Try504; a factor
これは何度目の秋だったろう。
最近ほかの季節を見ていない気がするのは、少なくとも飛奈にとっては気のせいではなかった。
校舎とグラウンドを挟む並木道に、冷たい風が吹き荒れる。
運動場にもその風は吹き荒び、多くの部活動に励んでいた少年たちが震え上がった。空には雲が多く、日は弱い。
飛奈はL字型になった校舎の本館一階、開かれた玄関口から下履きに履き替えて外に出た。目に入る景色に違和感を覚える。
飛奈の知る運動場の位置が、以前までと変わっていた。
用具を置いてある場所も、運動部の部室棟の形も変わっている。今日は〝七日目〟だというのに、まだ変わってしまった景色に目が慣れないでいた。
そんな、金曜日の放課後。
「よっ、鴇然」
と、運動場のほうをぼんやり眺めていた飛奈に、手近の自転車置き場から声がかかった。
「帰りか?」
声をかけたのは背の高い少年。
短い黒髪はツンツンと逆立ち、スポーツマンらしいさわやかな笑顔が眩しい。
細身だが筋肉質と思われる身体は、黒い学生服に包まれて自転車の上で風を切った。
「ええ。そうよ」
飛奈は内側で湧き上がる感情の波をこらえて、そっけなくそう返した。
車輪を転がして飛奈の隣まで来た少年、泰紀はそこで自転車から降りると、二人は横に並んでどちらからともなく歩き始めた。
「進路希望、なんて書いた?」
飛奈がぶっきらぼうに尋ねた。
「あー、進路かあ。なんて書こう」
曇った空を見上げながら、泰紀がぼやく。
「あんた、進学するんでしょ? ふつうに受験するって言ってなかったっけ」
「あれ、俺言ったっけ?」
「たぶん」
飛奈は表情を動かさずにごまかした。
「でも、推薦も狙ってるんだよな。凌谷付属の」
「あんたの成績で凌谷なんていけると思ってんの?」
「勉強じゃなくて水泳のだよ。わかるだろ」
「なに、あんた水泳選手にでもなりたいわけ?」
飛奈の小馬鹿にするような冗談に、
「ん……まあ、一応な」
言いよどんだが真剣な声で、泰紀は返答した。飛奈は耳に届いた答えに驚いて、目を見開いて高い位置にある泰紀の顔を見上げる。
「えっ、本気なの?」
「ああ」
今度は、力強い声での返答。
「将来食っていけるかとか、そんなの全然わかんないけど。でも俺は一生水泳して生きてたいし、大好きな水泳でプロを目指したいと思ってる」
「へぇ………」
まるで珍しいものでも見るような顔で、飛奈は隣にいる泰紀の普段見せない一面に感嘆した。
飛奈はいつになく弾んだ声で、
「じゃあさ、出る種目とか決めてんの? 得意なのとか、やってみたいのとか」
「そうだなぁ」
泰紀は少し考えるふうにして、
「バッタがやりたい」
そう答えた。飛奈の頭にクエスチョンマークが泳いだ。
「バッタ? バッタって……あ、バタフライね」
「そう。自由形でクロールよりも速く泳げるくらい、バタフライをやってみたいんだ。紙飛行機みたいに、気持ちよく風に乗ってどこまでも飛んでいくみたいな泳ぎでさ」
〝紙飛行機〟という言葉に飛奈の動きが止まったが、泰紀はそれには気づかず、興奮したように言葉を続ける。
「世界水泳なんて、すごいんだぜ。前の見たか? ストロークとキックがさ、もう芸術的ってぐらい滑らかでさ。なのに力強いの。腰の動きっていうか、しなりが鍛えてあるんだろうなー」
それからも、きらきらした瞳で世界水泳について語る泰紀の横顔を見上げながら、飛奈は桜色のため息を吐いた。
……ああ、やっぱり好きだな。
こいつのこと……。
ずっと抑えてきた飛奈の内側の慕情が、奔流となって胸の中心を溶かし始めた。
一度目覚めてしまったが最後、止めどない奔流は激しい波になって飛奈の身体を襲い、心臓の鼓動を一層速めた。甘く熱い、柔らかな感情が仏頂面の表層にまで流れ出て、もう溢れるのを止められない。
飛奈本人にはもう、どうしようもなかった。
「……でさ、カナダのウィリーグレイル選手が優勝したんだけどさ。その試合がホントにすごかったんだよ! 一万人の観客の前でだぜ? 国際大会であんなタイム出せるなんて、信じらんねえよな」
好きなものについて気込みで語る泰紀の姿を前にして、飛奈はそれを言葉にしてしまいたくなった。
「それから後は………おい、どうした。熱でもあるのか?」
泰紀がぼうっとしていた飛奈の顔を覗き込む。
「……なんでも、ない」
ふい、と飛奈は思わず赤くなった顔を背けた。
泰紀は頭にクエスチョンマークを浮かべながら、
「そういや、おまえはなんて書いたんだ? 前に子供が好きとか言ってたし、保母さんとか?」
にやにや笑いながら、飛奈にそんなものは似合わないという自覚があるのがわかっていて冗談を放つ。
飛奈は、どう答えようか迷った。
いつもなら気の利いた皮肉が自然と口からついて出るのに、今の飛奈にはそれができない。
そこで、飛奈の頭に不誠実な考えがよぎった。
──どうせ、何を言っても今日の放課後にはなかったことになるんだ。
そんな魔が差した。飛奈は、
「あんたのお嫁さんとか」
とんでもないことを、事もなげに呟いた。
「ぶっ………は、はあ?」
一瞬息を詰まらせて、少年は反射的に大きな声を出して飛奈の頭を見下ろした。飛奈はいつもと変わらず無愛想な顔をして、泰紀の隣をちょこんと歩いているだけだった。
泰紀はどんな反応をすればいいか単純にわからず、
「おま、おまえ、どういうつもりだ」
単純にそう尋ねた。
「なにが?」
飛奈も、単純に訊き返した。
「な、なにがって、その、それって………こ、告白とか通り越して、もうプロポーズというか……」
「あんたがそう思うんなら、そうなんじゃない?」
「…………」
飛奈のそっけない返事に、泰紀はあたふたしていた自分が急に恥ずかしくなって、重い息を吐きながらがしがしと頭を搔いた。
「……また悪い冗談か」
飛奈は翻弄される泰紀の姿を見てくすりと笑い、
「本気よ」
「そんな楽しそうな顔で言われても説得力ねえよ」
「あんたこそ、そんな真っ赤な顔だと説得力ないわよ」
「う………」
痛いところを突かれたようで、泰紀は飛奈が隣を歩くのと反対の方向に顔を向けて、口元を手のひらで覆った。
飛奈は、そんな泰紀の反応を愛くるしく感じると同時に、薄く驚愕してもいた。
泰紀が顔を赤くしてそっぽを向くことなど、これまでにないことだった。そんな初心な反応を引き出すことに成功した飛奈は、俗にいえば〝調子〟に乗っていたのだろう。
今なら、何でもできる。言える。
そんな虚飾の自信が、飛奈の内に芽生えた。
「………ねえ」
まだ向こうを向いている泰紀に、飛奈は声をかけた。泰紀が振り向くまえに、
「今日はさ、那色のところに行くの……やめなよ」
試しにそう告げてみた。
「は? なんだよ、それ」
案の定、泰紀は眉をひそめて飛奈に振り返る。
飛奈はそちらには目をやらず、前を見つめたまま、
「行かないほうが、いいと思うの」
「なんで」
「なんでって、べつに……」
飛奈はそこで返答につまった。
泰紀に本当のことを話しても、飛奈がまた悪い冗談を言っているのだと一笑に付されるだけだろう。いきなり〝実はあなたは何度も死んでいて、自分はそれを止めるために助言している〟なんて言われて信じてしまうド級のあほなら、飛奈だってここまで苦労していない。
飛奈が逆の立場なら、泰紀のお腹にぐーでパンチを入れているところだ。
そんなことを考えて曖昧な返事をする飛奈に、
「おまえがどう思ってるかは知らないけどな」
いつになく冷たい声で、泰紀は飛奈を突き放した。
「べつにあいつは悪い奴じゃねえよ」
「べつに、悪いなんて言ってないわよ」
むっとして飛奈が言い返すと、
「今の言い方じゃ、そうにしか聞こえねえよ。おまえ、そういや水泳部にいた頃から那色とはあんまり話しなかったもんな。それは構わないけど、でも陰口言うのはよくねえだろ」
「そんな、陰口なんかじゃ………」
あわてて、飛奈が弁明に走る。
「ただ、今日、あいつのところに行くのはまずいっていうか……行くと、あんたが危ないっていうか………」
「だから!」
急に語気を荒げた泰紀に、飛奈の小さな身体はびくりと震えた。
「なんで、那色に会いに行くのが危ないんだよ。あいつが、俺になんか危害を加えようとしてるとか、そんなこと本気で思ってんのか?」
「ち、ちがうわよ。そうじゃなくて、那色がどうとかじゃなくて、行くのをやめてほしいの。じゃないと、あんたが、死…………」
「なんだよ」
続く言葉が、出なかった。
本人を前にして言うのが憚られた、というのもあった。口にしてしまうことで、何かが破綻してしまうような気もした。
しかしそれ以上に、激昂する泰紀が恐ろしくて何も返せなかった。
「………………」
いつまでも言葉を出せないでいる飛奈に、
「もういいよ」
背を向けて、泰紀が吐き捨てた。泰紀の押す自転車が、キイ、と軋んだ。
「俺、おまえは口悪いけど、人の悪口とか言わないから本当は優しいやつだと思ってた。けど……そうでもなかったんんだな」
「ち、ちがっ……」
「いいって、もう」
飛奈の胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「……俺の理想押しつけて、悪かったよ。じゃあな」
肩越しにそう告げると、泰紀はそのまま自転車を押して行ってしまう。その背中がいつもより遠くに見える。
こんなことは初めてだった。
何回も何回も中学三年生のこの時期を繰り返したが、最後に飛奈が泰紀を怒らせて仲違い──なんて結末を、飛奈は知らなかった。
想定外のことに焦り、うろたえて、飛奈はどうするのが正しいのかわからなかった。恐る恐る、わなわなと口を開いて、
「な……なんでそんなふうに言うのよ! なんで、そんなにあいつの肩持つの!」
そう叫んだ。
近くを歩く生徒が、飛奈の高い怒声に驚いて振り向いた。そんな輩は気に留めず、
「なんで、なんで私が悪者なのよ。だって私が、私が一番………」
どんどん遠くなる泰紀は聞く耳を持たない。そのまま、下校する生徒に紛れて遠くへ行ってしまう。
泰紀がどんな顔で何を思っているか、飛奈にはもう想像もつかない。
「………私だって、私だってあんたのこと………!」
普段使わない喉の筋肉を震わせて、声を振り絞る。
「好っ…………」
うつむいていた顔を上げると、
「…………、」
そこにはもう、少年の黒い学生服の背は見つからなかった。
奇異の目を向ける制服の少年少女だけが、その言葉の意味なんて知らずに、飛奈の口から音が消えるのを呆然と聞き届けていた。
最後の叫びは届かず、泰紀と最期の別れを迎えた。それがわかって、飛奈は今までになかった喪失感を覚えた。
雲は出ているが、オレンジ色の光は街に届いている。
飛奈は涙に似たものをこぼしながら、しかし惰性でいつものルーティンを決行することにした。
あのオレンジ色の岬へ、向かう。




