Try244
その日、三年二組の教室では、ちょっとした悲喜が学生らしい騒がしさを生んでいた。
中学三年生で習う数学には、平方根や二次方程式、図形における定理など、今後より深く数学を学ぶための基盤を作る重要な内容が含まれている。
二年間に渡って、算数を深化した数学の世界を体験してきた中学生にとってはここが一つの節目となる。前期高等教育の終盤、つまり高校受験を控えたこの時期に、その得意不得意、コツや思考方法を見定め、的確に対策する必要があるのだ。
ここで具体的かつ合理的に数学の〝理解の仕方〟を理解した者こそ、真に正解へと近づける。
──そんなことを、数学教師は小テストを返却したあとに熱弁した。
「かの偉大なる数学者は言った」
そして授業後。
十分間の休みに身を投じた生徒たちが思い思いに過ごすなかで、
「〝結局は、数学者が一番賢い〟!」
「それを言ったのは川口先生だし、おまえは数学者でもないし、そもそも俺よりたかが十点点数が高いくらいで偉そうなこと言ってんじゃねえ」
ふふん、と勝ち誇ったように薄笑いを浮かべる飛奈は、答案用紙を少年の眼前でひらひら振っていた。その右上の枠には、赤いペンで「82」と刻まれている。
「十点じゃなくて、十二点よ」
「うっせー。くそぅ、ほかの教科はできないくせに、なんで数学だけ得意なんだよおまえ!」
「ふふん、センスってやつよ。セーンース」
脚と腕を組んで、楽しそうに自慢する飛奈を近くを、クラスメイトたちが微笑ましそうに笑いながら通った。
「鵬くん、飛奈に負けちゃったのね」
「やーい。アホに負けてるー」
「……おまえらよりは点数いいぞ、俺は」
「あとあんた、ナチュラルにあたしのことアホ呼ばわりしたわね」
少年と飛奈が横目にじろりと睨むと、
「へ、へへ。またお昼にね、飛奈」
〝アホ〟発言をした、いかにも口の軽そうな八重歯のクラスメイトはそそくさと自分の席に戻った。
それを見てくすりと笑うもう一人は、
「じゃあ、私もまたお昼に。──あ、飛奈。今度歴史と理科教えてあげるから、代わりに数学教えてね。鵬くんは英語」
悪びれず、ずる賢そうな笑みを浮かべながら、歩いていって明るい窓際の席に就いた。そこでまた、八重歯のクラスメイトと楽しそうにおしゃべりを始めた。
少年はその光景を眺めながら頬杖をついて、
「まったく……あいつ、将来はとんでもねえ悪女になるな」
独りごちた。
「それにはあたしも同意。……お、あんたこの問題間違えたんだ」
飛奈は賛同して、それから少年の机の上に出たままの数学の答案用紙を覗きこんだ。
「な、なんだよ」
「ふーん。いや、べつにぃ?」
「なんか言いたげだな」
「いやー? ただ、こんな、ねぇ? 簡単なところを、間違えたんだなーって……ぷぷ」
わざとらしく、飛奈が目を伏せて口元を袖で隠す。
「だーっ、癇に障るヤローだな! てめーの英語の答案見ながらおんなじこと言ってやろうか!」
「ぷぷぷ、怒らない怒らない。あと、ヤローじゃないからね」
満足げに言ったあと、改めて少年の答案用紙を見た飛奈は、
「んー、なんだ。図形問題全部間違えてるじゃない。あ、小問まで」
そう分析した。
たしかに、少年の答案用紙の図形が記載されている問題には、どれもバツか三角の印が入っていた。少年は、それについては今さら弁明するつもりもないらしく、
「ああ。なんか定理とか図形って苦手でさ。なんつーか、〝世の中にはいろんな図形があるのに、こんな決まりごとが全部綺麗に当てはまるのか?〟とか考え出すと、よくわからなくなるんだよ」
「そんなに小難しく考えなくていいよ」
真面目な顔で語る少年に、苦笑しつつ飛奈は自前のペンを取り出した。ペン先は出さず、答案用紙に直接書き込まないようにして、目についた問題の解説を始める。
「問1は基本なんだから、ワークにあるのとほとんど同じでしょ。こことここが、こっちの二つと同じ長さで、その間の角が45°で等しいんだから、これとこれは合同」
「ふむ」
「で、こっちは比が同じだから相似。あんた条件全部覚えてんの?」
「一応、覚えてるけど。でも言葉で覚えても、実際の問題を解くときには、なあ」
珍しく少年が困ったような顔を見せた。
「ふーん」
一度、飛奈は考えるように形の整った眉を動かす。
二秒ほど止まってから、
「……よし。じゃあ、今日の放課後折り紙の合間に、私がここ教えてあげる」
「え?」
少年が間の抜けた声を出した。
「だって、来週も小テストあるでしょ。範囲は変わらないし、ここ苦手だとあんた二学期の数学は2付くわよ」
「うげ……」
数ヶ月後、自分の手元に届くであろう残酷な通知表の姿を思い浮かべて、少年はあからさまに嫌な顔を見せた。
「ね、決まり。私はべつに英語見てくれーなんて言うつもりないから、安心して教えられなさいよ」
小さな胸を張って、飛奈は得意げに顔を綻ばせた。
そんな、得意になった小動物みたいな飛奈の仕草を見て、
「………なんか、さ」
「ん?」
「なんつーか、おまえに放課後マンツーマンで勉強教えてもらうなんて………」
飛奈の脈動が、ほんの少しだけ速まった。
期待を秘めた栗色の瞳で、目の前で照れ臭そうに顔を伏せる少年を見つめる。
少年は何度か言い淀み、目線を右往左往させて頬を人差し指で掻く。
「……バカに教わってるみたいですげー恥ずかしいな」
「なっ…………ぼ、ぼけ!」
顔を真っ赤にして汚い言葉を吐き捨てた飛奈は、がたんと自分の椅子を前に向け直して机に突っ伏した。
「あれ? ここは怒って蹴ってくるパターンじゃないの?」
「乙女心を芸人魂といっしょにすんな!」
「?」
叫び返された言葉の真意を図りかねて、少年は問い詰めようとしたが、ちょうどその時前の扉を開けて気難しそうな顔をした、実際気難しい国語教師が入ってきたので追及はやめることにした。
飛奈と鵬少年から少し離れた窓際の席では、二人の女生徒が、色んな顔を見せながら楽しそうに会話をしている飛奈と少年とを眺めて世間話をしていた。
「おーおー。飛奈とオートリはいっつも仲いいなー」
「だねえ」
「あの二人、付き合ってたりすんのかな?」
「うーん。傍目にはそう見えるけど……どうなんだろう」
「付き合ってたら、クラス中に広めて学年中に広めて、からかい倒してやるのになー」
「……あんた、ほんとにいい性格してるわね」
「ども」
「褒めてないよ。……あ、でもそういえば……」
「どした? 二人がチューしてる現場こっそり見たの思い出した?」
「そんな経験ないから。じゃなくて、たしか鵬くんって、ほかのクラスに…………」
* * * * *
飛奈の地獄耳は、同級生のそんな会話を捉えていた。
飛奈だってそんなことは、とっくに知っていた。
だからこそ、こんな他愛もない会話に精を出して、放課後に残って好きでもない折り紙を折っているのだ。
それがわかっているから、涙をにじませることもできないで、飛奈はただその時間を怠惰に過ごしていた。