Accident001
飛奈は三年生になった。
クラス替えで一番仲のいい女子とは別のクラスになり、新入生歓迎の時期が過ぎると水泳部に顔を出すことも全くなくなったが、鵬泰紀との交友は変わらず続いていた。
泰紀を苦しめる飛奈の毒舌は月日を追うごとにエスカレートして、泰紀は困った顔をしながらも、楽しそうにそれに順応していった。
そうして何の変哲もない受験生活が始まって、春が過ぎて、夏が過ぎて、夏休みが明けてしばらくたった頃。
体育祭の練習が始まった月。
数学の小テストが返却されて、英語の授業でディベートが行われて、体育の授業では創作ダンス練習の時間が設けられて、小柄な少女と背の高い少年が久しぶりに校門までの道を共にした、その週。その日。
事件は起こった。
* * * * *
「じゃあな、鴇然。また明日」
「じゃあね」
そう言って、校門を出てすぐの分かれ道で左右に別れた二人はそれぞれの帰路に就いた。
一方は自転車で繁華街のほうへ、もう一方は徒歩で住宅街へ。
「……鵬の、ばか」
一人になった飛奈は、思わず呟いていた。
周りにはちらほら同じ制服の少年少女がいて、同じく下校中だったが、うつむき加減の飛奈の唇から漏れた声を聞く者はいない。
飛奈はけいんと近くにあった小石を蹴飛ばすと、ふと思い立ったように進路を変えた。
普段は直進する交差点で横断歩道を渡り、いつもとは違う道を行く。
少し進むと、飛奈の視界の奥に路線バスの停留所が見えてきた。
がたごとと、凸凹の多い坂道にバスの車体ごと身体が揺れる。
住宅街の主要な道を幾つか経由して進んだ路線バスは、途中まで数人の学生を乗せていたが、いま残っている学生は飛奈一人だけだった。それ以外の制服を着た連中は、坂道の多い住宅街のどこかの停留所でまばらに降りていった。
飛奈と老年の女性二人を乗せたバスが、長く続いた林道を抜けた。
窓際の二人がけの席に一人で座っていた飛奈の目に、強い光が差し込んだ。眩しそうに目を瞬いてからそちらに目をやると、窓ガラスの向こうに見事な夕日が輝いていた。海に照り映える真っ赤な夕焼けが、小さな港町全体を襲っているように飛奈には見えた。
ぼんやりと鮮やかな色使いの風景を眺めて、飛奈は思い出したように降車ボタンを押してバスを止める。
「ありがとうございました」
小銭を払いながら礼を言って、飛奈は夕日がよく見える道路沿いに足をつけた。
オレンジ色に光るバスはその横を通り過ぎていく。
飛奈はすうっと空気を吸い込んで、バスの吐き出した排気ガスにむせて、しばらくしてからバスが去ったのと同じ方向に歩き出した。
曲がりくねった道路、沿うように立ち並ぶ木々の奥に見える灯台を目印に、飛奈は独りで歩を進める。
そこは昔、両親に連れてきてもらった思い出の場所だった。
飛奈の両親が学生時代に訪れて、お互い働き始めてから飛奈の父親がプロポーズした場所だと聞いた覚えがある。
風が気持ちいい、海が一面見渡せるのが心地いい。
灯台の隣にある岬の欄干に、飛奈は身体を預けていた。眼下に見下ろす海が近い。
ここから眺める夕焼けが大好きで、子供の頃飛奈はよくここに連れてきてもらっていた。
あの頃ほど世界一面が夕日に包まれたような壮大さはもう感じられないが、それでも飛奈は、ここから眺める夕方の景色がやっぱり好きだった。
広い空を見上げると、一機の飛行機が飛奈の頭の上を大きな翼で飛んでいった。その影が飛奈を数秒隠す。飛行機は後方へとうなり声を上げながら、空気をかき分けて消えた。
静かな景色が戻った。
飛奈はゆっくりと、目をつむって息を吸って、吐く。
むしゃくしゃした気持ちを、オレンジ色に染まった雲と空、海が力強く癒やす。
しばらくの間、飛奈はそれを繰り返すだけの時間を過ごしていた。
飛奈は、手首に巻いたパールピンクの小さな腕時計を見た。
その文字盤は、午後五時二十五分を指している。
ここからバスと徒歩で家まで帰る時間を考えると、そろそろ出発しないと母親が心配しそうだ。どんな言い訳がいいか考えながら飛奈が夕日に背を向けると、
「……?」
持っていた学生鞄の中から、聞き慣れたメロディが流れてきた。
その場で鞄を開いて、内側のポケットから着信音を響かせる携帯電話を取り出す。画面を見ると、着信は友人の一人からだった。
「はい、もしもし」
こんな時間に同級生から着信があるなんて珍しい。
用件が気になりながら、飛奈が通話に応じると、
『飛奈っ! 無事っ?』
電話口で、友人が金切り声を上げた。
「わっ……どうしたの、大きい声出して。無事って、どういうこと?」
『……そっか。飛奈は、大丈夫だったんだね。………よかった……』
「………? 何かあったの?」
複雑な声色で話す友人に、飛奈が困惑気味にそう尋ねると、
『………あのね、飛奈。よく聞いて』
「なによ」
『いま、街のほうで、交通事故があったの。自動車と、自転車の。自動車は、わき見運転だったらしいんだけど、その、自転車の、ほうが、ね』
「…………」
非常に焦っているようで、友人は呼吸も荒く、途切れ途切れに言葉を漏らす。
『その、それが、学生というか、ひ、飛奈のね』
「ちょっと待って。落ち着いて、わかんない。ゆっくりなにがあったか話して」
『………、』
諭されて、友人は少し黙ってから、
『……街のほうで、事故があったの。自動車と自転車の。自転車に乗ってたのがうちの生徒で、それで学校のほうに連絡が来て、部室に残ってた私たちにも伝わったんだけど……』
「そうなの。で、なんで私に連絡を? もしかして、私が事故に遭ったと思ったの? それなら心配しないで、私は──」
『ちがうの!』
飛奈の声を遮って、友人はまた大きな声を上げた。
『事故に、事故に遭ったのはね………』
『鵬くんなの』
飛奈の頭の中を、夕暮れの光が狂ったように駆け巡った。
「………は?」
たった一音ひねり出すのが精一杯だった。
『信じられないかもしれないけど、また私たちの冗談だって思うかもしれないけど、ちがうの。本当に、本当に鵬くんが事故に遭ったって、いま連絡があって……』
友人の説明の声は、飛奈の思考にまで届かなかった。
「…………あいつは、大丈夫なの?」
『……先生が話してるの聞いたんだけど、意識不明の重体だって。なんか、噂では頭とか怪我してるみたいで、かなりヤバ』
そこまで聞き届けて、飛奈の手のひらから携帯電話が滑り落ちた。
かしゃん、とアスファルトが小さな音を立てる。
飛奈の細い指先が、かたかたと震えを増す。夕日を眺めていた双眸が、それを夕日かどうかさえ認識できなくなる。
次いで、膝が小刻みに笑い出した。
地面からわずかに聞こえる友人の金切り声も、飛奈にはまるで届かない。
鵬泰紀が死んだ。
誰もそんなことは言っていないのに、飛奈の狭まった頭の隅では最悪の事態がよぎってしまう。
飛奈は細い神経の糸がぶつりと千切れて、腕や脚が自分の身体から外れていってしまうような気がした。
ふらりと、不確かな足取りで飛奈の足が動いた。
自分でも、なぜそうしたかはわからない。
がむしゃらに、張り裂けてしまいそうな感情を何かに押しつけたかっただけかもしれない。
飛奈は脇に落ちた自分の鞄の中から、和紙でできた紙飛行機を取り出した。
いつかの放課後、背の高い少年が珍しい物が手に入ったと言って持ってきてくれた、飛奈の宝物。
「あぁ、………あああ、ああぁ」
言葉にならない嗚咽を零しながら、飛奈の小柄な身体は欄干に詰め寄る。
まっすぐ歩いているつもりでも、飛奈の視界の中ではぐらりと夕日が眩む。
「うっ………う、う、あぁぅ」
苦しいとも、悲しいともつかない虚ろな表情が整った目鼻立ちに浮かぶ。
片手には、大切な宝物の紙飛行機。
「……ぁぁぁああああ、ああああああっ!」
何かをしたかったわけではない。
何かができると思ったわけでも。
ただ飛奈は、何かを断ち切るように声を上げながら、目映ゆいばかりの海へ一歩を踏み出す。
握った紙飛行機がその手を離れて、オレンジ色の光へと、水面へと吸い込まれていく。
そして、そして、そして。
水平線の向こうでは、瑠璃色が瞬いて───。