mono
テーマ:色彩
僕は車に揺られていた。小さな車だ。
席は狭くて、前に座る運転手と、助手席に座る男、僕は後部座席に座っていた。君は隣にいて、緑の黒髪が薄い影に揺れていた。
窓ガラスは霞んでいて、外の様子はよく見えない。ただ、何処を見ても誰を見ても、ほとんどが色は白と黒の色彩だけで構成されていることが分かる。
この世界にくすんだ灰色はあっても、体中を流れているはずの鮮紅も、向こうの陸まで続く深青も、夏の花畑に咲く輝橙も、僕はもう覚えていない。
窓ガラスをこすっても、やっぱり外の景色は変わらない。
君の顔を見ることができず、左手でシートの上を探り、君の小さな手を掴む。
普段は自信有りげで胸を張っている君。だけど今の君の手は震えていて、驚くほど冷たかった。
顔を覗き込もうとしても、君はうつむいたまま。透明な何かに濡れた睫毛がわずかに揺れ、美しい瞳は閉め切られたままだった。
君の手をもう一度しっかりと握り直し、固く繋いだ。手の届くところにいないと、消えてしまうような気がして、閉塞感に似た寂しさを感じた。
運転手と助手席の男が、小声で何か話している。所々に聞こえる単語は全く聞き覚えがなくて、僕の知らない言語を使っているようだった。
助手席の男がラジオのチャンネルを回す。すると若い女性の声が聞こえてきて、これから雷雨になるでしょう、と言った。
君が少し肩をこわばらせた。その後流れたであろう詳細は男がチャンネルをまた回したせいでわからないけれど、何だか肺のあたりが重くむずむずした。
運転手が、今度はハンドルを片手で握ったまま、目前の風景を指さした。
早口でまくし立てるように助手席の男に話しかけ、二人は少し訝しげな声を上げた。
つられるように前の、ほかのものよりも幾分か透明度のある窓ガラスを見ると、黒い雲があった。でもただの雲じゃない。すごく気味が悪い形状をしていた。
それはトンネルのように道路を覆っていて、円柱のチューブでぐるぐる巻いたような凹凸が見えた。そのトンネルを守るように、周囲には黒い霧雲が漂っている。
中からは不穏な空気が漂い、黒い空気がこちらに流れ出ていた。
車はそのまま、トンネルの中に突っ込んでいった。
流れていく景色の中には朽ちた観光バスや錆びた自転車など、乗り捨てられたと思しき輸送用の機械が詰まり、散乱していた。
車はスピードを落としゆっくり進んでいたが、しばらく経って運転手がこちらに振り向き、降りろ、と手を振った。
いきなりのことに君は顔を上げた。長い前髪が君の目を隠してしまっていたけれど、狼狽しているようだった。
降りよう、と声をかけても、君は首を振る。
運転手は先程と全く同じに、まるでロボットみたいに、降りろ、と身振りした。君はやはり嫌がったけれど、僕はそれを無視して、強引に手を引いて車から降りた。
降りるなり君は、さっきとは打って変わって、奥に向かって小さく走りだした。
僕はすぐに追いかけて、間もなく君の手を掴んだ。
君は振り返ることなく、そのままだらんと、力が抜けたように立ち尽くした。震えた手から、微かな温もりが伝わってきた。
ゆっくりと近づき、固く手を握る。すると微かな声で、君がうわ言のように呟いた。
「どこ……、あなたは一体どこにいるの」
君の言う『あなた』は、僕じゃない。本能的に、そう解った。
僕は昔から知っていた。
僕の存在が君を苦しめ、君の幸せを奪ってきたことを。足枷となり、こうして今も付きまとっている。
でも、それが君を助け、支えてきたことも事実で。僕はその事実を信じて、君の手を強く握り直した。
君は少しずつ、奥へ向かって歩を進め始めた。時々、いきなり走り出そうとしたり、振りほどこうとしたけれど、君の弱い力では逃れられなかったし、僕は絶対に離そうとしなかった。
進むにつれて、まばらにだけれど人が見え始めた。
誰も彼も、死人のように白い顔をしていた。共通点といえば、同じように奥へ向かっているということだけだ。
黒の先から漏れ出す煙に巻かれ吸い込まれるように千鳥足で前へ行く彼らを、一瞬君は立ち止まって眺めていた。
『あなた』を探しているようだった。
でもすぐにでも進み出したそうに足を傾けていて、この群れの中に探し人はいないと感じているようだった。
いないと断定しているよりは、いないと願っているような躊躇いが、揺れた髪の隙間から見えた。
僕はなんだかこの空気が嫌で、君の手を引いた。嫌がり抵抗する君をつれて、僕は群れをかき分け導いていった。
やがて道は突き当たり、右へ新たな道が続いていた。
周囲の人、もはや人と言えるのかもわからない生気を亡くした人型の何かが続くように、僕らも、次第に濃くなっていく霧の中を進んでいった。
歩を進めるにつれて薄まっていく霧の先に見えたのは、広めの室内だった。
荒廃したホテルのロビーみたいで、さっきまではコンクリートの道路だったはずの地面が、色褪せた赤のような、黒い絨毯になっていた。汚い。そう思い、思わず口元に手を持っていく。
絨毯を踏んで先へ進む。もちろん、君の手を離してはいない。
この状況下が信じられないのか、もしくはおびえているのか、僕の手を握り返す力が僅かに強かった。
視界の右側にはソファがいくつか、右のテレビのあるリラックスエリアに、大きな机を囲んで置いてあった。
そこには、先についたであろう人が立っていたり座り込んでいたり、寝ている人もいた。
テレビは音を発していないが、ずっと砂嵐だ。それに目を向ける人はいないし、違和感を感じているわけでもなさそうだ。嫌がる様子も、好んでいる様子もない。無機物、という表現が相応しい。
リラックスエリアの端は大きな窓ガラスになっていたようだったけれど、真ん中の部分がぶち抜かれ大きく割れている。
周囲にはきらきらと破片が散っていて、窓ガラスの隅には亀裂が走っていた。人々は、そんなことどうでもいいのか、全く気にしている様子はなかった。時間が流れていないかのような静寂だった。
薄く光が窓から漏れ出す。だがその光がこの空間を照らし出すことはない。この空間にいる全員が、それを拒んでいるような空気だった。
君が拒絶と閉塞の空気を吸い込む。
「あなたが、あなたが」
上の空な表情で呟く君の手を握る。
ちん、と音がして視界の左側に注目する。どうやらエレベーターの到着音のようだった。
たむろしていた人たちが乗り込んでいき、締まる。白いランプで、それは最上階へ向かったことがわかった。
エレベーターより手前の方は、まさにホテルのフロントのような風景だった。
暗い表情の何人かの受付嬢と疲労困憊といった風のホテルマンが数人、つるつるした素材の机の向こうに立っていた。その背には、客室を開くと思しきキーの入った、小さなボックスが幾段にも積まれている。
従業員らしき人たちは前に並ぶ、腕をだらしなく下げた人たちに応対している。
どうやら、エレベーターなどを使った上の階への行き方を案内しているようだ。
そこまで見て、どうしようか、と君に目を向ける。
すると、君はいきなり座り込んでしまった。頭を抱えて、苦しそうに震えている。ぽた、と、絨毯に透明な涙が落ちた。
「ごめんね、ごめんね……」
ぽた、ぽたたっ、と広がる海。小さな音が、僕の耳に響く。
そのとき、ずん、と空気を押しつぶすような音がした。
音のしたほうに向くと、裂けたガラスの向こうに、黒い、大きな人の足のようなものが見えた。
君がびくっと肩を震わせ、
「あ……!」
と目を開いた。僕はあっ、と声を漏らした。
虹色の瞳。
黒目の奥は、桜舞う春の色も、夏風吹く深緑も、木葉散る暖かい色も、包み込む冬の色も、全てまとっていた。
全てを失った僕たちが求めるすべてが、君の中にはあった。
でもその全てを、君は黒の中に閉じ込め、暴れて出て行かないように鍵をかけた。
「ごめん、ね」
君の瞳から溢れた美しく光る涙を、僕は手の甲で受け止め、振り切るように手を引いて走り出した。
すぐにきたエレベーターに向かい、並ぶ。
まだ前に並ぶ人は少ない。もうじきに乗れるだろう。
焦る心を表面に出さないようにして、君に笑いかけた。頼りない笑顔だったかな、とは思うけれど、無いよりは君の支えになれるだろう。
君が口を開いた。手を強く握る。
「嫌、嫌だ! もう怖いのは、……嫌だよ」
何かに怯えているようだった。僕は君の肩を寄せ、ぽんぽんと叩いた。
これからはずっと一緒に居よう、もう君が傷ついてしまわないように。気づかないように、僕の中で守ってあげよう。
君が出たいと嘆いても、終わりにしようと叫んでも、僕は一生、君を檻から出さない。
ちん、と音が鳴り、エレベータがついた。
前の人に倣う様、僕らも前へ進む。
「ごめんなさい」
君がはっきりとした口調でそう言った。
その顔がどんなものだったのかは、俯いていたからわからない。
視界の斜め右後ろで、黒い影がゆらりと揺れる。
僕はそれを無視し、君の手を強く握ったままエレベーターに乗り込んだ。
確か、見た夢をそのまま書き起こした作品です。たしか。