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leading one

作者: 幸橋

   leading one


お願いですから、止めて下さい


それは不気味なほどに真っ赤な陽が沈む頃。空はその赤に焼かれ、爛れたように濁っていた。燃え尽きた空は順に闇に服し、口を閉ざしていった。

それなのに、地上では、順に篝火がたかれ、騒々しさを増していた。

雪のように白い肌を照らす赤銅色はどちらのものだったのか、力なく横たわり、虚ろな目を上げる幼子にはわからなかった。ただその滑らかな頬にほろほろと涙が零れているのだけはわかった。


お願いします。両の羽をもがれれば、私たちは死んでしまうのです。今回は私が参ります。だから、どうか、その子は許して。


薄れゆく意識の中で見た美しい女性は、首に付けられた紐を引かれて、男たちに連れて行かれる。それでも、こちらに必死に手を伸ばし、悲痛な声で呼びかけた。


忘れないで。あなたは昼を支配し、夜の闇にくびきをつけた陽の神、男神に愛されし子。

その瞳は彼の方が傍に置く色。もう二度と空を駆けることが叶わなくとも──


光と風があなたを導くでしょう。


遠ざかって行く美しい人。幼子は──片方の羽根をもがれ──背中から止めどなく流れる己の血で濡れた手を伸ばした。その手は届かない。

「かあさま……」

そして、この声もまたあの人には届かない──


***


土着の神が住むと言われる洞窟に、村から使者が送られ、変わらぬ守護と恵みを請う儀式。

その神への道案内を託されているのが、彼の有名な八咫烏の子孫とされる八咫の一族の者だった。彼らは山の奥深くにひっそりと暮らし、人里にほとんど姿を見せぬ幻の一族。

背には漆黒の羽根。全てを照らす陽の神によって遣わされた神鳥の血を継ぐ彼らの跳ぶ姿は、神が愛でるに値する美しさと言われている。

彼らは導き手の一族。

神に愛されし、神聖な一族。

導き手に選ばれた八咫族の者は、その姿に光り輝く陽神の寵愛を見出され、神が手放そうとせず、儀式の後、誰一人戻って来ぬという。

不定期に、しかし、昔から続いてきた儀式。

前回の儀式から二十年の月日が流れようとしていたその年、儀式が行われることが決まった。

導き手に選ばれたのは、前回の導き手の遺児。片羽根のために一族のいる地にも戻れず、集落から離れて暮らしている彼が、今回の導き手だった──


***


「お前が八咫の者か?」

崖に腰かけ、澄んだ秋の空を眺めていた青年は、数日ぶりの人の声に振り返った。

後ろの林から草藪を踏みつけ出てくるのは、彼と年頃もそうは変わらない一人の青年だった。きっちりと髪を結い、紫黒の袴に刀を差している。それは、長い髪を無造作に一括りにし、坊主のような法衣をだらりと身につけ座した青年とは対照的だ。林から出て来た気難しい顔の青年は、しかし、振り返った青年の、櫛も通したことの無さそうな乱れた長い髪がかかる顔に、頭上に広がる空と同じ色の瞳を見出して、僅かに瞠目した。

だが、そのまま視線を彼の背に移動させ、一つ頷いた。そこには左側にだけ翼が生えていた。広げれば人一人簡単に包み込んでしまえそうな大きさだった。

「本当に聞いていた通り、片羽根なのだな。今度は八咫の者を見つけるのに難儀しなくて良いと親父様が言っていたのは本当のようだ」

「君は誰?」

「お前が導く者だ」

そう言われて、ああと得心して声を漏らす。

「君が使者なんだね。よろしく」

へらりと笑う青年に彼は眉を暗くした。

「お前、本当に導けるのか? あのお社の祀る神の下へ──洞窟の奥へ」

「さあ?」

「さあって、お前なあ」

彼は呆れたように言った。

「八咫の人間は誰も知らないと思うよ。少なくとも、二十年前、連れて行かれた母は知らなかった。それでも、この村の神の下へ使者を導くように強要された。だから、僕も導き手になる」

淡々と事実だけを並べた八咫の青年の言葉に、彼らにとって神聖なはずの儀式の実態を知っても、使者の青年は動揺をかけらも見せなかった。

「なるほど、やはり体の良い生贄か。行き方を知っているのは、どうせじい様たちだろう」

彼は肩を竦めた。特別な感慨は見受けられない。言葉が示すように、己の予想を確認しに来ただけなのだろう。

話は終わったのだと思い、片翼の青年は空へと向き直った。

しかし、背後の気配は遠ざかることはなく、やがて、足音が近づくと、よっこらせというかけ声と共に先程の青年が隣りに腰を下ろした。

眼下に自分の住む村の集落を認めて、「絶景だな」と呟いた。

谷間に出来た村は両側に切り立った崖がそびえている。濃い灰色の崖は長い年月で苔むし、深い緑が崖を縁取っていた。その麓の平地では収穫を待つ稲穂が揺れている。その中にある集落。領地の端にあるため豊かとは言えず、隣りの領土との境界線に位置して常に侵略の危機に晒されている土地だが、幸運なことにここ数十年は平和そのもの静かな暮らしをしている。彼は自分の生まれ育った村に目を細めた。そして、隣りの青年を見る。彼は、その美しい青の瞳で、同じ青の空を見上げている。

「おい」

「ん?」

彼は呼びかける青年を見ることなく、気の抜けた声で応えた。

「おい」

「何?」

「呼ばれれば、相手を見るものだ。馬鹿者。だから、そんな茫洋とした覇気のない目になるのだ。先祖の与えられし、男神の纏う衣の色を宿した目を持ちながら、嘆かわしい」

そう言われ、青年はきょとんと、隣りで腕を組み不機嫌そうな彼を見た。

「君は八咫族の伝承を知っているの?」

「先祖が鳥なのだろう? 滑稽なことだ」

そう言いながらも馬鹿にしたような響きはない。神と祀りながらも見下すという村人の矛盾を孕んだ、八咫族の彼が投げかけられることに慣れてしまった侮蔑が、この青年にはなかった。

「お前、名は何だ?」

彼は唐突に言った。

「カザハ」

「カザハ、か。わかった」

彼は立ち上がると、尻をはたいて砂埃を落とした。

「親父様に導き手の名は何だと訊いても、知らんの一点張りでな。異形の化け物にも名はあろうと言うに耳を貸さんのだ。そのせいでこんなところまで登って来るはめになった」

歯に衣着せぬ物言いの彼を、唖然として片翼の青年カザハは見上げた。

やれやれと首を回して、伸びをした彼は、ちょうどその位置から、カザハから見ると陽を背負って見えた。

彼は腰に手をやりカザハを見据えた。

「俺の名は八広(やひろ)だ。──では、カザハ。先に言っておくが、お前が生贄であったとしても、俺は全く心は痛まない。村の掟に従うだけだ」

「うん、僕もそっちの方が良い」

蔑まれるのは気分が良いものではないが、同情されるのも好きではなかった。

良くも悪くも人の心は重い。だから、与えるも、与えられるも、カザハはそれを避けてきた。そうして、生きてきた──これまでは。

八広の声は大声ではないのに、よく通る。

「というわけでだ。儀式までの一月の付き合いだが、よろしく頼む」

そう言って、陽を背負った彼は手を差し伸べた。

カザハはそれを眩しげに見つめたまま動けなかった。

八広はまたも太い眉をぐっと寄せた。

「何だ。里に下りて来ぬ片翼のはぐれ八咫族は、挨拶も知らんのか?」

カザハは苦笑した。

「──さすがに、それは知ってるよ」

そして、彼の手を握った。

「よろしく、八広」


***


その一月はカザハの生きた中で最も煌めいた時とも言えた。

次の日には、八広は山の入り口にまでカザハを連れて来て、彼の妻だという女性に引き合わせた。彼女はカザハを見ると人好きのする笑顔で「春乃です」と名乗った。

夫が夫なら、妻も妻のようである。カザハの片翼を見ても、「本当に八咫族の方なのですね。初めてお会い致しました」と伝説の一族を見られた嬉しさを滲ませるだけで──その嬉しそうな笑顔も、後に見た、この季節に見られる渡り鳥を見た時の彼女の笑顔とそう変わらなかった──それ以上はカザハの姿について何も言わなかった。

「麓までご足労頂いてありがとうございます。本来ならば、わたくしの方から参るのが礼儀ですのに」

言葉遣いが洗練されている。八広は武家の嫡男だ。無用のものとなりつつあるが――当人は争いがないことは良いことではないかと全く気にしていないが――この土地の守護を任されている。そんな家柄の彼の幼い頃からの許嫁であったという彼女もやはりこの辺りではそれなりの名家の生まれであるらしかった。

彼女は大きくなったお腹を撫でながら苦笑した。八広が「俺の子だ」と言った。まるで子どもが自分のおもちゃを自慢するように胸をそらして言う。

その姿がなんだかおかしくて隠しもせずカザハは笑った。

「君の子どもじゃなかったら、誰の子なんだい?」

「カザハ様のおっしゃる通りです」

「俺の子だから、俺の子だと言って何が悪い。それと、春乃。様付けなどと気持ち悪い。カザハで十分だ」

「……同意見だけれど、それ、君が言うことではないよね?」

そんな会話をしながら、こんな軽口をたたいてしゃべるのは、いったい何年ぶりだろうとカザハは思ったのだ。


***


八広に会う時、そこには春乃がいた。そして、同じように必ず彼の傍にあるものがあった。それが笛だった。

山の入り口にある大岩に腰掛け、八広が笛を吹く。その隣りで目を瞑って春乃が耳をかたむける。八広の無骨な手から生まれたとは思えぬ澄んだ音色が高く高く昇っていくのをカザハは見上げていた。

最後の音が空に溶けていったのを見届けてカザハは八広と春乃を盗み見た。

八広は吹き終わると少しだけ目を瞑ったままじっとしている。目を瞑って寄り添いあう若い夫婦と生まれてくる生命。カザハは八広の笛が好きだった。だが、それと同じくらい演奏後のこの一つの幸せの形を見守るのが好きだった。カザハに訪れることのないもの。憧憬もあっただろう。しかし、胸を満たす、形にできぬ思いは確かに暖かかった。

そんな一時の終わりを告げるように八広は目を開け、立ち上がる。

「さて、そろそろ勤めに行くか」

空を仰ぎ、赤みを帯び始めた光に目を細めた。

使者は神のもとに赴く前、笛の音を奉納する。今、八広は日が沈むと毎日のように洞窟に行き、その前で笛を奏していた。

春乃が立ち上がるのに手を貸すと、彼女を支えながら、カザハの傍に連れて来た。カザハも立ち上がる。

「では、春乃をくれぐれも頼むぞ。ちゃんと屋敷まで送り届けろよ」

「うん、屋敷前の杉木までね」

八広から渡された春乃の手を取る。

八広は露骨に嫌な顔をした。それはカザハの応えのせいか、それとも愛する妻を他の男に触れさせることへの嫌悪感かは判断できない。しかし、春乃は八広の様子に気付かずにカザハに申し訳なさそうに頭を下げた。

「ごめんなさい。せっかく送ってくれたのに、石を投げつけるなんて」

「いや、気にしてないよ。いつものことだ」

八広が洞窟に通うようになってから、春乃を屋敷に送ることは半ばカザハの義務のようになっていた。だが、屋敷の門の前まで行った途端、使用人たちに石を投げつけられたのだ。家の主である春乃が言えばすぐ止めるのだが、彼女が屋敷に入って見えなくなると追い立てるように彼らはまた石を投げつける。八咫族が神聖な一族だと知らぬ者もいるが、ほとんどはその姿を恐ろしく思ってのことだった。

縋るように握ってくる春乃の手は冷たかった。「やっぱり屋敷まで送ろうか」そう言うカザハに春乃は頭を振った。

困って八広を見ると同じように眉を下げた八広が一つため息をついて頷いて見せた。

「屋敷には物分りの良い者もいる。誰か外まで迎えに出てくるだろう。杉木まで頼む」

「わかった」

カザハが神妙に頷き返すと、八広はふっと笑い、踵を返した。

「あなた」

その時、春乃が八広を呼んだ。細い小さな声はどうしてか悲鳴のようだった。カザハは春乃の青い顔を見下ろした。それだけなら、身重の彼女の気分がすぐれないのだろうと思うのだが、カザハの手を掴んだ春乃の手にぎゅっと力が込められた。

「無理は、しないで」

八広は少し目をみはった。そして、参ったなと呟いて頭をかいていたが、春乃のところまで距離を詰めると、ぽんぽんと頭を撫でた。

「わかった。だから、お前も無理はするな。ひどい顔色だぞ。まずは自分と腹の子のことを考えろ。良いな」

春乃はじっと八広の目を見た。それは彼の心の中を探ろうとしているのではなく、自分の思いを伝えようとしているかのようだった。

「大丈夫だ。家で待っていろ」

重ねて言う八広にとうとう春乃は折れて、目を伏せた。

「……はい」

カザハには何のことだか全く理解できなかった。しかし、洞窟のある丘に向きを変えたときの八広は、真剣な光をその目に宿していた。


***


満月が東の空に昇った。煌々と輝く青白い光。月は男神の僕だ。昼間は彼の方が支配し、夜の不在には月が夜の闇を監視する。地上に息づくわが子たちが闇に呑まれぬように。

八咫族の信仰からも、麓の村人の信仰からも縁遠かったカザハは無粋だなあと一人ごちた。丘に立つ木々の一つに背を預け、片側にだけ残った翼に寄りかかるようにして、カザハは目を閉じた。闇が視界を塗り潰す中、指で羽根をなぞる。羽根に身を寄せるのは自覚する癖だった。

ふわり、そよ風がカザハを撫でる。頬を、首を、羽根を、指先を、くすぐり抜けて行く。カザハだけではない、背中を預ける木も、足元の草も、頭上の葉も、音とも言えぬ空気の揺れにカザハは微笑んだ。

生命が囁く。木の一本一本が、葉の一枚一枚が、そこに生きるもの一つ一つが。ふっと呼吸し、空気が揺れ、寄集まって風が吹く。

風とはそういうものだ。カザハはそう思っていた。村人は何でも神が遣わしたと言う。この風でさえも。

八咫烏も神の遣わした存在だと言われている。しかし、実際のところカザハはどうしてもそうは思えなかった。己の祖先がそんな高尚な存在だと思えないということもあるが、身のうちにある連綿と受け継がれた何かがそう彼に語りかけてくるのだ。八咫烏がここにやって来たのは――

「カザハか?」

そこでぱっと目を開けた。見ると両側を木々に囲まれた丘の頂上へと続く坂道から八広が降りてくる。巨大な鳥居の下をくぐってカザハの傍まで来ると八広は立ち止まった。

「何をしている、こんなところで。春乃は送り届けたのか?」

いつもの八広の呆れ声に少しほっとして、カザハもいつものように淡々と応えた。

「うん。屋敷に入っていくのも見届けた」

春乃は屋敷から出てきた中年の穏やかそうな男に付き添われて屋敷に戻って行った。男は門を通る際にカザハの方に頭を下げた。

「そうか」

その辺りのことは疑っていないのだろう。あっさりと頷くと八広はカザハの寄り掛かる木の根元に腰をおろした。

くっと顔だけ上げて八広は満月を見た。

「お前、ずっとここで待っていたのか」

八広は尋ねた。カザハは八広を見たが、八広はカザハを見なかった。

「僕はこの鳥居の先にはいけないから」

「そうか」

カザハは八広が続けて何か言うのを待ったが、八広はそのまま黙り込んでしまった。

独り天から降りてきた月影のもたらす静寂が痛い。地上のものはその無音に服してしまった。

八広の姿の奥に洞窟への道が見える。土が剥き出しになった道は、今はまるで霜が下りたように白い。それは神々しいと言っても良いのかもしれない。同じ光が八広を照らしていた。

風が止まっている。だが、そんなはずはないのだ。

カザハは目を伏せた。昼間の寄り添いあう八広と春乃の姿が浮かんだ。

「春乃が君のことを案じていた」

空気がわずかに動いた。

最近様子がおかしいの。屋敷への道の途中、春乃は不安を口にした。カザハは何か応えるでもなく耳を傾けるだけだったが、彼女はぽつりぽつりと語った。

本当はもっと前から何か考えているようだった。それが最近になって目に見えるように考え込むようになって。ねえ、カザハ。あなたは知っているかしら。儀式のある時期に、決まって子どもが村から消えるの。毎回、必ず。あの人はきっと儀式と何か関係があると思ってる。いつもなら迷信じみたことを気にもしないのに。儀式だって、そんなものに拘うくらいなら、代替わりした谷向こうの土地の領主のことを考えるべきだと、じじ様たちにずっと言っていた。それが神への使者に名乗り出るなんて。

大きく膨らんだ腹を撫で、見上げてきた春乃の目が忘れられない。その目は確かに自分以外の生命を抱える者の他を圧倒する意思の力を秘めていた。

あの人のこと、お願い。

カザハははっとした。

私はこの子を守らなくてはいけない。だから、あの人のこと。あなたにしか頼めないの。お願いね――

「君のことを頼まれた」

あの時、自分はなんと応えただろう。そう思いながらカザハは言った。

八広は黙っていた。が、しばらくして「カザハ」と呼びかけた。カザハは目を開け、八広を見た。八広はカザハを見ていた。そして、何かを投げた。思わず受け取ったそれは、笛だった。

「吹け。吹けるんだろう。神に奉納するあの曲」

表情の変化は乏しかったが、カザハは驚愕した。そのことがわかり、八広が苦笑した。

「どうして」

「なんとなく、な。そんな気がした」

八広の言う通りだった。カザハはあの曲を知っている。幼い頃、母がよく吹いてくれ、カザハにも教えてくれた曲だった。母は八咫族に昔から伝わる曲だと言っていた。だから、八広が神に奉納する曲だと聞かせてくれた時はひどく驚き、それ以上に懐かしかった。そんな懐かしさを感じるのは、今では羽根に触れる時だけになっていた。

「頼む、吹いてくれ。聞きたいんだ」

長いこと笛など触ってもいなかったカザハはどうしようかと手の中で弄んでいたが、懇願され、おずおずと笛を構えた。

大丈夫よ。

その時、何かがそうカザハに囁きかけた。

風は常に傍にある。

その何かと自分の声が重なり、促されるようにカザハは目を閉じた。

息吹が集まって風が生まれるように、音も同じ、風の流れに任せれば、自然に生まれ出でるものだと、そう母は教えてくれた。それを自分は知っている。感じている。

大丈夫。風は常に傍に。

思いを少しだけ織り交ぜて、吐息を吹き込んだ。筒を抜け、独特の震えを持った自分の息吹が別の息吹と混ざり合う。空気が動いて、また別の息吹をさらっていく。その中に少し悲しげな八広の息吹も混ざっているのを感じた。

細い細い風が紡がれていく。その細い風が糸のようにより力強い風を編んでいく。空に昇っていくその風に、降り注ぐ冷たい光が揺れる。揺れて、はらはらと崩れた硬質な光は、風を取り込み、ほどけて、ぶわりと淡い輝きを広げた。拡散した光はさらさらと銀砂の様相を呈した。風に解けて流れる思いは、空に解き放たれた光に溶けてその煌めきを増した。何も憂うる必要はないと、生きる中で生まれた思いは全てが尊いのだと、輝きは語りかけて来るようだった。

やがて降り注ぐ煌めきは薄れ、消えていった。

カザハはふわりと目を開け、月のぽっかり浮かぶ、常と変らぬ夜空を見上げた。同じ景色がそこにはあった。けれど、孤高の光は独りではなくなった。風が生あるものの移ろいを、流転に生まれる儚くも愛しい温もりを届けた。それを感覚が理解してカザハは微笑んだ。

「カザハ」

呼ばれてカザハは八広を見た。八広はカザハを見て笑った。

「ありがとう」

「うん」

言葉が与えられぬ慰めをもたらす力があの笛の音にはあった。それは、カザハにも同じことだった。


***


八広が消えたのは儀式の前日だった。

その日、もう山には戻るなと村の長に言われていたが、いる場所もなく、カザハはいつも八広と春乃と会っていた山の入り口にいた。そして、笛を吹いていた。八広が昔使っていたものだがと、くれたものだった。そこに八広が一人でやってきた。春乃は初産ということもあり、出産が近くなるにつれて外には出ないようになっていた。

「儀式は明日だな」

「そうだね」

カザハは微笑んだ。八広は苦笑した。

「なんで笑っていられるんだ」

カザハはきょとんとした。だが、すぐに八広の言いたいことがわかって、ああと声をもらして笑みを深くした。

「生贄になるのが嬉しいわけではないよ。ただ――」

カザハは照れくさそうな顔をした。カザハがそんな表情をするのは初めてだったので、今度は八広が目を瞠る番だった。

「君と春乃と過ごした一月は十分すぎるくらい楽しかった。だからかな、それほど悲しくはない。心残りと言えば、君たちの子どもが見られないことくらいだよ。どちらに似ているのか知りたかった」

その声音には残念そうな響きはあったが、いっそ清々しいものだった。カザハは頭上の空を見上げる。同じ青がかち合った。濁りない澄み切った色が共鳴しあい、八広はカザハが片翼であることも忘れてそのまま飛んで行きそうだと思った。

「お前は変わったな」

「そう?」

カザハは八広に不思議そうな顔を向けた。八広は吹き出した。

「そういうところがだ」

「そうかもね」

「そして、きっと、俺も変わったんだろうな」

「うん、だいぶね」

そうか。八広は満足そうに呟いた。揶揄したつもりだったカザハは予想外の八広の反応に首を傾げた。八広はカザハを感慨深気に見つめていた。

「カザハ」

「ん?」

「俺もこの一月楽しかった」

「どうしたんだい、急に」

逆方向にカザハは首をまた傾げた。

「いや、言いたかったから、言っただけさ」

どちらかと言えばしかめっ面が多い八広が笑顔を絶やさない。いつもと違う八広の様子にカザハは胸騒ぎがした。

「八広? どうかしたのかい」

「何もないさ。俺は明日の準備があるからここらで失礼させてもらう」

その瞬間、八広の視線とカザハの視線が絡み合った。戸惑う二つの心。

「お前がお社での奏者だったなら……」

背中を向ける直前に漏れた八広の呟きはその心の欠片だった。

「また明日、八広」

八広の背中にカザハは呼びかけた。いつもならそんなこと言わないのに。

この時の自分は無意識に何かの願掛けのつもりで言ったのではないかと後になってカザハは思った。

八広は振り返った。そして、軽く手を振って去っていった。


「戻ってこない?」

愕然とした自分の声も、不吉なほどに赤い光に照らされた春乃の顔も、どこか遠いもののように感じていた。見覚えのある男に支えられ、カザハのところまでやってきた春乃は震える唇でやっとのこと八広が帰ってこないことを伝えた。例の男、左吉が二人を交互に見て、ためらいがちに口を出す。

「私は明日の儀式のことでお帰りが遅くなっているだけだと思うのですが」

春乃はぶんぶん頭を振った。

「いいえ、何かあったのよ。嫌な予感がするの。今朝もどこか様子がおかしかったもの」

カザハも八広のいつもと違う様子を思い出して、頷いた。

「長のところに行こう」

はっと春乃は顔を上げた。

「でも、カザハ。あなた、村に行ったらどんな扱いを受けるか――」

「そんなこと言っている場合か!」

カザハは叫んだ。春乃は目を瞬かせた。

カザハは己に苛立った。様子が違うことに気付きながら、どうして八広を引き止めなかったのか。

また明日。その言葉に八広は何も言葉を返さなかった。ただ手を振って――その影が目の前をちらついた。

「早く探しに行かないと」

「その必要はない」

しわがれた声にカザハは振り返った。

「じじ様……」

「長」

後ろの春乃の呟きと声が重なった。村の男衆を数人引き連れ、枯れ木のように痩せた老人は、しかし、威厳を纏ってそこに立っていた。

「もう八広は戻ってこない」

「どういうことですか」

カザハはすかさず尋ねた。

「約を破った。八広は一人で洞窟奥の社に向かった。そして、神の怒りをかったのだ」

春乃が息を飲む。

「だから?」

長の意味することをカザハも知っているはずだった。知っていて、しかし、認めたくなかったのだ。声に知らず知らず怒気が混じっていた。

長の目は底の見えぬ沼と同じ色をしていた。うろのような口が開く。

「八広は死んだ」

春乃が短い悲鳴を上げ、くずおれた。

「春乃!」

「春乃様」

左吉に支えられ気を失っている春乃のもとに駆け寄って隣りにしゃがみこんだ。

長は僅かながら春乃に憐憫の眼差しを向けた。だが、それだけだった。

「一人の命で神は怒りを沈めて下さったのだ。我らの祀る神とは寛大な御方だ」

長はのっそりと向きを村の方に向ける。

「儀式は中止だ。また命拾いしたの、片翼の八咫族よ」

俯くカザハの耳に遠ざかっていく足音が聞こえた。

どす黒い感情がカザハの胸の奥で渦巻いた。自分でも嫌悪するような感情を持て余して、カザハはこぶしを握りしめた。

だが、ふと春乃を見やり、その頬に涙が一筋流れるのを見た瞬間、何か張り詰めていたものがぷつりと切れ、凝り固まった感情が霧散した。後には虚しく胸を通り過ぎる風が残っているだけだった。

カザハは力が抜けてその場に座り込んだ。手探りで春乃の手を掴み、両手で握りこんだ。頭の中で八広の声が響く。出逢った頃のぶっきらぼうな声。

「どうして……僕が生贄になっても、なんとも思わないって――」

『ありがとう』

時間を飛び越えて聞こえたあの夜の声。

その声にあふれ出る言葉の数々は打ち砕かれ、全て手から零れ落ちてしまった。

涙は出なかった。ただ春乃の手を抱きこんで蹲ったまま、カザハはぴくりとも動かなかった。


***


あの日から八年の歳月が流れた。

カザハはお社のある洞窟に続く道を登っていた。日は傾き、並び立つ木々の先に引っかかっていた。夜の訪れも近い。そう思ってカザハは足を速めた。すると前方に小さな影が見えた。今回は鳥居前で捕まえられそうだとカザハは苦笑した。覚束ない足取りの小さな影との差は次第に縮まっていく。その影が十に満たないほどの少女だとわかるところまで近づくと、カザハは大きく息を吸った。

「咲!」

少女は立ち止まって振り返った。カザハがやって来るまで待っていたが、近づくとふてくされた様子がありありと顔に表れていた。見つからずに洞窟まで行って戻ってくることが、少女の美学と言ってもいい拘りであるらしい。だから、見つかった今、立ち入りが禁止された鳥居の向こう、洞窟まで行くことは諦めたようだが、不満ではあるようだ。

やっと少女の目の前まで来ると、カザハはしゃがみこんで目の高さを合わせた。

「咲。何度も言っているけど、この先は決まった人しか入っちゃいけないんだ」

「わかってるわ」

頬を膨らませて咲は言った。

「咲のお母さんも心配してるよ」

そこで咲はうっと言葉に詰まった。たった一人の家族である母親の悲しい顔が咲には一番堪えるのだ。

優しい子だ。カザハは微笑んだ。

「それに僕もここにはあまり長くはいたくないんだ」

そこで初めて咲はカザハと目をあわせた。

「カザハもお社の神様の祟りが怖いの?」

も、咲の頭にあるのは母親だ。咲の母親である春乃は咲に祟りがあるから洞窟に近づいてはいけないと言い聞かせていた。カザハは一瞬言葉を失った。だが、じっと見つめて来る咲に困った顔を作って見せると「うん、怖いんだ」と相槌を打った。

「カザハは弱虫だものね」

言外に自分は怖くなんてないという思いを込めて咲は胸を張る。カザハは、今度は本当に苦笑した。

「そうだね。だから、置いて行かないでおくれよ。もう日も暮れる」

「仕方ないわね」

小さな手は何のためらいもなくカザハの手を取って村の集落へ歩き出した。繋いだ手をぶんぶん振って、咲は歌を歌い出した。咲の小さな歩幅に合わせてカザハもゆっくりと歩を進める。

夕暮れが二人を赤く染める。

母が連れて行かれた時の色。

八広がいなくなった時の色。

それは不吉な色のはずなのに、咲のわらべ歌を聞きながら見るその色は、ひどく穏やかで、カザハの心を満たしてくれた。


***


大きなお屋敷にまで来ると、正面の門から入らずに咲は土塀に沿って裏口に向かった。

「咲、君は門から入っても良いのだよ? この家の子なのだから」

咲はカザハを見上げ、首を傾けた。

「この家の子は、椿様でしょう?」

咲は、父親の弟で現当主の子、自分の従妹である娘の名を口にした。門の中から声がして、ちらりと見た先に、女の子が下女を伴って毬つきに興じていた。刺繍の施された赤い着物は、高価な代物だと一目でわかる。それに引換え、咲は裾の短い浅黄色の着物を着ている。何度も汚しては洗いを繰り返しているため、色もかなり落ち、少しのシミも目立つようになっていた。

「君も、この家の子だよ」

それは事実だ。咲も知っているはずなのだが、うーんと唸りながら咲はカザハの言葉に何も返さない。

「椿様と同じ、同等の身分だ。君は彼女に様をつけることもしなくて良いのだよ?」

「でも、かあさまも椿様と呼んでいるわ。それにカザハだって、私は咲と呼ぶけど、椿様は椿様じゃないの」

「それは……」

言葉をにごすカザハに咲はにかっと笑った。そんな笑い方をすると二日前に歯が抜けた部分が丸見えになる。母親に注意されるそれもカザハの前では気にしないらしい。

「良いわよ。カザハに咲様って呼ばれるなんて気持ち悪いわ。それにね、この前、椿様の着物を借りてじじ様のところに挨拶に行ったの。そしたら、着物を汚してはいけないと、途中の草むらの中でとても綺麗な花を見つけたのに、摘みに行けなかったのよ。椿様はいつもそうなのね、すごく可哀想だわ。椿様はそう思ってはいないようだけど」

あっけらかんと話す咲にカザハはしばし唖然としたが、そうかと頷いた。

「咲は男の子のようだね」

「かあさまもそう言うわ」

咲はにっこり笑った。そんな咲を見ながら、本当に似ていると言いたかった名前をカザハは口に出来なかった。

裏口の小さな扉を開けて中に入るとすぐに使用人の住む平屋の裏に出た。そして、その傍に作りの似た離れが建っていた。春乃はその離れの軒先に立ち、咲とカザハの帰りを待っていた。建物の裏から出てきた二人にすぐ気づいた。

「咲!」

「かあさま! ただいま」

飛びついてきた咲を抱きしめてから、春乃は恐い顔を咲に向けた。

「遅くならずに帰りなさいと言ったでしょう」

「ごめんなさい」

「仕様が無い子ね。迎えに来てくれたカザハにはお礼を言ったの?」

咲がカザハを振り返る。咲にとっては、カザハが来たせいで洞窟に行けず、また、自分がカザハを家まで連れて来たという思いが強いのだろう。少しむっとしたが、「ありがとう、カザハ」と言い、春乃に頭を下げさせられた。

カザハは春乃にひらひらと手を振って見せた。

「気にしないで」

春乃は微笑んだ。そして、置いた手で優しげに咲の頭を撫でた。

「夕餉の準備が出来ているわ。――咲、足を洗って中に入っていなさい」

「はーい」

咲がとことこと家の中に入って行く。春乃はカザハに歩み寄った。

「いつもありがとう」

「構わないよ。咲を見てると僕も楽しくなる」

「お転婆で困っているわ」

春乃は苦笑した。しかし、それ自体は好ましいものと思っているようだった。

「咲は素直な優しい子だよ」と返すカザハに、春乃もええと応えた。

「父親がこの家の長子であったにも関わらず、今は隅に追いやられていることを卑屈に思うこともない。そのことにどれだけ救われたことか」

「咲は、花も摘みに行けない椿様が可哀想だと言っていたよ」

「まあ」

春乃はくすくすと笑った。

「君はどうなんだい? 君こそあの日から全てが変わってしまったのに」

春乃は真っ直ぐにカザハを見た。曇りない強い光をたたえた目を細めて気高く微笑んだ。

「私には咲がいる。それで十分だわ」

カザハは目を伏せた。カザハは八年間、この母子を見てきた。その間、つらいこと、苦しいことは数多くあったはずなのに、変わらず春乃はこんな風に笑える。咲の天真爛漫も春乃の育て方ゆえだろう。

「カザハ」

春乃の呼びかけに目を上げる。春乃はうって変って少し困って笑った。

「もう良いのよ、自分のために生きても」

「え……」

春乃は沈んでいく夕日を見遣った。

「あの人が死んでから、あなたは私たちの傍にずっといてくれて、いつもいつも助けてくれた。嬉しかったわ。あなたはあの人を死なせてしまったことを気に病んでいたのかもしれないけれど――」

あの日と同じ赤に染められた春乃の顔は笑っていた。

「あなたを怨んでなんかいないわ。八広もきっとそう。だから、もうここに縛られる必要なんてないのよ」

八広。

口に出来なかった名前を耳にして、気付かれないようにカザハは震えた。

死んだと聞かされた八広の遺体は結局、春乃のもとには戻らなかった。そのせいか、春乃もカザハもしばらくは八広の死を信じられないでいた。しかし、咲が生まれ、春乃は未来に向かうために心の整理をつけた。整理できていないのはカザハだった。戻る場所もないからと、ずるずると春乃と咲の傍で八年の時を過ごした。そんなカザハをこの優しい母子は受け入れてくれた。

カザハは頭を振った。

「そんなんじゃない。僕はここにいたくているんだ。縛られてるだなんて思っていないよ」

「そう? でも、あなたは、いつもどこか遠くをみているようだわ」

見透かしたような春乃の言葉にカザハは瞠目する。カザハは項垂れた。

「こんな僕がいるのは、君たちには迷惑なことなのかな」

春乃はふわりと手をのばすとカザハの頭を撫でた。包み込むように見守る母の目でカザハを見上げる。

「そんなことない。私は、ただ、あなたらしく生きてほしいだけよ。だって、出会った頃も、今も、あなたは迷子のようだもの」

母が連れて行かれ、八広がいなくなった夕暮れ。その赤い光に照らされて、今も自分は動けないままだった。

「……君には、適わないな」

震える声は無力な幼子そのものだ。春乃は気付かないふりをしてくれているに違いない。そうかしらと笑顔のまま応えただけだった。

「さ、中に入ってご飯にしましょ。咲も待ちくたびれてるはずだから」

合わせるように中から咲が春乃とカザハを呼んだ。二人は笑いあって家に入っていく。

欠けたものはあるが、それを別の何かで補い合って過ごす日々をカザハは愛しく思っていた。そんな欠けた部分を持ったまま生きていける優しい時間がずっと続いていくのだとカザハは漠然と思っていた――


***


父の顔は覚えていない。

当たり前だ。自分が生まれる前に死んでしまったのだから。

母は父が大好きだった。今もきっと大好きなままだ。

だから、咲は言わなかった。父がいないことが寂しいだなんて。

父が大好きな母はもっと寂しいはずなのだから。

自分には母がいる。カザハがいる。それでも、やはり父親とはどういうものなのか、自分の父はどんな人だったのか、気になるし、知りたいとも思う。最初に洞窟に興味を持ったのは、そのせいだった。洞窟は父が死んだ場所だった。

だけど、今はもう一つ理由があった。母にも、カザハにも言っていない秘密。そのために咲は洞窟に通っていた。

この日も、いつものように二人の目を盗んで家を出てきた。気づいてカザハが連れ戻しに来るまでに洞窟に着かなくてはいけない。

跳ねるように咲は駆けた。お行儀が悪いわよと母に言われるが、髪が跳ねる感覚は面白く、首筋を風が抜けて行くのは心地よい。鳥にでもなったように一段と高く跳躍する。

そんなことをしながら走っていたものだから、洞窟に通じる丘に来るまでに咲は息が上がってしまった。ちょっと立ち止まり俯きかけた顔を上げて大きく息をする。

「あれ?」

そこで咲は目の前の大きな鳥居に人影を見つけた。子連れの女性だ。よくよく見ると、それは咲の従妹である椿と、彼女によく付いている下女だった。

「椿様、どうしてこんなところに……」

一人呟いた咲だったが、下女がこちらを振り返ったので、思わず木の陰に隠れた。

咲は隠れながら椿と下女に近づいた。だんだんと距離を詰めて行くと椿の細い声が聞こえる。

「タエ、かあさまはどこ?」

「もう少しでいらっしゃいますよ」

見知らぬところに連れてこられたのが心細いのか、椿は今にも泣きそうだ。

嘘よ。

咲は思った。なぜなら、咲は屋敷を出る時に椿の母親を見たのだ。咲の母、春乃に着物の繕いものを頼んでいた。春乃は屋敷に置いてもらっているからと使用人と同じように屋敷に奉公していて、針物が得意であったために椿の母親からよく繕いを頼まれていた。咲が家を出てこれたのも、また頼まれた繕いのために春乃が屋敷に出向いたせいだ。開け放たれた部屋で春乃と椿の母が話していたのを咲は見たのだ。その時、椿の母は出掛ける様子は微塵もなかった。

咲はそこではっと思い出した。遊び仲間の一人が言っていたのだ。最近、子どもがいなくなると。だから、気を付けて、一人で出歩いてはいけないのだと。

その時、丘の上から誰かが下りて来た。身なりの良い男だ。花の染抜きがされた、女物のような派手な着物を着た男。下女は男に向かって深々とお辞儀した。

「あのひと……」

咲は男に見覚えがあった。一度だけ会ったのだ、椿と一緒に。身分の高い人だと言われ、丁寧に挨拶したのに、男は値踏みでもするように咲と椿を見比べ、椿を指差して「あっちのガキはいい。こちらの品の良い娘の方が主は好む」と言い放った。その言い方に咲はむっとしたのを覚えている。

人見知りの激しい椿が下女の後ろに隠れようとするのを、下女は前に押し出し、男が椿の腕を掴んだ。椿は泣きわめいてもがいたが、男は全く気にすることなく椿の腕を引いて行く。

連れていかれる。

そう思った瞬間、咲はぱっと飛び出し、椿を掴む男の右腕に飛びついて、思いっきり噛みついた。体格や力では勝てない村のガキ大将にも通用するそれは、男を僅かでもひるますことに成功したらしい。椿を掴む手が少しだけ緩んだ。

「椿様! 走って!」

咲は椿の手をとって逃げようとした。だが、その逃走は始まる前に終わりを告げた。目の前に別の男が出てきて咲と椿を捉えたのだ。椿が先ほどの男に捕まる。咲は目の前の男に噛みつこうとした。しかし、その前に男の太い腕が大きくしなり、手酷くぶたれた咲は地面に叩きつけられ意識を失った。


***


屋敷の中は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。使用人たちが右往左往して走り回る。屋敷の跡取り娘、椿が姿を消したのだ。椿の母は半狂乱になっていた。その騒ぎの中、だが、もう一人の少女が消えたことは忘れられ、そのことに思いを砕くのは春乃とカザハだけだった。

日が落ち、騒ぎは屋敷の中だけで済まなくなっていた。かがり火が屋敷中に、そして村のいたる所にたかれて、まだ月の昇らぬ空を焦がしていた。

椿の母の部屋から出てきた春乃は、庭の暗がりにカザハが立っているのを見つけた。

「カザハ……」

カザハが灯りの下に進み出た。照らし出されたその顔を見て、春乃の目に涙が盛り上がった。春乃は縁側にしゃがみこんだ。

「咲、咲……」

「春乃……」

カザハは春乃の傍に歩みよってその細い肩に手を置いた。

「カザハ、咲が……、咲がいないの、どこにも」

「うん」

「いや、いやよ」

春乃は自分を抱えて呻いた。

「あの子まで、奪わないで……助けて……助けて、八広……」

掠れた嗚咽がカザハの胸に楔を穿つ。がりがりと音がして何かが崩れ落ちた気がした。

月日が経つほどに凝り固まり、ずっと残っていたしこり。目を逸せば、そのままでも生きていけた。むしろ、それが心を鈍らせ守ってくれていた。だけど、そんな日々はもう終わったのだとカザハは悟った。

「儀式をしよう」

カザハはぽつりと言った。

「え?」

春乃が涙に濡れた顔を上げる。

「どこもかしこも探した。だけど、見つからない。あとはあの洞窟だけ。みんなそう思っている。でも、神の祟りが恐ろしくて行けない。なら、儀式をすれば良い。導き手はいるのだから」

カザハは淡々と事実を口にした。

「長に頼んでくる」

「待って」

カザハが踵を返したところでやっと放心状態だった春乃は叫んだ。

「でも、そんな、儀礼に則っていないのに……それに、儀式をしたら、あなた、帰って来られないのよ」

カザハは振り返った。

「それでも、行く」

「カザハ……」

涙を流す春乃にカザハは微笑んだ。

どうしてだか、暗い闇夜でカザハの澄んだ青の瞳がよく見えた。秋の空のように穏やかな色だった。

「必ず咲を君のもとに帰すよ」

「カザハ!私も……、私を使者に」

「使者はいらない」

カザハはきっぱり言った。

「君は咲の帰る場所だ。家そのものだ。だから、ここで待っていて」

春乃に歩み寄り、カザハはその手をそっと両手で包み込んだ。

「カザハ……ごめんなさい……また、あなたに頼るしか、私……」

春乃は俯いて、涙を流し続けた。

「好きだよ、春乃」

「え?」

目をぱちくりさせる春乃にカザハは子どものように笑った。

「それに八広も好きだ。そんな君たち二人から生まれた咲も好きだ。好きなんだ。だから、行くんだよ。謝罪はいらない。僕は僕の思いのために行く」

だから、泣かずに待っていて。

そう囁くカザハに春乃も思わず微笑んだ。そして、頷いた。


***


洞窟の中は鍾乳洞になっていた。地面はごつごつとして、所々角のように突き出している。そして、濡れているために滑りやすく何度も足をとられた。最初は低かった天井もしばらく進むと大きな空洞に出て、目の眩む高さには闇が蹲り、そこからも岩の角がいくつも突き出していたが、手元の灯りではいったいいくつあるのか、全体を見通すことは不可能だった。

儀式は許可された。いや、椿の家が長に無理に許可させたと言っても過言ではなかった。使者はいらないと主張するカザハに、しかし、なんと長自身が使者として名乗り出た。そして、付き添いの男が二人付くことになった。一人は八広が生きていた時には春乃に付いていた例の男、左吉。もう一人は長によく付いている大柄な男、四郎だった。

先頭をカザハが行き、次に左吉、長、そして、最後を四郎が歩いた。何度も通ったためか、比較的平らで道のようになった部分は細く、一列でしか通れなかった。それは別れることなく、ずっと真っ直ぐ一本だけが目の前に続いていた。

導き手などいるはずもない。

背後を伺うが、長は何も言わないまま、一本道を行くカザハの後ろを付いて来た。

すぐ後ろで短い悲鳴が聞こえた。カザハが振り返ると左吉が両腕を横に広げ、なんとか転ぶのを踏み止まっていた。

「大丈夫かい?」

「はあ、すみません」

左吉は苦笑した。カザハはまた前を向いて歩き始めたが、左吉に話しかけた。

「君も災難だったね。こんなところに付いて来るはめになって」

「いやあ、そんなことは」

後ろから乾いた笑い声が聞こえた。

「屋敷で見なくなったと思ったら、長のところにいたのか」

「へえ」

へらへらと笑って左吉は応える。声の調子からカザハは見ずともそれがわかった。会話はそこで途切れた。

それからしばらくカザハは黙々と歩き続けた。どれくらい歩いただろうか、後ろで左吉が声を上げた。

「灯りだ!着いたんですね」

確かに奥にはまた半円状の穴が開いており、そこからは光が漏れていた。彼の前に立つカザハは誰よりも早くそれに気づいたが、特に反応を見せず、静かなままだった。

「嬉しそうだね」

カザハはぽつりと言った。

「そりゃあ、ここは湿っぽいし、じめじめしてるし、暗いし……」

「でも、あそこは神の社があるかもしれない場所だよ。皆が祟りを恐れる神のね。少なくとも君は社があると思ってる。でも、気にしないんだね」

「いや、でも……」

左吉は口籠った。

「それだけじゃない。君は僕が八咫族であることも気にしなかった。どちらも『この村の人間』なら必ず気にすることだ」

そこで初めてカザハは振り返った。目を瞠る左吉とその奥の長と四郎を見る。明らかに腕っぷしの強そうな四郎の動きに気を配りながら、後退り、距離を測る。

「咲が以前言っていたよ。派手な着物を着た男に長の家で会ったってね。谷向こうの領地の名産は独特の色使いをした染物だ。咲の言っていた着物の特徴はそれだった」

左吉はあっけにとられ、長は僅かに眉を顰めた。

「長、椿様と咲がいなくなったことと関係がありますね」

カザハの声は厳しかった。

本当ならば、二人の無事を確認するのが先だった。だが、背後から感じる不穏な空気は強くなっていた。だから、カザハは不意打ちを避けて、自分から勝負を仕掛けた。また、何よりも、カザハは真実を知りたいとも思っていた。

うろの口がぱくりと開き、長が独り言のように口をもごもごと動かした。かすかだったが、カザハは聞き取った。

「邪魔だな」

その瞬間、左吉が持っていた提灯をカザハに投げつけた。カザハがそれをよけてよろめいたところに、後ろの四郎が襲いかかって来る。丸太のような腕に殴り飛ばされたカザハは地面の上を跳ねた。痛みに息が詰まり呻いたが、いつまでも蹲っていられなかった。左吉と四郎がやって来る。

あの明かりまでいかなければ。

そう思うのだが、彼らをかわせそうにない。霞む視界にカザハは一度ぎゅっと目を瞑った。

その時、声がした。

『風に道筋を示せ』

その瞬間、カザハは幾筋かの細い風を感じた。そして、別の声、すでに自分の声と同化した声が頭の中で響いた。

風は常に傍に。

躊躇している暇はない。カザハはかっと目を見開くと立ち上がった。そして、左側にだけ残った翼を大きく広げると、ぶんと羽ばたかせた。長年閉じたままだった翼はミシリと悲鳴を上げたが、力いっぱい羽ばたかせ起こした風は、岩にばらばらに絡みつく風を巻き取り、より合わせ、塊となって二人を吹き飛ばした。

その隙にカザハは走り出す。光のこぼれる空間へと身を投じた。


そこは人工的なほどに整った半球の空間だった。人工的でも空間自体は自然に出来たようだ。人工的なのはそんな壁にわざわざ穴を開け、燭台にした部分だった。いくつもある穴には蝋燭が置かれ、他にも火がたかれている。光源はこれだった。

一番奥には一つだけ大きな穴があった。大人一人が通れるほどの穴が奥へと続いている。これも燭台用に開けた穴と同様、人工的に開けたものらしかった。

空間はお屋敷がすっぽりと入ってしまうほどの広さはあった。その中央には泉があり、その真ん中に小さな島。その上に社があり、島まで渡れるように吊り橋がかかっていた。

その吊り橋辺りに男が立っていた。赤や紫、橙を基調とした派手な着物を着ている。男の足元には縛られた咲と椿がいた。椿は怯え震えながら蹲っており、咲は目を閉じて地面に転がっている。

「咲!」

体が痛むことも忘れてカザハは駆け寄った。カザハが来ると、男は椿を引き寄せ、下がった。咲の傍にしゃがみこむカザハに男は「生きてるよ」と言った。

確かに咲から呼吸を感じ取って、ほっとするのも束の間、咲の頬が痛々しく赤く腫れあがっているのを認めてカザハは男を睨んだ。

男は肩をすくめた。

「そっちのお嬢ちゃんには用はなかったんだがな。暴れるからつい」

そして、何が可笑しいのかくすりと笑った。その笑顔は醜悪だった。

「その子、あの男の娘なんだってな。親子共々無関係なくせに首を突っ込むからこうなるんだ、馬鹿だなあ。――ま、親父のように殺されなかっただけ有り難いと思うんだな。殺したのは俺達ではなく、この村の奴らだが」

カザハは自分の耳を疑い、瞠目した。そんなカザハの目を興味深そうに男はのぞき込んだ。

「珍しい色の瞳だな。顔も総じて美しいと聞く八咫族らしい。貢物としては十分価値がある――よし、この八咫族も締約通り貰い受けよう、村長」

入り口に向かって男は声を張り上げた。

カザハも入り口を見た。そこには長が立っていた。あの風から逃れていたらしい。

「長……これは、どういうことです……」

歩み寄って来る長にカザハはやっとのこと尋ねた。

「聞いた通りだ。境界に位置する我が村は近隣の領主に貢物を捧げ、侵略から身を守っていた。ずっと昔から、領主が変わる度にな。そうやって生き抜いて来た」

「では、儀式とは……」

「ここで領主の使いに貢物を渡す。それが儀式だ」

「八咫族を導き手にしたのは……儀式の度に子どもが消えたのは……」

問いかけが次々と口をつく。その声は段々と震えていく。

長はため息をついた。

「そこまで感づいていたとはな……八咫族も貢物の一つでしかない。子どもも奴婢として渡すために事前に見繕い、攫っていた」

「なら……それなら……」

わなわなと肩を震わせ、それでも、どうしても知りたいと願った真実を問う。

「八広が死んだのは、本当に、あなたたちが殺したせいなのですか」

「そうだ」

事実が知れてしまったからには、もう隠す必要のないことなのだろう。長にとっては、八広を殺したことなどそれだけのことでしかないのだ。だが、カザハの受けた衝撃は、長の感じているそれと比例しなかった。胸の奥底に何か大きな塊が重量をもってどすんと落ちた。息の出来ない重さにカザハは喘いだ。

ぎりっと唇を噛み締めると、カザハは長を見上げた。理解出来ないと見下す思いが長の目には漂っていた。

「そんな、くだらない理由で、八広を――春乃の夫を、咲の父親を、殺したのですか」

「くだらない?」

長は苦々しく呟いた。そこで初めて感情らしい感情を見せた。

「根無しのお前に何がわかる? 元はよそ者の八広も、その家の者もそうだ! この地に長きに渡り住み着いている我らの生き方など、お前らに理解できるものか!」

「わからない! わかりたくもない!」

「貴様……」

長は激昂して持っていた杖を振り上げ、カザハを殴打した。

「だから、気に食わぬのだ。我らが、どんな思いをして、生き抜いてきたかも知らずに、きれい事ばかりならべおって!」

一言一言力を込めて、その度に杖を振り下ろす。避けることも出来ずにカザハは頭を抱えた。

「はい、そこまで」

ずっと傍観していた男が手を叩いた。そして、杖を振り上げたまま息を荒らげた長を見遣った。

「私もそこまで暇ではないのですよ。八年前、邪魔をされ中止されてしまいましたが、我が主への貢物はやっと揃いました。もうここに用はない。四郎と左吉はどうしましたか」

「そやつにやられて向こうで伸びておる」

長は顎でカザハを示した。

「へえ? 左吉はともかく、四郎をね。益々面白い。まあ、本人もぼろぼろのようだし、縛って連れて行くくらい、私一人でも出来るか」

縄を持って男が歩いて来る。

カザハは歯噛みした。せめて、咲と椿だけは家に帰したい。だが、彼の言うように体中ぼろぼろで動けなかった。

ふと、そのとき初めて、カザハは社のある島に子どもが立っているのに気づいた。あの子も連れてこられた子だろうかと思ったが、長も男も子どもに全く気づいていないようだった。

不思議な子どもだった。性別のわからぬ中性的な顔立ちをして、大きな一枚の布を巻き付けたような衣装を身に纏い、飾り紐に翡翠の珠を連ねたもので、あちこちを縛っていた。

子どもが口を開ける。

『風に道筋を示せ』

先ほど聞こえた声だった。カザハは唖然として、だが、かぶりを振った。もうあんな風を起こす力はない。男がカザハの腕に縄をかける。

子どもは流れるように動いた。首を傾け、左手を耳に添えて目を瞑る。まるで耳を澄ませているかのような仕草だった。

カザハもそれに倣って目を瞑る。それが男にはカザハが観念したように見えたのだろう。静かな嘲笑が上から降ってきた。だが、カザハにそれは聞こえていなかった。カザハには別の何かが聞こえていた。悲鳴のような軋む音。いや、音とも言えぬ、空気の震えだった。それは自分の羽根に感じるものと似ていた。その意味を理解し、カザハは目を開けた。子どもが頷いて見せる。

『風に道筋を示せ』

言葉が繰り返される。カザハは最後の力を振り絞って羽根を広げた。

「まずい! 離れろ!」

長が叫んだ。

カザハの残った一翼がゆっくりと羽ばたいた。ふわりと緩やかな風が起きる。男が長に怪訝な顔を向ける。

「どうしたというんです。いったい」

「あ、いや……」

左吉と四郎を吹き飛ばしたものとは違う優しい風に長は拍子抜けした。だが、二人は気づいていなかった。その風は半球状の壁に沿って渦巻くように昇っていったことを、そして、本来あるべきではない隙間に入り込み、気づかれぬほど小さな歪みを広げたことを。

気付かない二人には、それは突然だった。ぱらぱらと砂が落ちてきたかと思った途端、地響きが唸りを上げた。

「な、なんだ、いったい!」

「通路が!」

カザハたちが通ってきた穴、そして、奥に開いていた例の穴の両方が今にも崩れそうだった。

「閉じ込められる!」

叫んだ男は奥の穴に走った。長も慌てふためき、よたよたともと来た道を引き返す。二人がそれぞれの穴へと飛び込んだ瞬間、穴は崩れた。両方から悲鳴が聞こえ、そしてまたたく間に消えたような気がしたが、カザハに確かめる術はなかった。

空間にはカザハと咲、椿だけが取り残された。椿は恐怖のあまり気絶してしまったようだ。本来は愛らしい顔が涙でぐちゃぐちゃになっている様は痛ましい。

カザハは呆然と周りを見回した。

そこに軽やかな笑い声がした。

あの子どもがいつの間にかカザハのすぐ傍に来ていた。子どもはこちらが薄ら寒くなるほどに純粋な笑みを浮かべ、鈴の鳴るような声を上げて笑っている……ような気がした。音は聞こえなかった。カザハに命じたあの声も、今になって思えば声と呼べるものではなかった。ただ必死だったカザハはようやく子どもをまじまじと見た。

「君は、誰……」

子どもはにっこりと笑った。そして、気を失ったままの咲を見下ろすと、突然、咲の上に身を投げ出した。その体は咲とぶつかる瞬間、すっと消えた。

その次の瞬間には咲は身を捩り、立ち上がった。

「カザハ」

聞きなれた咲の声がカザハを呼ぶ。だが、カザハは顔を顰めた。

「咲の体をどうするつもり? 返答次第じゃ、ただじゃおかない」

刺のあるカザハの言葉に、咲の口からため息が溢れた。

「私にそんな口を聞く奴は何百年ぶりだろう……と言いたいところだが、八年ぶりだ。全く、神を恐れぬとは、この不届き者め」

声は咲のままで、しかし、口調や雰囲気はがらりと変化した。カザハは目を瞬いた。

「神?……君が?」

咲の顔がふっと得意気に笑った。いつもの微笑ましいそれではなく、全てを削ぎ落した無属性のただただ純粋な笑顔。

「私が言った通りだろう、八咫烏。羽根は残しておいて損はないと」

だが、神と名乗る存在はカザハの問いを無視してそう言った。幼い咲の瞳の奥に悠久の時の流れとその波に呑まれそうなほど遥か遠い記憶への愛執を見る。

「僕の先祖を知ってるの?」

過去へと引き込まれそうになってカザハはなんとかそれだけ問うた。その問いに、同じように過去に心を旅だたせていた神はカザハにはっと焦点を合わせた。しゃがみこみ、カザハの顎を捉え、間近でカザハの目を見た。しばし瞼を閉じたが、次目を開けた時には幼いころころと変わる光がその目に瞬いた。

「ああ、知っているとも。腐れ縁だ。お前はあいつの血が濃いな。数多くの奴の子孫を見てきたが、ここまで似ているのは初めてだ」

神の何気ない返答はカザハに鋭い悲しみをもたらした。

「どうした?」

それに気づいた神は尋ねた。カザハは空気を求めるように口をぱくぱくと開閉していたが、ようやっと出した声はひどく弱々しかった。

「僕の……」

「ん?」

「……僕の、前に来た八咫族を覚えている? 女性の、八咫族だけれど……」

言う間にカザハの声は尻すぼみになっていった。

覚えているはずがない。数多くいた犠牲になった八咫族をこの神はずっと見て来たのだ。その中でたった一人を覚えているはずなんて……そう思い、目を伏せかけたカザハに、神は即答した。

「覚えてる」

「え?」

カザハは神を見上げた。

「皆覚えている。その女の八咫族も他の者同様、その身をあの泉に投じた」

神は社のある島が浮かぶ泉を指差した。

「泉に? まさか、そんな、貢物にされたはずでは……」

「皆、それを良しとしなかったのだ。泉を覗いてみろ」

そう促され、カザハはおそるおそる泉を覗き込む。泉に湛えられた水は透明度が高かった。魚一匹いはしない。そのため、かなり深くまで見通すことが出来たが、それも光が届くところまでだった。段々と苔や岩に影が網のように絡みつき、それが支配権を増やしていく。そして、ついには、奥底は天井と同じ闇が蹲った。

「何も、見えない……」

「そうではない。その泉は『記録』なのだ。よく見ろ、ほら、そこだ」

神が指さす先を見る。

やはり何もない。

そう思った瞬間だった。水面が揺らめき、そこに浮かぶ反射した光が、ぞわりとうごめいた。

カザハは息をのんだ。

生き物のように動いた白い光は像を結ぶ。そこに映ったのは、羽根を持った人間、八咫族の者だった。幾人も幾人も、八咫族は現れ、現れるとはすぐに次々と泉に飛び込んだ。

足掻くことはない。その立派な羽根が水中では逆に重りとなって呆気なく沈んでいく。気の遠くなるような悲劇の繰り返しは、数を重ね、次第に単調な営みになってしまった。そして、見覚えのある女性が現れ、これが最後だと知った。カザハが声を発する間もなく、彼女も泉に飛び込み、沈んでしまった。

「かあさま……」

遅れてカザハの声が追いかけたが、もう何もかもが遅過ぎた。生理的な吐き気が込み上げ、口に手を当てる。

「まだ終わってないぞ」

神の言葉にカザハはそんなはずないと思った。犠牲になった八咫族は母で最後のはずなのだから。けれど、神の言う通り、水面の光はまたもうごめいた。そして、そこに映っていたのは、

「八広……」

必死の八広の形相。彼は一人で長と村人を相手にしていた。

『もうこんなことは止めろ。悪しき慣習は終わらせるべきだ』

八広の叫びは誰にも届かなかった。

『どうしてだ。お前たちも人の親ならわかるだろう。子こそが宝だと。なぜ一番の宝を犠牲にする』

斧や鉈を持った村人たちが八広に迫る。いつも帯剣していたはずの八広はどうしてか、この時は刀を持っていなかった。

『八咫族もだ。彼らから空を奪って何になる。意味のない行為だ。それすら分からぬから、結局一人も手に入れられなかったのだとなぜわからない』

村人たちの後ろで長がかぶりを振る。それが、決裂の印だった。

八広は抗った。もがいた。見苦しくも、殴り飛ばされ、切り付けられ、地面に転がっても、這いずって逃げようとした。だが、そんな八広の背に村人が無情にも斧を振り降ろした。カザハの目の前で白い光の血が飛び散り、八広は動かなくなった――

これが本当に最後だったらしい。八広の骸は彼らによって泉に放り込まれ、沈みゆく体から光はほどけ、また水面をたゆたうだけとなった。

今度こそ耐えきれずにカザハは嘔吐した。噛み締めた歯の隙間から嗚咽がこぼれる。カザハは何も言わず、ただ泣いた。言葉は重ねることはもはや無意味だった。己の無力さにただただ涙した。

「顔を上げよ、青き瞳を持つ八咫の血筋」

しばしの後、神はカザハにそう命じた。のろのろと顔を上げたカザハは、しかし、目の光だけは失っていなかった。掠れた声が喉の奥から絞り出される。

「そろそろ、その体から出てよ。それは、咲の体だ。……八広の愛する子どものものだ」

「頼まれたことが終われば出るさ。この世のものを通した方が伝え安いのだ。私はここにあってここにはない。この世と次元を異にするからな」

「何を……」

神は意地悪くにやりと笑った。

「あの男から言伝を頼まれている」

「え?」

理解の付いていかないカザハをよそに、神は大きく息を吸った。

「馬鹿者!」

キンッと耳が痛むほどの大声で神は叫んだ。

カザハはぎょっとした。その声量も驚きの理由だったが、神の出した声は八広そのものだったのだ。

「何をのこのこ来ているのだ。俺がどれほど思い悩み、たった一人でここまで来たと思っている。それをお前が来ては意味がなかろう。大馬鹿者め。だから、空ばかり見ておらず、少しは物を考えろと言うのだ」

「ひどいなあ……」

懐かしいながらも、罵りの続く言葉に、そうぼやかずにはいられなかった。

神は一呼吸置いた。その後の言葉は幾分か落ち着いたものになっていた。

「だが、来てしまったからには仕方ない。お前は、いつか来てしまうのではないかという気もしていたのは確かだ。だから、この餓鬼神に伝言とこれを託した」

誰が餓鬼だと漏らした声だけは、神のものだった。

神が手のひらを上向きに差し出すと、その上にある物が現れた。それは、

「八広の笛……」

差し出された笛をカザハは受け取った。使い込まれた、それでも、手入れが行きとどいた笛。何の飾りっけもない、磨いて光沢だけを出した武骨な笛は、八広そのものだった。

「骨を春乃と腹の子どもに、とも考えたのだが、躯は土に帰るのみ、後に何も残らん。だから、この笛を春乃に渡してくれ。そして、いつか子にと。子どもが男でも、女でも。いや、女だったら、この笛ではかわいそうだろうか。赤い漆でも塗って……まあ、それは春乃が決めてくれるだろう」

「咲は、これが良いと言うと思うよ」

カザハは思わず笑ってしまった──その声は震えていた。

八広の声と言葉で神は続ける。

「そして、カザハ。お前がその子に笛を教えてやってくれ」

カザハは目を見開いた。

「俺ほどではないが、お前の笛の腕はなかなかだ。それに、お前は飛べずとも、風を知っている。八咫烏の血をひいた、導き手だからな。この村は澱んでいる。でも、腹の中の子たちにまで、その澱みを引き継がせたくはない。──光へと導いてやってくれ。あの日、お前の笛の音に、お前の瞳に、俺は救われたよ」

『お前がお社での奏者だったなら……』

八広はあの日、ひどく悲しそうな目でそう言った。あの時すでに八広はこの儀式の本当の意味を知っていたのだ。そして、濁りなきカザハの笛の音が届けば、村人の心を癒すだろうと八広は感じていたのだろう。

「ありがとう、カザハ」

パキンと澄んだ音が響いた。

見ると煌めく何かが神の周りを漂い、ふっと火を吹き消すように消えた。

「奴の思いだ」

その声はもう咲の声に戻っていた。

「人の思いとは強いものだな。神をも縛る。一方的な押し売り契約だったがな、これで責は果たした」

「……神よ」

「何だ」

ぎゅっと笛を握った。

「八広の思いを届けてくれてありがとう、感謝します」

深々と頭を下げると、カザハは真摯な眼差しを神に向けた。神はしばらくこの洞窟にはない青い光を見つめていたが、苦笑をもらした。

「契約……と言っただろう。ま、奴はそこそこ気に入っていたが、それだけで頼みはきかん」

「契約?」

神は笑みを消すと真剣は表情を向けた。

「思いを、心を、残さぬこと」

「どういうこと?」

「あれを見よ」

そう言って、また神は泉を指差した。今度は社の方だ。

「社の奥だ」

「奥?」

カザハは目を凝らす。特に変わったことはなかった。変わらず滑らかな水面が続いている。社の後ろでは、その上に社の影が落ち――

「えっ……」

その影がぐにゃりと動いた。それは先ほどの光が像を結んだ時と同じ動きだった。だが、影は何かの形になるでもなく、ただ水面上でその領域をじわじわと広げ始めた。社のある島を囲んで、それでも広がり続ける影は、よく見れば褐色の赤だった。

「あれは、死した八咫族の残した心だ」

「残した心……」

「彼らの心は全てが全て汚れていたわけではなかった。むしろ、清冽さを残していた。留まらず流れる風を知り、それを己が生き方としていたからかもしれんが……」

そこで神は口をつぐんだ。その目に映るものが、時間を、空間を超えたような気がした。また遠い記憶に引きづられる。そう思ったのも束の間、それを止めたのは神自身だった。瞳の弾く光がこの狭く暗い洞窟のものになる。

「だが、ここは全ての変化を止めた地だ。心は堰止められた水のように、時が経てば、澱んでいく。あんな風に」

神がカザハを見上げた。

「お前も見ただろう。あの多くの八咫族が泉に心を残した。そして、停滞した心は泉を穢し続けている」

神は嘆息した。

「そんな……どうにかならないのか」

澱んだ赤は泉を確実に蝕み、支配していく。透明な水が覆われ、何も見えなくなっていく。

あの中に母の心があると思いたくなかった。他の八咫族がどんな心を持っていたのかは知らない。だが、少なくとも母は、神の言うように風を知っていた、生命が織りなす風を。

「どうにか、か……」

神は思いを測れぬ吐息をこぼした。

それは無意識だろう。カザハが見たのは自嘲的な笑みだった。

「神?」

その時、ドンっと大地が揺れた。

それを合図に洞窟が小刻みに揺れ始め、天井からパラパラと砂埃が落ちて来る。それは止まる気配がなく、むしろ、揺れは激しさを増した。

「これは……」

無感動に神が呟く。

「人間が作った道が崩れたことで洞窟自体が潰れようとしているな」

「なっ!?」

次元を異にし、無関係な神と違い、カザハは焦った。気絶した椿に駆け寄って抱き上げ、神がまだ残る咲の体を引き寄せた。

なんとか二人を逃さなくてはいけない。約束したのだ。必ず帰すと。

大きな音がして壁に亀裂が入る。天井からも、剥がれた拳大の石がばらばらと落ちてくる。カザハは羽根を広げ、咲と椿を庇った。

羽根の下で神がくすりと笑った。

「ほら、羽根を残しておいた方が良かっただろう、八咫烏」

また同じ言葉を繰り返す。

「僕は、八咫烏じゃ――」

『腕が欲しいんだ』

声がした。その途端、鳴り響いていた轟音が遠ざかる。洞窟は崩壊を続けているのに。

この感じ――

混乱しながらも、カザハは泉を見た。天井から石がいくつも落ち、まるで沸騰しているかのように波打つ水面は、いつの間にか、澱みがその大部分を覆っていた。だが、まだ僅かに残る透明な水に、光の像が揺れていた。それは、神と三本足の鳥。その瞳は不思議な光り方をしていた。

『その翼がお前の腕だよ、八咫烏』

神が恐い顔をして言う。八咫烏が神の肩に止まる。

『これでは駄目なんだ。私は笛が吹きたい。彼女が聞かせてくれた』

『またあの人間か。私たちの領域を侵した者達の一人だぞ』

『そうはいっても、実質、私たちの世界はこの空間だけだ』

八咫烏は羽根を羽ばたかせた。

『ここにいるだけならば、羽根はいるまい』

笑いさえ含まれた八咫烏の声に神はぐうのねも出なかった。

『腕をくれ、友よ。私を人間にしてくれ』

八咫烏の声は、自分の思いを聞き届けるはずだという確信に満ちていた。神は何も言わず艶のある羽根を撫で続けたが、根負けした。

『勝手だな、お前は…………羽根は残そう。羽根がなければ、お前ではあるまい? 八咫烏。それに必要となるだろう、お前はここを出て、その瞳と同じ色の空の下で生きるのだから――』

八咫烏は神に親愛を込めて首を擦り付けた。その姿を澱みが覆い隠していった。

それは神と共に悠久の時を経た水の記録。水にとっては、八咫族の悲劇も、神の過去も同じ記録の対象でしかないのだろう。だが、神にとって、これは――『思い出』だ。

カザハは決意した。荒々しく神の肩を掴んで、顔を間近に寄せる。

「契約をしよう、神よ」

虚ろだった目が瞬いた。

「契約?」

カザハは頷いた。

「そう、二人を助けてほしい。この洞窟から無事に出して、家に帰してほしい」

驚いていた神だったが、冷静さを取り戻すと怪訝な顔をした。

「……それで、お前は対価に何を渡す」

「泉に残る心を導く、道筋を示して、空に帰す」

神が息を飲む。目に動揺が走ったが、それでもしっかりとカザハを見据えた。

「それはお前の願いだろう。母親の心を残し、濁らせたくないだけだろう」

「だけど、穢れからあの記録を守ることはあなたの願いでもある」

カザハは引かなかった。引く気はなかった。

「守りたいんだ。八広の願いを、春乃の希望を、二人の宝である咲を、ここに残る八咫族の心を。それが僕の望みだ」

不思議な光を持つ青い瞳。過去と今が交差する。

神はぐっと口を引き結ぶとカザハの胸を力いっぱい押しやった。

「神……」

俯いた顔を咲の豊かな髪が隠す。その奥から声が漏れた。

「父の面影を求めてやってきたこの娘からお前の話は聞いていた。青い瞳の八咫族。片羽根で飛ぶことが出来ない、たった一人の八咫族。弱虫で、ぼんやりしていて、のんびり屋で――でも、暖かくて、優しい。ずっと傍にいてくれると」

乾いた笑いが聞こえた。

「私にもそういう奴がいた。いつも一緒にいた。楽しかった。なのに、私がいなければ、羽根を休めることもできないくせに、私の傍からいなくなった、己が意思で」

神はぽつり呟いた。

「もうお前は八咫烏ではないのだな」

「僕は最初から僕だよ」

「そうだな、その通りだ」

神がカザハを見た。その目は深すぎて底の見えない泉と同じだった。

「羽根を渡せ」

「え……」

「その残った羽根を渡せ。さすれば、その二人の娘を帰してやろう」

遠かった地鳴りが舞い戻った。大岩が傍に落ち、一瞬呆けていたカザハははっとした。

「どうした、時間はないぞ」

神の声は平坦だ。気負いはない。だが、それは決断したものの揺るがなさの現れだった。しばし逡巡していたカザハだったが、ふっと息を吐いた。

「……約束破っちゃったら、八広怒るかなあ……」

そんなのん気な呟きを落とし、カザハは微笑んだ。神も微笑みを返した。そして、ふっと気配が消えたと思うと、咲の体から力が抜け、くたりとカザハに寄りかかった。カザハは八広の笛を咲の着物の合わせ目に差し込んだ。そして、咲の頭を撫で、その小さな体を抱きしめた。

咲が身を捩り、幼い声が細く耳に届いた。

「……カザ、ハ……?」

「咲……」

抱きしめる腕に力を込める。

「楽しかった、ありがとう」

咲が何か言おうと口を開きかけたのがわかった。だが、それが言葉になる前にカザハの腕の中で咲の体が、ぱっと掻き消えた。傍に横たわっていた椿の体も。

そして、崩れゆく洞窟はカザハだけになった。座りこむカザハの背に残る一翼が色を薄めていく。

カザハは立ち上がった。腹を突き抜ける揺れも気にせずに歩を進め、そして、泉の傍に立った。

懐から笛を取りだす。八広がくれた笛を、カザハは肌身離さず持ち続けていた。

「もう少しだけ待ってくれるかな。これだけはやっておきたい」

姿は見えずとも、神の存在を感じてカザハは言った。羽根の色の変化が止まった。カザハは口だけ動かして、礼を述べる。カザハの見つめる先で、泉はすでに全面が赤に覆われてしまっていた。

カザハは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。地響きは続く。もうこの空間も持たない。それがわかっていて、カザハは動かなかった。カザハだけが時を止めてしまったかのようだ。カザハの周りにだけある、その穏やかな空気は、しかし、無力だった。閉じた羽根が陽炎のように揺らめいた、その時、

「風は常に傍に……」

唇が震えるように動き、すっと目が開かれ、半眼が泉を見据えた。

「見つけた」

口元に笛を寄せる。

ぞわぞわと悪寒を生じさせる赤い澱みに向かってカザハは微笑んだ。

「行こう、あの空へ」

カザハは息吹を吹き込んだ。

見つけたそれは風に似て、それでいて今まで感じてきた風とも違っていた。やっと手繰り寄せた煌めくそれは、存在だけ感じる神に寄りそうように揺れて、空へと繋がっていた。ここから空は見えないはずなのに、カザハは確信していた。きっとこれは変化を拒絶した空間に留まり続ける神に残した彼の思い、停滞することのない空への道しるべだ。だから、穢れない。

澱みの持っていた震えが起こした風は空洞の底を駆け、虚ろに響く。それは悲鳴にさえなれない、意味を持てない腐り落ちた心だった。原型を留めないそれを、カザハは拾い上げる。

見ないふりをすること、見捨てることは、とても楽だ。だけど、逃げたその存在と同じになり下がる。

それはきっときっと苦しいだろう。

飛ぶことの出来ない自分は、風を忘れかけた。全てをどうでもいいと思おうとした。生きたままこの澱みと同じになろうとしていた。それを八広が拾い上げてくれた、春乃が、咲が、見捨てないでいてくれた。

だから、片羽根の自分は風を忘れなかった。光を信じ続けられた。

だから、導くことができる。

淡くなった羽根をぶわりと広げた。羽根が崩れる。しかし、ばらばらになった羽根は、澱みをすくい取り、巻き起こった風に乗って昇って行く。すでに笛の音はカザハのもとを離れ、反響を繰り返し、自身で広がっていく。この世と神の次元をつなげる道しるべを伝い、洞窟の壁を越え、どこまでも遠く響いて行くのをカザハは感じた。

胸の奥であの日の母の声が聞こえた。

『光と風があなたを導くでしょう』

個々に分離した心に両手を差し伸べる。

「行こう」

そして、光が破裂した。


***


ようやっと南の空の中心に昇った月の下、光の柱が突如として突き上がった。その轟音を耳にして人々が慌てて外に出て来た。ばたばたと近付く足音を聞きながら、ずっと外で洞窟の方向を見ていた春乃は、他の者同様、呆然と南の空を仰ぎ見た。それが何の予兆か、はたまた結果なのか、誰にもわからなかった。

ただ、その光の柱から広がった風を受けた者は皆、笛の音を聞いた。そして、だれかれ構わず、その音色を聞いた者は膝を折った。その時には、皆が理由なく知っていた。

もう儀式は必要ないのだと。

春乃は震える両手を合わせ、こうべを垂れた。音が止み、光が薄れ、消え去るまで長いこと春乃はそうしていた。そんな春乃の耳に、崩れた洞窟の前で、咲と椿を見つけたことを知らせる声が届いた――


***


いくつもの季節が過ぎ、時が廻った。

生きるものは時と共に進み続ける。留まるのは記憶だけだ。もういないものへの郷愁に似た思いを抱きながらも後に残して、生あるものは未来へと進む。

だが、捨てたわけではない。ふと何かの拍子に振り返った時、己が歩いて来た道に輝く思い出が残っていれば、また未来へ進む意思の力を得るだろう。


咲は崩れた洞窟の前にいた。背中にまでかかる長い髪を一括りにした顔はまだ幼さが残るが、少し短い着物から手足がすらりと伸びる。その手には笛が握られていた。

あの頃洞窟に通い会っていた小さな子どもが、社に祀られていた神だと今ではもう知っていた。子どもの姿をした神は洞窟の崩壊後から姿を見ることはない。だが、きっとそれで良いのだ。時々捨て子のような寂しげな目をしていた神は、自分の意思で自由になることを選んだのだ。咲はそう思っている。

洞窟が崩れた日のことを、一緒にいた椿は覚えていなかった。だが、咲は覚えている。あの日何があったのか。それまでに起きた事柄も、父の死を含め、全て。

咲は使い込まれた笛を愛しげに見つめ、構えた。慣れた手つきで笛を吹く。咲にとって特別な意味を持つ曲だ。この曲をここで奏するのは咲だけだ。そして、咲で終わりだ。

奏すことを強制してきた儀式は終わった。

だが、咲は思うのだ。代々の使者が強いられてきたこの曲は、やはりこの場に留まっていた心を慰めていたのだと。だから、咲は自分を生かす全てのものに感謝を込めて笛を吹く。

降り注ぐ木漏れ日が暖かい季節、笛の音は木々の間を踊るようにすり抜け、生命が息づく静寂にとけ込んでいく。

吹き終わり、咲は崩れた洞窟を見上げた。そして、ぺこりとお辞儀する。

「とう様、神様、皆さん、私は今日も元気です。かあ様も、村の皆も元気です。お天気の良い日が続いています。二日前に子牛が生まれました。今日から田植えも始まります」

顔を上げると、風が咲の頭を撫でた。咲はにっこり笑う。

「ありがとうございます」

遠くから名を呼ばれて、咲は振り返った。坂を登って来る二つの人影を認めて、大きく手を振った。そちらに駆けだそうとした咲は、たたらを踏みつつ洞窟の方をもう一度見た。

「また来ますね」

そのまま空を見上げた。咲には親しみ深い青にふっと息を吹き込む。空のように遠く、遥か遠くにある存在にも思いは届くと信じていた。

「咲」

再びの呼びかけに咲は走り出した。

背に受ける日の光が、まるで羽根に包まれているように暖かかった。



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