、と思いつつ物影から映画館を覗くと、なななんと達郎君はもう来ていた!

「ごめ、ごめ、ごめん、ままま待った?」

 キャーッ一度はこのセリフ言ってみたかったの!

「別に。練習が早めに終わったから」

 私たちが私服で会うのって初めてじゃないかな?いっつも制服+エプロンだもん。達郎君、アンタやっぱりかっこいいよ!オーラが違うね、オーラが。私は意味もなくあはは、と笑った。並ぶのが偲びないっス。

「何見る?ホラーものの『狩るじいさんと首飛ぶ家』と、サスペンスの『乗道の森』とコメディーの『あ、バーター?』があるらしいけど。ここの映画館、上映作がみんな古いんだよな。どれか見た?」

 私は首をブンブンと横に振った。達郎君が正面から見られない。後光がまぶしすぎてー。

「『狩るじいさんと首飛ぶ家』にしよう」

「それ以外がいい」

「お客さん、もう始まりますよ」

 受付のおばちゃんと目が合う。

「達郎君、じゃーんけーん」

「ぐー」「ちょき」

「『狩るじいさんと首飛ぶ家』二枚ね」

 ラブものはないのかこの映画館は!

「あ、チケット代、」

「いいよ、おわびだから」

 おわびならせめて選ぶ権利が欲しかった・・。

「ギャッ首、首ッ」

「うるせい、静かに見ろ」

「ヒィー」

 今夜は悪夢だな・・・。

「あーおもしろかった。爽快だな」

「首が首が・・・」

「何ブツブツ言ってんだよ。腹減ったな。何か食おうぜ。近いからマックなー」

 なんて爽やかな笑顔なんだ達郎君・・・。歩いていると、女の人はもちろん、男の人も時々振り返るのがわかる。こういう人って日ごろどういう気分なんだろ?

 私たちが座った席には、日曜の午後の幸福な光が溢れていた。春みたいな、柔らかな光。家族連れが通り過ぎる。

「子供から見たら達郎君は巨人に見えるんじゃない?」

「え?」

「野球チームじゃないよ。大きい人のことだよ」

「あ、ああ。わかってるよ」

 達郎君がハンバーガーを頬張る。勘違いしてたな。最近は達郎君が案外天然ボケなのもわかってきた。色んな面を持ってる、楽しい人。あ、まつ毛が光に透けて金色になってる。きれい。髪の毛も、目も。達郎君は光そのもののような人だ。なんてねー。達郎君と一緒に、バスケットにいちごを詰め込んで、ピクニックに行きたいな。広い野原、青い空と緑の風。私たちは手をつないで森の中を歩くの。

「ぐふっ」

「うわーまた不気味な顔してるよ。何かヒワイなこと考えてただろ」

「そんなこと考えてないもん」

「食うの遅いぞ」

「達郎君が早すぎるんだよ」

 達郎君のとっくに空になったトレーを見て言った。頬杖をついて私を見てる。達郎君の肩越しに誰かと目が合った。トーコに似てる。

「た、達郎君もう出よう」

「まだ食べかけじゃん」

「いい、もうお腹いっぱいなの」

「おい、ちょっ、」

 私はいつもハルにやるのと同じようにぐいぐいと達郎君の腕を引っ張って店を出た。

「そんなに引っ張るなよ。知り合い?」

「ごめん、似てただけかもしれない」

「知り合いがいたっていいだろ?バイト中じゃないし、何が悪いんだよ。俺が一緒にいるからか?」

「そんなことない、けど」

「けどなんだよ言えよ」

 どう説明したらいいのかわからない。どこから言ったらいいのだろう。

「どうして逃げなきゃなんないんだよ。一緒にいるのを見られるのが嫌ならどうして映画になんか誘ったんだよ」

 耐え切れなくなって逃げた。でも達郎君は追いかけてこなかった。一緒にいたくないなんて少しも思ってないのに、私は否定の言葉を言えなかった。誤解を解くことさえできなかった。嘘を重ねてきたせいだ。何もかも、一瞬で終わった。こんなに恋の終わりがあっけないなんて知らなかったよ。神様。


「ねね、美都、部室に付き合ってくれない?」

 ユーウツ、ユーウツ、ユーウツ。憂鬱通り越して鬱、鬱、鬱。生きてるの、やんなってきた。そんな矢先。

 パパパパーンッ!

「ギャッ!」

 何も考えずにハルに連れられるまま教室を出て、校舎から離れた所にある部室のドアを開けると、いきなり目の前が七色になった。色とりどりの紙ふぶき・・・クラッカーだ!

「「おめでとう、美都!」」

 紙ふぶき向こうには、バスケ部の二年生全員が並んで笑ってた。状況がいまいち・・・つかめないんですけど。

「美都、彼氏ができたんだってね!」

「初カレでしょ?」

「逃げなくたっていいじゃん」

 トーコが笑って言った。やっと事情がわかってきて、でもまだ混乱していて、涙が溢れてくる。みんなの笑顔を見ていたら不思議と安心したんだ。何か言おうとしたのに鼻の奥がツーンとして言葉が出てこないよ。

「あ、泣いてるー」

「嬉し泣きじゃん?」

「美都に彼氏かあ。ちょっぴりジェラシー」

 トーコがニヤニヤ笑いながら、

「沢コーの七番のフォワードの人っしょ?かっこよかったー。鼻血出るかと思った」

 って、私の肩をばしばし叩いた。

「ちっ、違うの、かれ、彼氏、じゃ、ないの」

 嗚咽が止まらなくってもどかしい。違うの、もう彼氏になる確率ゼロの人なの。

「どういうこと?」

 全部、泣きながら話した。バイト禁止だって知ってたのにしてたこと、男女交際禁止のこと、逃げ出したこと。全部。

「バイト禁止に男女交際禁止ってねえ・・・ハル、あんたが変なこと吹き込んだんでしょ」

「えへへ~」

「えへへじゃないわよ。美都、そんな校則ないよ?馬鹿な藤コーにそんな校則あったら誰も入ってこないって。自由なのが売りでしょ」

「そうだよ!だって私彼氏いるもん」

「私も駅前で堂々とバイトしてるよ?」

「あー、美都が固まってる!」

 そ、そりゃあ固まるよ!ショックで!私の今までの苦労は一体!

「ごめんごめんー。美都が本気で信じるからついおもしろくてさーてへへ」

「ひどいよハル!真剣に悩んでたのに!」

「私、あのマックでバイトしてるんだよ」

 トーコがハンカチで私の涙を拭いてくれながら言った。

「でも、結局だめだったし」

 あ、また涙が溢れてきた。昨日言われた言葉が頭の中でリフレインする。泣き出した私を取り囲んで、みんなが口々に慰めてくれる。その優しさにまた、涙がこぼれた。

「ちゃんと事情を話せば、わかってくれるよ」

 トーコの言葉に深呼吸しながらうなずいた。

「でも、カツラがなくちゃ無理なの」

「どうして?」

「達郎君は髪の毛の長い子が好きなの」

「気にすることないって。そんなことで判断しないよ」

 わかってる。私もわかってる。達郎君がそんな人じゃないってこと。でも、不安なの。

「喧嘩したのだって、もう言いたいこと言える関係に近づいてきたってことなんだから」

「おーっ、出ました恋愛の神、山口ノゾミ」

 副キャプテンのノゾミが簡易椅子に座って足を組み替えた(ジャージだけど)。

「美都はその人と付き合いたいんでしょ?じゃあさっさと告っちゃいな」

「でも」

「でももへったくれもないよ。言わないと何も始まらないんだから」

「今のままでいい」

「今はそうかもしれないけど、誰かにとられた時絶対に後悔するよ。それでもいいの?」

「いや」

「じゃあ思った時に即行動!今までだって美都はそうしてきたでしょ?」

「でも、いや。怖い」

「もーこの子は!」

 ノゾミが痺れを切らして叫んだ。その時。

「あんたたち!ここで何してるの!バスケ部だけいないと思ったらやっぱりここか!」

「ギャッ宮古先生!」

「授業はとっくに始まってんの!今日の練習は校庭二百周!終わるまで帰さないからね」

 あ、あうー。


水曜日、祝日、沢コー、午後一時半。昼食も食べてミーティングも終わった。これから本試合。

 達郎君に会いたくない。バイトは体調不良ってことでお休みしてるから二日会ってない。試合だからカツラできないし、でももう、どっちにしろ顔を合わせられない。合わせても、どうしたらいいかわからない。

「美都、どうした?」

 ハルが、ボールを持ったまま立ち止まった私の顔を覗き込んだ。

「なんでもない」

 そっか、ってハルは言ったけど、私が思っていることはわかっちゃっているんだろう。

「試合は二試合目。それが終わったら片付けて体育館入り口に集合。だいたい三時半からスタートになると思うから、二時半までは自由。二時半になったら隣のコートがあくからそこでフットワーク始めて」

「美都、コートがあくまで試合見よ?」

「うん。まだ時間あるよね?トイレに行ってくる」

「じゃあ体育館の二階にいるね」

 沢コーのトイレってどこだっけ。体育館にはないんだったよなー。隣の校舎に行ってみよう。あ、案内板があるじゃん。私はそっちに気を取られて、前から来る人に気がつかなかった。

「美都?」

 条件反射で声のした方を見た。いつも通りのかっこいい達郎君がそこにいた。ウィンドブレーカーを着て、一人で。

「美都だろ?」

 会いたくなかった。まだ心の準備ができてない。

「ひ、人違いですっ」

 そしてくるりときびすを返して体育館に逆ダッシュ。混乱&後悔。まただよ。また嘘ついちゃった。私は嘘つきマシーンか。話せばよかった。でもカツラがない。嫌われた。もう取り返しがつかない。

「あれ?美都、早かったじゃん。でもちょうどよかったよ。コート使うはずだった東第二が時間になっても来ないから先に使っていいって。みんなアップしに行くってさ」

 ハルが遠くから私を呼んでいる。声はどうやって出すんだっけ。心に、灰色の雲が目隠しをする。それは濡れた真綿みたいに重い。

「美都、早く早く・・・美都?」

 でも、どうして?アップしている最中ずっと、達郎君は私を見てた。姿を確認しなくてもわかる強い視線で、私だけを見てた。バスケのことだけ考えよう。バスケのことだけ考えよう。それがいい。一番いい。

 スタメンが呼ばれて、コートに五人が立つ。私はベンチに座ったまま、他人事のようにそれを見ていた。一年生の声援も、二階からの声も聞こえない。でも、私は耳を澄ませた。

 試合開始直後、ワンドリブルパスでつないで中間距離からのシュート。リバウンドをとってスリーポイント。入れたのはハル。隣の席で宮古先生が何か叫んだ。

 手が、次第に熱を失って冷や汗を伴ったまま冷たくなってゆく。世界中が雨模様。何かが私を追いかけてくる。逃げられない。もう、間近まで来ている。でも、どうすることもできない。重い、雨を吸ったマントが重い。

「小山」

 向けられた声に、はっとして横を向いた。

「次出すから、体動かしといて」

 返事をしてのろのろとウインドブレーカーを脱ぐ。公式試合、相手は沢コー。私なんかが出ていい試合じゃない。疑問と緊張が、一気に電流みたいに私の体を伝う。震える手を押さえて、軽い柔軟体操をした。

「美都、一発かましてきな」

 ノゾミが私の腕を叩いた。その途端、どうしてだろう、全部がワクワクに変わった。灰色の視界が色づいていく。広がっていく。そしてワクワクはドキドキに変わってく。

 先生が合図を送り、交代の指示が出た。見てると狭いコート。立つと広いコート。

「お願いします」

 交代の子とタッチしてオフェンスに加わった。大きく大きく鼓動が鳴った。でも、動き出したら何もかもが吹っ飛んだ。仲間の目を見て合図を読み取る、合図を送る。声を出しても、歓声が大きすぎて聞こえない。でも、声は直接頭に響く。誰の声かがわかる。

ボールを持つ手の震えが止まり、全身に血液が循環するのを感じる。私よりずっと背の高いディフェンスをかわした時の、その快感。

 ゴールへ向かうことを許された瞬間、私は低く回り込むフェイントシュートを、決めた。

「美都!」

「ナイスシュート!」

「次、もう一本!」

 戻ってくる仲間の笑顔、声、体中から発散されるエネルギー。

 丸い、小さな、たった一つのボールを十人で取り合って、それぞれたった一つのゴールへ向かう。それだけのことなのに、胸が熱く熱く震えた。だからやめられない。

 試合を終え、結局出してもらえたのは前半だけだったけど、静まらない高揚感を抱え、一人体育館の外へ出た。

「おい」

 顔を洗っていた水道から顔を上げると、達郎君がいた。

「試合、見た。やっぱり美都だったな、お前」

「ごめん、さっき、あの、」

「いーよ、いいもん見せてもらったから」

 赤い夕日の光を背に受けて、達郎君が笑った。

「それより、日曜はスマン。俺、すぐ頭に血ぃのぼるんだ」

 達郎君が後頭部をわしわしかきながら言った。

「違うの、藤コーがバイト禁止の上男女交際禁止だって勝手に思い込んでて、知り合いの人がいたから、誤解されたりしたらまずいって思って。思い違いだったんだけど、自分のことしか考えてなくって、あのその、」

「そうだったのか、俺、すぐ勘違いするから、」

 薄いコバルト色の空を、オレンジの光線が静かに渡っていく。周囲は絶えずざわついて、人の足音が行き交っていた。

「知ってたんだ」

「何を?」

「初めて会った時、本当はあれが初めてじゃないってこと」

 じゃあ・・・じゃあヅラとか最初から意味なかったじゃんっ。それを早く言って!って言おうとしたのに、あんまりにびっくりして、ただ口をパクパクすることしかできない。

「ここの体育館の二階に座ってたよな。ちっちゃくてどんぐりみたいな子だなって思って、覚えてた」

 そこで、いきなり達郎君は笑い出した。

「でもさ、いきなり髪の毛が長くなっててさ、しかもカツラってまるわかりで、十円ハゲでもできたんじゃないかって思って言えなかったんだよ。ストーカーだとか言うしさ」

「し、知ってたの?ヅラのこと!」

「やたら黒いし整っているし」

「私、友達に聞きに行ってもらったんだよ。ロングヘアーの子が好きだって言ったでしょ?だから、」

「あのさ」

 達郎君が、下を向いて頭をもしゃもしゃかきむしった。

「それって・・・告白だと思っていいわけ」

「え、え、え、え、ええええ」

 わたわた私、な、何てことをおー。

「違うの?」

「違くないないない」

 もうもうどうにでもなりやがれコンチクショーコンニャロメッ。

「なーんだ、そっか」

突然達郎君が動かなくなった、と思ったらまた笑い出した。何?何事?

「俺も、好きだ」

「はい?」

「二度も言わすかバカ」

「い、痛い。何で殴るのー?」

「日曜日さ、美都は俺と一緒にいるのを知り合いに見られたのがショックで店を出たんじゃないかって、一人で勝手に思い込んでてさ」

「ロングの子が好きなんじゃないの?」

 ちょっと不安になって聞いた。

「ご希望なら伸ばすけど」

「こっちの方がいいよ」

 達郎君が私の頭をもしゃもしゃとかきまわした。お父さんみたいな、おっきなあったかい手で。ずっとずっと欲しかった手の平で。

「俺は、ロングヘアーの子が好きなんて言った覚えはないよ」

 もうなんなのなんなの!ハルのばかあ!

「多分なー、それ、俺の弟じゃないかな。一つしか違わないし同じ高校だし似てるし、ランゼンなんて変な苗字だから、美都の友達は俺だと思ったんじゃねえ?」

「あ、そっか、うん、そうかも」

 前言撤回。ハル、一応アリガトウ。

「達郎君」

「?」

「好き」

 達郎君、黙って赤くなって、髪の毛ひっぱってる。おもしろい。可愛い。大好き。

こんな結末を、小さな頃から夢見てた。達郎君の心臓の音、聞こえる。私と重なってる。

「情けねえな、俺。不安でお前にあたったりして。ほんっとダメ」

「私も一緒だよ」

達郎君に甘えたくて、独占したくてもがいてた。いつの頃からだろうね、私たちが同じ気持ちになったのは。きっとすぐに話せるね。

「もぉしもぉしお二人さーん」

「「ギャッ」」

 二人一緒に叫んで辺りを見回すと、体育館の二階の窓からバスケ部全員がぎゅうぎゅうに身を乗り出しているのが見えた。

「お熱いのもいいですけどー、先生に挨拶に行かないと私たち帰れないんですよねー」

「あ、じゃあ、ちょっと、行ってくるね」

「あ、ああ」

「一緒に、帰っていい?」

「門のところにいる」

「うん!」

 そうして私は駆け出した。

 

神様が投げてくれたチャンスを、幸運にも私はつかむことができた。きっと、何億分かの確立で。

 今はまだ、胸の鼓動が止まらない。



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