Coincidence001
鶴の折り方を知らない。
それが、鴇然飛奈が中学生になって初めて直面した問題だった。
地元の公立中学校に進学した飛奈は、ごく普通に入学式を終え、〝入学おめでとうテスト〟とやらに悩まされ、新しい友達を作って学校生活になじんでいた。
クラスメイトの多くは、中学校生活のメインともいえるなんらかの部活動に参加して放課後の教室をがらんと空けている。
もちろんクラスの全員が部活動に入ったわけではないだろうが、それでも今日、放課後に教室に居残ったのは飛奈一人だった。
好きでそうしているわけではない。飛奈だってすぐにでも家に帰りたい。
飛奈がそうしない理由は、ホームルームでの担任の言葉にあった。
「みんなも知っていると思うけど、井森くんが交通事故に遭って入院中のため、先週からずっと欠席しています」
「そこで、みんなで千羽鶴を作って、学校に来られなくて寂しい思いをしている井森くんに届けてあげましょう!」
担任の提案が、気に食わなかったとは言わない。
むしろその案自体には賛成だった。
話したことのないクラスメイトだったけど、入学早々事故で入院なんてかわいそうだし、もし飛奈がそうだったなら届けられた千羽鶴はやっぱり嬉しいはずだ。
けれど、飛奈はその提案を素直に呑むことができずにいた。
その日のうちに十枚の折り紙が配られて、三十人のクラスで三百羽鶴にしよう、ということになったのだが、ホームルームの終わり、担任は笑顔でこうつけ加えたのだ。
「では先生が明日までに井森くんに届けておくので、今日の最終下校時間までに、作って職員室に持ってきてくださいね!」
この一言が、飛奈を悩ませる種だった。
飛奈はどれだけ日が傾いても、机の上の折り紙十枚との睨めっこをやめることができなかった。
「うーん……、うーん。……ぅーん」
奇妙なうなり声を上げ始めてから、もう五分は経っただろう。
春物のセーラー服を着た小柄で華奢な、白い肌がショートの黒髪に映える少女は、試行錯誤の末にいくつかの解決策を考えていた。
一つは、ほかのクラスメイトに教えてもらう。
これができれば簡単だったのだが、先ほどまでと同じく教室の中はがらんとしていた。さすがに本人の家や部活動の場まで赴くのは気が引けるし、部活動が終わるのは最終下校時間間近だろう。
では、見ず知らずの校内で会った誰かに教えを請うか。
これも、飛奈にはできなかった。
特別人見知りというわけではないにしろ、いきなり声をかけて鶴の折り方を教えてくれ、というのは中々に珍妙な行動だ。良識がある──と自負している飛奈は、入学早々おかしな噂になりそうなことをするのはごめんだった。
「うーん………」
いっそ職員室に乗り込むのはどうだろう。
担任、あるいは手の空いている教師に事情を話して、折り方を教えてもらう。
「………うん」
色々考えた結果、それが最善だった。
それぞれ色の異なる折り紙十枚を机の上でそろえて、折り曲げたりしないよう気をつけて片手に持つ。もう片方の手で、机の脇に引っかけていた学校指定の鞄を担いだ。
「っと、とと」
その鞄が予想以上に重く、飛奈の小さな身体がぐいんと右に傾いた。
教室の一番後ろの席から、後方のドアに向かってと、と、と、と飛奈の上履きが床を飛び跳ねる。そのままドアにぶつかりそうになって、
「あ、あぶな───っ……」
「えうわっ?」
ぼすっ、と。
目の前から急にドアがなくなって、代わりに飛奈は黒い布地へと顔から突っこんだ。
「?」
硬い感触を予想していた飛奈の頭に、疑問符が浮かぶ。
「? ?」
細い指先で布地の表面にぺたぺたと触れる。手のひらで色々まさぐってみると、それが人間の胸腹であることがわかった。
「え? っと……大丈夫?」
頭の上から届いた声に、飛奈は勢いよく布地から顔を放す。そこにいたのが、
「たしか……鴇然さん、だよな? ごめんな、俺が急にドア開けたばっかりに。怪我はないよな?」
申し訳なさそうな顔をした、背の高いお人好し少年。
鵬泰紀だった。
* * * * *
鵬泰紀は、飛奈のクラスメイトの一人だった。
話をしたことはなかったが、男子のなかで二番目に背が高いということでよく覚えていた。
さわやかで背の高いスポーツマン、ということでクラスの女子のあいだでも噂になることもあった。なんの部活に入っていたかはよく覚えていない。
ぶつかって、さらに色々とまさぐってしまった飛奈があわてて飛びのいて謝ると、泰紀は笑いながらあっさり許してくれた。
泰紀はそのまま教室に入って、自分の席からスポーツバッグを手に取ると、飛奈に一言かけてまた教室を出て行った。
どうやら、忘れ物を取りに戻っただけらしい。
と、いうわけで。
「ぇうーん……」
飛奈はまた一人で、教室で頭を抱えてうなる羽目になってしまった。
机の上には、泰紀とぶつかった拍子にひしゃげた折り紙が並んでいる。
「どうしよう……」
数分後。
鵬泰紀は一階の廊下を歩いていた。
先ほど教室から持ち出したスポーツバッグのほかに、さっきまでは持っていなかった指定鞄も肩に担いでいる。
泰紀の背丈は、中学一年生にしてはかなり高い部類だった。廊下を通る上級生がすれ違いざまに泰紀の上靴を見て、その爪先の色が泰紀が一年生であることを表していて、ひそかに驚く。そんなことが、今日だけで五回はあった。
ずらりと並ぶ教室の反対側の窓からは、ベンチのある中庭が見える。昼休みにはよく上級生の仲良し女子グループが占領しているのを見かけるが、今は放課後だからか誰も座っていない。
泰紀はため息を吐きながら、ちょっぴり残念そうな顔で廊下の途中でぴたりと止まって、
ガラガラガラ。ばたり。ひらひら。
「ひゃうっ!」
「……お?」
泰紀が教室のドアを開けた瞬間、悲鳴とともに小柄なセーラー服が床に倒れて、折り紙が宙を舞った。
「だ、大丈夫?」
「えっ……あ、お、鵬……くん?」
顔を守るために突き出して床と激突した手をさすりながら、飛奈はその手をとって立ち上がる。
「ど、どうしたの? 部活かなんかに行ったんじゃ……」
「いや、それが、楽しみにしてたのに水着を教室に忘れてさ。それで急いで取りに戻ってプールに行ったら、先生に今日の部活は急遽オフだって言われちゃったんだ。……てか、そっちこそ何やってたの?」
きょとんとした表情で訊ねながら、泰紀は床に散らばった正方形の紙を拾い上げた。ほかにも何枚か、同じような色違いの紙がばら撒かれている。
「……折り紙?」
「あ……それ、井森くんに……送るやつ」
「もしかして、俺が急にドア開けたからビックリして落として、こんなくしゃくしゃになっちゃったとか?」
「え、ううん。そうじゃ……ないけど……」
「………」
なにを思ったのか、泰紀は自分の鞄の中をごそごそと漁り始めた。
首を傾げる飛奈に、
「はい、これ」
泰紀は綺麗な折り紙を十枚ほど手にとって、飛奈へと差し出した。
「えっ? こ、これって……」
「代えの折り紙。あげるよ」
「あ、ありがと………」
目を丸くしながら、飛奈はそれを両手で受け取る。
「ごめんな。それじゃ、また明日」
さわやかな笑顔でそう言うと、泰紀は自分の机へとスポーツバッグを放って、すぐに踵を返そうとする。
「あ……あの、待って!」
その背中を、飛奈が掴んで呼び止める。
「私に、鶴の折り方教えてくれない?」
「うちのばあちゃんが折り紙好きでさ。新潟の田舎に帰るたびに、よく教えてもらうんだ」
飛奈の机に向かい合って、一緒に折り紙を折る泰紀はそんなことを言った。
「毎年夏と冬に行くんだけどさ、俺いとことかいないから、遊び相手がばあちゃんとじいちゃんくらいしかいないんだよ」
「静かでいいじゃない。私なんて、いとこたくさんいるから。うるさくて仕方ないよ」
飛奈は微笑んでそう返す。
二人は同じ机の上で、一つ一つ丁寧に手順を確認しながらゆっくりと鶴を折り進める。
「この折り紙って、鵬くんの?」
「いや、俺のはもう提出した。これはばあちゃんに貰ったお守りの折り紙だよ」
「え、お守り?」
「そ。地域の風習とかってわけじゃないらしいんだけど、ばあちゃんは折り紙がお守りになるって信じてるらしくてさ。俺も中学入学祝いに貰ったの」
ちょうど十枚ね、と泰紀は笑った。
対して飛奈はうろたえて、
「そっ、そんな! じゃあこれ、大切なものでしょ? 私なんかに渡しちゃって……」
「いいのいいの。貴重な折り紙とかじゃないし、鴇然さんが困ってるのに使わなかったら、何のために持ってるんだって話だし」
「ご、ごめんね……ありがとう」
「………いや、気にしないで」
上目遣いで感謝を伝える飛奈に、泰紀はぷいと顔を背けた。
そんな会話をしているうちに、十分とかからず二羽の鶴ができあがって、
「まだ残ってるじゃんか。付き合うよ」
夕日が差す教室で、二人は楽しそうにおしゃべりをしながら放課後の折り紙に興じた。
「ね、ねえ。鵬……くん」
「ん?」
二人でこしらえた折り鶴を、無事職員室に届けた別れ際、飛奈は泰紀に改めて礼を言った。
「今日は、ありがとう。ほんとに助かった」
「いいっていいって。話すの、今日が初めてだったよな。これからもよろしく」
「よ、よろしく」
ぺこりと飛奈が腰を折った。
「じゃあ、また明日」
そのまま帰りかけた泰紀に、
「あ、あの、もしよかったら……」
「ん? なに?」
「…………わ、私と」
ごにょごにょ、と飛奈のか細い声がくぐもった。
「はい?」
「つ、つつ……つっ、つ………」
「つ?」
「つつ、付き合ってください!」
「…………」
「………うぅ」
「…………」
「………?」
「……えっ、何に?」
「えっ」
予想の斜め上をいく反応に上下左右に目を泳がせた飛奈は、
「え、えーっと………お、折り紙、とかに」
──それが、二人の奇妙な関係を生んだ〝偶然〟の、はじめの一つだった。