屋根裏の地下室
そうね、彼女のはなしをしましょうか。
彼女は、そう。
眠っている。
いつも、いつも。
眠っている。
わたしのアパートの一部屋を占領しているクイーンサイズのベッドで、彼女はいつも眠っているの。
え、わたしはどこで眠っているのかって?
そこは、まあ、ねえ。
察しなさいよ。
わたしが部屋に帰ったときに、わたしは彼女を見おろしている。
いつまでも飽きずに、ずっと彼女を見おろしているの。
なぜって、彼女はまるで人魚のようだと思えるから。
いえ、魚のような姿をしているのでは、ないのよ。
しなやかに伸びる手も足も、船のような流線型を描く腰や胸も。
おんならしくたおやかで、優しい形をしている。
でも、彼女はひとというよりは魚に近い。
なぜって、彼女の見た目はひとよりも水に近いから。
彼女は、水でできているように透明だ。
薄暗い部屋のなかで、ひんやりと冷めた光を仄かに放つ。
彼女の身体は、そんなふうだ。
だからわたしは彼女の身体が、水のなかを遊弋する魚の影みたいだと思う。
いつも、いつも。
そう、思う。
ええ、彼女は生まれたときからそんな姿をしていたわけでは、ないのよ。
じゃあ、そのときのはなしをしましょうか。
水晶のように空気が凜と冴え渡る、朝だったの。
それは、日曜日、春先の朝だったわ。
広い大通りには、誰もいなかった。
空気は刃を潜ませているように、冷たく澄んでいたの。
少し舞い散っていたのは花びらなのか、あるいは雪だったのか。
そう思うほどに空気は、少しばかり残酷な冷気をはらんでいたわ。
彼女はそのよく晴れた日曜日の朝、炎につつまれたの。
人気のない大通りを、彼女は燃え上がる松明となってゆっくり歩いたわ。
なぜ、そんなことをしたのかって?
そおねぇ。
彼女はきっと、全てを受け入れようとしたのよ。
彼女はきっと、全てを捨てて消え去ろうとしたのよ。
そのどちらかか、もしくは両方の理由で自分の身体を炎で纏った。
彼女はその結果、透明になったの。
土を焼き上げて、ガラスになったみたいに。
残ったのは、透明になって残った身体。
そしてそれからずっと、眠り続けている。
今日、その日まで。
ええ、今日、彼女は長い眠りから目覚めたのよ。
いつものように、ベッドに横たわる彼女を見つめていたら、とうとつに目をひらいてこういったの。
「わたしに、メールがきてるんじゃあないかしら」
まるで彼女はずっと起きていて、わたしと会話をし続けていて、ふっと気になったことを口にしたような感じだったわ。
あまりに自然な会話の流れでそういったので、わたしは思わず自分の傍らにあった携帯端末をてにとってメールをチェックしてしまったわ。
ちょうど数秒前にきたメールがあったのでそれを画面に表示すると、わたしは彼女に差し出した。
それは多分、ネット通販のサイトが配信しているプロモーションメールだったと思う。
彼女は、それを見つめる。
透明な彼女の肌が端末の放つ光を中に閉じ込めて、水晶のようにきらきら光っていた。
彼女は、あたりまえのように画面をスクロールさせていくと、メールの一番下を見たの。
そこには、なにかよくわからない数字の羅列があったわ。
彼女は、透き通っている口で、その数字を読み上げていった。
ほんとうになんの意味もなさそうな、ランダムな数字を彼女は読み上げていったの。
そう、なんだかごく自然な会話をわたしとしているようなちょうしで、数字を読んでいく。
1 、 4、 3、9、30、50、80、200、400、777
9、5、30、8、40 、1、93
1 、3 、1 、80、8、93
その後に起こったことを、彼女がごく自然に受けとめたのでわたしもそれをあっさり受け入れたのだと思うわ。
床の一部が、ごとりという音をたてて開いたの。
うちのアパートは一階だてだから、そんな地下への入り口が開いてもいいかもと思ったけど。
でも、それは遥か深い地下へと続くような闇をたたえていたわ。
彼女は突然立ち上がると、あたりまえのようにその地下への入り口に踏み込んでいく。
わたしは、そうするのが当然だというように彼女のあとに続いたの。
でもあっというまに黒い水で満たされているかのような闇につつまれたので、わたしはちょっと後悔したのよね。
わたしは、ほんの数センチ先もみえないような闇へどんどん沈んでいったわ。
闇の大きな腕で、しっかりと抱きしめられたような気になったの。
突然その抱擁から、わたしは解放された。
実際のところ闇の中にいたのはほんの数秒のことだったとは、思うのよね。
でも、ひどく深い闇をとおり抜けたような気になったわ。
そこは、地下のはずだった。
でも、わたしよりひと足さきに闇から抜け出た彼女は、窓の前に立っていたの。
そう、窓がある。
ここは、屋根裏の地下室だったのよね。
わたしは、窓の向こうを覗き込んだ。
とても、青かった。
闇よりも深く濃いインディゴブルーが、空を覆っていたの。
でも、その闇より深い青はとても輝いていたのよ。
闇なのに明るい青。
その眩しさに、目が眩んだその瞬間。
彼女は、窓から外へと飛び込んだ。
わたしは、あっと声をあげ身を乗り出したわ。
不思議なことにその瞬間、空は頭上に輝き屋根裏の地下室は地下になった。
わたしは、ふたつの赤い輝きをみる。
それは、燃え盛る焔であり、輝く太陽。
そのふたつの太陽は、そのひとの瞳となった。
インディゴの空から浮上するように、そのひとは浮かびあがってきたわ。
リヴァイアサンのように、巨大なそのひとは燃え盛る瞳で地上を眺め、両手両足の傷から流す血で赤い雨を地上へと降らせていたの。
わたしは、そのひとに向かって叫んだ。
「彼女は、そちらへいったのかしら」
そのひとは、燃え盛る焔となった声で、わたしに語りかける。
「彼女なぞいない。君ははじめからひとりだ」
あっと思った瞬間。
わたしは、ベッドに横たわっていた。
長い昼と、穏やかな夜がすぎさり。
わたしはようやく眠りにつこうとしていた。
夢の中で。
あなたに会うために。




