雨の日
雨が降っていた。
彼女はその部屋で、雨の音を聞いている。
雨は世界から色を奪い。
世界から音を奪う。
彼女は雨によって。
目を塞がれ。
耳を塞がれているように思う。
世界は。
流れ堕ちてゆく。
彼女は全てが白い闇と、白い轟音に飲み込まれて行くのを感じていた。
彼女は周りに親しいひとたちがいることを感じる。
そして愛するあのひとも、そばにいて。
そう。
皆が彼女に別れを告げようとしている。
彼女は。
世界の白さに白が重ねられ。
乳白色の雨が全てを覆い尽くし。
白のなかへと次第に意識が飲み込まれていくことを。
感じている。
雨がやんだようだ。
あたしは、傘を畳む。
ふっと気配を感じ、振り向く。
路地の入口には誰もおらず、いつものように気のせいなんだと思った。
もう、彼女とは。
会うことはないはずで。
彼女があたしを見つめているなんてことは、ありえないのだけれど。
でも、あたしはいつも気配を感じる。
今日も。
今も。
あたしは思いを振り払い、路地の奥へと足を進める。
ふと、あたしはその小劇場の前で足をとめた。
こんなところに劇場があったなんて。
何度もこの路地を通り抜けてきたはずなんだけれど、はじめて気がついた。
あたしは無意識のうちにその劇場へと足を踏み入れる。
ほの暗い闇を通り抜け、劇場の中へと。
黄昏れより尚暗い劇場の舞台は、紅い幕にとざされており。
密儀の神殿のようにくらく静まり返った客席に、あたしは腰を降ろす。
あたしはひとりきりで、霞む闇に馴染んでいた。
そのとき。
舞台にかかる紅い幕が揺れたような気がして。
あたしは、はっと胸が締め付けられるような想いに捕らえられた。
そして。
当然、というように。
彼女があたしの傍らにいた。
あたしは何も言えないまま。
舞台を見ている。
彼女も何も言わないまま。
あたしとならんで舞台を見ている。
「これは特別なの」
彼女はぽつりと言った。
「もう一度だけ、あなたとお話することが赦されたから」
あたしは何度も頷く。
突然。
開幕を告げるブザーがなり。
紅い幕の前に人形が姿を現した。
古い木で造られた操り人形。
くすんだ銀の装飾がしゃらりしゃらりと音を鳴らし。
絹の衣装が夜の河のように秘めやかな輝きを放って。
太古の祈りのうたのような。
踊りを舞いはじめる。
とても奇妙なことにその人形を操っているひとは目に見えず。
操る糸も見えなかったのだけど。
(いったいどうやってるのかしら)
あたしのこころの問いに応えるように、彼女は呟く。
「だってこれは記憶から造り上げた時間なのだから」
はっとあたしは彼女を見ると、彼女の唇があたしのそれへ重ねられた。
とても冷たいその唇は。
あたしの唇から熱を奪ってゆく。
あたしの中に湧き起こる狂おしいほどの彼女への想いは。
熱となってあたしから彼女へと口づけを通じて流れ込んでゆく。
そして、彼女の手があたしの足の付け根に置かれる。
肌に触れる熱いその手。
熱を持ったその指先は。
さらに奥へとすべって。
あたしの中へ、奥深いところへ熱を埋め込んだ。
ああ、その熱はあたしの中を駆け登りあたしの唇からあなたへと。
あたしたちは。
輪となりひとつとなり、メリーゴーランドのように駆け巡り。
意識もまた。
巡り回って。
あたしは、彼女の瞳からあたし自身を見て。
あたしは気がつく。
ようやく。
雨が降っていることに。
外は雨が河の流れのような音をたてて降り続ける。
薄暗い部屋。
部屋の中には書きかけの原稿。
果たされなかったあたしの夢。
それと机には。
あのひとからの手紙が。
もうあたしには愛すら残されてないことを告げる言葉。
暗い部屋で、あたしは忘却の闇へ自分を埋葬する。
ああ。
愛もなにもかも。
雨が押し流して行く。
部屋はくらく、あたしは目を閉じると。
雨が降っていた。
あたしはその部屋で、雨の音を聞いている。
雨は世界から色を奪い。
世界から音を奪う。
あたしは雨によって。
目を塞がれ。
耳を塞がれているように思う。
世界は。
流れ堕ちてゆく。
あたしは全てが白い闇と、白い轟音に飲み込まれて行くのを感じていた。
あたしは周りに親しいひとたちがいることを感じる。
そして愛するあのひとも、そばにいて。
そう。
皆があたしに別れを告げようとしている。
あたしは。
世界の白さに白が重ねられ。
乳白色の雨が全てを覆い尽くし。
白のなかへと次第に意識が飲み込まれていくことを。
感じている。
白い輝きが世界を覆い尽くし、雨が全てを溢れさせてゆくのを。
あたしは消えゆく意識のなかで感じていた。